我が弟


拓也、現在四歳。大変可愛く、やんちゃ盛りである。二歳年上の龍太郎と毎日遊び、毎日喧嘩している。帰宅した姉の耳を毎日劈くのは二人の喧嘩する声で、其の度姉の心労は増えた。
そんな我が子同然の我が弟を微笑ましく見ている。頭は足りなくても良い、警察の厄介になっても、兎に角元気に育ってくれたら良い。姉の願いは、其れだけだ。


在る日、友人と一緒に学校から帰宅した。ピアノを弾きたいと云ったから、如何せ誰も使って居ないピアノだから調律がてら触って貰おうと。其の友人が、相変わらず龍太郎ちゃんと“幕末ごっこ”をしている拓也を見て漏らした。
「…坂本龍馬の真似してるのが、弟?」
「…あ、うん…」
恥ずかしかった。可愛いのだが、恥ずかしかった。龍太郎ちゃんは拓也依り大きく、先ず弟に見えないらしい。勝手に持ち出したであろう羽織り(本物)を地面に引き擦って居た。
「四歳、だよね…?」
「うん。」
「…すっごい良い男じゃない?」
「え…?」
まさか、とあたしは鼻で笑い、友人を馬鹿にした。拓也の顔が悪いと云っている訳では無い。四歳児に其れは無いだろうと友人を嗤った。
「将来、在れは良い男に育つよ。」
友人は笑い、あたしの肩を強く叩いた。そんな太鼓判、押されても迷惑なだけである。
其の日の夕食時、拓也の顔をまじまじと見た。嗚呼、こんな顔をして居たなと、忙しさで禄に顔も見ていない事に気付く。短い前髪はあたしが切った。寝ているあたしの髪を切った報復だ。其の浮いた短い髪から覗く額に、生々しい傷があった。
「ねえ、拓也。」
「何?」
「如何したの?此処。」
とあたしは自分の額を触った。
「殴られたの。」
握り締めた匙を黙々と動かす拓也。口からおかずが落ちる。
「誰に…?」
拓也は名前を云い、瞬間身体に怒りと云う炎が渦巻き、乱暴に箸を叩き付けた。拓也はぽかっと口を開き、どすどすと床を鳴らすあたしを見て居た。
畜生。何てったって此の家は門迄長いんだ!
門に出る迄に怒りが治まりそうだった。門から出たあたしはからからと下駄を鳴らし、目的の家の戸を足で蹴った。
「おい、こら。出て来やがれ!」
八時だった。なのに寝て居たのか出て来た男は半目だった。
「何だ…琥珀か…」
猫背だった男は欠伸をし、背を伸ばした。
「何だとは何だ!」
あたしの怒号は周り全てを震わせた。男は勿論、壁も地面も空気も震えた。其の声におようさんが何事かと戸を開けた。
「琥珀ちゃん!?」
「おようさん、鬼だ。桃太郎を呼んでくれ。」
悪びれた様子無く男はもう一度欠伸をし、怒鳴るなら帰ってくれと項を掻いた。
「姉様!」
慌て付いて来たのか、拓也は裸足だった。
「恭一兄ちゃんは悪く無いよ!」
憤慨し我を忘れたあたしの足に拓也はしがみ付き、男は悪く無いと云った。
悪く無い…?悪くないだと…!?
「拓也が悪い訳あるか!恭一!」
叫んだあたしに男は斜め向いて睨み付けた。
「何で琥珀が俺を怒鳴りに来たかは知らんが、怒鳴られる覚えは無いね。だろう、拓也。」
尻に付く拓也の顔が力強く上下に振られる。
「僕が悪いんだ…」
「ほら、見ろ。俺は悪くないさ。」
云って男は戸を締め様とし、すかさず其れを止めた。
「拓也が何をしたかは判らない。けれど。」
呻く様に云った。
「殴るとは如何云う了見だ…」
おようさんは怪訝な顔を男に向けた。
「殴ったの?」
澄まして男は嗚呼と云った。呆れた、とおようさんは云い、拓也の額を見た。
「こりゃ酷い。」
「酷い…?」
今度は男が呻いた。ふてぶてしく顔を上げ、伸びる首から出る喉仏が虫の様に動く。木に止まる蝉が動く様な感じだった。
「俺の絵を破ったんだ。酷いのはどっちだよ。」
「でも殴る事は無いだろう。拓也ちゃんは未だ四歳だよ?」
「殴って無い。腕で弾いたんだよ。そうしたら頭を打った。」
怒りは、如何する事も出来ず身体の中で轟々と音を立てて居た。あたしは何も、怒鳴りたい訳では無い。拓也が悪く共一言、其れは済まないとさえ云ってくれたら良い。其の後なら幾ら弁解をしても良い。
其れを此の男は。
噴き出た怒りは腕を動かし、夜の空気に音を響かせた。
「ありゃま、景気の良い音。」
「姉様…」
猫の様にあたしは息をふーふー出し、刺す様に細い男の目を見た。
「仕返しよ。」
「こら又強烈ね…」
切れたのか、男は口端を親指でなぞった。
「眠気が飛んだよ。有難よ…」
皮肉を云う口があるなら拓也に詫びろとあたしは叫んだが、結果此の男を楽しませるだけだった。




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