目の前にチケットが二枚ある。
渡り廊下で急に名前を呼ばれ振り向けば、そこには不機嫌な顔で突っ立ったセナ。手には小さな紙切れが揺れていた。どうだ、羨ましいだろうと言わんばかりに見せびらせたあと、セナはそれを俺の手に無理やり握らせた。
「なんだこれ?」
「王さまにあげる」
俺はこの意味を必死に理解しようと頭を働かした。セナが世話好きなのは知っている。だが、こういうケースは初めてだ。何か裏があるのだろうか。遊園地の一日フリーパス券を、一枚ではなく二枚くれる意味とは。
「たまには遊んできなよ」
「珍しいな」
「もうそろそろ卒業するからねえ、俺達も」
なるほど。卒業の前の思い出作りと言う訳か。それなら納得が出来るし、いかにもセナがやりそうなことだった。
「ありがとな!」
受け取った二枚のうち、一枚をセナへ戻した。
「は?これなに」
「何って、チケットだろ」
「いやそうじゃなくて」
「セナも行くんだろ?」
「はあ……そうだよねえ、あんたにはちゃんと説明してあげないとわかんないよねぇ」
「なんだよ!喧嘩なら買うぞ!」
「はいはい」
セナは「天才のあんたに普通の人のリアクション求めた俺が馬鹿だったよ」と言った。たしかに俺は、普通とは少し違った感性を持っているかもしれない。作曲においては天才だと自負している。でもそれ以外は、家では可愛い妹の頼れるお兄ちゃんだし、授業にも部活にも気分が乗った時だけ参加する、至って普通の学生なはずだ。
「わかるでしょ、名無子だよ。名無子」
「名無子?」
突然出された名前に戸惑ってしまう。名無子に、何かあったのだろうか。
「えっ、まさか本当にわかんない感じ?」
「……あ、わかった!俺達への餞別だ!名無子が遊園地のチケットを確保して企画してくれたってことだな?三年生最後の思い出を作って欲しいってことだ!」
「違うけど」
「いつ行こうかな〜!いや、迷ってる暇なんてない!今日だ、今日行こう!」
「ちょっと」
「なんかわくわくしてきた!インスピレーション〜!」
「ああもう、人の話聞けって!」
ダン、と今にもブチギレそう……というか既に頭にきてるセナが壁を思い切り叩いた。振動で天井まで揺れた気がする。あと周りの視線が痛い。
「あんたと一緒に行くのは俺じゃない。名無子」
「なんでだ?名無子は三年じゃないから卒業旅行に行く必要はないはずだろ?あ、プロデューサーとしてってことか?でもそれじゃあ三枚必要だろ」
「ほんっと、こういうことには鈍感だよねえ。名無子もなんでこんなのと付き合ってるんだか……」
セナは続けて言った。
「卒業したら学校で会うことは出来ない。だから、その前にデートに行けって言ってるの。おたくら、付き合って結構経つのに、デートしたこと一度も無いって聞いたよ」
「たしかに一度もしたことないけどさあ。恋人だからって常に行動を共にしなきゃいけないのか?法律で決まってるのか?そんな決め事があるなら俺は断固拒否する!人間平等であるべきだ!自由を奪うなんてこと許されないぞ!誰にだって俺を止めることは出来ない!わはは!」
「まあいいけどさ」
「なんだよ〜。何言われたって俺の心は揺らがないからな」
ようやく諦めたのか、セナは短く「あ、そう」と告げた。
そして一言。
「名無子が一緒に行きたがってた、って言っても?」
***
目の前にチケットが一枚ある。
先ほど月永先輩から頂いたものだ。
もう一度、裏と表をひっくり返してじっくりと確かめる。小さく書かれた文字には『当遊園地で一日自由に遊べる券です』とある。これは間違いなく、遊園地で一日自由に遊べる、フリーパスだ。この遊園地には流星隊のイベントでお世話になったり色々と思い出がある。今度は親しい人と遊びに来れたらいいな、とぼんやり考えていたが、まさか本当に月永先輩から誘われるとは思っていなかった。いや、恋人に誘われること自体には何ら不思議はない。ただ、あの月永先輩が誘うということが、至極珍しいことだった。
月永先輩と恋人になって三か月になるが、デートはおろか、一緒に帰ったことすらない。これを話すと友人には「大切にされてない」「遊びだよ」と口を揃えて言われるが、私も月永先輩もそんな余計なことは考えていない。私も先輩も、好きというシンプルな気持ちしか持っていなかった。私がうっかり「好きです」と心の声を漏らしたばっかりに、月永先輩もうっかり「俺も」と気持ちを呟いただけ。お互い己の気持ちに純粋に従った結果が、恋人という関係を生んだ。誰よりも私を見て欲しいという欲も、一番近くにいたいという願望も特にない。強いて言えば、作曲をしている月永先輩が好きなので、創作活動を阻む行為だけはしないようにしている。なので、極力先輩の時間を奪うようなことはしない。したくない。
故に、一般的な恋人同士のように、デートに行く機会がなかった。いつだったか、鳴上君はそれを寂しいと言った。でも私にはそれが寂しいという感覚はよくわからなかったし、今もよくわからない。きっと先輩も同じ気持ちなんだろう。お互いがどこで何をしていようと、好きな気持ちには変わりない。だから、無理に時間を共有することは無いんだと思っていたのだが。
「俺と遊園地行こう!」
私の聞き間違いだったのでは?と、何度も疑問に思うほど、それは普段の月永先輩からは想像できないセリフだった。制服のポケットが震え、スマホを取り出す。画面に映るのは先輩からのメールで、「それじゃあ遊園地の前、朝十時に待ち合わせな」の文字。聞き間違いでも、見間違いでもない。本当に、一体何があったのだろう。
私達が作り上げた常識が、先輩によっていとも簡単に壊されてしまったのは、ほんの三十分前のことだ。
私の昼休みといえば、明星君、氷鷹君の二人に囲まれ食堂でお弁当を食べることだった。これが日常。賑やかで楽しい時間。放送委員会の遊木君も、仕事が無い時は一緒に席に座る。きっと私が転校生だから、みんなで一人ぼっちにならないように気を使ってくれているんだろう。転校したばかりで、右も左もわからない、友達もいない自分にとって、「ありがとう」なんて言葉だけじゃ感謝しきれない。心から嬉しかった。今ではかけがえのない大切な仲間だ。
友達と仲良く弾む会話を楽しみつつ、壁に掛けられた時計を見れば、休み時間もあと僅かに迫っていた。そろそろ教室に戻ろうか、なんて椅子から立ちあがった時だ。急に声を掛けられた。
「名無子!」
「わっ」
心臓がバクバクと大きな音を立てて暴れているのは、背後から急に名前を叫ばれたせいなのか、その声の主が大好きな月永先輩だったからなのかはわからない。
「名無子は」
「は、はい」
「遊園地好きか?」
「はい」
「よかった!今週の日曜、俺と遊園地行こう!」
「はい……えっ?」
今なんて言いました?聞き返す暇も無く月永先輩は私の両手を強引に取ると何かを握らせた。小さな紙ということはわかった。待ってください。これは何ですか?訊きたいことは沢山あるのに、驚きで上手く喋ることが出来ない。勿論マイペースな月永先輩がもたつく私を待つわけもなく。
「じゃーなー!」
と、そのまま走り去ってしまった。
残されたのは呆然とする私と、クラスメイトの二人。そして私の手に無理やり握らせた遊園地の入園券。
「台風のような人だな」
「なになに?遊園地?えー!いいな〜!」
氷鷹君が去っていく月永先輩を見つめ、明星君が棒立ちの私と、手に持っているチケットを交互に見てまじまじと言った。
「そっかー、今度の日曜日名無子のこと映画に誘おうと思ってたんだけど、彼氏とデートなら諦めるよ」
「今なんて言った?」
「ん、映画に誘おうと思ってた」
「そのあと」
「彼氏とデート?」
そうか、私は今、月永先輩に誘われたのだ。俗にいうデートというものに。
「どうしよう……」
行くべきか、行かないべきか。そもそも、私が一緒に行ったところで、先輩は楽しいだろうか。変なことを言って困らせたらどうしよう。作曲の時間を無駄にしちゃうのでは?浮かんでくるのは、ネガティブなものばかり。
答えを求めるように明星君を見ると、彼は笑顔をこちらに向けて言った。
「でもね、名無子さっきからずっと嬉しそうだよ!」
暗い影を消し去るくらい、眩しく笑う明星君に背中を押され、私は両手で握りしめていたチケットをもう一度見る。
先輩もキラキラの笑顔を、私に向けてくれるだろうか。「楽しいな」と。想像だけで、何故だか胸が温かくなった。
貰った券を壊れ物のようにそうっとポケットに入れる。同じポケットにしまっていたスマホが震えた。画面を見れば月永先輩からのメールだった。
スマホを取り出し、一回、また一回と深呼吸。
先輩の貴重な時間を奪うことになりますが、どうかお許しください。
どこにいるかもわからない神様に誓いながら、私はゆっくりメールを打った。
「日曜日、楽しみにしてます」と。