あの日の嵐で郵便屋が死んだらしい



 清々しいほどの青空。小さな借り部屋の窓から身を乗り出してそれを眺め、青年──シゲオカは頬を上げた。
 今日も仕事日和になりそうだ。窓を開けたまま適当に用意した朝食を忙しなく口に運び、残りを弁当箱へ詰める。そのままの足でシャコシャコ歯を磨きながら鏡で簡単に身なりを整える。黒い薄手のネクタイ。深い臙脂色の外套と、動きやすいようきっちり足首までのパンツ。底の厚い真っ黒なブーツと外套と同じ色の帽子を被り、最後に郵便配達員の証でもある大きな鞄を肩に掛ける。外套の裏に下げた懐中時計を確認し、シゲオカは「まずっ」と声を上げた。部屋を飛び出して鍵をかけ、管理人室に向けて「行ってきまぁす!」と叫ぶ。自転車に飛び乗り街へ向けて走り出した時、ふとその影が暗くゆらめく。後ろ目でそれを見たシゲオカは眉を顰め、ふいと視線を逸らした。


「おはようございまーす」
「お、おはよぉシゲちゃん! 今日もギリギリやな!」
「ここの始業が早すぎんのが悪いんでしょぉ」
「おいおい、朝苦手やからって新聞配達外してもらっといてえらい言い草やなぁ」
「あ、アキトくんもおはようございます」
 この国随一の魔導院が中心部にドンと聳え立つ巨大都市。その片隅に、この郵便局はひっそりと拠点を構えていた。職員は十数名。巨大都市だけありこうして各地に、他の都市ならそれ一つで都市全体を担うような規模の局が点在している。そのうちの一つに配属されているシゲオカは、郵便配達員になってからというものあちこちの局をたらい回しにされている所謂『問題児』だった。けれどようやく落ち着いて仕事のできるここに落ち浮いて、もう一年半ほどになる。色々と問題があることを自認しているシゲオカにとって、そんな自分を受け入れてくれたここの局長であるハマダや主任のキリヤマは恩人に等しかった。
 今日の自分の担当をペラペラと確認しながら、シゲオカは「そういえば」と呟く。
「局の前に停まってた自転車、あれが言うてた最新の魔導装置っすか?」
「そうそう。今朝の朝刊で早速使てみたけど、なかなか良かったで。明らかに速度上がってるし、止まる時も緩やか。何より浮遊感が全然ちゃうわ。前はちょっと飛ばしたら酔いそうになったけど全然そんなこともなくなっとったし」
「へーえ。期待出来なさそ」
「話聞いとった?」
「だってなぁ⋯⋯」
 全員が確認するようにと個人の机に一冊ずつ配布されている仕様説明書を手に取り、パラパラと捲る。最後のページに並んでいた文字列を見つめ、シゲオカは重い息を吐いた。

『開発責任者:サキシマ魔導魔術院開発科魔導器具開発部所属 フジイ/コタキ』

「⋯⋯知ってる奴らの中でもいっちゃん信用できないっすもん。多分そのうち勝手にどっか連れてかれますよ」
「えーっ、この二人知り合いなん!? 魔導自転車の最新作の実用化なんて五年ぶりくらいやで。あのデッカい魔導院でお仕事してるエリート魔導士さんやし」
「まぁ魔導士なんか全員生まれた時からエリートやけどなぁ。あ、ほぼ全員か」
「うっさいなぁ、こっち見んとってくださいよ。俺があんな仰々しい建物で働いてるとこ想像できます?」
「できるけどウケるな」
「ウケるウケる」
「おい!!」
 他の職員が全員配達に出ていることをいいことに三人でワイワイと盛り上げる郵便局。シゲオカが軽く怒るように声を荒げた途端、周囲の物がふっと浮き上がり、シゲオカは慌てて口を閉ざしてそれらがゆっくり元の位置に戻るのを見届けた。僅かな沈黙が落ちた後、三人は顔を見合わせる。
「⋯⋯危なかったな」
「クソ、こうなんの分かっとって魔導石取り上げよって、魔導院のアホが⋯⋯」
「魔導石って何やった? 確かみんな持ってるんやんな」
「魔力の制御装置。俺みたいな魔力多いやつはアレ無いとすぐこうなんねん⋯⋯魔導士としての職に就かんなら要らんやろって卒業ん時没収されてもうたけど」
「はー、流石。使ったらんからせっかくの魔力が有り余ってるってことやんけ。学院でも成績は良かったんやろ? 次席やっけ」
「まぁ確かに成績は良かったですけど、あんなもん、元々の魔力が強けりゃ座学さえ怠らんかったらやる前から決まったようなもんですよ。実際んとこ出来レースや」
「へーえ、そんだけ生まれ持った魔力次第なんやなぁ。俺らからしたら魔導士ってだけで勝ち組のエリート様やけど、そんなかでも競争があんねんなぁ」
「そらそうでしょ。卒業したらそのまま出てくって決めた時もどんだけ教師と同級生からタラタラ嫌味言われたか⋯⋯」
「はは。まぁ確かに魔導士向きの性格ではないわなぁ。魔導士はみんな運命に導かれて産まれてくるらしいけど、運命もたまには間違えることあるんやろ、しゃあないしゃあない」
「何が運命じゃ、クソッタレ⋯⋯って言いたいところやけどなんか癇に障る言い方やねんよなぁ」
「まぁまぁ、出てきてくれたおかげで俺らはシゲちゃんに会えたんやしな」
「な、⋯⋯なんやねん。煽てても何もええことないぞ」
「えっそうなん? あの自転車もっと良くしてもらおうと思っとったのに」
「そんなことやと思ったわアホ! 大体魔導器具開発は俺の専門外! まぁあいつらよりは出来るけどな!」
「出来るんかい」
「ほんまに天才なんやな⋯⋯逆に専門なんやねん」
 プリプリと怒りながらシゲオカは席を立ち、自身の棚から今日の配達物を取り出して住所を確認しながら鞄に詰めていく。馴染みのお婆さん宛にまた孫から手紙が届いていることに気がつき、そっと頬を上げた。今日はまたいい笑顔が見られそうだ。懐中時計を確認し、急ぎ気味に身支度を整える。朝の配達を免除してもらっている分、シゲオカは昼の配達を人より少し多く受け持っているのだ。
「じゃあ俺行ってきます! 昼も外で食うから!」
「はいはい」
「あ、シゲちゃん! 夕方から雷雨になるらしいから今日はあんま話しすぎんと早めに終わらしや!」
「天体魔導士の言うことやろ? んなもん五分五分⋯⋯」
「今日は担当者が休みとかでジュンタが臨時でラジオやっとってん」
「⋯⋯⋯⋯行ってきます」
 そろそろと社屋を抜け、空を仰ぐ。気持ちがいい秋空だ。これが雷雨になるなんて信じられないが、天体科全てを管轄しているあのナカマが言うならばそうなのだろう。溜め息を吐き、重い荷物の詰まった鞄を背に回して自転車へ跨る。重量を確認し勝手に作動したそれが、ふわりと微かに浮き上がった。顰めっ面のまま体重を少し前に倒し、前進を確認、左右に揺らし、曲がる動作を確認。ひとまず配達には問題なさそうなことを確かめ、シゲオカは最初の配達場所へ向け飛び出して行った。

「⋯⋯あ、シゲオカくん。今日もかっこいいわねぇ。今日はうちへの配達ないのかしら」
「⋯⋯⋯⋯」
「どうかしたの?」
「この前、魔導院のお偉いさん方がうちに飲みにきただろ」
「あぁ、なんだか随分盛り上がってらっしゃった時ね。何かの実用化が決まったとか何とか」
「その時そのうちの一人が話してるのを聞いちまったんだよ。「シゲさえ居ればこんなん半年で完成したのに」ってな。ここに落ち着く前は都市中のあちこちの郵便局をたらい回しにされてたって噂もあるし、魔導士なのは知ってたが本当にそんな優秀ならどうして郵便配達員なんてやってるのかと思ってなぁ」
「まー、何だっていいじゃないそんなの。彼の自由よ。おかげで私は毎日あの素敵な笑顔を拝めてるんだし」
「お前なぁ⋯⋯」
「それより聞いた? 今朝、向こうの通りのお爺さん亡くなったそうよ。日中にお葬式して、すぐ出棺するみたい。私たちも顔出しに行かなくちゃ」




「あー、クッソ⋯⋯ジュンタのアホ、こんな予測当てよって⋯⋯」
 夕暮れ時。すっかり分厚い雲に覆われて薄暗くなった空の下、シゲオカは都市の外れにある小さな集落から帰路を急いでいた。
 少し都市からは離れたそこに住んでいる一人のお婆さん。一人暮らしの彼女とシゲオカは仲が良く、配達に行く度に立ち話をする仲だった。魔導士のくせに職業は郵便配達員、という奇妙な肩書きをいつだって少し不審がられるシゲオカに対しても初めて会った時から息子のように可愛がってくれている彼女。今日は予想通り孫からの手紙ですっかり気分が良くなり、今朝焼いたばかりだというケーキがいそいそと取り出され普段は時たまお茶に預かる程度なのを随分長居してしまった。シゲオカはシゲオカで、どこに行っても自分の居場所を感じられない生き辛さに苦しみながらやってきたこの地で何の色目もなく温かく接してくれた彼女に心を開いていたのだ。⋯⋯そしてその結果、まだ少し配達物は残っているというのに激しい雷雨に打たれながら自転車を走らせているというわけだが。
「ッッうわ!!」
 ビュン、と突然強い風が吹いた。その瞬間ぐらりと揺らぎかけた自転車に慌てて魔力を込めて重力を安定させ、舌を打つ。
「この程度の風で安定性欠けるもん出すなや、アホが⋯⋯っ」
 脳内で「こんな天気で自転車乗るアホなんか想定するか」とピースサインをしてくる学院時代の同期に顔を顰め、片手で鞄に魔術を施す。薄いベールに包まれひとまず配達物を雨に濡れることから防いだ瞬間、一際強い風が吹いた。鞄に向けていた意識が一瞬にして引き戻され、慌てて右手で自転車の安定を図る。けれどいくらシゲオカとはいえ、片手では転倒を防ぐのが限度だった。揺らいだまま奇妙な角度で固まった自転車が更に風に煽られ、ずるずると押されていく。その時初めてシゲオカは、自分が石造りの立派な橋の上にいることに気がついた。この先はもう、都市だ。目と鼻の先だというのに、風に煽られた自転車はズルズルと横へ滑り続ける。
「おいおい、マジで洒落にならんって⋯⋯!」
 激しい暴風雨に煽られ、自転車は悲鳴をあげている。実際稼動灯もチカチカとおかしな光り方をしている。これはもう、自力で歩いた方がよほど安全かもしれない。そう考えたシゲオカが自転車から降りた瞬間、風に乗せられた自転車がふわりと宙に舞った。思考が固まる。
「⋯⋯っえ、あ⋯⋯」
 手を離すという判断すらする間もなく、シゲオカの身体は自転車共々橋から放り出されていた。それは一瞬の出来事で、頭には浮かんでいた浮遊魔法を唱える僅かな時間すら、なかった。









「⋯⋯きて、⋯⋯起きて⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯ん⋯⋯?」

 遠くから聞こえる声に、ゆっくりと目を開いた。ぼやけた視界。ズキズキと頭が痛む。目に映ったのは小さな窓で、あたりはすっかり夜になっていることが伺える。

「だ、大丈夫? えっと、どっか痛む? とはいえ俺に出来ることはほとんどないねんけど⋯⋯」

 その声は隣からしているようだった。まだ痛む頭でゆっくりと顔を向け、目を見開く。
 そこにいたのは、真っ白な髪をした一人の青年だった。細いそれは濡れていて、ポタポタと水滴が垂れ続けている。本来心配すべきその姿に、シゲオカは目を奪われていた。⋯⋯何故なら、不思議なほど心臓が高鳴って激しく胸を打っていたのだから。
「⋯⋯ここ、どこ⋯⋯? き、君は?」
「あぁ、えっとここはその⋯⋯川の下流にある村。大雨やったから仕事用の小舟が傷ついてないか確かめようと思ったら人が流れてきて、びっくりして⋯⋯」
「⋯⋯で、助けてくれたん?」
「そう。ほんまはあかんねんけど」
「あかん⋯⋯?」
 青年の言葉に首を傾げ、シゲオカは自分の身体が全く濡れていないことに気がついた。慌てて飛び起きると頭がずきりと痛んだが、気にせず目を丸くしている青年に詰め寄る。
「ちょっ、俺のことだけ拭いて自分拭いてないん!? ずっとここで見とったん!?」
「あ、うん。俺一人暮らしやから拭くものなんて二枚しかないねん。それを毎日洗って使い回してるから⋯⋯。あっ、ご、ごめん古臭い物で拭いちゃって」
「は⋯⋯?」
「それよりほんまに体調大丈夫? 荷物と制服で分かってんけど、郵便配達員? やんな。一応中身干してあるけど、多分全部ダメやろなぁ⋯⋯。あの、何か食べれそう? お粥用意してあるねんけどあっためよか?」
「⋯⋯頼む、わ。でもその前にちょっとこっち来て」
「ん? な、なに?」
 不思議そうに立ち止まった青年を手招きすると、大人しく寝台の脇に戻って膝をついた。その身体にギリギリ触れない程度で手のひらを広げ、ぶつぶつと久しぶりの呪文を唱える。その時、ふと違和感に気がついて片目を顰めた。なんだか、変だ。こんな魔術を使うのは久しぶりだし、魔導石も無い今の自分ではきっと下手になっているだろうと思ったのに。それがむしろ、落ち着いている。魔力が正しく流れているのを感じる。そんなことを考えている間に粒のような橙色の光が広がって彼の全身を包み、それがなくなった時には髪も服もすっかり乾いていた。呆然とそれを眺めた青年が、一瞬ののち小さな叫び声を上げる。
「うわっ!? な、何これ!?」
「え? な、何って魔術やけど。俺、仕事は郵便屋やけど魔導士やねん」
「ま、魔術⋯⋯? これが⋯⋯? っていうか魔導士!?」
「そ、そうやけど。それがどうかした?」
「どうしよう、ほんまにバレたらまずいかも。えっと、⋯⋯何さんやっけ」
「シゲオカ。まぁシゲでええよ」
「し、シゲ? えっと、魔導士ってことはもしかして自力で帰れる?」
「ん? あぁうん。ここがどこの村か知らんけど、普通に飛んで帰れるで。箒か何か支えになるもんさえ貸してくれたら飛べるし、ちゃんと後日返しに来るし。⋯⋯それより俺は君の方が気になるねんけど。今時魔術を初めて見る人なんかおらんやろ。さっきからなんか色々引っかかること言うてるし。ほんまにここ、どこなん? 君はここで一人で何して暮らしてんの?」
 鍋の様子を見に行こうとしていた背がびくりと揺れ、止まる。段々はっきりしてきた意識でよく見てみると、この部屋はこんな若い青年が一人で暮らしているようには到底見えないほど古臭く、悪い言い方をすればオンボロだった。棚の上に置かれた小さな灯りは薄く室内を照らしているだけだし、魔術で消えることの無い街灯が当たり前の今時では昔話として聞くような、油を使ったものだった。最低限の家具だって、何世代にも渡って使い続けてきたかのような様子で窓からは微かに隙間風が通っている。
「⋯⋯⋯⋯」
「や、その。言いたくなかったらええけど。俺も自分の身分とか仕事について話すん嫌いやし。あ、名前だけでも教えてくれたら嬉しいけど⋯⋯」
 呟くと、青年は何か考えるようにじっと鍋の中身を睨んでいた。隙間風が、彼の真っ白な髪を揺らしている。
「⋯⋯名前は、トモヒロ。苗字は無い。長いからトモでいいよ」
「⋯⋯トモ」
「何して暮らしてるかは⋯⋯そこの扉出て外見たらすぐ分かる。ほんまは真っ先に言わなあかんかったのに、久しぶりに人と⋯⋯、それも俺のこと何も知らん外の人と関われんのが嬉しくて、咄嗟に隠してもうた。⋯⋯ごめん」
「あ、謝るようなことなん⋯⋯?」
 トモヒロがそっと、これも使い古されたお椀に粥をよそう。そして綺麗な瞳でこちらを振り向き、諦めたように囁いた。
「動けるなら、外行こ。まぁ食事なんてする場所ではないけど⋯⋯今日は月が綺麗、やから」
「⋯⋯おう」
 促され、シゲオカはゆっくり寝台を出た。気まずそうな彼の後に続いてギィと音を立てた扉を抜け、外に出る。真っ先に目に入ったのは夕方の雷雨が嘘のような雲ひとつない夜空と、そこに浮かんだまんまるな月だった。だけどその下に目をやり、絶句する。
 そこには、村はおろか民家なんて一つもなかった。ただずらりと、数えきれないほどの墓が並んでいる。慌てて後ろを振り返ると、今しがた出てきた家の奥にはただだだっ広い森が広がっているだけだった。
「⋯⋯これが俺の⋯⋯ていうか、俺の家がずっとやってる仕事」
「し、仕事?」
「そう、墓守。シゲはさ、都市におって人が死んだ時どこに行くか見たことある? 無いやろ?」
「な、無い⋯⋯。死は不浄なもんやからって教会がすぐどっか連れてくから⋯⋯俺は一応知識としてその、勉強してるけど」
「あぁ、そういうふうに言われてるんや。その後な、こうして俺みたいな墓守のところに運ばれてくるねん。俺はそれを処理して、見守り続けんのが仕事。でも言ってたように死は不浄なもんやと思われてるから、誰も墓守とは関わろうとせえへん」
「⋯⋯そう、なん?」
「うん。仕事の時は川の向こう側の村で鐘が鳴るから、小舟に乗って迎えに行く。そしたら棺が載せられて、俺は舟を出して帰る。それだけ。誰も俺とは喋ってくれへん。⋯⋯だからシゲも、今すぐ飛んで帰ってもいいよ。魔導士なんて偉い人初めて会ったから、そんなに何でもできるなんて知らんかった」
 手に粥の入ったお椀を持ったまま、トモヒロは呟いた。その横顔と信じられないほどの数が並んだ墓場を順に眺め、ゆっくりと息を吐く。
 トモヒロが魔導士という存在や都市の仕組みについて何も知らなかったように、シゲオカもまたトモヒロのような存在について全く知らなかった。死者は不浄で、人は死んだら教会の偉い人が何か儀式をした後どこかに連れて行ってしまうもの。子供の頃からそう教えられてきて、その先を知ったのは魔導院に入って死者やその魂についての授業を受けるようになってからのことだ。だからきっと魔導士じゃない庶民は、それすら知らない。人が死んだそのあとどこへ行きどうなるのか、子供の頃伝えられる御伽噺のような知識でしか知り得ない。シゲオカだってきっと、魔導士の身に産まれていなければそうだっただろう。だけどそれは本来少し考えれば分かるほど当たり前のことだ。どこかへ連れ出されている以上、それを処理する『どこか』が、それをする『誰か』が、いるんだ。
 長い息を吐き、墓の合間をゆっくりと歩く。知識として知っていても、サンプルを見ることはあっても本物の墓守が作り上げた実物を見ることは初めてで、だけど心は落ち着いていた。そういうことだったのか、と得心すらいっていた。並んだうちの一つに腰掛け、顔を上げる。驚きを露わにしてこちらを見つめているトモヒロに笑いかけ、手招いた。
「おいで。それ、食わしてや。こいつもいいって言ってる」
「⋯⋯魔導士ってそんなことも分かんの?」
「ううん、俺が優秀なだけ。ほら、せっかくトモが俺のために用意してくれた粥が冷めてまうやん」
「⋯⋯」
 トントンと隣を叩いて促す。トモヒロは迷うようにして視線を彷徨わせたり村の方を確認した後、観念したのかそろそろと歩み寄ってきて隣へ腰掛けた。その手からお椀を受け取り、粥を口に運ぶ。
「うま。はぁ、エラい目に遭うたわ。ハマちゃんの言う通り俺が改良入れとけばよかった」
「⋯⋯俺のこと気持ち悪くないん?」
「全然。むしろ居心地いいくらい」
「はっ? ⋯⋯なんで?」
「それはナイショ。俺も隠し事いっぱいあるから」
「⋯⋯俺が言ったら教えてくれる?」
「えぇ? それはトモの話の内容によるけど⋯⋯。何、まだなんかあんの」
 粥を口に運びながら横目で視線をやると、トモヒロはさっきとは打って変わって少し頬を赤くしていた。可愛い、と自分の中にふと浮かんだ感情に思わずシゲオカが胸に手をやっていると、それに気づいた様子もなくトモヒロは思い切ったように顔を上げた。
「よし、じゃあ見とって。すぐやから」
「え? う、うん」
「⋯⋯⋯⋯」
「何見てんの? 月?」
 質問には答えず、トモヒロはただじっと空に浮かんだ真ん丸な月を見つめ続けている。確かに見事な満月で綺麗だが⋯⋯、と夜空に浮かんだそれとトモヒロの横顔とをちらちら見やっていると、いつの間にかその瞳が少しずつ蠢いていることに気がついた。
「⋯⋯ト⋯⋯モ⋯⋯?」
 美しい瞳に佇んでいた瞳孔が細まっていく。まるで、獣のように。焦げ茶色だったそれが月を映しとったかのような黄金色に変わり、夜闇に輝く。それに目を奪われていると、次は頭頂部の髪が揺れ始めた。今度は何だ、と注視していると、しばらくフサフサ蠢いていたそこから徐にぴょこんと耳が、まさしく獣のそれが飛び出した。
「⋯⋯⋯⋯ッッ!!?」
 驚く間もなく今度は座り込んでいる尻から同じ色の尻尾が飛び出し、ゆっくりトモヒロがこちらを振り向く。その瞳は明らかに獣のそれになっていて、薄く開いた唇からは小さな牙が覗いていた。
「⋯⋯⋯⋯!!」
 狼男、だ。脳がギュルギュルと回転し、いつだったか学院で受けた授業を反芻する。
 かつて世界中に数え切れないほど居たという異種族。人間という一種族の過剰な繁栄によりそのほとんどが途絶えたうちの一つだというそれは、確か満月の夜になるとヒトから狼に姿を変え、月に吠えて凶暴な獣になるのだと。思わず構え、護身の魔術を唱えようと唇を開きながらジリ、と後ずさる。だけどそのまま数秒、沈黙が落ちた。トモヒロは、中途半端に耳と尻尾、瞳孔だけが変わった状態のまま黙ってシゲオカを見つめている。そしてシゲオカもまた、目の前の状況が理解出来ずに固まっていた。
「⋯⋯え⋯⋯??」
 あれ? この特徴、明らかに狼男、だよな? トモヒロの秘密って、その事じゃなかったのか?
 混乱して、だけど相手が襲ってこない以上こちらから何かする訳にもいかず硬直しているシゲオカに、トモヒロはそっと腕を広げた。恥ずかしげにその頬を染めながら。
「⋯⋯⋯⋯終わり」
「えっ?」
「だから、終わり。俺、狼男の末裔やねん。でももう⋯⋯魔導士なら知ってるやろうけど絶滅しかかってて。俺はその血が薄く残ってるだけやから、ここまでしか変身できへん。今日みたいな立派な満月を直視しても、⋯⋯こんな感じ」
「⋯⋯えーっ⋯⋯」
 呆然として掠れた声で囁いたシゲオカを、トモヒロはちらりと見やって気まずげに視線を逸らした。どうやら彼にとってこれは恥ずかしいことにあたるらしく、その頬は真っ赤だ。中途半端に止まった変身のせいで獣耳が生えているにも拘らず人の耳も残ったままで、そこまで赤く染まっている。
「⋯⋯えらい可愛い狼男、やな」
「うっ、ぐ⋯⋯。し、しゃあないやん、もうほとんど血が残ってないねんから。兄ちゃんはもうちょっとそれらしかってんけど」
「兄ちゃん? 兄貴おんの?」
「あ、⋯⋯う、うん。今は別のとこにおるけど⋯⋯」
「へぇ。よかった、ほんまに一人な訳じゃなくて」
「⋯⋯⋯⋯」
 残っていた粥を一気にかき込みながら告げる。するとトモヒロは俯いて口を噤んだ。横目に視線を向けると、どこか寂しげな、何かに思いを馳せているように黄金色の瞳が細まっている。
「⋯⋯トモ?」
「⋯⋯ん?」
「や、なんか⋯⋯考えてるから」
「ううん、別に。なぁ、それよりシゲのことも教えてや。俺はこんな恥ずかしい姿見せてんから」
「恥ずかしくはないと思うけどなぁ⋯⋯。えっと、俺のことな? その⋯⋯」
 口を開こうとした瞬間、遠くから鐘の音が響いた。バッとトモヒロが顔を上げる。川の向こう岸だろうか、断続的に鳴り響いているその音は、何かを報せているかのようだった。脳裏にさっき聞いたばかりのトモヒロの言葉が過る。川の向こう。鐘の音。つまりこれは、
「仕事や」
 焦ったように立ち上がり、トモヒロは家へ駆け込んだ。慌ててその後を追うと、棚から何か薬のような液体の入った小瓶を取り出したトモヒロはそれをこくこくと飲み干していく。するとみるみるうちに頭から生えていた獣耳や尻尾は出てきた時と同じようにふさふさと戻っていき、振り向いたトモヒロの瞳も初めて会った時と同じ色に戻っていた。
「こんな時にごめん、仕事みたい。今帰ると間違いなく村の人に見られるから、ここに隠れとって。な?」
「わ、分かった。一人で大丈夫か?」
「勿論。むしろ一人じゃないとなに言われるか分かったもんじゃないから。じゃあ行ってくる」
 矢継ぎ早に告げ、トモヒロは古びた洋服棚から真っ黒なローブを取り出してバサリと頭まで羽織るとそのまま家を飛び出していった。小さな足音が遠ざかっていくのを呆然と見送り、小屋に沈黙が落ちる。しばらくして、ギィギィと舟の揺れる音が聞こえてきた。そっと台所へ歩み寄り、少し開いたままの小窓から顔を覗かせる。暗闇を小さなランプ一つで進んでいく小舟。その向こうには村があるのか、それなりの数の灯りが並んでいた。向こう岸には、トモヒロの到着を待っているかのような幾つかの影も見える。
 しばらくそうして背を見つめ続けていると、到着したのかランプの揺れが止まった。影が動き、舟に何かが積み込まれる。話をした様子もなくすぐに作業は終わり、ゆっくりと舟を反転させたトモヒロが引き返し始めた。水の流れの関係だろうか、行きよりもなんだか進みが遅い。小声で呪文を唱え、視力を上げる。鮮明になった視界の先で、トモヒロは乗員の増えた小舟を必死に漕いでいた。その額には汗が浮かんでいて、舟が川の流れに揺らされるたび飛び散っている。
「⋯⋯⋯⋯」
 見ていられなくなり、シゲオカはそっと小窓の隙間から指先を伸ばした。視界に小舟と指先を収め、そして糸を引くようにゆっくりと動かす。すぅ、と滑らかに動き出した舟。トモヒロは目をまん丸にして、それからバッと顔を上げた。慌てたように後ろを振り返り、村を確認している。だけど向こう岸の影がとっくにその場を去っているのは確認済みだった。そのまま岸まで舟が着いたのを確認し、魔術を解く。小屋を出ると、舟をロープで繋いでいたトモヒロが何度も後ろを振り返りながら小声で「シゲ!」と叫んだ。
「な、なにしたん!? あんなんもし村の人に見られたら、」
「見られてへんよ。俺視力も上げられんねん。あんなもん黙って見てられへんに決まってるやろ。いっつもあんなんなん?」
「い、いつもちゃうよ。今日は風で川が荒かったから⋯⋯。ていうか視力上げられるってなんやねん⋯⋯シゲ?」
「⋯⋯裏通りの爺さんやな。しょうもない話が好きでいっつも付き合わされとった。やっぱり今朝のあれこの人やったか」
「⋯⋯何の話? この人知り合いなん?」
「まぁ。ほら、仕事するんやろ。俺も手伝うわ」
「⋯⋯ほんまに村の人見てないん?」
「見てないって。何したらいい?」
「⋯⋯じゃあ、まずは一緒に運んで。どこに埋めるかは決まってるから」
「ん」
 声を合わせて棺を持ち上げ、トモヒロの誘導する通りに運んでいく。なかなかの肉体労働だが、この手伝いには魔術は使わないとシゲオカは決めていた。これはトモヒロの仕事で、そこにまで手を出すのは間違っていると分かっていたからだ。
「⋯⋯そこそこ重いな。普段どうしてんの?」
「これでも狼男の血は残ってるから一人でも持てんねん。でも一応舟からそのまま台車に載せて運んでる。万一にも落として怪我させたらあかんし」
「ふは、怪我って」
「亡くなってようが怪我は怪我やろ。ほら、ここ。穴掘るからちょっと待って」
 言うが早いかトモヒロはいつの間にか背に掛けていた大きなスコップを手に取り、ザクザクと穴を掘り始めた。汗を浮かべながら、それでも慣れた手つきで淡々と深い穴を掘り進めていく。ふと声が聞こえ、シゲオカは頬を上げた。しゃがみ込んで棺に寄り添い、トモヒロには聞こえないよう小さな声で囁く。
「⋯⋯な、奇遇やなぁ。ていうか何勝手にポックリ逝ってんねん。⋯⋯ふは、うるさいわ。俺以外話し相手おらんかったくせに。⋯⋯おーこわ、死んでまで喋りな爺さんやで。でもよかったやん、こんな優しくて綺麗な子に見送ってもらえるんやから未練ないやろ。⋯⋯⋯⋯はは、そうやなぁ⋯⋯これでも運命に導かれて産まれたもんやからな、全ての出会いに理由があるしそれを疎かにする気もないで。アンタと出会って、ここで最期を見送れることにもな。⋯⋯⋯⋯茶化すなや、真面目に言うてんねんから」
「シゲ? 何か言った?」
「ん? や、何も。穴掘れた?」
「うん。あとは埋めるだけ。そっち持って」
 また声を合わせて棺を持ち上げ、トモヒロが作り上げた穴にゆっくりと下ろす。きっちり収まったそれにトモヒロはほっと息をついた後目を細め、棺に優しく手を添えた。
「⋯⋯おやすみなさい。どうか安らかに」
「⋯⋯⋯⋯」
 人より少し高い声が優しく、まるで子供を寝かしつける親のように囁く。そうしてじっと見つめたあと、トモヒロはすっくと立ち上がってまたスコップで土をかけ始めた。棺が土に埋まっていく。昨日の昼まで喧しく話をしていた噂好きの友人が静かに地面の中へ消えていくのを、シゲオカは目を細めて見つめていた。


「⋯⋯はぁ、疲れた。付き合わしてごめんな、シゲ」
「ええよ、俺が勝手に手出したんやし」
「ハーブティー淹れるけど飲⋯⋯っあ、か、帰らなあかんか。ごめん」
「ううん、飲みたい。淹れて」
「え、でもシゲ、こんな所おったって⋯⋯」
「俺がおりたいねん」
「⋯⋯仕事は? この手紙だって⋯⋯」
 シゲオカは指を軽く動かす。丁寧に吊られたまま未だポタポタと雫を滴らせていた手紙たちが瞬時に乾き、窓の隙間から次々と勝手に飛び出していった。唖然としてそれを見送ったトモヒロが、呆れたように溜め息を吐く。
「⋯⋯もう一々驚くんやめよ。何が起きても驚かへん⋯⋯魔導士は別の生き物⋯⋯」
「聞き捨てならんなぁ。俺が優秀なんやって」
「そんなん知らんわ。魔導士なんて初めて会ったから比べようがないし」
 カチャ、と音を立てて小さなテーブルにトモヒロがカップを置く。拭き物すら二枚しかないと言っていたのに、そのティーカップは二つとも同じ柄のものだった。兄がいると言っていたし、一緒に暮らしていた時期があるのだろうか。いただきます、と呟いて口をつけると、爽やかなハーブの香りが広がって思わずほっと息が漏れる。
「じゃあさ、今度一緒に俺が住んでる街行こうや。魔導士言うてもポンコツばっかりやで」
 毎日駆け回っている巨大都市を思い浮かべながら呟く。魔術を見ただけであれほど驚いていたトモヒロはきっと、あんな都市を見たら目をまん丸にするだろう。そう思って顔を上げると、その表情は暗く沈んでいた。
「⋯⋯トモ?」
「⋯⋯そんなん出来ひんよ。俺はここを離れられへんし、離れちゃあかんねん。俺みたいなんは表の世界に出たらあかんし、⋯⋯そもそも村の人が許さへん」
「⋯⋯なんでトモの人生に村の連中の許可がいるねん」
「そもそもそういうふうにしてここが始まったから。村との関係ありきやねん」
 ティーカップに唇を寄せ、トモヒロは目を伏せた。隙間風がヒュウと音を立て、白い髪を揺らす。未だローブを被ったままのその頭に手を寄せて払い除けると、驚いたように顔を上げたトモヒロがじっと見つめてくる。真っ白なその髪を撫で、眉を顰めた。
「話して。それ全部」
「⋯⋯なんで?」
「気に入らんから。今すぐここに魔導士がおるぞって村に報せてもいいねんで」
「あは、脅しやん⋯⋯。待ってや、お茶入れ直すから」
 頼りない背が台所に立つ。見かけからしてきっとシゲオカと変わらないくらいの年頃だろうが、トモヒロは狼男の血が混じっているとはとても思えない体躯をしていた。それこそ、墓守の仕事なんてこうして一日一度こなすのがギリギリだろうと思えるほど。⋯⋯いや、そもそも墓守は「仕事」なのか? あの僅かなやり取りの間に金銭の受け渡しなんてなかった。それならこれは仕事とは言えない。じゃあトモヒロは、一体どうやってここでの暮らしを維持しているんだ。
「⋯⋯ん」
「ありがとう。なぁ、これもしかしてトモヒロが自分で作ってるん?」
「え、あぁ、よく分かったな。あ、やっぱり街のより不味い? ごめ、」
「そうじゃない。あん時村の連中から金受け取ってる素振りなかったし、外にも出ちゃあかんならどうやって暮らしてるんかと思って」
「ああ、そういうこと⋯⋯」
 コポコポとカップにお茶を注ぎながらトモヒロは緩く微笑んだ。明らかな作り笑い。慣れてもいなさそうなその笑みに、心が沸々と沸き立つ。どうして笑っていられるんだ。こんな場所に閉じ込められて、誰とも話すことすら許されなくて、せっかく作ったこんなに美味しいお茶すら、きっと今まで自分以外の誰にも振る舞ってこなかったのに。
「なんでシゲがそんな俺に興味あるんか分からんけど、それを話すにはさっき言った始まりからじゃないと上手く説明できひん。長くなるかもしれへんけど、いい?」
「⋯⋯勿論」
「えっとな、もう百年以上前。まだここはただの森で、向こう岸の村は今より少し規模が小さかった頃。一人の狼男が村に迷い込んだ。今よりは少し血が濃くて、でももう薄まり始めてたから上手く自分を制御できなくて⋯⋯村の人にあっさり捕まってん。本人はもう血が薄まってて人を襲ったりしないこと、何でもするから殺さずに村に置いてほしいことを訴えた。でもまだ当時の人には狼男への恐怖心が残ってて⋯⋯。当時村ができたばかりで悩みの種やった『墓守』という仕事を川の向こうの森でやることを押し付ける代わりに、生かしておくことにした。川を挟んでればそう簡単に襲ってこれないはず、ってな」
「⋯⋯なるほど、それがトモの先祖なんや」
「そう。殺されるところやったその人は仕方なくそれを受け入れて、森を切り開いて小さな墓場を作った。だから金銭のやり取りがないのは当たり前やねん。殺されるのを免除する代わりに押し付けられた仕事やってんから」
「⋯⋯無知は罪やな。百年前の狼男なんかとっくに絶滅寸前や」
「まぁまぁ、みんながみんな魔導士みたいに教養があるわけじゃないし、それにシゲだってさっき咄嗟に俺のこと警戒したやろ? 生き残りがいたんかも、って」
「⋯⋯それは、そう。悪かった」
「謝らんでいいよ。慣れてるし、当たり前の反応やから。⋯⋯えっと、それが始まりで⋯⋯それから村は少しずつ発展して、人が増えていった。その中で生まれた罪人とか村に馴染めなかった人がこっちに送り込まれて、そうしてここまで血が繋がってきてん。段々墓守の仕事も増えて、村だけじゃなく遠くの都市とかからまで死人が運ばれてくるようになって⋯⋯ここまで大きな墓場になった。⋯⋯で、今が俺の代ってこと」
「⋯⋯暮らしは?」
「森で木の実拾ったり、罠仕掛けて動物狩ったりしてる。狼男やから生きていけるやろ、って何も助けてもらえないから。もうまともに変身もできひんのに」
 そう言ってまた歪に笑い、トモヒロはカップを傾けた。きっと森から摘んできたであろう自作のハーブティーを傾け、小さなオンボロの小屋に座り込んで。
 言葉が出なかった。こんな世界があったなんて、遠くの村は未だにこんな遅れた風習の中で生きているなんて、何も知らなかった。百年以上、この小さな小屋でこんなにも惨めな扱いと酷い暮らしに耐え続けてきたのか。自分があの美しい巨大都市を駆け回って呑気に配達をしていた昨日も一昨日もこの子は一人ここで質素に暮らしていて、あの大きな街で人が死ぬたびに小さな身体に鞭打って地面を掘っていたのか。
「っそうや、兄貴は? お兄さんおるって言ったやん」
 尋ねると、トモヒロはびくりと大きく肩を跳ねさせた。さっき聞いた時は「別の場所にいる」と言っていたが、今の話が本当ならそれは不自然だ。どこにも行けないはずの立場で、弟を一人置いてどこかへ行くなんて。
 トモヒロは言葉を選ぶように必死に視線を彷徨わせていたが、しばらくすると観念したように浅く吐いた。
「⋯⋯亡くなった。二年前に。今は⋯⋯ここに一番近い墓で眠ってる。⋯⋯ちょっとでも近くにいたくて」
「は⋯⋯」
「ほんまはな、他にもきょうだいがいてん。姉ちゃんと妹。父さんはそんな大家族を養うために必死に働きすぎて⋯⋯ある朝突然目を覚まさんくなった。しばらくしたら母さんも病気になってもうて、長くもたなかった。突然家の長になった兄ちゃんはすぐ自分一人じゃきょうだいを育てきれないって判断して、森の奥からこっそり逃げるように言ってん。母さんが病気になったのは村の人たちも知ってたから、移ったことにするって言って。実際、兄ちゃん以外はさっきシゲも見た通りもう満月を見ても意識しないと耳すら出ないくらい血が薄かったから、どこかに逃げさえすれば生きていけるはずや、って。⋯⋯大雨で視界が悪かったあの晩、俺は姉ちゃんと妹と一緒に森をひたすら走って⋯⋯でも途中で俺だけ戻ってん」
「⋯⋯なんで?」
「それは⋯⋯兄ちゃん一人を置いていくことにどうしても耐えられんかった、から。それに、女の姉ちゃんと妹はどこかに嫁ぐなり給仕なり何なりで生きていけるやろうけど、男の俺は身分がないと生きていけないんちゃうか、ってビビってもうてん。だから俺は森の出口の目の前で、引き止める姉ちゃんと妹を振り切って引き返して⋯⋯兄ちゃんの元へ戻った。兄ちゃんはびしょ濡れで帰ってきた俺を、何も言わんと黙って抱きしめてくれた」
 その時シゲオカの頭には、時折配達で寄る一軒の呑み屋が浮かんでいた。そこで看板娘として働いている女の子は確か珍しい灰色の髪をしていて、それが綺麗だと評判だったはずだと⋯⋯。
「でも、兄ちゃんとの二人の暮らしも長くは続かんかった。二人で必死に働いてたけど、ある日突然寝込んでもうてん。⋯⋯兄ちゃんは、母さんに似て身体が弱かった。仕事の合間になんとか看病したけど、半月ももたんくて⋯⋯それで俺は一人になった」
「⋯⋯そう、やったんや」
 つむじが見えるほど俯いたトモヒロの手は、微かに震えていた。そっと手を伸ばし、重ねる。ぽたりと水滴が落ち、カップの水面に波紋を作った。またヒュウと隙間風が通り、シゲオカは黙って片手を伸ばして音もなくそれを塞ぐ。この小さな小屋に処分されることもなく置かれている、明らかに長く使われた様子のない寝台を視界の隅に映しながら。
「なぁトモ、俺、これでも優秀な魔導士やからさ。村の連中にバレんようにトモをここから連れ出す方法も、トモの身分を作る方法も、いくらでも知ってるしそれを可能にできる。それに頷くことは、してくれへん?」
「⋯⋯⋯⋯出来へん。こんな仕事でも、ここを、ここで眠ってる人たちを放ったらかして逃げ出すことなんかしたくない」
「その眠ってる人らがそれを望んでたとしても?」
「は⋯⋯?」
 俯いていた顔が上がる。涙の浮いた目元をそっと撫で、シゲオカは俯いた。
「⋯⋯なんもない。さ、今日はもう寝よ。この寝台、二人で寝ても壊れへん?」
「え、お、俺はこっち使うから、」
「ええから、ほら。一緒に寝た方があったかいって。おいで」
「は、はぁ⋯⋯? もう、しゃあないなぁ⋯⋯」
 腕を引き、さっき自分が寝かされていた寝台に二人で潜り込む。遠慮しているのか隅に行こうとするその身体を抱き寄せると、一瞬身を堅くしたトモヒロはけれどすぐ諦めたのか、その身体から力を抜いて体重を預けてきた。背中をゆっくり撫でてやると、段々息が穏やかになっていく。
「⋯⋯ほんまや、あったかい⋯⋯こんなん⋯⋯久しぶり、や⋯⋯」
 すぐ瞼を重くしたトモヒロがゆっくりと眠りに落ちていく。それをじっと眺め、それからシゲオカは窓の外へ目を映した。夜空に浮かび上がった、不気味なほど大きく輝いている満月。その下に広がった無数の墓。全部で幾つになるのかもわからないそれらを見つめながら、シゲオカは全身を流れる魔力が歓喜しているのを感じて頬を上げた。そう、これでも運命に導かれて産まれた魔導士の端くれで、その全てには意味があったんだ。
 薄く霧の漂っている墓場をまっすぐ見据え、シゲオカははっきりと告げた。
「なぁ、俺しばらくここにおるからさ、聞いてほしい大事な話があるねん。分かるやろ?」



*





 翌日も、その翌日も、シゲオカは平然とトモヒロの元に居続けた。仕事がない昼間は木の実の採集や罠の設置を手伝い、夜はお茶を飲みながらゆっくり話をして過ごす。鐘が鳴れば、村人にバレない程度に舟を引っ張ってはトモヒロに小言を受けつつ、墓場造りを手伝う。初めはそんなシゲオカを不気味がっていたトモヒロも、諦めたのか次第に何も言わなくなった。夜が更けると同じ寝台に潜り込み、体温を分け合うことにも。
 そうして一週間ほどが経った晩。今日は鐘が鳴らなさそうなことに息を吐き、二人はぴたりとくっついてトモヒロ特製のお茶を飲みながらぼんやりと夜を過ごしていた。人の体温を思い出したことでむしろ恋しくなったのか、いつしか自ら体重を預けてくるようになったトモヒロと肩を寄せ合い、毎晩せがまれるようになった街の話の続きを紡ぐ。
「⋯⋯ほんで、天体魔導士っていうのがおって、それが毎日ラジオ⋯⋯あぁ、そういう魔道器具があるんやけど、それでその日の天気を知らせてんねん」
「すご、魔導士って天気までわかんの? 何でもできるやん⋯⋯」
「まぁ俺からしたらあいつらの予測なんて五分五分程度にしか思えへんけど。でもまぁ街の人らはそれでも有り難がってるよ」
「じゃあシゲはもっと分かるってこと?」
「まぁ。俺なら九割は当てれる。専攻しとったら百発百中やったやろな」
「ほんまぁ?」
「あ〜、くっそ、ほんまやのに⋯⋯ここやと証明できるものが何もない⋯⋯」
「じゃあ明日の天気当ててや」
「明日ぁ? ⋯⋯曇りやな。あ、でも一気に冷え込むわ。トモ、それよりあったかい服ないん? 出しといた方がいいで」
 窓の外をじっと見やったシゲオカが平然と告げると、トモヒロは一度目をぱちくりさせた後慌てたように立ち上がって箪笥を覗き込んだ。
「えっと、冷え込むってどれくらい? 真冬くらい?」
「なわけないやろ。三度か四度下がる、って感じかなぁ」
「じゃあこれでいいかな。シゲは? ずっとその制服やん」
「俺は自分で温度調節できるから」
「⋯⋯訊いた俺がアホやった」
 憮然とした顔でトモヒロが隣へ戻ってくる。真っ白なその髪を撫でてやると、恥ずかしそうに、だけど心地良さそうに目を細めてトモヒロは微笑んだ。すっかり馴染んだこの体温にも、明らかに近い距離にも、どちらも何も言わない。ここに来て数日は口癖のように「帰らんでええの」と不安げに告げていた唇は、帰るの「か」の字だって口にしなくなった。
「⋯⋯あぁ、そういえばこれは言おうか悩んでたんやけどさ、」
「ん?」
「よく配達に行く呑み屋に、そこらで人気の看板娘がおるねん。遠くの村から来たって話で⋯⋯灰色の綺麗な髪してる子。今思えば、トモにもちょっと似てるかも。俺らより三つか四つか歳下くらいの若い子なんやけど」
「⋯⋯そう、なん?」
「うん。毎日楽しそうに働いてやるよ」
「そっか⋯⋯そうなんや⋯⋯」
「まぁほんまにトモと関係あるかは分からんで? ちょっと似てる、ってだけやし。でも関係あるとしたら年齢的に妹ちゃんやろなぁ。お姉さんはどこ行ったんやろ。きっと同じ街におるでな」
「⋯⋯いいよ、どこかで幸せにしてくれてることがわかったから、それで充分」
「そっか」
 カップを傾けると、トモヒロは消え入りそうなほど小さな声で「ありがとう」と囁いた。ゆっくりとカップを置き、顔を覗き込む。顔を赤くして俯いていたトモヒロと目が合い、黙って見つめ合う。重岡が首を傾けたのとトモヒロが目を閉じたのは、同時だった。
「⋯⋯」
「⋯⋯嫌じゃ、なかった?」
「嫌やったらこんな反応するわけないやろ。シゲの方こそ、こんな⋯⋯こんなんに、」
「それ以上卑下するならもっと凄いのすんで。俺はきちんと順序踏みたいんやけどなぁ」
「⋯⋯ごめん」
「うん。悪いことなんて何もしてないんやから、自分のこと悪く言わんとって。俺はここにうっかり流れてきて良かったと思ってんねんで」
「それは、伝わってる⋯⋯」
「ひひ、そっか」
 髪を撫で、シゲオカは微笑んだ。そのまま頭を抱き寄せ、つむじに柔く口付ける。
「なぁ、好きやで。出会えてよかった」
「⋯⋯俺も、シゲに会えて嬉しい」
「好きとは言ってくれへんの」
「⋯⋯そんな事口にしたら、欲が出てまう。これ以上の幸せなんか求めたらあかんねん。シゲはいつか帰らなあかんのやし」
「⋯⋯だからそれ、誰が決めてん⋯⋯」
「仕方ないやろ。シゲをいつまでもこんな所に縛りつけておくわけにはいかんねんから」
「じゃあいつまでなん? そんなにくっついて、俺がいて当然みたいになって、元の暮らしに戻れんの?」
「戻れるよ。その覚悟を決めたからこそ、今だけは何も気にせずもたれかかってしまおうって決めてん。これを言うとシゲは怒るやろうから黙ってたけど、俺は一緒に過ごすって決めた瞬間から別れを覚悟してる」
「⋯⋯なんで、そんな悲しいこと言えんねん⋯⋯」
「〜〜っだって、そうやって育ってきたから! ここで生まれてここで死ぬことが、ここでみんなを見守り続けることが俺の人生やって、生まれた瞬間から決まってたから! 自分で生きる道を選べた人にはそら分からんやろうけど、俺にはそれが当たり前、やから⋯⋯っ!」
 吐き出すように言い切り、トモヒロはぐいっと目元を擦った。慌ててその顔を覗き込むと、綺麗な瞳に小さな雫が浮かんでいた。だけどこぼれ落ちることはない。ぐっと耐えるように口元を引き結び、トモヒロは押し黙っている。
 この子は、シゲオカが思っているよりずっと強いんだ。ここで人生を決められた状態で生まれてきて、沢山の別れを経て一人になって、ようやく寄りかかる体温を得たのに。それすら自分の運命の為に、責任の為に、切り捨てられるんだ。大勢の囁く声が這うようにして背中から聞こえてくる。分かってる。全部全部、分かっている。だけどそれには、この子の心も伴っていなくちゃいけないんだ。それにはまだ、時間と決定的なきっかけになる何かが、足りない。
「⋯⋯無神経なこと言って、悪かった。おいで」
 そっと腕を広げる。トモヒロは数秒黙って見つめた後力が抜けたようにぽすりともたれかかってきた。その背に顔を埋め、瞼を落とす。あとどれだけ外の世界の話をすれば、この子は首を縦に振ってくれるのだろう。あとどれだけ近づけば、その運命を揺らがすことができるのだろう。
「⋯⋯俺も、八つ当たりみたいな言い方してごめん。シゲのこと何も知らんのに」
「⋯⋯⋯⋯」
「シゲは、ずっと自分の話はしてくれへんな。街のこととか、そこに住む人とか職場の話ばっかりで」
「⋯⋯そう、やな」
「いいよ、無理に話さんで。最初に言ってたもんな、隠し事いっぱいあるって。俺、いいよ。シゲが何を隠してても、どんな人でも、きっと好きやから」
「⋯⋯あ」
「え? ⋯⋯あ、」
 そっと身体を離し、目を合わせる。頬を赤く染め、困ったようにトモヒロは微笑んだ。
「あは、言ってもうた。⋯⋯好きやで、シゲ。あの日落っこちて来てくれてありがとう」




*





「あっ、鹿かかってる!」
「ほんまに!?」
 数日後。いつも通り日中の森を散策していると、何日か前に仕掛けた罠に鹿がかかっていた。これで冬に向けての準備ができる、と喜んでいるトモヒロを横目に微笑み、そっと呪文を唱えて鹿を穏やかに息絶えさせる。ここに来てからというもの魔術を使う回数が格段に増えていて、いつも有り余って周囲を困らせていたシゲオカの魔力はすっかり安定していた。それにはシゲオカという魔導士にとってこの場があまりにも相性がいい、という理由もあったが。
「すっかり冷えてきたもんなぁ。もう言うてる間に冬やで」
「な。あの家冷えるから冬は嫌いやねん。暖炉も何世代も前から壊れてるし」
「あれ、暖炉なんかあった? 直したろか?」
「えっ⋯⋯あ、いやいや、あかんあかん。急に暖炉の煙なんか出始めたら村の人に怪しまれる」
「暖炉直した程度で文句つけてくる村人なんか無視していいと思うんすけどぉ?」
「俺もそれは思うけどさ、もうとにかく揉めたないねん。揉めるくらいなら我慢した方がよっぽどマシ。街で生まれ育ったシゲは知らんやろうけど、田舎の人って怖いねんから」
「そうなーん?」
「ほんまやって。俺、シゲの話聞いててびっくりしたもん。都市の人は穏やかやなぁって。まぁあの村に限った話かもしれん、けど⋯⋯?」
「あれ、鐘鳴ってへん?」
 遠く村の方から、リンゴンと鐘の音が聞こえてきた。本来こちらに仕事を報せるためのもので、こんな真っ昼間に鳴ることはない、はず。さわりと、どこか嫌な予感が胸を過る。
「なんでこんな時間に鳴るんやろ、とにかく行かな⋯⋯」
「⋯⋯なんか嫌な予感するから俺も一緒に行くわ」
「え? そ、そんなんあかんに決まって⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
「あ、消えれんのね⋯⋯。じゃあええよ」
 急足で小屋に戻り、トモヒロはローブを羽織るとそのままロープに繋いだ小舟を出した。こっそり後ろに腰掛け、きっと二人分で重いであろうそれにそっと魔術をかける。すい、と勝手に進み出した舟にトモヒロは一瞬何か言いたげな顔を寄越したが、結局黙って前へ向き直った。
 次第に向こう岸が近づいてくる。岸辺に立っていたのは、一人の男だった。随分と歳を食っていそうだがその態度からしてどうやら村ではそれなりの立場にいそうだぞ、と後ろから覗き込みながら考える。ゴクリと目の前でトモヒロが唾を飲む音が聞こえた。とにかく揉めたくない、そう告げたさっきの横顔が、脳裏を過る。
「⋯⋯⋯⋯」
 静かに小舟を止め、トモヒロは舟から降りることはせずそっと男を見上げた。当然だが、辺りに棺らしきモノはない。やはり仕事ではなさそうだ。
「降りろ」
「えっ、あ、はい⋯⋯」
 端的に男が告げ、トモヒロは慌てて舟を降りてロープで繋いだ。音を立てないようにそっと一緒に降りて辺りを見渡すと、遠巻きに大勢の村人がこちらの様子を伺っているのが見えた。
「⋯⋯な、何の用ですか?」
「お前、何か隠してるやろ。この前の嵐の日からや」
「⋯⋯何の話かさっぱり、」
「とぼけても無駄や。一人で暮らしてるはずのお前の家で人影が動くのを見た奴がおるし、今まで何の音もしなかったのに最近時々話し声までする。全部独り言やってとぼける気か?」
「⋯⋯独り言です」
「ははっ、とぼけよった。ええわ、それなら証拠見したる。これや」
 男が懐から何かを取り出した。写真だ。そこに写っているのは、一人で森を散策しているシゲオカの姿だった。ざっと血の気が引くのと同時に、ぷつりと何かが切れる音がする。探していたものが、今目の前にあるんじゃないか? 魔導院を出てから久しく使っていなかった頭脳が、そうグルグルと回転を始める。
「お前みたいなんは知らんやろうけどな、これはカメラっていう最新の魔導器具やねん。そこの森でこんな人が歩き回ってるのを偶然見かけて、疑惑が決定打になったんや」
「⋯⋯⋯⋯」
「白状し。あの嵐でこの人が流れ着くかなんかしたんやろ。ほんでそれを嘘こいて丸め込んで、仕事手伝わしてるんやろ」
「⋯⋯⋯⋯」
「悪いことは言わんからさっさとこの人連れてこい。この人がどこの誰か知らんけど、お前みたいなんと一緒におらしたら村全体の恥や。今すぐ⋯⋯、」
 小声でぽつりと呪文を唱えた瞬間、空間に滲み出るようにしてシゲオカの姿が浮かび上がった。厳しい目でトモヒロを見つめていた男の視線が、驚愕に見開かれてシゲオカの方を向く。それに気がついてバッと振り返ったトモヒロをゆっくりと背に押しやり、シゲオカは笑みを作った。
「どうも、挨拶が遅れてもうて⋯⋯。まさかこの子と一緒にいるだけで村の許可がいるとは思わんかったもんで」
「あ、えっ、あ、アンタまさか、魔導士さんですか⋯⋯?」
「まぁ一応。サキシマの魔導院を次席で出てるもんです。ほら」
 何かと役に立つから常に持ち歩いている小さな卒業印を懐から取り出す。それを見つめた男の目が、みるみる見開かれていく。
「こ、こらぁ偉い方がおったもんで⋯⋯。さ、サキシマですか。でもその服装は?」
「何でもいいでしょう。それより、これでも俺がこの子にアホみたいに騙されてあそこにおったと思います? そう思うならまぁ、侮辱として受け取りますけど」
「い、いやそんな事は⋯⋯だけど魔導士さんなら特にご存知でしょう。墓守なんて不浄なもんや。もてなしなら村の方でしますんで、あぁそうや、それにこいつは狼男なんですよ。いくら魔導士さんとはいえ危険でしょう」
「この子は狼男の血なんかほとんど残ってなくて変身すらまともに出来ませんよ。知ってるでしょう」
「⋯⋯えーと、何か肩入れしてらっしゃるみたいですけど、そいつはほんまにただの墓守で⋯⋯」
「墓守だから何です? 死は不浄なもんなんかとちゃう。随分古臭い考えをお持ちみたいで、」
「し、シゲ、もうやめて。俺は村の人と揉めたくないんやって!」
「⋯⋯トモ」
 慌てたように間へ割って入り、トモヒロは村の方を見ないようにしながらシゲオカの手を引いた。その手は微かに、震えている。
「一旦帰ろ。な?」
「⋯⋯トモがそう言うなら。あの、僕しばらくはそこにいますんで。アンタらの言う⋯⋯不浄なもん? 寄越される場所にね。よう考えてくださいよ」
「も、もういいから! ほら乗って!」
 グイグイと背中を押され、シゲオカはゆっくりと小舟に乗った。慌ただしい手つきでトモヒロがロープを解き、舟を反転させる。視線が合わなくなる最後の瞬間まで、シゲオカは薄く笑みを浮かべて男と視線を合わせたままだった。


「⋯⋯はぁ、疲れた⋯⋯。ま、まさか見られとったとは。どうしよ⋯⋯」
 小屋まで戻り、トモヒロは床に座り込んで深い、深い溜め息を吐いた。シゲオカは寝台に腰掛け、まっすぐそれを見下ろしている。いそいそとローブを脱いだトモヒロは洋服棚にそれを戻し、「ほんまに疲れた⋯⋯」と囁いた。
「⋯⋯大丈夫?」
「だ、大丈夫⋯⋯。はぁ、一悶着あったしお茶でも淹れて一息つこか。ていうかなんで誰かとおるだけであそこまで責められなあかんねん」
 ぶつぶつと文句を言いながらトモヒロは湯を沸かしている。その背をじっと見つめたままのシゲオカのまっすぐな視線にはまだ、気がついていない。
「⋯⋯なんか、俺が知らんシゲやったな。俺のために怒ってくれたんやんな、ありがとう。ごめんな、せっかく俺のために怒ってくれてんのに止めるような真似して」
「⋯⋯いや?」
「ていうかサキシマってなに? 次席って何の⋯⋯まぁええか。隠し事いっぱいあるって言ってたし。あの人らは知ってそうやったけど⋯⋯。もしかしてシゲってほんまに凄い人なんかな」
「はは、最初から言うてるやん。これでも優秀なんやって」
「うーん⋯⋯」
 コポコポと湯が音を立てる。何か考えている様子でポットに湯を注いでいた手が、ふと止まった。
「⋯⋯⋯⋯」
 沈黙が落ちる。寝台に腰掛けたまま、シゲオカは一度ゆっくりと瞬きをした。
「⋯⋯シゲはほんまに凄い人で、だから村の人らはそれを知った途端あんなに萎縮しとったんやんな?」
「まぁそうやろな」
「シゲ、言ったよな。しばらくはここにいる、アンタらの言う不浄なもんを寄越す場所に。⋯⋯よく考えろ、って」
「言ったな」
 再度沈黙が落ちた。カタカタとポットの蓋が音を立てる。それは、今こことあの村の間に起こった出来事をようやく理解した、⋯⋯否、してしまったトモヒロの、激しく震える手の音だった。ゆっくりと寝台を立ち、驚愕と失望に濡れた顔が振り返るのをじっと見つめる。
「そ、そんなこと言ったら、ほんまにここを不浄な場所やと思ってるあの人らはシゲがここにおる限り絶対仕事を寄越さへん。そしたら俺は、仕事を失う」
「そうやな。まぁ金銭のやり取りがない以上正確には仕事とちゃうけど」
「そんな話はしてへん!! し、シゲは分かっててあれを言ったん!? そうしたら俺が、ここでの仕事を失うから!?」
「⋯⋯⋯⋯」
「〜〜っば、馬鹿にすんな!! 俺は誇りを持ってここで亡くなった人の見送りをしてる。代々受け継がれてきた墓場を、守ってる!! 勝手に同情して奪われる謂れなんてない!!」
「⋯⋯何もしてない相手にあれだけ邪険に扱われてもか?」
「そんなんどうでもいい!! 俺はここで生きるねん、生きていかなあかんねん!! 何も知らんシゲにそれをどうこう言われたくない!!」
 パリン、と音を立ててポットが床に落ちた。それをトモヒロは一瞬呆然と見つめ、だけどすぐ向き直って部屋の隅に置かれていたシゲオカの荷物を取り、寝台へ放り投げた。そのままゴトゴトと奥を漁っていた手に握られているのは、古びた一本の箒だ。突っ立ったままのシゲオカにそれを突きつけ、目元を赤くしてトモヒロは呟いた。
「帰って。村の人みんなに見えるように。やっぱりここはシゲのいる場所じゃない」
「⋯⋯それ、直してやれるけどいいか? 大事なもんちゃうの」
「いい! いいから今すぐ出てって!!」
「⋯⋯そ。短い間やったけど、世話になった。⋯⋯気、つけてな」
「⋯⋯⋯⋯っ」
 背中に鋭い視線を浴びながら、古びたドアを開ける。小屋を出て視線をやると、こちらの様子を伺っている向こう岸の様子が見えた。嘆息し、箒に跨る。見られるのは好きじゃないが、あの子が言うなら仕方ない。
 ふと、背後から無数の声が聞こえてシゲオカは振り返った。数えきれないほど並んだ墓場から、怨嗟、怒り、失望の混じった声がいくつも届いてくる。
「⋯⋯しゃあないやん。こうするしかないねん。⋯⋯言ったやろ、あの子に決めさせるって」
 呟き、ふわりと宙へ飛び上がった。村の方で人が見ているのを確認しつつ、十日間ほどを過ごした小さな小さなあの子のテリトリーを見下ろす。鬱蒼と広がった森。一つずつ丁寧に建てられた墓場。そして、きっと今頃割れたポットを見つめて座り込んでいるであろうあの子のいる、小屋。
「⋯⋯ごめんな。傷つけたことも、今からもっと傷つけることも」
 小さく囁き、シゲオカはぐんと風を切って飛び去った。ここからでも遠くに見える、魔導院の聳え立った故郷へ向けて。





 ボーン、と掛け時計の音がして、トモヒロはゆっくりと顔を上げた。いつの間にか小屋は真っ暗になっていて、目の前の濡れた床もすっかり冷たくなっている。
「⋯⋯夜、か⋯⋯」
 囁いた声は酷く掠れていた。よろよろと立ち上がり、部屋の奥の物置へ向かう。箒を取り出そうとして、ついさっきたった一本のそれを誰かに押し付けてしまったことに気がついた。手を戻し、またよろよろと元いた場所に戻る。割れたティーポットの破片を一つずつ拾い集め、子供の頃着ていた服に丁寧に移していく。
「っ。いた⋯⋯」
 ふと破片の先で指先が切れ、そこから線のように血が溢れ出した。黙ってそれを眺めていると、いつの間にか溢れ出した涙が頬を濡らす。気がついた途端止まらなくなってしまったそれに嗚咽を漏らし、トモヒロは膝を抱え込んだ。
「⋯⋯っう、う⋯⋯っ、ひぐ⋯⋯っ、シ、ゲ⋯⋯っ」
 咄嗟に呼んでしまった名前にまた心が締め付けられ、ボロボロと涙が溢れ出す。
 別れは覚悟していた。初めから、そのつもりだった。だけどこんなふうになんてなりたくなかった。寂しいけど、自分は大丈夫だと。この出会いを大切に思い出にしてこれからを生きていくと、そう伝えて手を振るつもりだった。どうしてこんな事になってしまったんだ。
 結局何も教えてもらえないままにいなくなってしまった、自分から帰れと突っぱねてしまった奇跡のような出会いが、後悔の形をとって何度も頭を過る。
 せめてもっと冷静に話ができればよかった。どうしてあんなことをしたのか、結局自分には何も教えてくれなかったあの男が何を思って隣にいてくれたのか、話がしたかった。だけどもう遅いんだ。何時間も前にここを飛び去ったであろうシゲオカは何度も話をしてくれたあの街にきっともう着いていて、明日からはまたあの街で笑顔を振り撒く郵便屋に戻るのだろう。そんなシゲオカと自分の人生が交わることはもう、ない。奇跡は二度も起こらないからこそ奇跡なんだ。
「⋯⋯大丈夫、忘れられる⋯⋯元の俺に、戻るだけ⋯⋯」
 言い聞かせるようにそう何度も呟き、血を拭う。ポットの欠片を集め終えたら零さないようにそっと縛り、箪笥の中にしまった。まだ家族がいた頃の、誰かとお茶をできていた頃の、大切な思い出。だけどもういらない。もう使うことは、ないのだから。
 ゆっくりと寝台に横たわり、布団を被って目を閉じる。瞼の裏に過るのは、彼がここにいてくれた時間の中で見た数えきれないほどの笑顔だった。震える手を強く握り、何度も言い聞かせる。明日からはいつも通り。いつも通りに戻るだけ。気疲れだろうか、仕事もしていないのに眠気が身体を襲ってくる。朧げになる意識の中で、トモヒロはちいさく囁いた。
「⋯⋯さむい、なぁ⋯⋯⋯⋯」


*



 翌朝、目を覚ましたトモヒロはぼうっと辺りを眺め、そっと身震いした。寒い。人が一人いないだけで、こんなにも温度が下がるのか。今までどうやって冬を過ごしていたんだろう。あの日見事に予測を当ててみせたシゲオカの言うように気温は下がり始めたばかりで、まだまだ冬の入り口だというのに。
 そっと布団を出て、台所の火をつける。何か温かいものを食べよう。あぁ、どうせこうなるなら暖炉を直してもらえばよかった。ぼうっと鍋の中を見つめていたトモヒロは、いつの間にかシゲオカのことを考えていた事に気がついて慌てて首を振った。考えちゃいけない。忘れるんだ。あの男は、いつかの嵐が連れてきた一瞬の出来事だったんだ。大丈夫、忘れられる。きっと時間が解決してくれる。
 窓の外は朝にも拘らず霧がかって薄暗い。森に出られそうにはないし、今日はこの前仕留めた鹿の処理をしよう。鍋の中身をそっとお椀によそいながら、トモヒロは白い息を吐いた。


「よいしょ、っと⋯⋯。暗なってきた、今日はこんなところかな⋯⋯」
 小屋の前で鹿を捌いているうちに、気づけば日が暮れ始めていた。普段ならもう少し手際良くやれるはずのそれに丸一日かけてしまった事に嘆息しつつ、保存用に処理した肉を保存庫に入れる。さて今日の仕事はあるだろうかと考えた瞬間、ちょうど鐘が鳴った。仕事だ。洋服棚からローブを取り出し、羽織る。ふと漏れかけた溜め息を飲み込み、トモヒロは外へ出た。
 朝からどんどん濃くなっている霧が行く手を阻む。船頭に掛けたランプの灯りすら霞むような中なんとか舟を漕いでいくと、ようやく向こう岸の灯りが見えた。ゆっくり岸に舟を付けると、霧でよく見えない中低い声が落ちてくる。
「あの人は帰らせたんやな?」
「はい。これは僕の仕事なんで」
「⋯⋯⋯⋯」
 黙って棺が舟に運び込まれる。無事載ったのを確認して舟を出そうとした瞬間、ぱた、とローブ越しに頭に何かかかった音がした。
「⋯⋯えっ?」
 雨なんて降っていない。硬直しているトモヒロを無視し、村人の遠ざかる足音がする。
 唾を、吐きかけられたんだ。そう気づいた瞬間、トモヒロはガタガタと震え始めた手で必死に舟を反転させて岸から飛び出した。霧の中を必死に進みながら、奥歯を噛み締めて零れそうになった涙を堪える。
 そうだ、そうだった。あの時村人たちは自分を責め立てるはずが突然立場の高い人間が現れたことに、そんな人物と自分が繋がっていたことに、相当怒りを覚えたはずなんだ。あいつがいなくなった途端それが向けられるのは、当たり前のことだったんだ。「いつも通りに戻るだけ」、だなんて。どうしてそんな甘いことを考えられたのだろう。偉いのは自分でもなんでもなくシゲオカで、あの時何事もなく小屋に戻れたのはそこにシゲオカがいたからだったのに。
「はぁっ、はぁっ⋯⋯!」
 必死に舟を漕ぐ。深い霧で前が見えない。早く着替えたい。ただでさえ着古しているのに汚れてしまった服でこの人を見送ることなんて、したくない。出所も正体も見えない激情で手が震える。普段の何倍も時間をかけてようやく辿り着いたら慌てて舟をくくりつけ、ひとまずローブを脱いでバシャバシャと冷たい川で洗う。そのまま走って洗濯竿に掛け、ようやく棺の元へ戻った。落とさないよう手の震えを抑えてなんとか台車に載せ、ごろごろと押して墓場を走る。別にもう急ぐ必要はなかったが、そうでもしなければ全身を襲う激しい身体と心の震えに気が付いてしまいそうだった。
 最近シゲオカと切り広げたばかりの土地を、無心で、何も考えないようにしながらザクザクと掘り進める。気がついた時にはいつも通り綺麗な穴が出来上がっていて、身体はじんわりと汗をかくほど温まっていた。思わずへたり込んでしまいそうになる膝を叱咤し、棺を運び入れる。未だ震えたままの手をそっと伸ばし、囁いた。
「⋯⋯おやすみ、なさい。どうか安らかに」
 それは、宗教も学も何もないこの家系で代々続けている、ささやかな最後の見送りの言葉だった。なんとか終わった仕事に息を吐き、ゆっくりと土を戻していく。無事棺が見えなくなったことを確認し、すぐにトモヒロは小屋へ駆け込んだ。布団へくるまり、荒い息を必死に押さえ込もうと胸に手を当てる。
「落ち着け、落ち着け⋯⋯っ」
 動揺なんてしちゃいけない。仕方ない。全部全部、仕方ないことなんだ。村人の理不尽な悪意も、言い返すことすらできない自分も、⋯⋯今一緒に布団の中で温め合う存在がいないことも。全部、ここで生まれた以上はどうしようもないことなんだ。ぼたぼたと零れ落ちた涙が使い古したシーツを濡らす。惜しくなんかない。虚しくなんて、ない。自分は代々受け継がれてきたこの仕事を大切に思っている。憐れみを向けられるような人間じゃないんだ。しばらく我慢すればきっと村人の怒りも収まって、本当の意味で「いつも通り」に戻れる、はず⋯⋯。
「⋯⋯さむ、い⋯⋯寒い⋯⋯」
 それなのにどうして、こんなにも心が痛くて、寒くて、堪らないんだ。兄を失った時のような、だけどそれとは少し違った痛みが胸を刺す。溢れて止まらなくなった涙を止める気力すらなく、トモヒロは夕食を摂ることもせずそのまま瞼を落とした。目が覚めたら春になっていて、この寒さも心の痛みも全て過去になてくれていたらと、霧深い夜に願いながら。



*




「⋯⋯なに、これ⋯⋯?」
 数日後。森の散策から戻ってきたトモヒロが目にしたのは、信じられない光景だった。きっちりロープでくくりつけておいたはずの小舟が、沈みかけてゆらゆらと波に揺れている。慌てて駆け寄ってよく見ると、底や側面に穴が空いていた。そこから浸水した夥しい量の川水が今にも舟を沈めようとしていて、大急ぎで岸に引き揚げ、水を抜く。呆然としながらふと顔を上げると、遠ざかっていくボートの影が見えた。乗っているのは、時々見かける村の若者たちだ。まさか、彼らがこんなことをしたのか? わざわざ忌み嫌っているこちら側に来てまで?
「⋯⋯と、とにかく直さな⋯⋯!」
 工具箱を取りに小屋へ走る。今晩仕事があったっておかしくないのだし、こんな状態じゃ、自分はまだしも棺を載せることなんて絶対にできない。幸い今日は太陽が出ていて暖かいし、濡れた箇所自体はすぐに乾くだろう。一隻しかない舟のために、補強用の木材は常に用意してある。舟が乾けば穴の空いた箇所を取り替えて、釘を打つ。それだけだ。今はまだ午前。大丈夫、間に合う。胸に手を当てて落ち着くよう呼吸を整えていた時、ふとトモヒロは我に返るような感覚を覚えた。
 ⋯⋯なんだ、これ。どうしてこんな目に遭っているんだ? 自分はただ嵐で流れてきた人を助けて、その人がしばらくここにいると言うからそれに頷いただけだ。それなのにどうして何も関係のない村の人間にこんな仕打ちを受けなければいけないんだ? 何日も執拗に嫌がらせを受けて、何代も修理を重ねて大切に使っている仕事道具を平然と壊されて、文句の一つも言えないのか? もうシゲオカがいなくなって一週間以上経っているというのに、「いつも通り」はいつになれば戻ってくるんだ?
「⋯⋯⋯⋯」
 キュッと唇を引き結び、トモヒロはそっと舟を日の当たる場所へ動かした。今は、考え事をしている場合じゃないのだから。


 半日が過ぎとっぷり日も暮れた頃。予想通り村の方で鐘が鳴った。じっと舟の様子を見ていたトモヒロはゆっくりと顔を上げ、小屋からローブを取ってきていつも以上に顔を隠すように深くフードを被る。恐る恐る岸から舟を川に浮かべてみると、幸い浸水することもなく無事浮かんでくれた。そっと息を吐き、乗り込む。今日は視界が良く、こちらからも既に向こうで待ち構えている村人の姿が見えた。その数は明らかに、いつもより多い。
「⋯⋯行きたくないなぁ」
 ぽつりと漏れた本音には聞こえないふりをし、トモヒロは舟を漕ぎ出した。風もなく穏やかな川では、本音に反してすぐに向こう岸へ着いてしまう。黙って舟をつけると、降りることはせずそのまま俯いた。
「へぇ、来れたんやなぁ」
「⋯⋯」
「ダンマリか、おもんないなぁ。ほら、仕事や」
 奥から棺が運ばれてきた。舟を降りてそこに載せられるのを見届けた瞬間、ギィ、と普段ならしないはずの音がした。背中を冷や汗が伝い、恐る恐る舟を覗き込む。
「⋯⋯っ!」
 塞いだばかりの底から、少しずつだが水が入ってきていた。やっぱりたった一日の応急処置では、棺の重さに耐え切ることはできないのかもしれない。早く戻らないと。そうトモヒロが慌てて舟に乗り込もうとした瞬間、遠巻きに見ていたはずの若者がズカズカと近寄ってきて舟の端を踏みつけた。ぐっと沈み込んだ船体に、一気に水が流れ込む。
「っな、何するんですか!!」
「あはは、やっぱりボロボロやんけ。こんなんでお前乗れんの?」
「こ、こんな事されんかったら⋯⋯っ」
「へぇ、何か言った?」
「あ、や、やめ⋯⋯」
 グイグイと厚い靴底が舟を押し付ける。どんどん水が入り込み、棺が濡れていく。
「〜〜っや、やめろ!! 死者を何やと思ってんねん!!」
「何って、何とも思ってへんけど。それより面白い口きけるやんけ」
「もういい、話してる時間ない⋯⋯!」
 浸水が進み、もう舟底は水が溜まり始めている。これで自分まで乗ったらもっと悪化するし、最悪の場合沈んでしまう。それだけは絶対にいけない。一瞬逡巡したものの、躊躇いなくトモヒロはザブザブと川へそのまま足を進めた。しっかりと舟の先を握り、水で重い足を必死に動かして前へ進む。
「あはは! 親父、あいつ泳いで帰る気やで!」
 うるさい。うるさいうるさい! お前らのせいでこんな事になっているんだろう。舟を沈めるわけにはいかない。早く、早く向こうに戻らなくちゃ。次第に足がつかなくなり、その時はじめてトモヒロは自分が泳ぎが得意じゃないことを知った。みっともなくもがきながら、それでも舟にしがみついてなんとか少しずつ水を蹴って進むトモヒロを後ろから大勢の笑い声が追ってくる。
「っぷは、はぁっ、はぁっ⋯⋯!」
 穏やかなはずの波がやけに荒く感じる。どれだけ経っても、必死に水を蹴っても、そう遠くないはずの向こう岸へいつまで経っても辿り着かない。それどころか流されているようにすら感じる。どうしよう、自分はこんなにも泳ぎが下手だったのか。知らなかった。これじゃあ早く棺を岸に上げるどころか、舟もろとも流されてしまう。
 次第に、はじめは必死で気がつかなかった水の冷たさが全身を襲い始め、身体の動きが鈍くなっていく。冷え切った頭に笑い声が反響する。もがいて沢山水を飲んだせいで呼吸すらままならない。だけど守らなくちゃ。舟だけは、棺だけは──。
 ふと、突然舟が軽くなった。何かに引っ張られているかのように、さっきまであんなにも進まなかったはずの舟が少しずつ前へ進む。朦朧とした意識の中、トモヒロは必死に足を動かし水を蹴った。次第に笑い声が遠ざかり、ゴツン、と激しい音を立てて舟に頭がぶつかる。
「っあ、痛っ⋯⋯?」
 顔を上げると、目の前には岸が広がっていた。ようやく着いたらしい。慌てて駆け上がり、舟の様子を確認する。かなり浸水が進んでいるが、棺はなんとか難を逃れていそうだった。一瞬ほっと息を吐き、びしゃびしゃになった身体で抱き上げて用意しておいた台車へ移す。よろよろと、水を飲みすぎたせいで朦朧とする意識の中台車を杖のようにしながらなんとか押し歩き、予定地の前で足を止める。
「寒い思いさせてごめんな、もう少し待っとって⋯⋯」
 棺に向けて囁き、今にも倒れ込みそうな意識をなんとか繋いでスコップで地面を掘り進める。いつもより何倍も時間のかかったそれが完成する頃には、トモヒロは息も絶え絶えだった。肺が酷い呼気の音を立てている。なんとか最後の力を振り絞って棺を穴に納め、そっと手を当てた。
「騒がしくて、嫌なこと聞かせて、水にまで濡らしちゃってごめんなさい。これからはどうか、穏やかに。⋯⋯おやすみなさい」
 ぽたりと、棺に水滴が落ちた。それが川の水に濡れた自身ではなく瞳からこぼれ落ちたものである事に気づくこともなく、トモヒロは土を戻していく。全て戻し終えてようやく仕事を終え、最後にもう一度「ごめんなさい」と囁いたあと、よろよろとその場を後にした。
 仕事を終えた途端脳が冷えに気がついたのか、身体がガタガタと震える。棒のようになった足でなんとか小屋まで辿り着き、ドアを開けた。瞬間、穏やかな灯りが隙間から広がる。
「⋯⋯⋯⋯ぇ⋯⋯?」
 中に入った途端ふわりと暖かい空気に包まれ、思わず目を細める。小屋の中はいつもの薄暗い灯りじゃなく、オレンジ色の柔らかな光に包まれていた。呆然としながらふらりと足を進めると、もうずっと荷物に埋もれたままだったはずの暖炉に火が灯っている。恐る恐る歩み寄ると、火の温もりに包まれてトモヒロは思わずへたりと座り込んだ。
「⋯⋯あったかい⋯⋯」
 濡れた服を脱ぎ、箪笥から適当に拭き物と着替えを取り出す。びしょびしょの身体を拭って着替えると、トモヒロは穏やかな灯に手を近づけ、頬を緩めた。なんだろう。夢でも見ているのだろうか。それとも、疲れ果てて頭がおかしくなっているのだろうか。だけどもう、なんでもいいや。暖炉の前に転がり、そっと目を閉じる。久しぶりの温もりと疲れですぐ意識を失ったトモヒロの身体に、寝台からふわりと布団が浮いて優しく被さった。



*




 翌朝は昨夜と打って変わったような曇天で、窓の外すらよく見えないほど濃い霧が辺りを覆っていた。暖炉の前で目を覚ましたトモヒロは呆然と、ゆっくり自分の姿を見下ろす。乾いた服。被った覚えのない布団。パチパチと音を立てて部屋を温めている暖炉。
「ゆ、夢じゃなかったん⋯⋯?」
 こんなにも温かな朝はいつぶりだろう。ひとまず立ち上がり、頬を引っ張りながら台所から川の方を見る。濃い霧が小屋を覆っていて、すぐ先すら見えない。これならきっと、暖炉の出す煙が村に見つかることはないだろう。ひとまず息を吐き、それからハッとして小屋を飛び出す。昨夜埋めたばかりの墓へ駆け寄ると、思った通りいつもより少し雑な出来になっていた。慌ててスコップを取ってきて土を盛り直し、綺麗に整える。謝るようにそっと手を添え、立ち上がった。一度埋めた以上掘り起こすわけにはいかないし、これが限度だろう。昨日の自分がせめてきちんと埋めていることを祈りながらその場を離れ、小屋に戻る。
 それにしても、夢じゃないのなら一体全体どうしてこんなことに⋯⋯、そう考えながらドアを開けると、平然と寝台に腰掛けているシゲオカがいた。
「⋯⋯⋯⋯っ!?」
「⋯⋯よぉ。二週間ぶり? やな」
「な、なんでここに⋯⋯あっ、暖炉!」
「あぁ、うん」
 今も穏やかに燃え続けている暖炉をちらりと横目で見やり、シゲオカは気まずげに頷いた。
「昨日の夜、箒返しに来てん。俺の顔見たら怒るかもしれんから夜にこっそり返そうと思って飛んできたら川で溺れかけてるからびっくりしたわ」
「え? あ、ま、まさかあん時急に舟が動いたのって」
「まぁうん。俺が助けた。怒らんとってや、あのまま放っといたらトモ、間違いなく溺れ死んどってんから」
「⋯⋯そうやと、思う。⋯⋯ありがとう」
「礼なんかいらんわ。そもそもあんな目に遭ったのもきっと俺のせいなんやろ?」
「⋯⋯シゲのせいちゃうよ。あの人らがおかしいねん」
「⋯⋯トモ?」
 スタスタと歩みより、そばの床に腰掛ける。そっと見上げると、シゲオカはまっすぐな目でじっと見下ろしてきている。改めて見ると、彼はいつもの制服じゃなく私服らしきものを身に纏っていた。首元には、見たことのない暗い赤色の石を嵌め込んだ飾りがかかっている。あまり彼らしくはないと思った。
「俺個人に向けられる嫌がらせなら我慢すればいい話やけど⋯⋯昨日は、棺を運ぶ大事な舟まで壊しよった。あの人らは死者のことをなんとも思ってない。自分だっていつかは辿る道やのに」
「⋯⋯それで自分は乗らんと渡ろうとしとったん」
「そう。でも俺、泳いだことなくて⋯⋯自分が泳げないって昨日初めて知った。だから棺も結局かなり濡れちゃって、朦朧としてたからちゃんと埋めれたのかも自信なくて⋯⋯」
「ううん。時間はかかっとったけどちゃんと綺麗にやっとったよ。俺ずっと近くで見とったから」
「⋯⋯ほんま?」
「ほんま。ほんで途中で、この子このままあの小屋で寝かしたら今度は凍え死ぬわと思ってバレる覚悟で暖炉直してん。でも全然気付かんとすぐ寝てもうたな」
「そ、そう、やな⋯⋯疲れて朦朧としとって⋯⋯ていうかそこまで見てたん?」
「うん。心配でずっと部屋ん中おった」
「⋯⋯はぁ!?」
 バッと顔を上げると、シゲオカは口をへの字に曲げてそっぽを向いた。ずっとって、ずっとか? 溺れかけながら必死に川を渡ろうとしていたところから、覚束ない足取りでなんとか仕事を終えたところ、それから部屋に戻って何故か直っている暖炉に特に疑問も持たず無防備に着替えて床でそのまま床で眠りについたところまで、全て見ていたと?
 じわりと頬を熱くさせているトモヒロに気づく様子もなく、シゲオカはぽりぽりと頬をかいている。
「だってあのまま寝たらいつ熱出してもおかしなかったし、そもそもフラフラやったし⋯⋯。どうせバレてると思ったから」
「あ、あっそう⋯⋯それはその、見苦しいところを見せたな⋯⋯」
「見苦しいわけないやん、昨日のトモヒロはあの人を守るために必死やっただけやろ。あんなに朦朧とするくらいな」
「それはまぁ、そうやけど」
「大体好きな子なんやからどんな姿でも見苦しいなんて思うわけないやん。とにかく間に合ってよかった、ってだけや」
「⋯⋯す⋯⋯」
「⋯⋯じゃあ俺、帰ろかな。せっかくやし舟も直していこか?」
 シゲオカが立ち上がる。咄嗟に手を伸ばし、その腕を掴んだ。
「ま、待って!」
「⋯⋯なに?」
「えっと、その⋯⋯ちょっと、話せへん? この前ろくに話も聞かんと追い出したこと、ずっと後悔しとって⋯⋯あの時はほんまに、ごめん」
「⋯⋯トモ」
 沈黙が落ちる。あの日の自分のみっともなさや投げつけた八つ当たりのような言葉の数々を思い出して俯いた頬に、そっと柔らかな手が触れた。温かい。たった数週間ぶりなのにもう懐かしいその温度に目を細めながら顔を上げると、眉を下げて柔く微笑んだシゲオカがしゃがみ込んでトモヒロを見つめていた。
「うん。俺もトモの話、聞きたい。ついでにあの美味いお茶もまた飲みたいなぁ」
「え、でももうポットが⋯⋯あ」
「破片、捨ててへんやろ? 出してみ」


「⋯⋯はぁ、うま。才能あるで、トモ」
「大袈裟やなぁ⋯⋯」
 笑えるくらいあっさりと元の形に戻ったティーポットからいつものハーブティーを注ぐと、一口飲んだだけでシゲオカはやけに嬉しそうに頬を緩めた。照れ隠しの言葉を呟きながら、随分と久しぶりに思えるその笑顔をぼうっと眺める。視線に気がついたシゲオカが首を傾げたものだから慌ててかぶりを振り、自分のカップにも口をつけた。口内に広がる柔らかな風味と、心を落ち着かせる穏やかな香り。
「⋯⋯あの、さ。あの日、せっかく俺のために怒ってくれたのにあんなふうに追い出してごめんな。あのあとよく考えたら、シゲにはもっと考えがあったんちゃうかって思って⋯⋯。だってシゲは俺がここを大事にしてることちゃんと知ってたわけやし、もっと話すべきやった」
 ずっと胸の中で燻っていた思いを吐露しながら、それでも顔は見られず俯いた。自分でも、自分の考えを整理できている自信がない。シゲオカは何も言わず、ただトモヒロの言葉を待っているようだった。
「⋯⋯あれから、毎日些細な嫌がらせを受けるようになって⋯⋯。仕方ない、どうしようもない、って思い込もうとしても、それでも⋯⋯く、悔しく感じるようになった。あの日のシゲの言葉とか、シゲに対する村の人たちの態度とかが頭を離れんくて、何もしてないのになんで俺はただ誰かと過ごしただけでこんなふうに言われなあかんのやろう、なんでこんな目に遭わなあかんのやろう、って⋯⋯」
「トモ、悔しいと思ったん? あいつらに?」
「⋯⋯思った。こんなん理不尽やって。唯一の仕事道具すら傷つけられて、それでも必死で棺だけは守ろうとしてるところすら馬鹿にされて⋯⋯許せない、って」
「⋯⋯⋯⋯」
 キュッとカップの持ち手を握りしめ、勢いよく飲み干した。シゲオカは時折カップを傾けながら、じっとトモヒロのことを見つめている。その視線の強さから逃げるように俯き、ぎり、と奥歯を噛み締めた。
「でも、どんだけあの村のことが嫌でも、許せなくても、ここを離れることはできひん。ずっと続いてきた大切な墓場で、そこで眠ってるみんなを見届ける義務が俺には、」
「なぁ、だからその人らがトモが自由になることを望んでても同じこと思うん?」
「⋯⋯え?」
 顔を上げる。目が合ったシゲオカは、さっきまでの笑顔と打って変わって真剣な眼差しをしていた。その手がトモヒロの方へ伸びてくる。柔く手が合わさり、遠慮がちに指先を絡められる。微かにそれを握り返した瞬間手を引かれ、気づけばトモヒロはシゲオカの胸の中にいた。温かな、人の体温。ここしばらく感じていなかった、シゲオカの体温だ。呆然と見開いた瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
「⋯⋯トモの言う通り、あの時俺は色んなこと考えとった。俺が誘って出てきてくれないなら、トモ自身に決めさせるしかないって。この墓場の連中がそれを望んでることは俺はとっくに知っとったから、あとはトモが決めてくれるだけやった。こんな所いられるか、ってな。だからわざと、怒るってわかってて村の人との関係を煽るようなことして出てってん。まさかあそこまで腐った連中やとは思ってなくて、あんな危険に晒してもうたけど」
「ま、待って、わざと煽ったっていうのもびっくりしたけどさ、その⋯⋯「知ってる」ってなんなん? 前もそんな事言っとったけど、シゲは俺に何を隠してんの?」
「それは⋯⋯」
 ゆっくりと身体が離された。近くで見るシゲオカの顔は、何か言い淀むような、決めかねているような迷いの色を浮かべている。
「⋯⋯聞いても、嫌わんとってくれる?」
「な、何それ。そんなんありえへんに決まってるやん、シゲはこんな俺を受け入れてくれてんから」
「⋯⋯じゃあちょっと、着いてきて」
 もう一度手を繋ぎ、シゲオカは立ち上がった。慌てて立ち上がり、その背が迷いなく外へ向かうのを追う。外は朝よりも更に霧を濃くしていて、墓場をゆらゆらと白い靄が漂っていた。その中を歩きながら、シゲオカが首にかけた飾りをゆっくりと外し、ポケットに押し込む。
「⋯⋯な、なに?」
「トモと一緒。見とって、すぐやから」
「え⋯⋯?」
 手を繋いだまま墓場の真ん中に突っ立っていると、ゆらゆらと漂っていた霧が次第にその流れを変え始めた。まるで踊るように、舞うように、フワフワと渦巻いて二人を中心にくるくると周りだす。
「わ、うわ⋯⋯!? な、なにこれ⋯⋯!」
「魔導士ってな、それぞれ生まれ持った属性があるねん。自然を操るのが得意なやつ、人体に干渉できるやつ、魔導工学に強いやつ、それからこれは規制対象やけど、時間を操れるやつ⋯⋯」
「うわっ、はは、こそば⋯⋯!」
「⋯⋯聞いてる?」
「あ、ごめん。聞いてる聞いてる」
「⋯⋯俺は大体何でもできたけど、特にずば抜けて得意やったのが死霊魔術やった。こっちの用語でネクロマンスって言うんやけど⋯⋯死者の声を聞いたり、降ろしたり、操ったりすることができる。⋯⋯俺はそれが死者への冒涜みたいでずっと嫌いやった。魔導院を出てそのまま魔導士としての仕事に就かなかったのも、そんな魔導士としての自分が嫌いやったからやった。ほら、見てやこれ」
 シゲオカがポケットからさっき外したばかりの飾りを取り出す。闇を落とし込んだような赤をしたそれは、深い霧の中でも怪しげな暗い光をぼんやりと宿していた。
「これ、力が強すぎる魔導士がそれを抑えるために常に身に付けるやつ。その人の魔導士としての特性を表す色になんねんけど⋯⋯俺はこんなんになった。教授は、珍しい、天賦の才やって騒いどったけど俺はそれがまるで血を垂らしたみたいで嫌で⋯⋯ずっと見えへんところに付けとった。でもな、トモに出会って全部納得がいってん」
「俺⋯⋯?」
 シゲオカが、じっと見つめていたそれをそっと手渡してくる。恐る恐る受け取って近くで見ると、まるで吸い寄せられるようなその赤は目の前でゆらゆらと仄かな輝きを揺らしていた。
「魔導士は、みんな運命に導かれて産まれてくるって言われてる。俺は自分の魔導士としての力が嫌いやったから「んなわけあるか」って馬鹿にしとったけど、ほんまにその通りやってん」
「⋯⋯」
「なぁトモ、それがトモやってん。俺が憎み続けたこの力は、全部トモの為やった。全部全部、今この瞬間の為やった⋯⋯!」
「⋯⋯し、シゲ⋯⋯」
「卒業する時魔導石を取られてから上手く制御できなくなってた魔力が、ここに来てから心地いいくらい正常に流れてた。もう分かるやろ? あの寝台で目を覚ました瞬間からずっと、俺にはここで眠ってる連中の声が聞こえとってん。ここに縛り付けられて理不尽な扱いを受け続けたトモ、それからお兄さん、もっとずっと先のご先祖さんまでへの慈しみと、村に対する怒りがな。はよ自由にしたってくれってそらぁうるさかってんから。⋯⋯うわ、怒んなや。事実やろ」
「ほ、ほんまに言ってるん⋯⋯やんな⋯⋯」
「勿論。周り見たら分かるやろ? あとはトモの気持ちだけ。今トモの心に確かにあるはずの村への怒りを口にしてくれるだけで俺はこいつらを動かすし、そしたらこいつらは喜んであの村滅ぼしに墓場から飛び出してくるで」
「⋯⋯で、でも、俺の気持ち一つでそんなことするなんて、今までずっと繋がれてきた仕事を俺の代で途切れさせるなんて、」
「ちゃうよ、トモ。断ち切んねん。ずっと続いてきたこの理不尽をな」
「⋯⋯⋯⋯断ち、切る」
 呆然と、手元の赤を見つめる。墓を渦巻く霧は、まるで宥めるように、あるいは急かすように背を撫でてくる。
 きっとシゲオカが言っていることは事実で、本当に自分が頷くだけで今聞いた嘘のような出来事が本当になるのだろう。⋯⋯あの村を、滅ぼす。村がなくなったらきっと墓守の仕事は来なくなるだろうし、そうしたら自分は自由になれるんだ。ここを出て、どこまでだって行けるんだ。もう鐘の音に肩を揺らすことも、村の視線に怯えることもなく。
 胸に湧いたのは、歓喜と怒りの両方だった。初めて覚えた、途方もない怒り。いつだって「仕方ないこと」と沈めてきた、心の叫び。誰かに、それもずっと近くで見てくれていた彼らに肯定された途端胸の内で炎のように燃え上がって暴れ出したそれが、歓喜を伴って沸き立つ。シゲオカの口にした「運命」という言葉を脳内で反芻し、そっとトモヒロは口端を上げた。真っ赤な石を握りしめ、顔を上げる。
「⋯⋯決めた?」
「決めた」
「っしゃ、じゃあ⋯⋯」
「ううん、まだやで」
「え?」
「仕事は夜やって決まってるやろ?」
「⋯⋯あぁ、そういうことな。うん、ちょうどええわ。なぁトモ、知ってるか? 今日は死者が蘇る夜。百年分の報いが襲い掛かるにはもってこいの日や」



「⋯⋯心の準備いい?」
「う、うん」
「なに緊張してんねん。やるのは俺とこいつらやって」
「や、みんな大丈夫かなって⋯⋯返り討ちとかに遭わへん?」
「遭うか。死者の軍団が押し寄せてきて冷静に対処できる村なんかあるわけないやろ。⋯⋯ほら、」
「⋯⋯うん。よっしゃ、みんな、やっつけてください! 俺の分もあいつらボコボコにして、あ、あんな村焼け野原にしたれ!!」
「はは、めっちゃ言うやん。っしゃ、見とってや。初めて出す俺の全力、この瞬間の為の、運命──!」
 シゲオカが墓場の真ん中で地面に手をつく。バチバチと耳をつんざくような激しい音が鳴り響き、思わず預けられた石をギュッと握りしめた瞬間、霧がシゲオカを中心に激しく渦巻き始めた。稲妻が光り、大地を揺らすような音と共に空気を切り裂き全ての墓へと突き刺さる。墓がガタガタ揺れ、丁寧に整備した土が盛り上がり始める。シゲオカは呪文を止めない。思わず一歩引き下がった瞬間、すぐそばの墓から手が飛び出してきた。
「っうわぁ!!」
 ボコ、ボコ、と次々手が飛び出してくる。中から現れたのは、文字通り蘇った死者だった。唖然として身動きできないトモヒロの横を通り過ぎ、彼らは迷いなく川の向こうへ向けてザブザブと足を進めていく。信じられない数のその背を見送っていると、突然村の方で大きな悲鳴があがった。どんどん大きくなるその悲鳴や怒号に呆気にとられていると、どこからか火の手まで上がり始める。
「はは、トモが言うたからほんまに焼け野原にする気やで、あいつら」
「あ、シゲ⋯⋯っ!? す、すごい汗やで!?」
「そらだって千人くらい一気に呼び覚ましたわけやから⋯⋯前代未聞やでこんなん。学科におった頃の教授が知ったら鼻血出して喜ぶわ」
「せ、千人⋯⋯? そんなにおったんや⋯⋯」
「そう。それもこれもみんな、トモとトモのご先祖さんがこの墓場を大事に、優しく守り続けた結果やで。千人なんか俺でも自信ないって一応交渉してんけど、みんな行くって言って聞かんかってんから」
「そう、なんや⋯⋯」
「そういうこと。⋯⋯さ、どうする? 俺は夜のうちにトンズラこいた方がいいと思うけど」
「⋯⋯ううん。終わったらみんな帰ってくるんやろ。ちゃんと土掛け直してあげな」
「トモはそう言うと思った。ほんならあのアホ村が燃えてるところ肴に酒でも飲むか。トモ、麦酒好き?」
 汗を拭いながら地面に座り込み、どこから取り出したのか小さな樽を置いてシゲオカは朗らかに笑った。とても死者を呼び起こして村一つ分の人を殺しに行かせた人間とは思えないその笑顔に嘆息し、トモヒロは隣へあぐらをかいた。
「飲んだことないけど飲む。酒って、気分がいい時に飲むもんなんやろ」
「お、分かってるやん。ついでに好きな相手と飲むと数倍美味い」
「え? っんむ!」
 首元を引き寄せられ、唇が触れ合った。目を丸くしているトモヒロを見て、シゲオカは愉快そうにけらけらと笑っている。その手が樽に伸び掛けたのを掴んで無理やり引き寄せ、トモヒロは初めて誰かに自分から口付けた。真っ赤になった頬をシゲオカが撫で、今度はゆっくりと唇が合わさる。
 霧深い夜。悲鳴と怒号が轟き、村から上がった炎が夜を照らす。向こう岸で上がった一段と大きな怒鳴り声に二人はちらりと視線を向け、悪戯っ子のように笑いあった。

「⋯⋯あぁ、もう半分は死んでんな。気分どう?」
「もう? ⋯⋯さぁ、どうでもいいや。何とも思ってへんから」




*





 夜明けが近づき、空が白み始めた頃。またザブザブと音を立てて彼らが戻ってきた。満足したかのように自分の墓へ戻っていくその姿越しに、未だ炎を上げ続けている悲鳴すらしなくなった村の残骸が見える。
「⋯⋯ちゃんと全員おる?」
「ん? ⋯⋯おる。全員ピンピンしてるわ。これで今度こそ悔いなく眠れるから好きなとこ行っといでって言ってる」
「あはは。⋯⋯そっか。みんな無事でよかった⋯⋯」
「もう術切るで?」
「うん。埋め直してあげな」
 全員が墓へ戻ったのを見届け、シゲオカはまたぶつぶつと呪文を唱え始めた。それを聞きながらスコップを取り出し、彼らが出てきた穴を一つ一つ盛り直していく。ありがとう、と何度も囁き続けているその横顔を、呪文を唱えながらシゲオカは眺めていた。



「トモ、そろそろ出な。街の方から調査団が来てるわ」
「え、ほんまに?」
「うん。まだかなり遠いけど⋯⋯十分くらいで支度できる?」
「できる!」
 小屋に飛び込み、トモヒロは最低限の荷物をまとめて縛った。シゲオカがいたく気に入ってくれているお茶とティーセットも丁寧に包み、手持ちの鞄へ入れる。それだけで、質素な暮らしをしているトモヒロの身支度は終わりだった。生まれてから今までを過ごした部屋をしばし見つめ、そっとドアを閉じる。外には、箒片手に待っているシゲオカの姿がある。小屋のすぐ隣の墓場にしゃがみ込み、呟いた。
「⋯⋯じゃあな、兄ちゃん。行ってきます」
 最後にそっと指先で墓をなぞり、立ち上がる。黙ってシゲオカと目を合わせて頷くと、森を抜けることにしたのか川とは反対側に向かって歩き出した。
「あ、トモ。あいつらも寂しがってるから声かけたって」
「え? あ、ほんまや。み、みんなありがとう! 行ってきまーす! ⋯⋯どう?」
「爆沸き」
「爆⋯⋯?」
「ほら、後ろ跨って。飛ばすで」
「え、わっ、うわーーーーーっっ!!!!」
「ちょ、声デカいって!」





*






「⋯⋯⋯⋯え、シゲが?」
「はい。えっと、私は南の村で墓守をしているものなんですが、しばらく前に嵐があったでしょう? あの日に彼が上流から流されてきまして⋯⋯。手は尽くしたんですが熱が下がらず、そのまま息を引き取られました。墓守ですので、彼のご遺体はこちらで丁重に送り出しました。荷物一つでは身元をなかなか割り出せなかったことと、これでもあまりあの場を離れるわけにはいかない立場ですのでこれだけ時間がかかってしまって⋯⋯。こちら、彼のお荷物です」
「えっ、あぁ、確かにシゲの物です⋯⋯ね⋯⋯」
「お悔やみ申し上げます。彼はご家族と早くに疎遠になっていて身寄りがないと伺っていますので、役所への手続きはお任せして構いませんか?」
「⋯⋯わかり、ました。っあ、あの、あいつを看取ってくれて、ありがとうな」
「⋯⋯いえ。では私はこれで」
 白い髪の不思議な青年が去るのを郵便局の前で呆然と見送り、キリヤマは手元の荷物に目をやった。数週間前の嵐の日から行方を眩ませていた部下が、たった一つの荷物になって帰ってきたことに心臓をバクバクと鳴らしながら。
「⋯⋯アキト? 何やったん、今のお客さん」
「そ、それが、シゲ亡くなってんて⋯⋯」
「⋯⋯は?」
「今の人な、南の村にある墓守らしくて、あの嵐の日にシゲが川流れてきてそのまま高熱で息を引き取るのを看取ってくれたらしいわ。すごい風やったもんな、川に落っこちてもうたんか⋯⋯」
「⋯⋯南の村?」
「え? うん」
「ちょっと中入って。⋯⋯アキト、それ嘘やわ」
「う、嘘!?」
「ほんまにラジオ聞かんやつやなぁ。南の村は一昨日大火事で焼け野原になってんねん。生き残りも誰もおらんくて、川挟んだところにある墓場ももぬけの殻になってたから墓守も火事の時村におって巻き込まれたんちゃうかって話になってる」
「はぁ!? じゃあ俺が会ったのって⋯⋯」
「墓守なのはほんまなんちゃう? でもきっとシゲちゃんは生きとって、死んでることになった方が都合がいいんやわ」
「⋯⋯どうする?」
「⋯⋯どうしよ」
「⋯⋯⋯⋯まぁええか! なぁんか知らんけど、そうまでしてでも一緒にいたい相手が見つかったんかもしれんわけやし!」
「えっ? な、なんでそんなこと分かるん?」
「だってさっきの墓守くん、ポケットにあの赤い石入れてんのが見えてん。シゲがいっつも隠してつけとったやつ」
「そ、そんなんその人が金目のもんやと思って盗んだだけかもしれへんやん!」
「そうか? だってさ、おかしいやん。シゲがいなくなった日、嵐やのに濡れもしてへん手紙がいつの間にか届いとった〜って報告がいっぱい来たやん。いくらシゲとはいえ高熱で死にかけてる時にそんなことできるか?」
「⋯⋯た、確かに」
「な? きっとシゲにもようやく生きる道が見つかったんやで! 俺らは潔く見送ってやろうや! さ、死亡届出しに行くで!」
「な、なんか嫌やなぁその見送り⋯⋯」





 いそいそと足早に街を歩き、ある家の前で青年──トモヒロは足を止めた。持たされていた赤い石に「戻ったよ」と囁くと、数秒後、雑踏に紛れてその姿がヒュンと消える。
「おかえり、トモ」
「た、ただいまぁ⋯⋯人多すぎて目眩する⋯⋯」
「はは、横になっといていいよ」
 書類の山に囲まれているシゲオカを横目によろよろと寝台まで歩いて倒れ込むように横になり、トモヒロは重い息を吐いた。都市に来て二日。未だ慣れない人の多さにクラクラしながらちらりと視線をやると、シゲオカは机に向かい、今朝見た時よりまた更に増えた書類を積み上げてガリガリとペンを動かしている。
「どうやった? やりたいことできた?」
「んぇ? あぁ、うん。シゲが言ってた飲み屋さん見に行ったら妹が開店準備しとったわ。話しかけることは流石にできんかったけど、あの分なら姉ちゃんも元気にしてるやろうしよかった」
「⋯⋯そっか」
「シゲの職場もちゃんと寄ったで。たぶんアキトさん? が出てきはった。南の村のことすら知らなさそうやったから上手いことやってくれるんちゃうかな」
「はは、相変わらずやなぁアキトくん。まぁ多分バレてもあの人らなら俺の意図汲んで死んだことにしといてくれるわ」
「⋯⋯言葉だけ聞くとすごいこと言ってんな⋯⋯」
 呟くと、机に向かった背中がくすくすと揺れた。肩が当たって揺らいだ書類の山を「うわっと」と指先一つで止めたこの男は、一度この街に帰ってからも、今も、誰にもバレないように隠れてこれから二人で生きていくための準備とやらをしていたという。初めから手のひらの上で転がされていたらしいことにトモヒロは一度顔を顰めたものだが、あの顔で眉を下げて「悪かった⋯⋯」としょんぼりされたら何も言えなくなってしまった。もしかすると、誰かを好きになるというのはその人に勝てなくなるということなのかもしれない。
 背後でトモヒロがそんな事を考えているなんて露知らない男が、突然「よっしゃあ!」と声を上げる。
「終わったん?」
「終わった! これであとはこの技術書全部引っ提げてジュンタ脅しに行って俺の魔導石と新しい卒業印と二人分の戸籍用意してもらうだけやわ。目立たんよう晩に行こかな」
「な、なんか知らんけど絶対めちゃくちゃ欲張ってるやん。そんな事ほんまにできんの⋯⋯?」
「できるできる。明日か明後日くらいまでには用意してくれるわ。言ったやろ、これでも天才やって」
「優秀から天才に上がってるやん」
 机から立ち上がって伸びをしていた背が振り返り、満面の笑みでボフンと飛び込んできた。ぎゅっと強く抱きしめられて思わず目を細め、だけどゆっくり背中へ腕を回す。
「楽しみやなぁ。どこ行こか。トモは行ってみたいところある?」
「えぇ、そんなん何も知らんのに分かるわけないやん」
「まぁそうかぁ。俺もこの街以外知らんしな」
 抱きしめたまま頬に口付けを何度も落とし、シゲオカが呟く。その時ふと頭に浮かんだのは子供の頃、同じようにしてトモヒロをあやしながら母親が話してくれた故郷のことだった。
「西⋯⋯」
「にし?」
「西に母さんの故郷があるらしいねん。名前は微かにしか覚えてへんけど⋯⋯。そこに行ってみたい、かも」
「へぇ、ええやん。じゃあ準備が終わったら西に出発やな」
「⋯⋯うん」
 微笑み、トモヒロは頷いた。部屋を西陽が差し、二人の影が長く伸びる。それがまた揺らめいても、シゲオカはもう何も思わなかった。ただ目の前の運命という名の温もりを抱きしめ、瞼を落とす。
 どこからかまた何かの声が聞こえてくる。それは死者の呼び声か、あるいはこの街のどこかで誰かに忍び寄る死の足音か。⋯⋯あるいは、この愛しい青年の纏う百年分の死の気配か。
「⋯⋯そんなんもう、どうだっていいやんなぁ?」
「ん?」
「なぁんもない。同期がポンコツやったことに感謝してるだけ」
「⋯⋯?」
 夜まではまだ時間がある。防音の魔術を小声で囁いて強化しながら、シゲオカはようやく見つけた運命に唇を寄せた。


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