見付けた望み


さ迷うだけさ迷い、一体此処が何処であるか私は判らなかった。陽の傾きからして大した時間は経って居ないが、私には何年にも感じた。降り注ぐ太陽の光は私に重圧を与え、耐え切れず目に止まったベンチに倒れた。
息を繰り返す度不愉快な悪臭を知り、全身には汗を知り、額から汗が流れ落ちた。時折吹く風が私に安らぎを与えたが、指先動かす気力は与えて呉れ無かった。暑い、暑いと心では思って居ても、其処から動く体力が無い。死体みたくベンチに伸び、私の背筋は凍った。
死と云う概念に、私は取り付かれ、心臓が巨大化したみたく、私の全身はどくんどくんと脈打った。髪の隙間から見えたのは、誰が遊ぶのか判らない鞦韆。すると此処は、家から直ぐにある公園かと理解出来た。何年も歩き回ったと感じた疲労感は、実は歩いて十分もしない距離。さ迷ったと思った其れは、唯の錯覚であった。
此の侭、家の床板の染みみたくベンチと一体化するのも悪く無いなと思った時、鞦韆に重なる丸い物を見た。透明であるのにあらゆる色を流動させ、暫くすると弾けた。其れは又現れ、私は震える頭を上げた。
目に止まったのは、一人でシャボン玉を吹いて居る子供であった。齢四、五歳と云った所で、小さな手はシャボン液に濡れて居た。けれど子供は全くそんな事気にせず、地面に無数の泡を散らし、吹いて居た。
ぱちんと目の前で弾け、又流れて来たので眺めた。今度は弾ける事無く空に上り、瞬きをした時にはもう消えて居た。
シャボン玉に、彼女を重ねた。
美しい姿を見せる割には、一瞬で呆気無い。其れでも求めて仕舞う。
「――楽しい―?」
子供は私が頭を動かした事を知らず遊びに夢中で、ベンチに倒れて居た其れが行き成り声を出した事に怯えを見せた。子供は完全に、私を浮浪者と捉えて居た。
「うん。」
「そっか―――」
段々と風が冷たく為り、何時しかシャボン玉の姿は無く為った。其れを確認するのも面倒で、自分の感覚が常に暗い為、実際の暗さを私は認識して居なかった。暑いと感じた時間は、何時しか寒いと感じさせた。
「何だよ、此れ。」
「さあ。」
「金、持ってるかな。」
人の声に目を覚まし、数人の気配を知った。変声が終わった直後の様な、何とも奇妙な声だった。
「おい、生きてっか?」
「生きてても良いけどね。其の方が、楽しいと云えば楽しいよ。」
「女で無いのが残念だよ。」
云って、強烈な明るさを私は知った。
声の主が照らしたランプの明かりは、容赦無く私の瞳孔を貫き、眩暈を教えた。
「待てっ。陸軍の、将校じゃねえかよっ。手ぇ離せっ」
表にひっくり返そうとして居た青年の手は止まり、慌てて手を離された所為で、少し浮いて居た私の肩はベンチに当たった。
痛みに声を漏らす事無く動か無い私に、青年達の声は小さく聞こえた。
「あの――、将校様。大丈夫ですか―――?」
白々しい声で青年の一人は聞き、けれど私は頷く力は無かった。唯唯、青年が照らすランプに、鈍玉を反射させる事しか出来無かった。
全く反射の無い私に青年の一人は鼻で笑い、マッチを摩ると、紫煙を私の顔に吹き掛けた。私が反論しないと、青年は知ったのだ。
「将校様よ、金持ってる?」
私の髪を掴み上げた青年の姿に、仲間は一瞬の狼狽を見せたが、其れは本当に一瞬であった。
「ねえ将校様、僕達御金無いんだ。」
白々しい声は猫撫で声に変わり、露わにされた頬を撫でた。手では無くナイフで。
「銃刀法――違反だぜ――、坊や。」
私は云った。
「あら、喋れたの?」
「生憎様。」
「なら楽しめるかな―――?」
青年の目はナイフの様に光り、仄暗い中で光の線を私に見せた。青年の持つナイフは私の頬横を横切り、先をベンチに埋めた。反応を見せない私に青年は「ふぅん」と唸り見せた。
「流石は将校様だね、刃物一つじゃ声も出さないか。」
此の青年には其れが面白いのか、髪を掴む青年を退かせると私の身体をきちんと起こし、座らせた。
「ベンチは座る物だよ。」
「正しい使用法を教えて呉れて有難よ。」
加虐性に揺れる青年の目、私は其れに、自分を見た。瞬時に、此の青年が何をするか悟し、けれど私は、抵抗する気が無かった。嫌悪も無かった。
そんな事を考える余裕、私には無かった。
「奇麗な髪――」
くすくすと笑う青年の唇が毛先に触れた時、私の思考は完全に止まった。動く気力は何処にも無い筈であるのに、身体は勝手に動いた。こんな気力が残って居るのなら、もっと早くに帰れば良かったのだが、私自身不思議で堪らないのだ。
青年の首に腕を掛け、ベンチから立ち上がった。小さく悲鳴を漏らす青年の頭を銃で小突き、見た青年達は事の重大さを感じたらしかった。
「嫌ですよ、将校様――。本の御遊びじゃないですか――」
「穏便に、ね?将校様――」
「黙れよ、じゃねえと、此奴の頭ぶち抜くぜ。」
二人のゆっくりと青年達から離れ、腕の中で藻掻く青年に聞いた。
「赤線外での売春は生憎禁止でね。御前、男娼だろう。」
青年は又小さく悲鳴を漏らし、違います違いますと繰り返した。然しそんな嘘に付き合う程、私の心に余裕は無かった。何故こんなにも動けるのか、其れしか考え付かなかった。
―――彼女が居なくとも、動けるのか―――――?
そんな筈は無い。そんな事、絶対にあっては為らない。
私は何時しか泣いて居た。
彼女が居なくともきちんと機能する自分に嫌気が差した。其の事実を知った時、今迄とは比べ物に為らない無気力感が私を襲った。
―――彼女への愛は、所詮そんな物であったのか――?何て、何て低俗なんだ、俺は―――――!
地面に向かい一発発砲すると、木から一斉に何かが飛び立ち、緩んだ腕から青年も逃げ出した。一度躓くと仲間に引かれる様に逃げて云った。其の間、だから止めて於けば良かったんだ、御前が調子に乗るからと、私同様低俗な小競り合いが聞こえた。
完全に力を無くした私は上体から地面に倒れ、縮こまった。異様に寒く、体内は熱く、全く自分の身体が如何為ったか、一瞬考えただけであった。
硝煙よりも濃く感じた煙草の臭い。砂が擦り合う音が段々と近付き、私の真横で止まると地面に火の粉が散った。
「何を遣って居るんだ、御前は。」
反応は出来ず、鞦韆を視界に入れて居た。
「家を見に行けば居ない。散々探した挙げ句、銃の不正使用か。」
「襲われたんだよ――」
「動く気力があるなら、仕事しに来い。ふらつくから襲われるんだろうが。」
地面から引き剥がされた私は半回転し、ナイフよりも鋭い眼光を持つ目を見た。
「何だ、龍太かよ――」
「誰だと思ったんだ。」
身体は宙に浮いたのだが、圧迫感は拭われ無かった。腕、足、首、胴、あらゆる場所から無数の紐で地面に引っ張らて居る気がした。地面に伸びた腕に引かれる侭私は動いたが、彼が其れを許しはしなかった。
「御前、除名されるぞ。」
未だされて居ない事に驚いた。
私は何も云わず、そう為ったら為ったで、構いはしなかった。
働く必要が、無いのだから。
彼女が居ないのに、何故生きる必要がある。
生きる必要が無いのに、何故金が必要か。
愛が何だ。
結局は言葉だけでは無かったか。
希望とは何だ。
そんな物があるのなら、是非見せて貰いたい。
愛も金も希望も、何一つ、私を此処から救っては呉れ無い。
「死なせて呉れ―――」
全てを失った無気力の中で見付けた最初の望みは、其れだけだった。




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