ドレニシヨウカナ。


『おかえり、玲衣ちゃん』
その声を聞くと、このわたしがくにゃんと骨抜きになってしまう。
わたしにとって、谷川先生は雲の上のような人で、やっぱり破格だ。

恐山に何か言ってしまった気がするけど、あれはやはり気の迷いだ。
どうして恐山も、わたしに抱きついて来たりしたのだか……
『そんなに欲しいなら、落としてみればいい』
耳元に、囁いた声は――

あああああ、もうっ。
いっぺん死になさいっ、恐山も、わたしも。

そんなことでバレンタインの本命は、揺らいだりなんかしないのだ。



手作りは、この年じゃ重いし(谷川先生なら喜んでくれそうだけど……)
かといって、他のチョコに埋もれちゃうのもイヤだ。でも大きな箱も相手を思う気持ちより、当てつけがましさのほうが出ちゃう気がする。

無難だけど、これかな。

デパートのチョコレート売場を見て回ってようやく一つ手に取った。包装が子供っぽくなくて、かといって可愛げのないチョコでもない。
そのチョコは九個入りで、王冠やらの形をしたチョコの中に、一つだけハートの形が混じってる。
一応、児童小説とはいえ作家だから、チョコレートもらうんだろうな。
多分誰からのチョコでも、
『ありがとう』
って同じように喜んでくれるんだろうけど、あああ、悔しいな……。
わたしばっかりこんなので。
一度で良いから、わたしはあの人がデレたところを見てみたい。
だから、渡さない手はない。一年に一回だもの。好きって言えないわたしが、チョコレートに隠れて、でもおおっぴらに、好きって言えるのは。

悲壮な覚悟に拳を固めていると、その隣にすごく可愛らしいクマの形のチョコがあるのが目に入った。
その子供っぽいチョコを見た途端、わたしは草加の顔を思い出した。ちょっと高いけど買ってってあげよ、と思わず口が笑う。
ありがとうございますって頭を下げる姿、中を見て驚く顔が目に浮かぶようだ。
流石にチョコは知ってるだろうけど、こんな可愛いのはきっとあんまり見たことがないだろう。あんな邪気のない子は、本当に天然記念物だと思う。
あれで年上なのだから、色々心配になってしまう。

迷わず二つを手に重ねて、そこからぱたりと手が止まった。

恐山、どうしようか。

『んな甘ったるいもん――』
シュークリームを見たときの感想だ。嘘で言ってたんじゃないのは分かる。
その後草加から半分もらって食べてたのを見たから、別に甘いものが大嫌いってわけでもないのかも知れないけど、コーヒーにも砂糖は入れてなかったし、甘いもの、好きじゃないのかな……かといって、お酒とかは、下手したら先生のより高くなっちゃうし、何頑張ってんのこいつ、と思われるのも我慢ならない。

しばらく考え込んで、その場を動こうとしたら、人とぶつかってしまった。
「わっ」
「あ、すみません」
その人は白いコートを着ていて。
「ああ、こちらこそぽやっとしていた、すまない」
っと本当に申し訳なさそうに笑った。
さらっとした彼女の口調には、ちょっとびっくりしたが、それが彼女には似合っていた。
それから、彼女はその場で突っ立って、わたしは今度こそ彼女の後ろを通って、半歩のところに場所を移った。
「悩むな……」
商品を前に目を細める彼女の呟きが、まさにわたしの頭の中の声と被って、つい笑ってしまった。
すると彼女と目が合った。お互い、決まり悪そうな笑みを浮かべた。
「迷っているのは本命かな?」
と、行き合っただけにしては気さくに、彼女が聞いてきた。
その羽のような問いの軽さに、らしくもなく答えてしまった。少し弱った気持ちでいたせいもあるのかも知れない。
「いいえ。……むしろ、あげたくない、っていうか。お世話になった人で、でも、とんでもない奴で。チョコレートあげても、なんて言われるか」
俺にくれちゃっていいの、とかまた何とかからかわれたら、赤くならない自信がないのがまた癪だ。
「要らないって?」
「……言う、かもしれないです」
「だったら、そんな奴にはあげなければいい」
いきなりつんと突き放した物言いをする彼女に、わたしは顔を上げてそちらを見た。
「わたしがあげる男はだな、照れ屋で意地悪な根暗だが、絶対そんなことは言わない。……義務ではないんだから、そんな男になんかやる必要はないぞ?」
誇らしそうで、ちょっと寂しそうで。
曖昧な笑顔が印象的だった。

あ、そっかと、憑き物が落ちたようだった。
渡さないっていう手も全然ありなんだ――
わたしは顎に手を当てて、しばらく考え込んだ。

だけど、気が付けば
「いいえ、」
と首を振ってしまっていた。
とても素直に。
その言葉で逆に再確認した。やっぱりわたしは恐山にあげたいんだ、チョコレート。

「ごめんなさい。でも、そんなにひどい奴でも、ありませんから」

呟いただけで、赤くなってしまう、馬鹿なわたしだ。
変な勘違いをされたのかもしれない。彼女は、ふっと笑うと
「そうか」
と言って、洋酒入りチョコレートの、一番大きな箱を手に取った。
うっ、大人だ。
大きな箱は必死で大人げないと思っていたが、それなら、押しつけがましい感じはしない。ちょっと、高価すぎる気もするけど、それを買っても無駄にしないくらいの関係は、何となく想像できた。
「彼氏さん、お酒好きなんですね」
思わず漏らした一言に、彼女は奇妙な間を持たせてふっと微笑んだ。
「――逆だ。下戸なんだ」
「え」
「だけど、気を使って目の前で食べてくれるような奴だから、酔ってる間に何かしようと思って」
彼女は、天使のような笑顔でものすごいことを言った。
じゃ、と柔らかく言って立ち去る。

うん……バレンタインって、やっぱり大人のイベントです……。

残されたわたしは、遠慮なく赤面してから、ふるふると慌てて首を振った。
ぱっと開けた目に映った、トリュフ。
もうこれでいっかと手に取れば、こんな言葉が踊っていた。
アルコール度数、2,0パーセント未満。
――いや別に、他意はないのよ? たまたま良いなと思ったのに、ちょーっと洋酒が使われてただけ。
値段も手頃だし、丸いトリュフなんて、如何にもありふれてるじゃない。
だから、義理チョコとしては許容範囲、よ、ね――

わたしはそれを一番上に重ねると、そそくさとレジに向かった。
ちょっとした悪戯。こないだのお返しよ。



ドレニシヨウカナ。了



女難の相は、今も昔も。笑



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