能力


今日は休みだから基地に来て良いと龍太郎が云ったので、時恵は琥珀を連れ陸軍基地に向かった。
門番の一人を琥珀は見、笑い掛けると前を歩く時恵に駆け寄り耳打ちをした。
「在の人、白粉の匂いが凄い…ダディと似てる。」
昼間から何と艶っぽい門番であろうか。時恵が視線を流すと門番の頬が粉を付けた様に赤く染まった。
四階迄、何と長いか。一人の軍人が龍太郎の居る部屋迄二人を連れ、来た事を知らせると琥珀の頭を撫でて帰っていった。如何やっても琥珀の髪は、皆触りたい様だ。中では龍太郎と拓也、其れと数人が笑っていた。
「時恵様だあぁ…」
「何と今日も麗しい。私は今日、死んでも構いません。」
漏れる溜息の中で、龍太郎の溜息は一際目立っている。
「琥珀ちゃん、今日は。」
五十嵐は琥珀に笑い掛け、大きくなったねと矢張り頭を撫でた。
琥珀、五十嵐の事は知っている。英吉利に付いて来た一人だからだ。日本に着く迄の船上で遊んで貰っていた。抱き着いた五十嵐は其の膨らみに疑問を持ち、胸が育ってると云った。龍太郎は呆れ、瞬間五十嵐の頭に灰皿が飛んで来た。
「おいこら変態。人の娘に破廉恥な事すんな。」
「大丈夫!?」
「平気…慣れてるから…」
時恵の顔が歪み、此れ以上コイツ等を此処には置いておけないと、拓也の方に行けと命令した。
四人になった部屋。時恵はソファに座り、琥珀は触らないという条件で中を繁々と見て回った。龍太郎の真後ろにある刀。吐き気を覚える程血の生臭さが凄い。時恵と話しているから気付かないだろうと手を伸ばした。
「触れてみろ…閻斬(エンザン)が貴様の首を落とす。」
何故判ったのか。龍太郎の声に琥珀の背中が凍り付いた。御免為さいと腰から抜け落ちた。龍太郎の気迫は、恐ろしい。
閻魔をも斬る刀、閻斬。斬った事は無いが、龍太郎が振るえば斬るに違いない。陸軍元帥が修羅と呼ばれるのなら、龍太郎は閻魔だ。閻魔が裁きを下し斬る刀で閻斬とした方が良いのでは無いか。時恵は笑った。
「私でも触らせて貰えませんのよ。」
「当然だ。刀を振るう者が妻とて愛刀を触らすものか。閻斬は俺以外が抜くと暴走するんだ。」
刀には魂があると聞く。人の血を知っていれば尚更で、此の血の生臭さから其れは想像出来た。刀から感じる何かに琥珀は怖くなり、慌てて拓也にしがみ付いた。
「怖がらすなよ。」
子供染みた話で子供を怖がらす馬鹿が何処に居ると、珍しく拓也は厳しい声を出した。龍太郎は鼻で笑い、だったら試しに抜いてみろと刀を渡した。
ずっしりと感じる重さ。
「ぬ…抜いてやろうじゃねえか!」
「嗚呼抜け。早く抜け。」
ニヤニヤと躊躇う拓也を見、さあ如何した怖じ気付いたか、そう笑う。
ちらりと輝く刃が見え、拓也は全身から汗を吹き出した。そうして琥珀は一層生臭さを知る。
「嗚呼っ!失神しそうだ!目が合った!」
「誰と!?閻魔!?」
全く恐ろしい刀かな、閻斬。結局拓也は抜けず、静かに戻した。因みに目が合ったというのは、刃に映った拓也自身の目である。
龍太郎は満足そうに笑い、刀を抜いた。琥珀の鼻に血の臭いがこびり付き、誰の匂いも判らなくなった。
天井に真直ぐに伸びる刃に、時恵は溜息を漏らした。
「何か斬りたいな。五十嵐呼んで来い。」
「止めろぉ!」
刀を抜いた龍太郎は少し人格が変わる。其れはきっと閻斬の所為だと拓也は思う。
琥珀は、此の中で一番まともな匂いの時恵に近付き、呼吸を繰り返した。
「刀で斬られると、痛いのかな。」
「さあ…斬られた事が無いから…」
時恵は困惑した。
「痛くは無い。」
「本当?」
「嘘吐くなよ龍太。」
「嘘なものか。鋭利な刃物程切れた時は痛くない。研いだ直後の包丁で切ったら痛くない。」
「えー、痛いよ。」
自分はしょっちゅう指を切るから知っている。
「其れは琥珀が生きているからだろう。首を落としたら、あれ、俺の身体が良く見える、嗚呼俺斬られたんだ、そう感じる。」
龍太郎曰く、首を落として二秒程人間は生きているらしい。腹や背中を斬っても同様で、斬られた瞬間は痛くない、其の後が地獄の苦しみなのだと。だから自分は可哀相にと首を斬ってやる。
「俺って、優しい。」
軍人が人を斬る時点で間違っていると時恵は頭を抱えた。しかし龍太郎がこうして斬っていなかったら出会わなかったのも事実である。
血の生臭さが大半を占め噎せ返る此の部屋でのこんな話。十三其処いらの琥珀には刺激が強過ぎた様で、具合悪そうな気の毒な顔をしている。
其の時だ。琥珀の耳に聞いた事の無い、心地良さを覚える足音が聞こえた。
こつん…こつん…こつん…
ゆっくりとした速度で歩幅は長く、速度の所為でか一つの足音が一回こだまする。其れの繰り返し。三人が会話をしている中で琥珀はドアーの外を覗き、其れは上の廊下、階段から聞こえた。足音が階段を下り、此の階に近付くにつれ、琥珀の鼻は血の臭いを消した。
此処に居るという事は軍人。歩幅で男というのは判る。軽い男で、嗚呼、良い足音だ。
靴が隙間から覗いた瞬間、琥珀はドアー伝い、砕け落ちた。
「琥珀?如何したの?」
時恵の声が上手く聞き取れない。一歩、又一歩、其の足音が、靴が、足が見える。其の度、強くなる眩暈感じる匂いを知った。
驚いた事に其の足音は四階の廊下に伸びた。
こつん…こつん…こつん…
足音に時めく。此れだけで恋に落ちそうだ。
強くなる匂い。目の前を通り過ぎ様とした足音は、邪魔だ、と廊下に少し出ている琥珀の身体を手で払った。動いた手から乗って来た其の匂い。紅花と紫煙、其れから硝煙の匂いがした。
三人とも気付かず、会話に花を咲かせている。
琥珀はドアーを閉め、其の音に三人は顔を向けた。
「如何した。」
「不細工だぞ。」
「琥珀?」
ずるずると座り込み、遠退く足音に心臓が強く鳴る。
「今の人…誰…」
そう云われても三人は話し込み、人が通ったのも知らない。三人はドアーから顔を覗かせ、姿を見様としたが、何処にも人は居なかった。
「見間違えじゃねえの。」
「居たの!通ったの!邪魔って云われたの!」
ほら、と又同じ足音が視線の向こうから近付いて来る。
其の姿。拓也は琥珀を引っ込め様と中に引いたが、ドアーに張り付いた琥珀の力は強かった。
「邪魔だと云っただろう。ポメラニアン。」
「ポメラニアン…」
強い匂いに、声が弱くなる。
関わりたくないと拓也は琥珀から離れ、時恵に教えと時恵は龍太郎の後ろに隠れた。
「御前、英吉利人の癖に知らないのか。」
「知ってるよ…犬でしょう?ヴィクトリア女王が愛した犬。」
「中々賢いな。やっぱり井上の娘だな。」
「あたしも、ヴィクトリアって名前だったの。」
ドアーの御蔭で、声の主の姿も又此方側の姿も見えて居ない。
「…だから、似てるのか?」
「何に?」
「前語撤回。馬鹿だな。」
笑った顔。髪に触れた指。余りの匂いに気絶しそうだ。
「凄く…良い匂い…」
「ん?俺がか?」
「うん…全身から良い匂いが溢れてる…」
「…雪子の匂いだろう。俺は匂いを付けない。」
「そうじゃなくて、身体が。」
昼間から、此の娘は何を云っているんだ。矢張り井上の娘だなと、ドアーを開けた。
「うげ!入って来た!」
「此れは此れは、元帥殿。」
「御前の娘一寸おかしいぞ。行き成り身体が良い匂いとか云ってくるぞ。」
「だって良い匂い何だもん…」
「あのなあ…」
「良く考えろ琥珀。本当に木島が良い匂いか。」
「木島っていうんだ。」
「御前、なぁ…俺が誰かも判らんで…陸軍元帥の木島だ。」
呆れ顔で顔を動かした和臣は時恵の顔を見ると息を吐いた。
「時恵…御前なあ…」
「御兄様には関係ありませんわよー。」
「此処は陸軍基地だ。関係無い訳無いだろう。」
和臣の体温が上がり、一層匂いを強くさせた。限界に来た琥珀は其の侭後ろに倒れ込み、拓也が慌てて支えた。
「やべえ…ちょぅ良い匂いだぜ…俺、死んじゃう…」
拓也の口調を真似た琥珀に龍太郎が笑った。
和臣の匂い、其れは良い匂いで形容しきれないらしい。ベースが林檎の匂い、其れに花の匂いと色々混ざり、兎に角良い匂い、そうとしか云えない。
「顔が良い男は…匂いも極上に良い…鼻血が出そうだ…神様有難う…」
今日死んでも構いません、轟沈、そう琥珀は云って気絶した。




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