父に怒られた事もまして怒鳴られた事も私は無い。大きな身体は黒い服、其れが後に軍服だと知る、に守られ、鼻と口の間に蓄えた髭に私は“父親”たる威厳を感じた物だ。「おい、馨」と私の部屋の襖を勝手に開け、背を向けて座る私を呼ぶ其の声にも威厳を感じた。其の時父が何の為に私を呼ぶのかは判らないが、学校は楽しいか、寒くは無いか暑くは無いか、そんな事を聞き、ええ、とだけ私は答えた。
父が決まって私に話掛けるのは母が家に居ない時だった。其れ以外は、禄に顔も見なかった。
遊んで貰った記憶も無く、唯、“忙しい偉大な父親”としか記憶が無い。三つ下の妹はもっと酷い扱いを受けた。どんな扱いかは知らないが、兎に角酷いらしい。母が云っていた。
そんな偉大な父。だからだろうか、私は錯覚した。恰も私が父の様に、いや其れ以上に偉大な人間だと思っていた。其の頃父は“中将”と云う立場で、私は持つ教科書全てに、“海軍元帥加納馨”と書いていた。
父は陽気な人間で、何時も笑い、又人を笑わせ、周りに人を囲っていた。週末には海軍将校達が家に集まり、酒を飲んでは騒いだ。母は呆れ乍らも嬉しそうだった。其れを騒ぎで眠れない私が物陰から見ている物だから、酒で顔を真赤にした父は、「何だ、陰湿な。鼠の方が活気ある」と周りを笑わせた。私にすれば、全く面白く無いのだが。
そんな時一人の将校が私の教科書を見付け、名前を見て笑った。怒られるだろうかと思ったが、父は暫く眺め、紫煙を吐き出し乍ら豪快に笑った。はっはっは、と腹から出る笑い声にも威厳を感じた。
「こいつは良い!でかくなれ、馨!」
そう父は陽気な声で良い、けれど私は、はい、と矢張り陰湿な声で答えただけであった。




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