彼は返事を待たずに、なまえが今しがた出てきた部屋の中へ入っていった。まだ開いていない酒の瓶をいくつか持ってきて、それからなまえに適当な羽織を着せた。「誰のものか分からんがな」と苦笑する彼の声が、妙に心地良かった。
あなたはいらないのかと聞くと、風邪をひいたことがないから平気だと返ってきた。その言葉をきいた瞬間、馬鹿だからひいても気が付かないだけじゃないのと思った。風邪をひかなければ体を冷やしても平気だと思っているあたりが馬鹿の所以だ。
二人で酒を持って屋根の上に上がると、一層冷たくなった空気の波が鋭く押し寄せた。
見上げると、冷たく震える小さな光が、深夜の世界に散らばっている。
「先まで連れと飲んでいてな」
「酔えなかったの?」
「ああも騒がしくてはな」
「……」
貴殿となら酔えそうだ。
そう言って彼は苦笑した。気兼ねなく話せる"他人"が欲しかったのだ。その気持ちは、なまえにも覚えがあった。
「なまえ殿は、なんでもできると感じる瞬間がないか?」
「なにそれ?」
「――たとえば、あの月に手が届くと」
彼は座ったまま空に向かって手を掲げた。緩く上げられた手が、彼と月光の間に影をつくった。
「……」
胸中を言い当てられて、なまえはどきりとした。
世界中のすべてに手が届くのだと、そう思うことが、いままでに何度もあった。
冷静なときに考えれば、そんなものは夢か幻だ。なまえは彼の言葉に頷くかどうか迷った。
「俺はあるんだ。あいつらといると、そういう気分になる」
沈黙を肯定と捉えたのか否定と捉えたのか――それとも、はじめから答えなんて求めていなかったのか、彼は話を続ける。
「やつらに背中を預けている間は、俺は無敵だ」
「……」
何も言わないなまえを見て、彼は小さく、笑うように息をこぼした。
「なまえ殿は――おかしいと思うか?」
彼は月から手をひいて、なまえの方を見た。
「それ、あなたの友達も同じことを思ってると思うよ」
質問には答えず、なまえは霞のかかる月を見た。
風が髪を浮かせて駆ける。冷たさに目を細めると、その間に雲は風に流され、月が少し顔を出した。
本当はなまえにだって自信がない。彼の友人が、彼と同じことを思っているかなど、なまえが知る由もないのだ。けれども、そうであればいいと思った。星同士が引かれ合うように、彼が友人に寄せる信頼が、片想いでなければいい。
おかしいかと問う声を聞いて、確かにそう思った。理由は、考えるより先に口から出た言葉が教えてくれた。
「少なくとも私は、辰馬にそう思ってるから」
似ているのだ。
なんでもできる気がすると言う彼と、自分が。友人に強い信頼を寄せる彼と自分が。
だから彼の思いが一方的でなければいいと思った。自分の信頼が、辰馬にとって重荷ではなく、力であればいいと願った。
「なるほど。確かに坂本はそういう男だ」
ふと、彼の左手がなまえの右手に触れた。手の甲でとん、と何かを告げるようにして、離れる。その感覚に気を引かれて見下ろすと、酒を注いだ小さな碗をゆるりと差し出していた。なまえはそれを受け取ると、中身を零さないように慎重に屋根の上に腰掛ける。
受け取った酒に、ゆっくりと口をつける。彼は騒がしくては酔えないと言っていた。それなら、夜中に外に出てきてまで一気しなくとも文句を言わないだろう。量産品の安い酒からは、苦い味がした。
「もう長い付き合いになるのか、坂本とは?」
「幼馴染なの。気付いたら横にいた」
なまえは辰馬との記憶を思い出そうとした。出会いどころか、最近の記憶すらあまりない。思い出すのは大口を開けて潔く笑っているところか、大好きな船に乗って阿呆面でダウンする姿ばかりだ。
年から逆算すれば十年以上は一緒にいることになるが、昔から辰馬は変わっていない。なまえが彼に提供してあげられそうな変わった話も特になかった。
「幼馴染か」
彼はなまえの言葉を反芻した。
「そう。でも特に面白い話はないや」
本人はいつも面白そうだけど。そう言うと彼は思わずといった様子で笑った。
「ははっ、やつが何に笑っているか、なまえ殿でも知らないのか?」
「何に笑うっていうか、アイツ何にでも笑うよ」
確かに辰馬が何にあれだけ笑っているか分かるだけでも、とても面白いと思う。
おかしくなって、なまえはくしゃりと笑った。もっとも、暗闇でその顔が相手に見えたかは分からない。声が揺れたのだけは伝わっただろう。
すると彼はまた少し楽しそうに声を弾ませる。
「やはりそうなのか」
「やっぱり、あなたから見てもそう見えるんだね」
「バカの考えることが分かったら困る」
「確かに」
馬鹿が何にでもある何に笑っているか、二人にはわからなかったが、心の底から二人は笑った。
続く談笑の合間に、なまえが欠伸をしたのを見て、彼はそのとき注いであった酒を一気に飲みきった。「そろそろ戻るか」と声をかけられて、なまえは立ち上がる。彼の後ろに続いて屋根から降りると、また欠伸が転がり出た。結構長い間飲んでしまったらしい。
月を隠していた雲は、どこか遠くへ飛んで見えなくなっていた。
結局最後まで彼が酔えることはなかったらしい。
目覚めると昨日の記憶がぼんやりと思い出されて、なまえはそのことが少し気がかりだった。
よくよく考えると名前も知らない。顔もよく見えなかったし、辰馬以外に接点のない彼とは、もう会わないかもしれない。同じ戦場にいるとはいえ、なまえは交友関係をあれこれ広げる質ではなかった。
もう関わらないからこそ、昨晩"他人"を求めていた彼に、ちゃんと何か残してあげたかったのだが。
腕に力を込めて身を起こすと、なまえの目に、知らない景色が飛び込んでくる。まだ薄く開いているだけの目元を擦ると、室内がきらきらと光る。
煌めきが流れて来た方を見ると、布団をあげようとしているひとりの男が視界に入った。
「……誰……?」
男の横で目を覚ますことなんて日常茶飯事だ。しかしこのときのなまえは、なぜだか極めて動揺した。理由ならいくらでも推測できたが、そのどれもが納得のいくものではなかった。
なまえの呟きを聞き付けた男がこちらを向いた。目が合うと、彼はひとこと「おはよう」と言った。
「お、おは……」
「ヅラ、ちっくとえいか?」
「――あ、あぁ」
スパン、とふすまを開け放って首を出したのは、よく見慣れた顔だ。布団を手に持ったまま、男は振り返って返事をした。
なまえは呆けて、幼馴染の名前を呼ぶ。
「辰馬」
「なんじゃ、なまえ、ヅラと知り合いじゃったか」
「ヅラ……?」
「ヅラじゃない、桂だ」
なまえが再び男の方に目を向けると、彼は瞑目して呆れたように言った。
よく見るとその、知らない方の男は、女のように美人だった。室外から差す太陽の光を集めて眩しく輝く瞳は、昨日見た光景とよく似ていた。すっと長く伸びた髪は、綺麗だけど
なまえはふと自分の髪に手をやった。短くて軽い黒髪は、すっとその手から逃げていく。
ヅラ。彼の髪は鬘なのか。ヅラと鬘の違いなどほとんどないように思えた。彼はよっぽど几帳面なのだろう。
「ちゅーことはなんじゃ、お前らそういう……」
「何を勘違いしているか知らんが、俺と彼女は昨日知り合ったばかりだ」
「え、昨日の今日で?」
「だから、それが誤解だと言っている。少し付き合って貰っただけだ。男どもの転がっているところに戻すのもなんだったので、俺のところに連れてきた」
「少し突きあって貰った? ヅラ、それはいかんぜよ。なまえは――怒らせるとまっこと怖いき、ちゃんと大事に――」
硬くて重めの枕が、辰馬の顔面に飛んだ。辰馬の顔に赤く痕を付けたそれは、どさ、と見た目より重めの音をたてて剥がれ落ちる。
男は驚いて、感心したようになまえの方を見たあと、軽やかに笑った。
「ははっ、確かに怖そうだ」
その声を聞いたなまえは急激に恥ずかしくなって俯いた。
辰馬のデリカシーが欠如しているのも、他人の前でそういうことを言われるのも、女のわりに怖いと言われるのもそこそこ慣れているのに、今までにないほど急激に血が
「た、辰馬、この人になんか用あったんじゃ」
「おぉ、そうじゃそうじゃ。昨日の話で、確認したいことがあってのう」
男はちらりとこちらを見て、辰馬の方を見て、なまえに向かって手を軽くあげて出ていった。遠くなる会話を聞きながら、未だ冷めきらない熱を覚まそうと起き上がり、布団を畳んだ。
男がすでに畳んであった布団の上に自分が使っていたものをぽんと投げて重ねると、跳ね上げられた埃がきらきらと部屋に舞った。