亭主関白と嬶天下
見掛けない草履が玄関にあり、私は不思議に思いました。妻は着物を召す事は無く、趣向でも変えたのかとも思いました。しかし、居間に行き頷きました。
「此れは此れは、時恵様。」
「御邪魔致しておりますわ、加納様。」
「嗚呼、座った侭で結構ですよ。」
何と美しい方でしょう、時恵様。座っておられるだけでも品が滲み出ております。一方私の妻は…嗚呼、此れが女性でしょうか。片膝上げ蜜柑を剥いております。
「琥珀…」
「何?」
「足を下ろし為さい。太股が見えておりますよ…」
「嗚呼、すんません。」
其れで何故逆の膝を上げるのですか。全く全く。
「そんでぇ、すんごい勢いで、一幸を追い掛けた訳。糞餓鬼ーって良い乍ら。」
「琥珀は足が速いものね。」
「でーもね、捕まらなかった。あいつ足速いなー。」
「子供だもの、速いわよ。そうねぇ、龍太郎様なら容易ではないかしら。」
「そうそう!龍太郎って滅茶苦茶足速いよね!昔競争した事あるけど、全然追い付かなかった。」
「一体何から逃げて生きれば、あの様に速くなられるのかしら。」
「長いから速いのかな。」
「脚力が凄いんですのよ。抜刀隊ですもの。」
「となると、ダディは足遅いのかな。身体の半分足だけど。」
「…速そうには見えませんわね。」
「歩くのも遅いんだよ、ダディ。」
云って琥珀は立ち上がり、歩き方を真似ました。其の姿に時恵様は笑い、琥珀は其の侭私の所に参りました。
「御着替えを。」
「嗚呼、そうですね。少し失礼を、時恵様。」
「ええ。」
居間に時恵様が居られると思うだけで、着る物を迷ってしまいます。まさか何時も着ている物とは参りませんでしょう。
「襦袢、着るの。」
「御馬鹿さん。時恵様がいらっしゃるのに、部屋着で出れますか。」
「すんません…」
此れだから…全く全く。髪は…縛った方が良いのでしょうか。まあ、此れ位は大目に見て頂きましょう。
「失礼を、時恵様。」
「嗚呼、普段着も素敵ですわ。」
「何を仰いますか。」
時恵様の御姿には敵いません。其の覗く項、嗚呼堪りません。何と細い首筋でいらっしゃる事か。暫くして琥珀は戻り、腰を下ろしました。
「ダディって、何であんなに揺れて歩くのかな?酒の所為かな。病院行けよ。」
「足が長過ぎて、バランスが取れていらっしゃらないのかしら。」
「謎だねぇ。」
そうして茶を啜りました。琥珀、主人に対して茶を出さないとは、如何云う了見ですか。自分だけ茶を啜るとは。
「琥珀。」
「はい?」
「ワタクシの分は。」
「嗚呼、すんません。今煎れます。」
「茶は結構。紅茶を淹れ為さい。」
「はい。」
此の間時恵様と御話が出来るというもの。態々手間が掛かる其れを淹れさせるのは、其の為ですよ。
「其れから琥珀、後で机に置いてある本を仕舞っておき為さい。」
「はーい。」
「玄関が汚れております。淹れ終わったら掃除を為さい。あの様に汚れた場所を時恵様に歩かせるのですか。」
「すんません。」
「雅に話があります。呼び為さい。」
「今?」
「今で無ければ何時なのですか。」
「すんません。」
「嗚呼、其処の新聞取って下さい。」
「此方ですか、加納様。」
何と!琥珀に頼んだ筈なのに時恵様が…
「琥珀!」
「はいはいすんません。」
「返事は一度で宜しい。」
「すんません…」
「謝る暇があるのなら、少しは動き為さい。」
「すんません…」
「大体、すんません、とは何ですか。済みませんと仰い。」
「すん、済みません。」
「ほら、沸騰していますよ。」
「すんません。」
「……。」
「済みません…」
「遅いです!」
「済みません…」
御覧為さい。琥珀が鈍間だから時恵様と御話が出来なかったではありませんか。紅茶の味は、まあまあでしょう。
「…琥珀、ミルクは。」
「済みません…」
最近琥珀の口から、すんません、しか聞けないのは何故でしょう。時恵様とは話すのに。
「何座っているのです。早く雅を呼び為さい、此の御馬鹿さん!」
「すんません…」
「終わったら掃除ですからね。」
「はい。」
「時恵様?」
何故其の様に泣きそうな顔を為さっているのですか。琥珀の鈍間さに涙が出ているのですか?
「ワタクシ、今、龍太郎様が夫で良かったと、心から思っておりますわ…」
私も、時恵様が妻ならどれ程良かったか、そう思っておりますよ。
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