不思議な人


月に一度、其の不思議な人は来る。高級館、と迄は行かないけど、値段は其れ相応にする娼館。間仕切りがベニア板一枚だけの下級店から流れ付いて、此の店の給料の高さと時間の長さに驚いた。日に五人は常で、客は欲を出したらはい左様なら。だから、此の店の一客一時間半乃至二時間は、最初の内苦痛だった。
だって会話が成り立たない。前の店は寝て天井見てりゃあヲゼゼが貰えたから。
値段も相応、客も其れ為りだった。大半が小さな店持ちの主人。其れ以上の人は高級館に行くからさ。
其の中に、旦那は居た。
漆黒の髪を揺らし、煙草の煙を羽衣みたく纏ってた。
旦那は滅多な事が無いと話さなくて、最初の十分は無言の業。「何か話せよ」って云われたから、「犬が交尾してた」って話をした。
「詰まんねぇ…」
「楽しかったよ。」
雄が馬鹿みたくはすはす息して腰振ってて、雌は「早く終わんないかな」って顔をしてた。全くあたしじゃん、と思ったんだ。猫の交尾も見た事あるけど、猫って在れ、犬と違って伏せてする。其れで「なぁうなぁう」、「あたし達してんだ」って周りに教える。
旦那は不思議な人なんだ、本当に不思議な人。絶対に入れないで帰ってく。出さないで帰る。娼館に来て出さないって、余程の変わり者。
そんな客が居ない事も無い。女房に先立たれた人、極端に持てない人、こう云う客は、寂しいから誰かと一緒に居たい、話したいって、しないで帰ってく。或いは凄い変態で、他人に見られないと興奮しないと、センズリを見せる客も居る。目付き悪いも愛嬌の内、でもやっぱり如何しても威圧感を与える。そんな変態だから決まって、「嗚呼良いよ」「其の汚い物を見る様な目」なんて鼻息が荒くして、益々此方の目付きが悪く為るってんだ。
旦那は、其の何方でも無かった。
話す訳でも無し、自慰を見せる訳でも無し、だからと云って致す訳でも無い。いや、其の行為はするんだけど、入れないから致してる感覚が持てないだけ。
最初は在れ、こう思ったんだ。
他の女と遊びたいけど、女房に義理立てて入れないのかと。でも違う。じゃあ結局此の人は何がしたいんだろうって、不思議に思う。
「旦那って、御仕事何してるの?」
「なんだと思う?」
働いてる感じは無さそうなんだけど、親の金を使って遊ぶって年にも見えない。商売人にしては寡黙過ぎる。本当に不思議な人。
母様に聞いて見たけど、知らないと云う。金はきちんと払うから無職だろうが犯罪者だろうが母様には興味無いみたい。
そんな不思議な旦那の職業を、ひょんな事から知った。高級館も高級館、赤線の頂点に居る桔梗館から出て来る旦那を見ちまったんだ。
朝方だった。未だ朝靄掛かる頃で、家に帰る途中だった。女達の寝床が確保されてるのは高級館だけ、其れが定義みたいなもんで(寝床があるって事は其れ相応な部屋数を要する)、中級や下級は広間の一箇所に集まって客が来たら部屋に行く仕組み。
凄かった、兎に角凄かった。
館中の女と云う女が、帰る旦那に群がって居た。白々と開け始めた空気の中で、藍色の其れは目立って居た。
「雛子ぉ、又又又なぁ。」
「又又又ねぇ、旦那ぁ。」
一晩相手をしたであろう女は疲れも見せない顔でキッスをした。
「旦那ぁ、行ってらっさあい。」
「ほぉいよ。」
舌足らずな其の女は、笑顔で、だけど締まりの無い敬礼一つ、見送った。旦那の横顔は朝日を睨み付ける様に真っ直ぐで、背中を見せた侭敬礼した。ひゅん、と朝の空気を切る様に腕を伸ばす。其の前に停まる陸軍の紋章入る馬車、旦那は其れに乗って行った。
なんだ、軍人か。
あっさりと旦那の職業が判って仕舞った。馬車が見えなく為る迄、其の雛子と云う女は見送り続け、後ろに一人、とんでもない美人が居た。
「最近、雛子に負けてるわ…」
「えへへ。」
「えへへじゃ無いわよ、あたしだって旦那に相手して貰いたいのに…」
とんでもない美人は舌足らず女の髪をちょいと引いて、中に入った。
見上げた頂点に君臨する桔梗館。二階の窓に一つ人影、切なそうな目で馬車の進行方向を向いて居た。ゆらりと又人影、切な目女を後ろから抱き締めた。
可哀相に、在の女も旦那に惚れてる一人か。相手所か見送りにも行けなかった寂しさを視線に乗せて居た。
「桔梗館…」
云ったら旦那、びくりと肩を揺らした。
「え?何で知ってんの?」
「見たもん。」
あんな高級女を相手にしてたら、そりゃ相手にもしないよな。相手にするだけ、無駄だよな。高級女と中級女じゃ、格が違うよな。
不貞腐れた。
「拗ねんなよ。」
「拗ねて無いよ。」
「拗ねてんだろうがよ。」
旦那は煙草を消すと、機嫌を直す様にキッスをした。
安っぽい酒と煙草の味のするキッス。舌が少し痺れた。
「旦那の馬鹿。」
「此処では御前だけだから良いじゃん。」
確かに此処ではそうかも知れないけど、一歩外に出れば違う女なんだろ?一晩、一緒に居るんだろ?其れが許されるんだろ?旦那に抱いて貰えるんだろ?
ねえ旦那、如何遣ったらアンタに抱いて貰えんの?
二時間程の時間で旦那は満足するんだね、其れ程にしか価値は無いんだね、寂しいよ。
客に惚れたら地獄って、本当だね。




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