deadly kiss


大学に行く積もりは無かった。下士官止まりで良いやと思って居た。軍に余り興味が無いから、士官にも興味は無い。馴染みの龍太は今、大学の一年。俺は学年一つ下だから、受かれば来年から大学生。
高校は陸軍学校。姉が、「中学位は絶対出て」と云ったのはもう随分と昔。小学校の頃。
一先ず中学は出た。
「高校は?行きたくないなら別に良いよ」
姉は云った。
先にも云ったが、龍太は学年が一つ上。一年、龍太の背中を見てた。
「龍太と同じ所、行く。」
何気無し云ったが、姉はさっと蒼褪め、陸軍学校…、と呟いた。姉としてはそんな野蛮な巣窟に行って貰いたくない、同じ軍学年なら海軍が良いと迄注文付けた。
「行くのは、俺だよ。」
「判ってるけど…」
陸軍学校ってのは、海軍学校とは違い、上品じゃない。海学のカリキュラムを見た時、俺はぞっとした。
理系と外国語、ワルツと西洋マナーが必須科目にあった。
最速ノット云々を英語で話して、フレンチのフルコース食べた後にワルツを踊れって?冗談じゃない。
姉は何も、理由無く微かな反対をして居る訳では無い。
陸学ってのは、何時勉強してんだ?て程のカリキュラム。只管訓練、訓練、昼を挟んで又訓練。龍太の男前が半分化け物に為って帰宅した時は、姉、卒倒した。
だから、反対したい。
大事な大事な弟ちゃまを、そんな目に遭わせたく無い。
「海軍の…そうよ、音楽科に行けば、理系は要らないわ。拓也、ほら、ピアノ弾くの好きじゃない。」
如何しても軍学校に入りたいならと、姉、苦渋の策である。
「ええ…?楽器が戦友でありますって…?」
軍艦の上で、フレンチのフルコース食べてる上官殿の為に、曲を提供する奴に為れだと。
其の俺達は何を食わされる。握り飯一つに目玉が映る薄い汁だろうが。其れで云うんだろ?
「上官殿、本日の飯には蜆が入っております」
「贅沢で有難い代物であります」
と。
とんだ拷問だ、だったら殴られ、半身化け物の方が良い。
抑俺は、ピアノを弾くのがそんなに好きじゃない。何もする事が無いから、結果ピアノを弾くしか無かった。龍太は稽古で忙しいから。
物心付いた時から、ピアノが目の前にあった。姉が弾いて居た、其の、鍵盤に似た指先で。
姉のピアノは、御世辞にも上手いとは云えない。音が割れてると云うか、律が無いと云うか、音一つ一つが我れ、我れ、と主張し、調和して一つの曲に為ろうとしない。余りにも下手糞で耳障りだったから、姉からピアノを奪った。
姉も別、好きで弾いて居た訳では無い。其のピアノは母親の物、だから弾いて居た。譜面も読めないのに、記憶の音を、指の動きを、一つ一つ思い出し乍ら鍵盤を押す。
俺の音楽の才能は、如何遣ら母親譲りらしい。聞き乍ら譜面を見ると、次はもう弾けた。
でも好きじゃない。
「凄いわ拓也」と、奇麗な顔に柔らかい笑みを重ねた姉が云って呉れるから。
暇と愛を、ピアノに向けただけ。
「陸軍学校落ちたら、姉さん。一生養ってね。」
「ええ…、私、結婚出来無いの…?」
「……………うん。」
其の翌年だった、一つ一つの音だった俺達が、調和した一曲に為ったのは。
素直に…、姉の提案を飲んで於くべきだったかも、と後悔したのは入学して二ヶ月経った頃から。何を毎日毎日、殴る理由があるんだろうか。
顔が気に食わない、とか、いや、知らねえし。態々云わなくとも、自身でだって気に食わないわ。
唯、此の頃の士官は、海軍並に上品だった。
家の通りに面した二階の部屋(此れは姉の部屋だが)には、何時も季節の花が並んで居た。此の頃には珍しい西洋花ばかりで、父親が母親に送った物だと云う。
俺の父親は外務省の官僚で、姉曰く、生前の父親はしょっちゅう、木島外務大臣と外国に行って居た。姉は其れを大事に育て、一番日当たりの良い部屋を自分の部屋にした。元は此の部屋、母親の部屋であった。
其の花を、だ。毎朝見る陸軍士官が居た。
彼は馬に乗って居る為、他より良く見える。毎日毎日「嗚呼奇麗だな」と思い、仕事に行って居たらしい。
洋蘭、物凄くでかい洋蘭があった。其の芳香は部屋に入っただけで噎せる程強く、甘い。窓から見ても其の蘭の姿は圧巻で、匂い迄伝わりそうな程。
女人が首を傾げた様な姿、夕刻見ると、判って居るのに、どきりとし、ぞっとする程色気があった。己の性を理解しない女が、窓から男を誘って居る様で、龍太の親父さんも、其の蘭の色気に遣られた一人だった。
一度姉が、肥料の与え過ぎであわや涸れる寸前。此の洋蘭は母親一番の気に入りとあって、専門家に渡した。
或る朝、矢鱈早い時間に目が覚めた俺は散歩でもし様と家を出た。其処に、馬が止まって居たので何事だろうと思った。
見上げると士官も士官、元帥では無いか。朝っぱらから小便漏らすかと思った。
寧ろ、何故こんな下町に居るのか聞きたい。
彼は一言「蘭は」と聞いた。
――はい…?
――此の家の子息だろう?
――はい…まあ…
――暫く蘭を見ないんだが。
と黒い手袋した手を手綱から離し、姉の部屋に向けた。
――一寸、姉が遣らかしまして…
――枯れた、のか…?
――専門家に預けております。
彼は心底安心し切った溜息を鬣に靡かせた。
――在の蘭は白だから、色付きの蘭を送って遣ろうと考えてた。色気が増すぞ。
花は女に似てる。
自分より美しい物があると、其れより美しく為ろうとする。だから、花の前に鏡を置くと、一層奇麗に咲く。見る其れが自分と気付かず、奇麗に為れば為る程、鏡の自分に対抗する。故に在の蘭は見事な色気を持つ。
数日後、蘭は無事返って来た。其の二日後、花屋が色付きの巨大な蘭を届けに来た。姉は狼狽し、「何方から?」と当然聞いた。
――在の蘭に、惚れた方からです。
花屋は決して、送り主の名前を云わなかった。
此の頃の士官は、本当に品位があった。風情もあった。殴り合うだけの時代では無かった。
二つに増えた蘭の花。彼は「色気が増す」と云ったが、俺には女郎小屋にしか見え無かった。
間違った方に性を目覚めさせた女達が、厭らしく競い合ってるとしか見えない。
けれど彼は満足したらしかった。
奇麗な女は、虚像だ、と。
「へえ、本当に増えてら。」
在の薄気味悪い絵師、簾佐野恭一はへらへら窓を見て云った。
「恭一、相手様の事、何か知ってるの?御礼を云いたくて…」
「礼ねえ、精々枯らさないで、姿を見せるこったな。其れで満足するさ。」
尤も、と恭一兄さんは首を掻いた。
「瑠璃さんが育てなけりゃ、枯れるだろうがな。琥珀、全てに於いて不器用だろう。」
「失礼ね…、在の蘭、十年以上生きてるのよ…。大丈夫よ…」
瑠璃さん、とは母親の名である。
「瑠璃さんが先に具合良くしてたからだろうがよ。」
「大丈夫よ、大丈夫…」
姉と恭一兄さんの不安は的中、半年後には枯れた。在の“花蘭”に、新造が負けたのだ。
ピアノも下手糞、花を育てるのも下手糞、料理も下手糞じゃあ姉は一体何が出来るのか―――何も出来無い。
俺に愛とキスを与える事しか出来無い。




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