
追憶(1/30)

庭先には、白い椿が咲いていた。
朝露を含んだ花弁が陽を受けて淡く光る。
彩艶は縁側に座り、小さな手でそれを眺めていた。
「お嬢様、お着物汚れてしまいますよ」
後ろから女中が柔らかく声をかける。
彩艶は振り返り、こくりと頷いた。
「……きれい」
「ええ。お嬢様みたいですねぇ」
そう言われると、少しだけ困ったように眉を下げる。
女中はくすりと笑った。
彩艶は昔から、褒められるのが得意ではなかった。
綺麗。
お人形みたい。
おとなしい子。
そう言われる度、どう返せばいいのか分からなくなる。
褒められているはずなのに、
どこか“見られている”感じがして落ち着かなかった。
「今日は旦那様たちと街へ行かれるのでしょう?」
「……うん」
その返事は少し小さい。
女中は察したように目を細めた。
街へ出ると、人の視線が集まった。
母の着物は美しく、父は品のある人だった。
その隣を歩く彩艶にも、自然と目が向く。
「あら、可愛いお嬢さん」
「髪が綺麗ねぇ」
「お人形みたい」
通りすがりの声に、彩艶の指先がきゅっと母の袖を掴む。
母は歩みを緩め、優しく笑った。
「大丈夫よ」
彩艶は小さく頷く。
けれど前は向けない。
向こうから来た子供たちが、ちらちらとこちらを見ていた。
「あの子、ずっと黙ってる」
「なんか怖くない?」
「お金持ちなんでしょ」
ひそひそ声。
悪意ばかりではない。
ただの好奇心だ。
それでも胸がざわつく。
彩艶はそっと父の後ろへ隠れた。
父は何も言わず、後ろ手で小さな頭を軽く撫でる。
その手が好きだった。
大丈夫だと、言葉にしなくても伝わるから。
家へ戻る頃には、彩艶はすっかり元気をなくしていた。
玄関を上がるなり、女中が駆け寄る。
「おかえりなさいませ」
その声を聞いた瞬間、彩艶の肩から力が抜けた。
安心したのだ。
母はそれに気付いたように微笑む。
「今日は頑張ったわね」
彩艶は無言のまま母に抱きついた。
外では出来ないことだった。
母の香の匂い。
柔らかい着物。
背を撫でる手。
家の中は静かで、温かかった。
ここには怖い視線も、探るような声もない。
「お嬢様、おやつに致しましょうか」
「……たべる」
さっきまで俯いていたのが嘘みたいに、
少しだけ声が明るくなる。
女中たちは顔を見合わせ、ふっと笑った。
「今日は栗羊羹ですよ」
「ほんと?」
彩艶の目がぱっと上がる。
父がその様子を見て、静かに笑った。
「家ではよく喋るんだがな」
「外では恥ずかしいのよねぇ」
母の言葉に、彩艶は少しだけ頬を膨らませる。
「……はずかしくないもん」
「ではどうして隠れるんだ?」
父が穏やかに問う。
彩艶はしばらく黙り込み、
やがてぽつりと呟いた。
「……みられるの、つかれる」
部屋が静かになる。
父も母も、笑わなかった。
代わりに母が隣へ座り、黒髪をゆっくり梳いた。
「大丈夫よ」
優しい声だった。
「ここでは、誰もあなたを怖がらせないわ」
彩艶は目を伏せる。
その言葉を、疑ったことなんてなかった。
――あの時までは。
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月下彩譚