サーカス
「嗚呼っ、凄く楽しかったわっ」
ショーが終わり、珠子は興奮し切った状態で息を吐いた。観客の居なくなった客席を見たハンスは意外な広さに目を張り、此の収益金が何処に行くのか気になった。ビラを見ても団体名は書いておらず、少し不審に思いクラウスに耳打ちした。陶酔し切った珠子とルートヴィヒに知らせるのは酷だろうと。
すると案の定、ジプシーであろうと返事を受けた。
「だからアロイスが?」
「そうですね。」
実際自分も見たかっただけだろうが、其れは伏せた。
「如何する?偵察に行くか?」
「多分、小屋と塒をひっくり返そうが爆発させ様が、証拠は出ないと思いますよ。」
主催団体がロマ族だろうがユダヤ人だろうがクラウスに興味は無く、収益金が何処に行こうが関係無かった。一時楽しめれば良いと見物して居たが、大して面白くは無かった。ルートヴィヒが象以外興味を持たなかったのと同じに、強いて云うならライオンにしかクラウスは興味が無かった。
「あれ?」
興奮を入り混じえ、何れだけ象が素晴らしいかを珠子に教えて居たルートヴィヒは、無人のステージを眺めて居た時一が其処に向かって身を乗り出した事に声を止めた。
「此処に御集まりの、愛しき将校様、美しき御嬢様方。」
やたら背の低い、顔は中年の団長が鞭を振り翳し時一達を呼んだ。ハンスとクラウスは皆の注意がステージに向いたのを良い事に話を続けた。
時一に続き覗いたルートヴィヒの鼻先に象の鼻先が現れ、盛大に鼻息を吹き掛けられた。白衣が靡き、唖然とするルートヴィヒに珠子は目を丸め、あらやだ、と笑った。ロッテは笑いを堪え、ルートヴィヒの顔を拭った。
「大丈夫ですか?前髪が、前に。」
「結構…、有難う…」
鼻息で垂れた前髪を後ろに戻し、ロッテと目が合う。暫く無言で互いを見、ルートヴィヒはふっと目を象に戻した。眉と手を落とすロッテに珠子はニヤニヤ笑い、若しや此れは、と象に向くルートヴィヒを見た。心做しか耳が赤く、口元が緩んで居る。
此の二人の現状にニヤニヤして居た珠子だが、ルートヴィヒの驚いた目と合った瞬間、珠子は宙に浮いた。皆の驚いた顔に見上げられ、珠子は其れを見下ろした。
「おいクラウス、在れ…」
「驚いた…」
「象って、利口なだけじゃ無くて、力もあるんだね。…凄いねっ」
「奥様、浮いてますっ。素敵っ」
「落とさないで下さいよ。」
何時の間にか時一は一階に下り、団長に詰め寄る時一を見て漸く自分の状況を把握した珠子。象の鼻が腰に巻き付き、人形でも持ち上げるかの様に容易く珠子は宙に浮いて居た。二階に居た筈の自分が、気付いたら一階で、象の背中に乗って居た。
「ずるい…、私も乗りたい…っ」
子供の様に文句を云い出したルートヴィヒに団長は、四十キログラム以下しか“持ち上げられない”と云った。しかし、団長の口は余り動かず、いや動いて居ないと云っても良い。丸で声帯がある場所から振動を外に出し、空気に伝えて其れが声になって居る様で、ルートヴィヒには全く読み取れ無かった。
「彼は今、何て云った?」
「え?」
聞かれたロッテは何の疑問も持たず、唯聞こえ無かっただけだろうと団長の言葉を其の侭伝え様としたが、透かさずハンスがルートヴィヒに向いた。聞いたルートヴィヒは落ち込み、ショコラーデを止めたら乗れるかな、とハンスに聞いた。
「……無理じゃないか?」
「私今、六十何だよ。」
「象の鼻が、蛇みたく巻き付く前にルートヴィヒが死ぬ。なあ、団長。象には乗れるか?」
「ええ。」
鼻で持ち上げられるのが四十キログラム以下と云っただけであり、乗るのは大抵の人間なら可能と云う事だった。伝えられたルートヴィヒは目を輝やかせ、四メートルはあろう其の場から一階に下りた。あっという間で、ハンスが止めに入る暇は無かった。其れは本当に、天使が飛んだ様に軽やかで、目の前で揺らいだ羽にロッテは息を吐いた。
「いらっしゃい。」
両腕を動かし、さあ早く、とロッテを呼んだ。
「無理よ。」
引き攣り笑いで首を振るロッテ。
「ふざけてるのか?怪我でもさせたら如何する。」
飛ぶ必要は無いとハンスはロッテに強く云い、けれどルートヴィヒは笑顔で腕を動かす。
「さあ、ほら。大丈夫。私が受け止めてあげるから。いらっしゃい。一緒に乗ろう。」
天使の誘惑にロッテは負け、止める周りの声も聞かずルートヴィヒに向かった。
「信じられない…っ、何て女だっ」
勇ましいと云うか向こう見ずと云うか、ロッテの行動力には驚かされた。二つの長い三つ編みが円を描き、天使の羽も回った。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
「大丈夫ですけれど…下ろして頂けません…?」
ロッテを受け止めたルートヴィヒは其の侭象の所迄回転し乍ら向かい、其の光景は丸で、微笑ましい恋人同士だ。
「在の二人、そんな関係?」
象に乗る珠子に時一は聞いた。
「さあ。でも、ロッテは屹度…」
二人を眺める珠子の目には情熱が宿り、溜息を吐き時一は呆れた。
「在の二人、親子程違うんですよ?」
「あら、時一さんが其れを云って?恋愛には、年齢も国境も、性別も、関係無いんじゃ無くて?」
珠子の口調は姉に云われて居る様で、そうですね、と無表情で二人を見た。
「さあ珠子嬢、下りて頂けるかな?私の可愛い御嬢さんが乗るのでね。」
今度は珠子に向かって両腕を広げ、若しかしたら此奴はとんでもない女好き何じゃなかろうかと、時一は言葉を無くした。
象は鞭の音に身を屈めた。興味等無い珠子はルートヴィヒに代わり、ロッテを前に座らせた。もう一度鞭の音が鳴ると象は立ち上がり、二人は声を出し喜んだ。
「凄いね…、高い。」
興奮するルートヴィヒの声と、密着する身体にロッテは違う興奮を感じ、さりげなく身体を倒した。ロッテの気持を確信した珠子は口元を隠しにやけた。
「在の二人が恋人同士になるか、賭けましょうか。時一さん。」
囁かれる珠子の声に時一は口角を上げ、良いですよ、そう云った。
「何を賭けます?」
「そうね…」
珠子は“なる”、時一は“ならない”で、其れはサーカスの様な楽しい出来事の始まりだった。
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