Zellen
煉瓦作りの建物が、とても御伽の世界の様に感じた。地面も砂利道は少なく、石。ヒールの音は良く響くけれど、石と石との隙間で良く杖が止まり、転びそうになる。だからと、彼は杖先にゴムを付けた。けれど詰まる。原因はヒールにあると私は考え、けれど履くのは止めなかった。
私はヒールの音がとても好きなのだ。
不規則な道で、杖とヒールはとても苦労した。外に出るのも億劫になったけれど、そうしたら何の為に日本を出たか判らない。
私は、自分の世界から出たかった。
一番最初に覚えた独逸語は「Ja」だった。彼が何かを云うと、私は決まって「Ja」と答えた。其の次に覚えたのは「Guten Tag」。店先で必ず使うから、「Ja」と一緒に覚えた。たった其れだけしか、私は知らない。寂しい事だと思う。
私は、彼の愛する言葉で、愛を囁きたい。
彼との会話は日本語で、必要最低限覚えておけば困らないと云った。
彼が私に望んだもう一つの単語は「Helfen」。「helfen Sie mir」は長いから「Helfen」で良いと云われた。私に意味は判らなかった。転んで起きれなくなった時、傍に人が居たらそう云えと教えられた。
彼は、私と一緒に寝ない。寝室は一緒で、ベッドも一つしかないのだが、彼とは一緒に寝ない。寝ないのではなく、寝れないのだ。七時に帰宅し、八時迄に夕飯を済ませ、其の後彼は、食器が広がっていたテーブルに本を広げる。毎日必ず、何かを忘れたい様に。
本を広げ、ペンの代わりに煙草のフィルター先をテーブルに叩く。とんとんとんと規則正しく続き、ふと止まり「嗚呼そうか」と煙草の代わりにペンを持つ。
十時になると、私は寝室に行く。彼に「お休みなさい」と云い、彼は椅子から立つとそっと私に額にキスをして「お休みなさい」と又椅子に座る。
「何故一緒に寝ないの?」と聞くと、彼は困った顔で「又今度ね」「テーブルに広がるのが食器であれば俺も嬉しいんだけどね」そう云う。そう云って、寝様としない。毎日毎日、彼は一体何をしているのだろう。もう医者であるのだから、勉強する必要はないのではないか。そう思うが、彼は彼なりに考えがあるらしく、「俺は宗一と同じ様に外科をしたいんだ」と本に目を向ける。そうして、私が朝日を感じながらリビングに戻ると、決まって彼は本を枕に寝ているのだ。紙に綴られる文字は独逸語で、行き成り力尽きたのか、ペンを持った手は紙を過ぎて伸び、一本の直線を引いている。息をしていないのではないかと勘違いする程、彼の寝顔は綺麗だ。
私は、彼の寝顔を充分過ぎる程知っている。けれど彼は、私の寝顔を全く知らない。
揺すって起こし、欠伸をすると、冷た過ぎるカップに沈む珈琲を飲むのだ。そして其のカップに、私は新しい暖かい珈琲を淹れるのだ。
そんな生活が、もう二ヶ月経とうとしていた。
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