熟れた罪


胸が、痛い。
せり上がる様な、此の痛み。
微かに膨らんでゆく、腹部。
吐き気が、止まらない。
もう、限界だ。
此れ以上、隠す事は出来ない。
何でも無い様装って居たが、もう、其れは限界に来ていた。
変わってゆく自分の身体。
大きくなってゆく、胸、腹、尻。
罪の重さ。
深さ。
変わらぬ、愛情。
眩暈がする。
吐き気が、全身を襲う。
立っていられない。
そう思った矢先、私は其の場にしゃがみ込んだ。
気持ちが悪い。
眩暈が、吐き気が、疲労感が、支配する。
ふっと背中に触れた、暖かさ。顔を上げると、優しそうな婦人が、心配そうな顔をしていた。
「如何か為さって?」
彼女はしゃがみ、日傘で、私達に影を作った。其の御蔭で、少し、気分も楽になった。
「御親切に。大事有りませんわ。少し気分が。」
「まあ。顔色が悪ぅ御座いますわよ。御宅は何方かしら。今馬車を。」
「本当に。気分が悪いだけですので、如何か。」
大事にしないで欲しかった。馬車で家迄帰ったら、本郷さんに、心配される。そうすると自動的に、彼の耳にも入る。其れだけは、避けたかった。
「如何か。私の事は、御気に為さらずに。」
放って置いてくれ、とは、流石に云えなかった。見ず知らずの私を心配してくれる、此の優しい婦人に、誰がそんな事を云え様か。
「其れなら貴女。家にいらして。直ぐ其処ですの。気分が良くなる迄、御休みに為って。」
何故此処迄してくれるのだろう。
普段の私なら、警戒して、決して知らない人間の家に等行かない。しかし、考えより、体に従った。今は唯、ゆっくりと、休みたかった。
馬車で揺られ、婦人の家に向かう続く道。本当に、直ぐだった。
私は、目に映った屋敷に、目を見開いた。何と云う大きさなのだろう。
驚いている私を他所に馬車は止まり、静かに開いた。
「御帰り為さいませ、奥様。」
奥様。
何て良い響きなのだろう。
私が一生呼ばれる事の無い、称。
「和臣さん、いらっしゃって。」
息子か、誰かだろうか。確かに、私より小さい此の御婦人一人では、私を抱えて、中迄運ぶ事は出来ない。
「和臣様は、先程旦那様と御出掛けに為られました。」
「そ、う。」
婦人は項垂れ、私を見た。
「貴女、歩けて。」
私は小さく頷き、足を付けた。上手く力が入らないが、先刻よりは、幾分良い。
よろめく足元。ふっと、体が軽くなった。
「時子様、私めで宜しかったら、御連れ致しますよ。」
身形の良い、眼鏡を掛けた男が、私を支えていた。
「嗚呼、御願い出来るかしら。」
「畏まりました。」
宙を浮く身体。まるで、飛んでいるみたいな気分になる。
広い屋敷内。思わず息を呑む。ベッドに運ばれる迄、随分な時間を要した気がする。
ベッドに寝かされ、婦人は優しく微笑んだ。
「御水と冷たいタオル、差し上げましょうね。」
そう云って、私の髪を、優しく撫でた。運ばれて来たタオルを、額に当て、水を飲む。
助かった、素直にそう思った。
「こんなに暑いものね。無理も無いわ。ゆっくり為さって。」
「御親切、痛み、入ります。」
頭を下げたが、眩暈で上げれなくなった。婦人は笑って、大きな窓を開けた。
入り込んでくる優しい風は、濡れたタオルといい感じに調和した。
小さく聞こえる足音。小さな声。其れは段々と近付いてくる。其れに気付いた婦人はドアーに駆けた。
愛らしい、子供の声。
「時一、こっちよ。」
「待って。」
婦人はそっとドアーを開けた。
「時恵、時一を連れて、向こうで遊んで。気分が優れない方がいらっしゃるから、静かにね。」
「はあい。行こう、時一。」
「待って。姉様。」
其の言葉に、心臓が鳴った。
姉様。
私は、頭を押さえた。
こんな所で、のんびりと休んでいる訳にはいかない。今日こそ彼に、きちんと云わなければ。
そう思って、一体どれ程に日は進んだだろう。
「大丈夫かしら。御気分が。」
「いいえ。何でも有りませんわ。」
「御免為さい。煩かったでしょう。」
私は笑って、首を振った。其れがいけなかった。瞬間、吐き気が込み上げ、私は首を絞めた。
「申し訳有りませんが、何か、容器を。」
其の言葉と共に、出そうだ。
我慢していたのも、限界に来た。喉の奥に掛かる異物。
漂う綺麗な着物。其れは私の口元に置かれ、背中を押された。
「え――。」
私は小さく声を漏らし、不快感を其の着物に吐き出した。謝ろうにも、吐き気は止まらず、何度も着物に吐き出し、息を吐いた。
「申し訳、有りません。御着物に。」
「御心配為さらないで。着物の一つや二つ。」
この婦人は、何処迄優しいのだろう。声を掛け、家に連れ、そして其の嘔吐物迄受け止める等。私には、到底真似出来ない。
婦人は汚れた着物を床に落とし、椅子に座った。
「何かおかしいと思ってましたけれど、貴女、妊娠為さっていてね。」
其の言葉に、私は、唇を噛んだ。
「先程の御声は、御婦人の。」
話を逸らした。母親なら、食い付かない筈は無い。
「ええ。」
「御二人、だけですか。あ、でもさっき。」
和臣、という名前を云った。
「和臣さんは、私の子では有りませんの。でも、変わりませんわ。もう一人大きいのが居ますけれど、今日本には居りませんの。」
婦人は小さく笑って、私を見た。
「子供は、宜しいわよ。」
其の言葉が、深く刺さった。
私は、一体どうしたいのだろう。
生みたいのか、生みたくないのか、其れさえもはっきりしない。
唯、彼の負担にはなりたくない。子が生まれれば、どうやっても、彼には重く圧し掛かる。
実の姉を孕ませた弟。実の弟の子を産んだ姉。其れが、世間から、どんな非難を受けるか。そして、其の子供が、どんな悲惨な人生を歩むか。
判っている。
判っているのに、答えを出せないのは、恐怖か弱さか。
此の侭知らせず、流してしまおうか。
其れが良いと判っているのに、そうしたらこの先、自分は彼にも知られない罪を背負う。其れは別に構わないが、果たして自分に耐えられようか。
今迄の様に、彼を受け入れられようか。
私には、判らない。
一体、子が出来て、何がめでたいのだろうか。
めでたくも何とも無い。
私達が自ら望んで犯した罪の重さは、其の罰の大きさは、命と云う、尤も重い代償だった。




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