亭主関白と嬶天下


帰宅すると、時恵が居た。俺は嬉しくて、抱き付きたかったが、其の後ろに聳える雪子に遠慮して、何とも無い様装った。
「何しに来た。」
其れだけ冷たく云うと、雪子は困った顔で「そんな…」と小さく云った。時恵は時恵で、煩いのが帰って来たと、顔を背けた。
「暢気なものだな、本郷女史。」
こんな所で油を売ってる暇があるのなら、龍太郎に対して何かすれば良いのに、そう思う。
一日中家に居る癖に家事はしないで、此の御嬢さんは一体何をしているのだろう。如何でも良い本郷家の心配をした。抑だ。俺が帰って来たという事は、終業したという事。慌てて帰るかと思いきや、暢気に茶を啜り、近くに寄る一幸を足蹴りにした。
「一幸、時恵様の所に行ってはいけないと…」
ころりと床に転がる一幸に雪子は云い、かといって起こしはしなかった。
「父上。」
起こして貰いたいのか、一幸は手を伸ばし声を出した。一人で起きれる癖に。
「起こしてやれよ。」
「はあ。」
気の抜けた声を出す雪子。
時恵の子供嫌いは判る。が、蹴る事は無いだろう。可哀相に、一幸。今父上が起こしたあげ様。俺って優しい。
「一幸、覚えておけ。時恵は鬼女だ。迂闊に寄ると殺されるぞ。」
身体に走る激痛。流石に云い過ぎたが、此れは無い。
「兄の股間を蹴る妹が、何処に居る…」
「此処に居りますわ。鬼女ですもの。」
人の股間を蹴って於いて、暢気に又茶を啜る。ナイス根性だ。此の悶絶、女の時恵には判るまい。
「御前…早く帰れよ…本郷が帰ってくるぞ…」
「…今夜は帰りませんわ。」
帰れよ。いや、帰らなくても良いけど。寧ろ一緒に住んでも良いけど。
「龍太郎様の面倒なら。」
面倒、というか。主人に対して。犬じゃないんだから。
「せつこが見ますわ。」
せつこというのは、時恵の家に居る手伝いで、幸の薄そうな女だ。実際時恵に扱き使われている時点で薄い。
大体、何で時恵の家には手伝いが居るんだ?俺の家には居ない。此れは父さんが仕組んだ事だから仕様が無いが。
最初、俺の家にも手伝いは居た。ずっと此の家に居るんだから、母さんの手伝いが勿論居て、初めの内はそいつ等がしていたけど、雪子が其れを嫌った。だから、家に手伝いは居ない。全部母さんに取られた。母さん、何で六人も手伝いが要るんだろう。
「御前、少しは雪子を見習えよ。」
「何故ですの。」
「そうですよ。時恵さんを見習う事はあっても、あたしなんかを時恵さんが…」
其れだ、其れがいけないんだ、雪子。仮にも兄嫁だろう。何を時恵に遠慮しているんだ。
「雪子はな、一幸を見ながら家事もしてるんだ。御前何もしてないだろう。」
「そう云われますけれど、御兄様。私は、家事が出来ませんもの。私に出来る事と云えば、庭に水をやる位ですわ。」
手入れは庭師だしな。龍太郎、何でこいつと結婚したんだろう。時恵が何も出来ないのは、時恵の所為では無い。其れは俺だって充分知っている。蝶よ花よ儂の宝よとべらぼうに甘やかした父さんの所為だ。けど、雪子だって初めから出来た訳では無い。
「根性が足りんのだ、時恵は。出来ないからしない、其れじゃあ何時迄経っても何も出来ないだろう!?龍太郎に申し訳無いと思わないのか。」
「思いませんわ。」
即答かい。
「そんなんじゃあ、愛しい愛しい龍太郎様に捨てられるぞー。」
「っふ。何を仰いますの。そんな訳は御座いませんわ。私を捨てた時、其の後にあるのは御自分の死ですわ。ふふ。其れに、こんな私に嫌気が差していらっしゃるのなら、遠の昔に妾を拵えてらっしゃいますわよーっだ。馬鹿な御兄様。」
畜生。何で龍太郎も時恵にべた惚れなんだ。
「妾と云えば…」
雪子が云った。
「貴方は拵えませんね。御妾さん。」
「な…御前なぁ…」
「御兄様には其の様な根性も甲斐性も御座いませんのよ、雪子さん。意外と臆病ですもの。」
「いえ、意外と異母子が居るかも知れませんわよ時恵さん。」
「其れは御座いませんわ。甲斐性無しですもの。見て判りますでしょう。」
云いたい事を云ってくれるな、女共。俺が妾を拵えないのは、父さんを見て育ったからだろう。忘れたのか、あの憎悪を。
「俺はなあ!」
甲斐性も根性も無いからじゃあない。
「愛妻家なんだよ。」
嗚呼、時が止まった様に静かだ。双子の難語が虚しい。
「…ぶっ。」
「あはっあははははは!」
何故其処で笑う。俺、間違った事云ったか?
「此れは傑作ですわ、陸軍大将!父上の息子であろう御方が、愛妻家…っ御腹痛いですわ…」
「笑うなよ!」
恥ずかしいじゃないか。
「御兄様、本当に父上の子ですの!?もー、可笑しい…涙が出てきましたわ…」
「一寸待て時恵!其れは母さんに対する暴言だぞ!俺に謝らなくて良いから母さんに謝れ!」
「愛妻家のママちゃま大好き…嗚呼もう救い様が御座いませんわ…あっはははははは!」
「雪子!俺、何か間違った事云ったか!?なあ!」
「くふ…さあ…」
何で雪子も笑ってるんだよ。
「加納様に御伝えしましょう。」
「止めてくれー!」
亭主関白の加納にそんな事を知られたら、陸軍始まって以来の蔑む目が向けられるぞ。
「あーあ、笑いましたわ。白蓮が待っておりますから今日はもう帰りますわ。」
「そうだ帰れ!娘が待ってるぞ!」
「えへへへへ。可笑しい…」
龍太郎の為には帰らない癖に、白蓮の為には帰るんだな。良い根性だよ、我が妹。




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