英雄


ピアノの音が、風に乗って聞こえた。一瞬姉さんかとも思ったが、先刻家の前を通り過ぎる姉さんの姿を見たので、其れは無い。だったらあの男しか居ない。良く聞こえる様に窓を開け、窓の近くに椅子を持ってきて座った。
最近知った事なのだが、俺の部屋から、今拓也が居る場所は、良く見える。ピアノから顔を上げない拓也の姿を見詰め、紫煙を上げた。
ふっと顔を上げた拓也の表情に、心を辛さを知る。
何て、切ない顔をする男なのだろう。俺が知らない恋の辛さを、拓也は良く知っている。
「覗きは犯罪。」
聞こえた声に俺は驚き、灰を落とした。
「何時から覗いてたのよ。」
ピアノから離れ、同じ様に窓に凭れる。
「弾き始めて、暫くしてから。」
「何か弾いてやろうか。」
笑う拓也。弾いていた曲は終わっていないというのに。
弾いてやろうかと聞かれたが、生憎俺に音楽は判らず、拓也が弾く其の曲しか知らない。
「同じ曲で良い。」
「嫌だよ。此れは、俺の為の曲だから。」
曲名は、悲愴、というらしい。曲名も切ないが、旋律も切ない。其れに拓也の表情が合わさると、本当に切ない気持ちになる。悲愴、というよりは、悲観に近い気もする。
「俺に合った曲はあるか?」
聞くと拓也は少し笑い、椅子に座った。
先刻の旋律とは違う力強さ。其の激しさに俺は息を飲んだ。
とても、記憶に残る旋律。
拓也が何故其の曲を俺の為に弾いてくれたかは知らない。
其の速い旋律を、良く楽譜も無く指縺れる事無く弾けるなと関心の息が漏れる。
拓也の力強い旋律は、当然両親の耳にも届き、母親が後ろから顔を覗かせ拓也の弾く姿を見た。
「流石は、御坊ちゃまね。」
息を漏らす母親に、俺は首を傾げた。
「あんな力強いのに、御覧為さい。とても繊細さがある。」
「母さん、此の曲名知っていますか?」
聞いた俺に母親は、此の旋律の様に力強く頷いた。

「英雄ポロネーズ。」

曲名に俺は驚いた。
何が、俺に合った曲だ。俺は、英雄でも何でも無い。
何故拓也が其の曲を選び聞かせたかは、理由はもっとずっと後になる。




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