桔梗館の雛人形


男が其の人形に会ったのは、男が二十七歳の時、場所は豪邸を構えるが物悲しい馴染みの巣窟である。
申し訳程度の明かりの中で肉の塊は蠢き合う。其れが男には、人間本来の醜悪さに見えて仕様が無い。不快なのでは無い、頗る気持が良いのだ。此処に腰を下ろす人間には心があり、表情があり、感情があった。其れ等全てを欠落させた男には、最早夢に近い場所であった。
唯一現実を忘れさせてくれる、唯一の楽園。
其の楽園の名は、桔梗館。
数ある娼館の中で一際目立つ娼館である。
「あら旦那。」
「今からか?」
「そうよ、旦那と迄は行かないけど、上客よ。」
女は妖艶に笑い、甘い芳香を男に教えた。
楽園だ。此処は楽園だ。
男は思い、紫色の別珍のソファに座った。柔らかな質感を楽しみ、数分経ったであろうか、此の館の主が姿を現した。老いて居るのか若いのか、性別だけははっきりと判るが、其れ以外何も判らない主。
「旦那、来て貰って悪いんだけど。」
満員御礼、有難たや。何時もは廃墟同然の此の娼館だが、今夜は何時に無く多忙であった。そんな事が初めてな男は項垂れ、垂れた髪を上げた。
主としては何としても此の男が欲しい。此の娼館で二番目の大客、何としても帰す訳にはいかなかった。
「一人、居るのよ。全く役には立たないけれど。」
「まさか、御前?」
「あら?試してみる…?」
主は妖艶に左右の指を動かし見せた。仮にも主だ、此の館で一番の腕があるのは当然であろう。
男は首を振り、主を横に座らせ、其の女の話を聞いた。
二ヶ月に拾い、年齢ははっきりとは判らないが少女であるのは間違いない。今迄散々な目に遭って来たのか、見付けた時、中途半端に服を着、草履は片方脱げ、痣だらけの身体で幽霊みたく突っ立りへらへらと笑って居たと云う。そんな女が夕刻の窓の外に居たもんだから主は度肝抜き、見殺した娼婦の幽霊と錯覚した。

「一寸あんた…」
「ふ、ふふ…」
「何か様…?」
「ふふ。」

女に言葉は通じず、唯ゝへらへらと笑い、痣を付ける乳房を見せた。

「何て事だい…。おいで…」

野良猫を手招く様に主は女を呼び、其の細い身体を摩った。そして、キッスをされた其の口から強烈な生臭さを知った。何と形容して良いのか判らない程の異臭で、主が其の場に吐き出した姿を見ても女は笑って居た。
兎に角、異臭が凄かった。
こんな異臭を入口の近くに置いて居ては客に帰れと云って居る様な物で、主は仕方無く、此れも縁であろうと女を屋敷に入れた。
服を脱がせ様にも、服に手を掛ければ女は主をに手を伸ばした。纏わり付き、服を脱がす事は無理だと其の侭風呂に突っ込んだ。瞬間女は悲鳴を上げ、眼球が飛び出さんばかりに見開き、支離滅裂な事をわあわあ喚いた。
嫌だよ、云う事聞くよ。
支離滅裂な叫びの中で唯一判った言葉が此れだった。其の中で、名前の様な物を云ったが、主には良く聞き取れ無かった。

「名前、あるかい?」
「えへへ。」

質問には答えず、子供の様に口を開け笑う女の姿に主は絶句した。
異臭の元凶と云え様か、女の歯茎は大量の膿を出して居た。其れに蓄積された体内の生臭さが混ざり、強烈な異臭を発して居た。

「あんた、何で…」

女には、歯が無かった。無理矢理引き抜かれたのか、所ゝ塞がっては居たが歪で、本来前歯のある所は傷さえ塞がって居なかった。
其れが何の目的の為か、主に判らない筈は無かった。

「酷い………」

女がされて来た仕打ちは想像を遥かに超え、此れが人間の所業かと主は泣き崩れた。けれど女は笑って居た。

「安心しな…。もう、大丈夫だよ…。あたしが、守ってやるよ…」

女に伸ばした手は不自然に凹んだ頭を掠り、湯舟に浸かった。飛んだ水飛沫が女の顔に掛かり、頬を流れた。

「ふふ…」

笑って居るのに、伝う水は泣いて居る様に見せた。




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