馨しい雅俗


此の侭彼女を帰す訳にも行かず、如何したものかと困った。手当が済み、足が痛むのか摩り乍ら彼女は月を見ていた。
「こんな広い家に、二人だけ?」
「いや、両親は一ヶ月旅行に行ってるんだ。」
だから、兄は此処ぞとばかりに折檻をした。父が居ると、兄は制圧され何も出来ないのだ。尤も、私よりかは自由だけれど。
かたん、と外から音が聞こえた。勝手口を開ける音。両親が予定より早く帰って来たのかと心臓をきつく絞めたが、其の音は兄からだった。
「兄上、どちらに。」
私は聞いた。
「…何処でも構わないでしょう。明日の夜には戻ります。」
兄の声に彼女は身体を強張らせ震え、其の姿に胸が苦しくなり、兄に見付から無い様抱き寄せた。「有難う」と彼女は呟いた。
どくん。
又訳の判らぬ血の沸騰が起きる。
私は兄に何も云えず、兄の消えた勝手口を見ていた。
兄が、居ない。
其の開放感に、私は全身の力を抜けさせた。
「嘘だろう…?嬉しい…」
万歳三唱をしたい気持ちだ。夜迄居ない等、何を仕様かと心が躍る。
本当は居るのでは無いかと家中兄の姿を捜したが、矢張り居らず、本当なのだと判ると私は歓喜に震えた。強く拳を握り、はしゃいだ。
嗚呼、今夜は眠れない。嬉しくて眠気等吹っ飛んだ。
彼女は笑った。
「そんなに嬉しい。」
「嗚呼!うわー、何やろうかな。兄上の馬鹿って叫ぼうかな。くたばれ折檻野郎も良いな。」
高揚が納まらない。しかし私に趣味は無い。矢張り寝るしか無いのかと、項垂れた。昼は、遊びに行こう。
くすくすと遠慮気味に笑う彼女。
「なら、私は帰りましょうね。」
其の言葉に私の高揚は少し鎮んだ。
「何故…」
「何故って…行為が済んだら帰るものだけど。」
彼女はゆっくりと立ち上がり、びくりと足を引いた。顔から強烈な痛みを知る。引き擦って帰る気なのだろうか。
壁を支えに必死に力を入れ立っていた彼女だが、矢張り無理だったらしくぐらりと身体を揺らした。又痛い思いはさせれない。身体を支えたが、思いの他彼女の重力に従う力は強かった。
私は支える事が出来ず、背中を床に強く打ち付けた。背骨に痛みが鈍く広がり、痛みで噎せた。
頬に触れる彼女の毛先。
嫌悪では無く、ぞくりと全身の毛が逆立った。
「大丈夫?御免為さい。」
「良いよ。其れより痛くない?大丈夫?」
彼女の目は、濡れていた。濡れ、揺れ、涙を流した。何処か打ったのか、傷に障ったのか、若しかしたら骨が折れているのかも知れないと、私は彼女の身体を見た。
決して変な意味で無く、純粋に心配を以って。
「やっぱり、貴方は優しい。」
涙が頬に落ちた。其処からじんわりと彼女の悲しさが伝わる。
心臓がきつく絞まり、呼吸が出来無くなる。苦しくて、如何仕様も無くて、彼女を抱き締めた。
「御免…御免ね…」
私は其の時初めて、兄から折檻を受けた人間に、心から謝罪した。
「御免。痛かったろう。逃げたかったろう。助けてあげれ無くて、御免。」
何故彼女にだけそう思ったのか。理解出来ないが、思わずには居られ無かった。
月が、嗤っていた。
雲一つ無い空に、細い三日月が浮いていた。私を見下ろし、嗤う。
まるで兄の様だと感じた。
私は常に下を這う運命、兄は常に上に座る運命。彼女はどちらだろう。
下を這おうが上に座ろうが、私の位置は変わらない。
私は、虫の様にのそのそと気味悪く下を這う人間。崩れた桃でも形の良い桃でも、どちらでも無い。
虫なのだ。
耳に彼女の息が掛かる。慌てて身を離そうとしたが、艶を蓄え笑う彼女の顔に、私は動け無くなった。
「抵抗し為さいよ。」
彼女は云う。
「出来無いよ…」
耳に掛かった息は舌に変わり、細い指が首筋を撫で上げる。誰も触れない身体に其の刺激は強過ぎ、潰された虫の様に私は縮こまった。
「可愛い…貴方、誰も知らないのね。」
其れの何処が可愛いのか、私には判らないが、可愛いという言葉に少しばかり嬉しさを感じた。可愛い等と、私は滅多な事がなければ云われない。馴染みの無い言葉は、何時迄も頭の中に響いていた。
伸びる彼女の手に、私は如何する事も出来ず、唯唯身を縮こませていた。
彼女が今から何を私にするか等、見当も付かない。女同士でそんな事が出来る等、考えもしなかったのだ。
彼女は、微妙な表情をしていた。
笑っている様にも見え、泣いている様にも見えた。
私は、笑っていた。




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