ほしをのむ




 お前と出会った瞬間から今まで、いっそ全て夢だったような気がするんだ。それほどお前との時間はいつだって現実味がなくて──あるいは、そう思わなければ耐えられないほどに、とっくにおかしくなっていたのかもしれない。
 何にせよ、気が付いた時にはもう、どうしようもないほど首が絞まっていた。悲鳴をあげて血を流す重たいこころを背に隠したまま、俯いて何度も自分に言い聞かせる。大丈夫。きっと、大丈夫だから。








「かみちゃん?」

 カタン、と鳴った小さな音で我に返った。
 突然戻ってきた視界に映るのは、真っ白なまな板と包丁を握る自分の手、それから中途半端に刃を通されたままの白菜。操られるように視線を上げると、不思議そうな顔をした恋人──しげが、俺を見つめている。
「なにぼうっとしてんの。包丁危ないで?」
「⋯⋯っあ、ごめん。大丈夫」
「そ?」
 しげは、きょどる俺をじーっと見つめてきたけど、深くは追求してこなかった。大人になったな、なんて少し場違いなことを考えながら、息を吐く。目線を目の前に戻し、ゆっくり包丁を差し込んだ。ザク、ザク、と小気味よい音を立て、薄緑色をした葉が散らばっていく、その様子をただじっと、眺める。
「なぁ、今日なに?」
「⋯⋯八宝菜」
「うわ〜、めっちゃいい。最高」
「言うと思ったわ」
「ひひ」
 風呂上がり。がしがしとタオルで雑に頭を拭きながら、しげはご機嫌でリビングに戻っていく。後ろ姿すら、綺麗だ。一度も染めたことのない真っ黒で艶やかな髪が、最近は水に濡れるとやけに色っぽく見える。それを伝えてやったら、こいつは喜ぶだろうか。そう、ずっと考えている。ずっと、考えたままだ。
「⋯⋯あ、そうやかみちゃん」
「ん?」
 ひょっこり、リビングへ戻ったはずのしげが綺麗な顔を覗かせる。切り終えた白菜をよけながら返事をすると、彼は何だか嬉しそうに顔を綻ばせていた。その表情に、思わず、ドクンと心臓が嫌な音を立てる。
「今週末、どっちか空いてる? 二日続けてオフなってさ、出掛けられへんかなって」
「⋯⋯へぇ、二日も? 凄いな」
「な。俺もびっくりしたわ」
 まぁ、ロケの日時が急に変わることって、多くはないけどさほど珍しくもないねんよな。そう呟くしげは、今をときめく(死語か?)人気アイドル様だ。
 俺は実家がこいつのお隣だっただけの一般人で、何を思ったか高校まで普通の公立高校に通い続けたこいつと、二十年以上一緒に居た。その二十年の間にまぁ、色々あって。俺はもう十年近く、この人気アイドル様の恋人という立ち位置に落ち着いてしまっている。
 高校卒業と共に上京すると言うあいつにせがまれ、健気にもこれといった理由もなく東京へ進学。就職もそのまま東京で済ませてしまって、早数年が経った。在学中に何かと理由をつけて一人暮らしの俺の部屋へ上がり込んできていたこいつとも、一つの部屋に一緒に住み始めてもう長い。相手が人気アイドル様であるにも関わらず週刊誌どころかネット上の噂にすらなっていないのは、俺がただの一男性会社員だからだ。
 「昔からの幼馴染と、仲良すぎて今でも一緒に暮らしてるねん」。そう嬉しそうにコンサートのMCで話していた、というレポをSNSで見かけた時、二人の部屋で一人、俺は崩れ落ちた。理由は、⋯⋯多分、虚しさだ。
「かーみちゃ、まだ?」
「出来たよ。お茶とお箸出しといて」
「おっしゃ!」
 ほわほわ、食欲をそそる匂いを漂わせる八宝菜をフライパンから大皿に移す。「はっぽ、はっぽ〜」とよく分からないしげの即興曲をBGMに軽く台所を片付けてからリビングに入ると、先に席へついていたしげが「はよ食べよ」と笑った。
 好きだ。何年経っても変わらず熱の冷めない、いつだって逆上せ上がってしまいそうなはど、いっそ全部夢であって欲しいほど眩しくて愛しい、大好きな人。
 この恋と別れる方法をもう何年も探し続けていた。それがようやく、本当にようやく、終わろうとしている。

「⋯⋯お待たせ、食べよか」



 綺麗だから好きになった。
 何より綺麗で、眩しくて、先に好きになったのは俺だ。

 綺麗なあいつの隣に立っていることを誇りに思えていたのは、いつまでだろう。綺麗だから好きになったのに、次第に傍に居ることがこわくなった。彼の特異さにいちばんに気がついていたのは、間違いなく自分だっただろう。
 しげは綺麗だった。誰より綺麗で、誰より眩しくて、真っ直ぐだったんだ。

 「アイドルでもやってみよかなって、思ってんねん」

 二人だけの帰り道。俺はダンス部、しげはサッカー部に所属していて、当然終わる時間は違うのに、毎日律儀にどちらかが待っては短い通学路を一緒に帰っていた。その終わり際、互いの家の間で突然そう告げられたのは、中学二年の春のことだ。
 駅前でスカウトを受けたという会社の名前は、著名な俳優が多く在籍する巨大芸能事務所だった。今の男性アイドル戦国時代に参入するべく、今から育成を始めようとしているところで君を見つけたんだ、という旨の説明を受けたらしい。
 何人か、めぼしい子スカウトして育てて。今俺以外に三人入ってるらしくて、これからまだ数人は探すねんて。
 俯いて部活用の鞄を振り回しながらつらつらと話し続けるしげの声音には、僅かな不安が混じっていた。特殊な世界に飛び込むこと、自信のなさ、それから多分、俺と居る時間が減ることへの恐怖。それにも関わらず、期待や高揚を感じてしまっていること。
 多感な中学生が抱えるには多すぎる様々な感情の波に、しげは揺れていた。だから俺に話したんだ。
「⋯⋯いいんちゃう? 正直、一般人でいていい顔じゃないとは思っとったし」
「⋯⋯⋯⋯」
「迷ってるんなら、やればええやん。やらんかった後悔は後ではできへんで」
 目を見て言うことはできなかった。それでも横で一瞬、俺でなければ分からないほど小さく息を吐くのが聞こえた。多分、安堵の息。ほら、やっぱり背中を押して欲しかったんだ。間違えなくてよかった。
「⋯⋯じゃあ、やってみる、わ。がんばるな」
 そう言ったしげに、黙って頷いた。上手く笑えていたかは分からないけど。
 互いの家の目の前で手を振り、いつも通り俺としげはそれぞれの家へ入った。台所にいた母親と軽くだけ言葉を交わしてから部屋に駆け込み、鞄から部活用の靴を取り出して勢いよくゴミ箱へ投げ入れようとし、手が止まった。
 そこには、幾つものクシャクシャに丸められた紙と、その隙間から見える「不合格」が並んでいた。息が、手が、震える。ゆっくりそのまま腕を下ろし、手を離した。がさ、と悲しいほど小さな音をたて、真っ赤な靴が紙屑の波へ沈み込む。
 去年親に頼み込んで買ってもらったばかりの、毎日大切に使っていた有名ブランドのダンスシューズ。物言わぬそれは、密かに抱えていた夢と一緒にゴミ箱で静かに横たわっていた。

 次の日の早朝、初めて一人で登校した俺は、顧問に退部届を押し付けて逃げるように職員室を飛び出した。それから約十年。俺は一度も踊っていない。




「あー、うまかった!」
「はいお粗末さん」
「ほんで週末どうする? 海とかどうやろ、人多いかな」
 空になった大皿を前に、しげは嬉しそうに頬を上げた。
 週末ねぇ、と呟き、目線を落とす。予定は無い。いつだってそうだ。律儀な彼は毎回予定の有無を尋ねてくれるが、社会人になってからの俺が週末に予定を入れたことなんて、ほとんどなかった。全部、ただ一人の為だ。その些細な献身が功を奏す回数は、彼の名前が大きくなるにつれみるみる減っていった。
「⋯⋯ごめん、実は大学の友達に誘われとって」
「え、そうなん? 珍しいなぁ。どっち? 土曜?」
「りょう、ほう」
「⋯⋯両方? ⋯⋯旅行でも行くん?」
「そん、な感じ」
 訝しむように、綺麗な顔が少し歪んだ。
「⋯⋯それ、男?」
「そらそうやろ」
「ふぅん⋯⋯」
「別に、ただの友達やで。ずっと誘ってくれてるから、流石に断り続けんのが申し訳なくなっただけ」
 咄嗟に考えた言い訳だったが、泊まりの旅行をこんな直前まで言わないのは不自然だっただろうか。そっか、と呟いた顔は不満そうに少しだけ膨れている。嘘をついてしまったとはいえ、思わず少し頬が緩んだ。
 彼は、こんな何でもないただの男の俺を恋人にしてくれている。友人と少し旅行に行くと言っただけで、頬を膨らませてくれる。

 自分は何万もの人から愛され、求められているのに。

「しげ、妬いてる?」
「当たり前やろ。⋯⋯そんなん、珍しいし。ずっと誘ってきてたとか、かみちゃんのこと好きなんかもしれんやん。ていうか俺そんな男のこと聞いてへんぞ」
「はは、いちいち言わんよそんなん。しげ、仕事で何回か関わっただけの人の事俺に話す? 話さんやろ? 俺にとってのあいつもその程度やねん」
「でも旅行行くんやん!」
 わざと子供みたいな話し方をするのは、多くない一緒に過ごす時間の中で喧嘩になりたくないからだろう。だから俺もそんなしげをケラケラ笑って、食器を片付けるべく立ち上がる。
「ほんま、ちょっと付き合ったるだけやし他にも何人かいるから。せっかくの休みやのにごめんな」
「それは全然⋯⋯ええけど⋯⋯」
「しげこそ、いっつも休み俺と過ごしてるけど、色々誘われたりあるんちゃうの? たまには別々に過ごしてみるのもええやん」
「⋯⋯⋯⋯分か、った」
 不服そうな顔はそのままだったが、しげは渋々頷いた。これで話は終わりと判断し、重ねた食器を手渡す。するとしげは口をとがらせたままそれを受け取ったものだから、可愛らしくて思わず軽く口付けた。パッと顔を上げた彼の顔が、見る間にくしゃりと解けていく。
「もう、かみちゃんずるいわぁ」
「だってかわいい顔してるから。キス待ちなんかと思って」
「ちゃいますぅ! 拗ねとったんですぅ!」
 ある程度機嫌の治ったらしい彼がキッチンへ行くのを見送り、リビングのソファへ腰掛けた。一緒に食事をするとき、作るのが俺、皿洗いはしげの担当にしている。何とも言えない表情でスポンジをクシュクシュ泡立てているのを微笑んで眺め、ソファに投げ出していたスマホを手に取った。
 持ち上げたことで勝手に起動したロック画面には、昨日まで同僚だった沢山の人からのメッセージ通知が並んでいる。その画面のまま内容にだけ軽く目を通し、開くことはせずテーブルに伏せて置いた。⋯⋯全部、どうでもいい。
 今朝、俺は退職届を出してきた。両親の体調が芳しくない、と言う話を以前から匂わせておいたからか余り驚かれることもなく、「介護が必要になりそうなので」とだけ説明すればそれ以上は追求されなかった。想定外のことがあったとすれば、思っていたより多くの人に惜しまれる程度の人望はあったらしい、ということだけだ。
 上京する際にしげとの関係がバレて以降、それを受け入れられなかった家族との関係は劣悪で、実際はもう何年も連絡を取っていない。友人関係だって、高校も大学も卒業以降全く付き合わなくなった俺に誘いを掛けるような奴は年が経つにつれいなくなり、今ではゼロに等しい。俺にとって、正真正銘、重岡大毅が世界だった。
「⋯⋯最高最大の物語⋯⋯」
 彼のグループの持ち歌を口ずさむ。きっと、皿を洗う水音に紛れ耳に届くことはないだろう。
 俺は彼より歌が上手くて、恐らく今でも、彼より上手く踊ることができる。かみちゃんダンス教えて、と懇願されたのは、確かあいつが事務所に入ってすぐの頃だ。それを俺が断った時の心底不思議そうな顔、かわいかったなぁ。
「好きやで。今も、昔も、⋯⋯これからも」

 今週末、俺は自分の命を断つ。随分と時間がかかってしまった、しぶとい恋心にけじめをつける為に。


*



 翌朝。隣の体温が動き出す気配に目を開くと、部屋はまだ真っ暗だった。⋯⋯そうだ、今日は確か早朝から移動だと言っていた。普段はそれで目が覚めることはないけれど、少しずつ意識が覚醒するのを感じる。
「⋯⋯しげ」
 ゆっくり身体を起こし声をかけたら、ベッド脇のクローゼットから服を取り出していたらしい背中が大げさに跳ねた。驚かせてしまっただろうか。真っ暗でまだあまり目の慣れないな部屋で、しげが振り返った気配がする。
「⋯⋯起こしてもうた?」
「ん⋯⋯ええよ、電気つけて」
 そう言った俺の声が意外とはっきりしていたからか、しげは躊躇いながらもすぐに部屋の照明をつけた。明るくなった室内で目に写った恋人は眠たげな顔で所々寝癖を付けていて、顔がいっとう綺麗なことを除けばただの一人の男に見える。⋯⋯まぁ、“見える”だけだが。
「いま何時?」
「えーっと、四時⋯⋯十五分」
「うわぁ」
 思わず妙な反応をしてしまった。ギリギリ朝と呼べるような時間だ。俺が知らなかっただけで、遠くへの移動の時はいつもこんなに早いのだろうか。自分だって眠そうな顔をしているくせに、ごめんな、としげが眉を下げる。
「やっぱ電気消すから寝とき。今日も仕事やろ?」
「んや⋯⋯なんか目覚めたし見送るわ」
「⋯⋯ええの? まだ出るまで結構あるけど」
 一瞬嬉しそうに見開かれた目は、すぐ心配げに歪んだ。俺は朝に弱い。それは勿論しげもよく知っているから。だけど自分でも不思議なくらい今、目が冴えている。無意識下で、彼との時間を惜しんでいるのだろうか。
 バレないようそっと息を吐き、笑みを浮かべた。哀れな恋心。これが僅かでも、慰めになるのなら。
「大丈夫。時間あるなら、なんか飲み物でも入れよか?」
 たったこれだけの言葉で、大好きな人は目を輝かせた。嬉しそうに伸ばされた手を掴み、緩く抱き起こしてもらう。
「寝起きのかみちゃん、かわいい」
「いつもやろ」
「いつもやけど」
「ふふ」
 ただのサラリーマン相手に何言ってるんだか。そう笑おうとして、固まった。
 そうだ、もうサラリーマンですらない。この何度したか分からないやり取りも、もう嘘になるんだ。


 寝室の照明を落とし、手を繋いだままリビングに移る。シャッターを開ければ、外はほんの少し明るくなり始めていた。風を通そうと窓を開け網戸にすると、遠くから新聞配達の音が聞こえる。いつの間にか背中にへばりついていたしげが、首元に鼻を押し当てながら喋りだした。擽ったくて困る。だけど、心地いい。
「こんな早い時間から新聞配達、大変やなぁ」
「な。⋯⋯擽ったいんやけど」
「うーん、いい匂いすんねん⋯⋯」
「使ってるもんぜーんぶ同じやん」
「うん、不思議やなぁ」
 寝起きのしげの適当な返答に口元だけで笑い、頭を撫でてやる。すり寄せられた頬に思わず目を細めた。
「かみちゃん、好きやで。⋯⋯世界で一番、かみちゃんが、かみちゃんだけが好き」
「うん。⋯⋯俺も、好きよ」


 約一時間後、「かみちゃんのおかげで今日は一段と頑張れる!」と拳を突き上げながらしげは仕事へ出掛けていった。それに手を振って見送り、いつもならそろそろ起きるあたりの時間を指している時計に目をやる。
 さて、もう仕事はないけどどうしたものだろうか。せっかくだからこのまま家でのんびりゲームでもして過ごしてもいいが、彼の仕事はとにかく不規則だ。真っ昼間に突然帰ってくることなんかも十分にあり得て、その場合うまく誤魔化せるかはあまり自信がない。なんせ、有給を取ったことなんて入社以来会社が決めた最低回数しかないのだ。
 ひとまず適当につけたテレビを眺めるでもなくぼうっと考えていると、さっきまで報道だったのがエンタメコーナーに移っていた。そこに並んだ『今秋5大ドームツアー決定!』と言う文字列に、小さく「あ」と声が漏れる。しげ⋯⋯の、グループのことだ。すぐに切り替わった画面で、多くの記者を前に顔のいい男たちが並んで立っている。その真ん中で、しげは他所行きの、だけど楽しそうな笑顔で喋っていた。

『またこうやってドーム回らしてもらえることになって、ほんまに嬉しい限りです! これからもより一層なんかこう、ね! 努力していきつつ、勿論全国みんなのファンに会いに行けるようすぐアリーナツアーとかもやれたらええなってね、思ってるんで! えーと、とにかく皆さん、楽しみに待っとってください!』
『ちょっとしげ、これ、ドームツアーの取材だからね。ていうかまだ何にも決まってないこと言わないでよ』
『あっほんまや! すんませんアリーナは俺の願望です! お偉いさ〜ん、お願いします〜!』
 取材陣の笑い声を最後に映像は終わり、スタジオの出演者へカメラが切り替わる。キャスターもその他出演者も、皆が笑顔だった。
「いや〜、やっぱり重岡さん面白いなぁ」
「そうですねぇ、見ているだけでこっちまで元気をもらえる、朝にピッタリの方ですよね!」
「いつかスタジオにも来ていただけたらいいですね。それでは次は、最近SNSで話題のあの方に番組独占インタビューを⋯⋯」
 キャスターの声が遠のく。テレビの電源を落とし、息を吐いた。
 何度目かのドームツアーが正式に発表されたのは昨日だが、当然随分前に決定と俺への報告はされていて、大きな仕事だけにしげも張り切っていた。いつもちゃんと用意してくれる席に、いつものように、「予定空いてたら来てな」と笑ってくれた。そんないつだったかの会話を思い出し、「全国、かぁ」と呟く。
 そうだ、俺の方は場所を決めていなかった。週末まで時間はないのだから、下調べとロケハンくらいはしておかないと。そう思い立ち、スマホを手に取る。あまり時間はかからなさそうで、所謂『名所』でもないところ。条件を絞りすぎかと思ったそれは、案外あっさり見つかった。
 車を走らせること数時間。ネットで調べた通りの静けさに感嘆の域を漏らした俺は、ある県の山道途中にある大きな橋へ来ていた。休日の日中なんかはライダーがこぞって走りにくる有名なコースらしいが、それ以外はほとんど人も車も通らないという。恐る恐る橋の外を覗き込んでみると、思っていた以上に底は遠かった。⋯⋯もしかすると六十メートルくらい、あるかも。ここから落ちれば、まぁ間違いなく、死ぬだろう。
 少し恐怖に駆られたものの、ブルっと頭を振って考えようにしながら車へ戻った。都内から車で数時間もあれば来られたし、人気も本当に無かった。これなら何も問題ない。あとは、日が来るのを待つだけ。




「あ、おかえりぃ、かみちゃん。遅かったな?」
「うん、今日大変やったぁ⋯⋯」
「あらほんまかいな。よっしゃ、しげちゃんが甘やかしたるで〜」
「⋯⋯じゃあ、お願いしよかな」
 カモフラージュに持っていた仕事用の鞄を置きながら素直にそう言うと、しげは少し驚いたような顔をした。玄関で待ってくれていた恋人の元へ飛び込み、胸元に顔を埋める。もう風呂も済ませているらしく、彼からは柔らかなボディソープの香りがした。
「⋯⋯大変やったって、なんかトラブル?」
「んー⋯⋯まぁ、そんな感じ」
「そっかぁ。よう頑張ったね、かみちゃん。えらいえらい」
 優しい手つきで髪に指が差し込まれる。そのままゆっくりと、まるで壊れ物を扱うみたいに撫でられるのが心地よくて、思わず目を瞑った。そうすると、しげの香りと、山で受けた強い風が混ざり合う。俺は今日、本当に自分が死ぬ為の場所を見に行ったのだろうか。今俺の頭を撫でているこの人は、一体誰なんだろう。ぐるぐる、ぐるぐる。まるで知らない誰かにかき混ぜられているかのように、思考が定まらなくなっていく。
「⋯⋯かみちゃん、今日会社から出た?」
「ん⋯⋯? あー⋯⋯出たよ。頭下げに行っただけやけどな」
「⋯⋯そっか。嫌なこと思い出さしてごめんな! 風呂入ろか、それか先食べる?」
「腹減ってないし、風呂にしよかな」
「よっしゃぁ、じゃぁ行こ」
「⋯⋯しげもう入ったんちゃうの?」
「甘やかしたるって言ったやん」
 二人だけの、二人の好きなものしかない、幸せな部屋。大好きな恋人に腕を引かれて風呂場へ向かいながら、俺はまだぼんやりしていた。だから気付かなかった。些細な、不可解に。

『⋯⋯かみちゃん、今日会社から出た?』


 木曜の夜。週末が、目前まで迫っていた。


*



 翌日は、朝から雨だった。冠番組の収録のみのスケジュールで昼からだというしげに見送られ、意味のないスーツに身を包んで部屋を出る。
 目が覚めた時から淡々と降り続けている雨は、どんよりと重い雲を纏って空を覆っていた。行き先も考えずに駅まで歩いている間にも、雨は勢いを増していく。バツバツと傘を叩きつけるようなそれは、夏らしいといえばそうだった。
 そうしている間にも駅に着き、まるでいつものように人並みに紛れて改札をくぐる。会社員、会社員、学生、会社員、学生⋯⋯いつもの風景だ。いつもの、普通の人達。その中に俺も紛れ、わざわざ満員の電車に乗り込む。ガタン、と大きく車内が揺れ、それぞれの濡れた傘がぶつかってシャツに染みを作る。夏と、雨と、人の多さの作る湿度。それに揺られながら、人の隙間からわずかに見える外を眺めていた。
 いつの間にかかつての職場があった駅に着いていて、癖でそのまま電車を降りる。相変わらず雨は強いままだった。それどころか、何だか風まで出てきているような気がする。最近ニュースを全く見ていないけど、もしかして台風でも来ているのだろうか。もう季節は盆を回ってるのだから、そうなのかもしれない。⋯⋯盆、を、回って。
「ね! もうすぐしげ誕生日じゃん」
 振り返る間も無く、横を女子高生達が通り過ぎていった。瞬間的に俯いていた顔を上げると、彼女達は楽しそうに喋りながら階段を下っていく。
「当日何かあるかな」
「あるでしょ。去年も配信あったし⋯⋯あ、でも今ドラマ撮影中って言ってたし時間怪しいかなぁ〜?」
「えー、誕生当日祝えないのはつらい」
 大丈夫、配信はあるよ。ドラマ撮影中なのは事実だけど、彼は頑張って俺との時間もファンとの時間も作る、って意気込んでたから。心中で、決して口には出せない言葉を呟く。
 遅すぎる俺の歩調に、彼女達の後ろ姿はとっくに小さくなっていた。彼女だけじゃない、ラッシュ時の駅構内でちんたら歩いている俺を、少し疎ましそうに見る人がちらほらといた。流石にちょっと気が引けて、ひとまず急足で改札を抜ける。
 それからじゃあどうしよう、と辺りを見渡し、困った。やりたい事が、何もない。だけど、きっとまだしげがいる家に帰るわけにはいかない。⋯⋯あぁ、俺って本当に空虚な人間になっていたんだ。『きっとまだあいつより上手く歌って踊れる』。そんな事を思っておきながら、今、翌日の死を前にしても踊りたいだなんて少しも思わなかった。
 あの頃毎日、何を踊っていたんだろう。何を歌って、何を伝えたいと思っていたんだろう。頭に浮かぶのは彼のグループの曲ばかりで、それは、どれだけ上手く踊れようが、歌えようが、彼らのものだった。

『──ということで、来週水曜夜十時スタートです! みんな見てね!』

 街頭ビジョンから、聞き慣れた声が流れてくる。それにスマホを向ける、数人の女の子達。ドラマへの出演が決まってから頻繁に見かけるその光景を、いつもと違って立ち止まったままじっと眺めていた。次にビジョンに映し出された『台風九号、明日朝にも関東上陸か』という文字を確認し、踵を返す。
 結局俺は、自分に残した最後の一日を駅近くの漫画喫茶に明け渡した。



 少し早く上がれた、という理由を引っ提げて夕方に玄関のドアを開けると、部屋に人の気配はなかった。まだ帰ってないらしい。安堵しつつ中身の軽い荷物を置き、リビングのソファに転がる。あぁ、安心する。本当は、この俺たちだけの世界で最後の一日を過ごしたかった。今思えば、有給というカードを消化してもよかったのかもしれない。だけど入社以来ほとんど使わなかった俺が急に休みなんて取ったら、しげはきっと怪しむ。それだと、困る。
 ブル、と震えたスマホを横になったまま手に取ると、当然しげからだった。

『なーんか、断られへんお偉いさんに飯誘われてもうたから今日遅くなります』

 字面でも不服そうなのがわかるそれをじっと見つめ、既読をつけるのはもう少し後にしよう、と元の位置に戻す。
 窓へ目を向けると、雨風は強くなる一方だった。今朝より何倍も強くなった雨が、ガラス窓を叩きつけている。『旅行』なんて、到底行けそうもない天気だ。

 俺の世界は、重岡大毅そのものだった。
 だったら、世界を終わらせるのは、彼が居ない時がいいのかもしれない。

 腰を据えかけていたソファから立ち上がり、もう一度、部屋を見渡す。俺と、あいつだけの、秘密の部屋。誰も呼んだことのない、二人だけの世界。ここで過ごした時間は、どれほどになっただったろう。
 涙は出なかった。荷物も、飛び降りに準備なんていらないから特別何もない。スマホと、飲み物と、物置にある非常用の大きい懐中電灯。それだけを大きめの鞄に順に詰め、閉じる。いつも身につけているネックレスを外し、そこに通してある指輪を外した。それは半年ほど前に突然、しげがくれたものだ。
『形だけやけど、一生一緒の証』。
 そう言って照れ臭そうに、彼が笑った姿を今でも鮮明に覚えている。裏側に俺たちのイニシャルと付き合い始めた記念日が掘られたそれをゆっくり左手の薬指に嵌めてみると、初めて涙が一滴だけ零れた。しげの前では、終ぞ、一度も指につけることが出来なかったなぁ。

「⋯⋯⋯⋯よし」

 立ち上がり、鞄を手に取った。忘れ物はない。
 振り返ることはせず、そのまま玄関まで出て靴を履いた。帰ってきてそのまま着替えていないから、仕事用の革靴にした。危ないかもしれないけど、もう、関係ない。むしろ何の思い入れもない仕事用の姿の方が、未練なく居なくなれるかもしれない。この部屋にあるものには全て、あいつとの思い出が詰まりすぎているから。
 あいつは今、何をしているんだろう。偉い人と食事をして、また世界が広がっていくのかな。それを俺が見届けることはできないけど、今日見かけた女子高生然り、これからもずっと彼を見てくれる人達は沢山いるんだから、きっと大丈夫。
 淡々と部屋を出て、エレベーターで下まで降りる。見知った顔何人かに会釈をし、車に乗り込んだ。助手席に荷物を載せてから横目で確認すると、時刻は十九時を回ったところだった。だけどその割に、外は暗い。台風の影響だろう。
 駐車場から車を出した途端、強い雨風がフロントガラスを打ち付けた。不意に泣き出しそうになって、その弱さを振り切るように強くアクセルを踏んだ。




 マンションを出て数時間。雨風は激しくなる一方で、前回通ったのと同じ道筋だとは思えないほど道は厳しかった。途中に寄ったコンビニで買ったチョコを頬張りながら、無心でカーナビの言う通り車を滑らせる。辺りはいつの間にか田舎になってきていて、他に車を見ることもグッと減ってきていた。時々すれ違う車だって、雨の勢いが強過ぎて運転席すらよく見えないほどだ。
 天気予報では明日の朝上陸だと言っていたし、今が一番酷いのかもしれない。運転が得意な方でよかった。そうこうしている間に時刻は二十一時を回っていて、ハッとする。そうだ。返信をしていない。慌てて路肩に車を停めてスマホを開くと、新しい通知は来ていなかった。言っても数時間しか経っていないし、まだ食事中なんだろう。

『俺も仕事長引いて今帰ってきた! 台風すごいし、気をつけて帰ってきてな』

 ゆっくり打ち込み、送信した。これが最後になるのだろうか。あまり感慨深くならないよう、すぐスマホを鞄に戻して車を再発進させる。雨足はさらに強くなっていた。目的地まで、あと数十分。通知が鳴る気配はなかった。


「⋯⋯⋯⋯着い、た⋯⋯」

 数日前来たのと同じ、山中にある大橋に辿り着いた時には、同じ場所とは思えないほど天気は荒れ狂っていた。
 橋から少し離れた道の端に車を停めると、長い、長い息が出た。思わずシートに体を倒し、目を瞑る。ここに着くまで一度も通知はならなかったから、まだ時間の猶予はありそうだ。少し休もうかと考え、だけど、休んでしまうと動けなくなってしまいそうだと思い至る。意を決し、倒しかけていたシートを起こした。
 助手席の鞄から懐中電灯を取り出し、一応スマホをスラックスのポケットに入れる。念のためもう一度確認しても、連絡はないままだった。何か別れのメッセージを送ろうかと考え、やめる。
 産まれた頃からの長い付き合い。『一生一緒』を貰ったような立場だけど、別に、いいや。あいつのこれからに、何も残したくない。
 懐中電灯の灯りをつけて運転席から出ると、その途端途方もない風と雨に打たれた。想像以上だったそれに思わず少しよろけながら、橋の方へ向かって歩みを進めていく。強すぎる風に左右されながら何とか端まで辿り着き、手すりにしがみついてそっと下を覗き込んだ。何十メートルもある橋の下は夜だから当然何も見えなくて、ただ囂々と音をたて風が突き抜けている。真っ暗な山中の木々が暴風に揺らされ、それに強い雨と葉のぶつかり合う音が混ざって信じられないほど大きな音を立てている。まるで、悪夢のようだ。
 懐中電灯を持つ手が震えるのは、恐怖からだろうか、それか、一瞬にしてびしょ濡れになった髪やシャツが、身体を冷やしているのかもしれない。どちらにせよ一度認識してしまったら震えが止まらなくなり、思わず両腕で自分を抱き込んだ。歯がカチカチと音を立てる。まだ時間はあるんだし、一旦車に戻ろうか。でも、でもだめだ。戻ったらきっと、怖気付いてしまう。だから今このままやらないといけないんだ。今、行かなくちゃ。もっと近付いて、手すりを乗り越えて、目を瞑って、空を蹴る。ただ、それだけ。それだけなんだ。だから早く、そう、目の前の手すりを掴んで、もう懐中電灯なんていらないから横へ投げ捨てて、橋げたに足をかける。そう、そうだ。いけ、はやく!

「かみちゃん、何してんの?」

 振り返ると、同じようにびしょ濡れになったしげが、今ここにいるはずのない男が、立っていた。
 本能が今すぐ目の前へ逃げろって叫んでいるのに、俺の目はあいつから少しも動かない。そうしている間にしげは、俺をフラフラと左右にゆらした風なんて意にも介さずにズンズン歩いてきて、痛いほど強く腕を掴んだ。
「何してんの、かみちゃん。ここ、眺め良い? こんな天気じゃなかったら一緒に来たかったけどなぁ」
 はくはくと金魚みたいに口が動いて、何も言えない。掴まれていた腕が引き込まれ、グッと抱きしめられる。その背中越しに、俺の車のすぐ近くにしげの車が停まっているのが見えた。⋯⋯き、づかなかった。全く、気づかなかった。だって、居るはずがないんだから。しげの腕が、俺を、抱きしめている。痛い。どうして? こんな天気で、偉い人と食事に行ってるって、だから俺、あいつのいない内に居なくなろうって、思ったのに。
「かみちゃん、先週仕事辞めとったよな?」
「ぇ、⋯⋯え?」
「それに、職場の人もみんなブロックしたやろ。大学の友達? やっけ、あれの名前は? 明日旅行行くんじゃなかった? それ、ここ? ちゃうよなぁ。ていうか台風来てるし、中止やろ」
「⋯⋯し、しげ⋯⋯しょ、食事、行くって」
「あぁ、あれ嘘。最近のかみちゃんおかしいってわかっとったし、今日も仕事とか言って出掛けるから。旅行は週末って言っとったけど念の為様子見ようと思って、帰らんことにしてん」
「は⋯⋯?」
 強すぎるほどキツく抱きしめられて表情が見えないまま、淡々と、しげが語っている。俺は何から何までわからないまま、ただ漠然と逃げなければ、とだけ考えていた。
「なぁ、⋯⋯なぁ、何、しようとしてた? 訊かんでも分かるけどさ、なんで?」
「⋯⋯しげ」
「かみちゃん、⋯⋯かみちゃん、こんな格好で、めっちゃ冷えてもうてるし、なぁ、なん、で?」
「⋯⋯」
「俺、俺びっくりして、でもかみちゃんにも人生あるから、ほんまは俺だけにしてほしいけど、でも踏み込みすぎちゃあかんと思って、なんかほんまに旅行があるんかもとかも思って、でも、⋯⋯かみちゃん、かみちゃん⋯⋯っなん、なんで!」
「しげ、離して!!」
 渾身の力で突き飛ばした。必死だった。どうしてしげがここに居るのか、どうして何もかもがバレているのか、全部分からない。でも嫌だ。居なくなりたい。居なくならないと。そう思っていたのだから。ずっと、そう思ってきたんだから。⋯⋯そのはずなのに、言葉が出ない。目の前で目を赤くしているこいつに、何も言えない。
「なんで⋯⋯っなんでなん!? ずっと一緒に居ろなって、そしたらお前、頷いたやん⋯⋯! その指輪やって⋯⋯っい、今までずっと隠してつけとったくせに、付けてるやん!」
「⋯⋯っし、しげ、やめて⋯⋯」
 左手を掴まれ、しげの綺麗な手が俺の薬指を掴んだ。酷い暴風雨の中でそれがチラリと光って、あの日のしげの笑顔が重なる。考えたくなくて、目を瞑って、振り払った。
 目の前の大好きな人が、何万もの人に愛されている大切なはずの身体をずぶ濡れにして、絶望に瞳を揺らしている。
「なぁ、⋯⋯なあ! 不満があるなら何でも聞くから!! かみちゃんの為なら俺、何でもするから!! かみちゃんの為に、俺──⋯⋯!」
「〜〜っ要らん! それ全部、要らん!! もう良いから、きっとすぐ、俺なんか忘れるから!」
 これ以上話すのはもう、無理だった。正真正銘、しげは俺の世界そのもので、そんな奴と今まさに死のうとしている時にこれ以上話していられるわけがない。もう一度橋桁に足をかけ、手すりに乗り上げる。俺はとっくにパニックに陥っていて、さっき感じたはずの恐怖なんてどこにもなかった。そのまま手すりを飛び越えてふわりと宙に浮いた身体が、働こうとした重力に逆らって引き上げられる。
「かみちゃん!! あぶっ、え、⋯⋯ぁ」
 俺を無理やり引っ張り込んだ男の身体が、相反するように、ゆっくりと暗闇に引き摺り込まれていく。すれ違う瞬間、スローモーションのように、目が合った。

「⋯⋯かみ、」







 ドサ。
 気づけば俺は、橋の歩道に尻餅をついていた。鉛のように身体が動かなくて、ただ一つ分かったのは、周りに俺以外誰もいないことだけ。

「おーい、兄ちゃーん」

 ブル、とトラックのような大きなエンジン音が近づいてくるのが分かった。いつの間にか目の前に停まっていたそれの助手席から、恰幅のいい男が俺に話しかけている。
「兄ちゃん、聞こえる? こんなとこで何してんだよ。風邪ひくぞ〜」
「おい、あっちに二台あるから。兄ちゃん、連れいる? もしかしてワケアリ?」
「それにしたって、このままこんな所に座ってんの危ないって。兄ちゃん。デカい台風来てるらしいし」
 親切心で話しかけてきたらしい彼らが、この暴風雨の中わざわざトラックを降りて俺の方へ何とか傘を差しながら歩み寄ってくる。だから俺の小さなささやきも、何とか彼らの耳に届いたようだった。

「⋯⋯友人が、そこから落ちて⋯⋯⋯⋯警察か、救急車を、呼んでください⋯⋯」

 二人の顔が一瞬硬直して、だけどすぐ慌ただしくなった。ひとまずこっち乗れ、とトラックに押し込められながら俺が考えていたのは、あぁ、逃してしまった、というだけだった。

 ⋯⋯せめて、一緒に行けたらよかったのに。



*



 数時間後、その地域の比較的大きな病院で一人部屋の病室に押し込まれ、真っ白なベッドに腰掛けたまま俺はぼうっと天井を見つめていた。部屋の隅のパイプ椅子には警官が一人腰掛けていて、時折俺にチラリと目を遣りながら黙って様子を伺っている。
 壁にかかった時計はとっくに日付を回っているにも関わらず、病室の窓から見える駐車場にはさっきから幾つもの車が慌ただしく出入りを繰り返していた。何も知らないここの入院患者たちは、一体何が合ったんだと落ち着かないことだろう。
 ただ意味もなく眺めていると、他のものとは違う、真っ黒なバンがスッと駐車場へ入ってきた。静かに停められたそれから降りてきた一人の男を見てすぐ、あぁ、メンバーだ、と分かる。マネージャーらしき人に連れられ、彼も院内へ入っていった。窓のカーテンをシャッと閉め、俯く。会ったことはないが、彼のことはメンバーの中でも特によく知っている。グループで唯一、しげと⋯⋯つまり俺とも同じ、関西出身の人だからだ。

「神山さん」

 顔を上げると、さっきまで黙って座っていた警官がベッド脇に立っていた。その手には無線機らしきものが握られている。
「今、映像確認が終わったそうです。あなたの証言は全て事実で事件性はない、と判断されました」
「えっ⋯⋯も、もう?」
「まぁ、あれだけはっきり全て映ってましたから」
「⋯⋯そう、ですか」
 映像、というのはつまり監視カメラのことで、俺は知らなかったが、バイク好きのよく通るあの橋には事故等に備えて複数のそれが取り付けてあったらしい。俺たちが揉み合った現場のちょうど反対側で、そのうちの一つが全てを見ていた。そのおかげで、俺は今留置所でも取調室でもなく病院のベッドに転がされている、というわけだ。
「まぁ、それでも容疑者から自殺未遂者に変わるだけなので、監視を外すことはできませんが」
「⋯⋯すみません」
「いえ、それが仕事ですから。⋯⋯ご遺体、見に行かれますか?」
「⋯⋯⋯⋯いや⋯⋯、今は、関係者の方とかで、いっぱいでしょうし」
「そうですかね。少し確認してみます」
 端的にそう言い、彼は数歩下がってまた無線機らしきものに何か語りかけている。一分もしないうちに、生真面目な顔がこちらへ向き直った。
「今すぐ行ってすぐ出れば、医者以外には会いませんよ。行きますか?」




 専用のエレベーターで地下まで降りて案内されたのは、霊安室だった。一度も足を踏み入れたことのないその場所に一歩入ると、途端に冷気が身体を包み込む。探すまでもなく目の前にいたかつての恋人は、変わり果てた姿で横たわっていた。
 ⋯⋯当然だろう。あんな暴風雨の中、下に川が流れているわけでもない、何十メートルもの高さの橋から落ちたのだから。場所を調べていた時に見た写真が、ふと脳裏に浮かぶ。あの橋の下は、あちこちが尖った岩場だった。
 ゆっくり歩を進め、呆然と、その全身を眺める。
 数えきれないほど目を合わせて笑い合った瞳は片方が完全に潰れていて、笑顔がトレードマークの口は中途半端に開いたままひしゃげている。沢山の曲を踊って大勢を魅了してきたはずの脚は、その両方があり得ない方向に曲がっている。段々と視界が揺れて、背後から「大丈夫ですか」と知らない誰かが声を掛けた。それでも目を逸らすことが出来ずにフラフラと彷徨っていた視線が、ある一点で止まる。
 何度も握り合って、俺の身体で彼の触れていない場所なんてないんじゃないかと思うほど慣れ親しんだ手が、ほぼ原型を留めずに壊れていた。指が。指が、ほとんど、ない。⋯⋯これじゃもう、手を繋ぐこと、すら。

 思わず手を伸ばしかけると、咄嗟に間に入った医者が柔らかく俺の肩を掴んだ。俺の左手に目をやったあと、その人は白衣のポケットから小さな透明の袋を取り出す。
「救助隊が現地で集めることのできた指の一つ、おそらく左手の薬指だと思われるものに付いていた指輪です。⋯⋯貴方にお渡しする物だと先ほどメンバーの方から伺いましたが、間違いありませんか?」
 ゆっくり目を合わされ、子供に言い聞かせるように尋ねられる。ぼんやりと見つめたそれは幾つか欠けた部分があったり汚れたりしていたが、裏面に何とか読み取れるイニシャルの彫られたそれは、間違いなく俺とお揃いのもので、普段のこいつはお守りみたいな小袋に入れて持ち歩いていたはずの物だった。
 頷き、黙ってその手から袋を受け取る。何も考えられなかった。
「⋯⋯そろそろ、戻りましょうか」
 腕時計に目をやった警官に促されて霊安室を出る。本当に病院関係者以外の誰にも会わないまま、俺は病室に戻った。そうして、そこで待っていた綺麗な男に微笑みかけられたのだ。

「よ。⋯⋯「かみちゃん」、やんな?」

「⋯⋯あの、藤井さんですよね。彼以外の立ち入りは控えていただいているはずなんですが⋯⋯」
「あぁ、うん。そう聞きましたけど。話す権利くらいあるやろ? この子が殺すわけない、って証言したのも、それはこの子が持っとくべきやって言ったのも、俺やし」
「⋯⋯え?」
「それは、そう伺ってますが。だけどそれとこれとは⋯⋯」
「あー、じゃああんたも居っていいんで。話そうや、かみちゃん」
「は、話すって、何を⋯⋯」
 初めて会ったはずなのに、俺のせいで彼にとってのメンバーが死んだのに、彼はやけに俺に対して穏やかだった。手を引かれ、一つしかないベッドに腰掛ける。さっきまで警官が座っていたパイプ椅子を引きずってきて、彼は目の前に座った。視線で助けを求めてみても、ひとまず静観することにしたらしい警官は黙って部屋の隅に直立している。
「⋯⋯あ、の」
「しげとは子供の頃からの幼馴染で、高校まで一緒に通ってた」
「え?」
「中学の途中まではダンス部に入ってたけどやめて、それから特に趣味はなし。付き合い始めたのは中三の頃」
「⋯⋯」
「で、しげに引っ張られて大学から東京に来て、数年前から一緒に住んでる」
「⋯⋯うん」
「今日の夜しげには黙って死のうとしてたのを見つかって、揉めて、うっかりあいつが落ちた。⋯⋯やろ?」
「⋯⋯⋯⋯」
 液晶越しにしか見た事のない綺麗な顔が、俺を覗き込んで微笑んでいる。一応尋ねている風ではあったが、答える必要はなさそうだった。
 しげも、そうだったけど。どうしてこの人達は、俺が隠そうとしていたものを何でもかんでも知っているんだろう。
「ほんまはさ、週末に旅行って嘘ついて行くつもりやったんやろ? しげ、だいぶ情緒おかしなっとってんで」
「え、⋯⋯しげ、メンバーに俺とのことなんて話してた、んですか」
「えぇ? 話してたっていうか⋯⋯⋯⋯あぁ、そんなレベルやったんや。⋯⋯ほんなら、あの程度で逃げられると思ってたのも納得やなぁ」
 薄い息を吐き、彼は遠い目でどこかを見遣った。俺たちについて話しているはずなのに、話がどんどんわからなくなっていく。口を開こうとしたところで、ノックの音と同時に扉が開いた。
「⋯⋯まさか、ここに居るとはね。さっき、マネージャーとか役員も含めて全員揃ったよ。今、お前待ち」
「あれ、みんな思ったより早く来れたんや。⋯⋯じゃあかみちゃん、これ、俺の連絡先。住所知ってるから、一週間以内に連絡くれんかったら突撃するし、逃げたら警察に容疑者として探してもらうんで、よろしく」
 そう言って綺麗な顔でもう一度微笑み、彼は部屋を出て行った。扉が閉まる寸前、彼を呼びにきたメンバーの鋭い視線が俺を突き刺す。遠ざかっていく二人分の足音に、寸前まで気配を消して突っ立っていた警官が溜め息を吐いた。
「⋯⋯神山さん、今日はもう、休んでください。俺もそろそろ監視入れ替わるし、次からは誰も入れないようしっかり伝達しておくので」
 疲れたのか、随分フランクな口調になった彼の言葉に大人しく頷き、病院の少し硬いベッドへ潜り込む。身体はくたくたなはずなのに、不思議と眠気が襲ってこなかった。
 指輪の入った袋を握りしめたままだった手をゆっくり開き、手に取る。透明なビニール越しに見える同じだったはずのデザインのそれは今、片方だけが血と泥に汚れていた。所々欠けたそれをじっと眺めながら、息を吸っては吐く。今ここに生きている自分が、周りを取り巻くその全てが、現実味のないものだった。昨日の自分、半日前の自分が、遠くどこか別の世界に感じる。
 だけどさっき見た恋人の遺体だけは、生々しい現実味を持って瞼の裏に焼き付いていた。
 誰より綺麗で眩しくて、何十万もの人を虜にしたあの笑顔は、もう見る影もない。何度も握り合った手はほとんどの指が欠け、抱きしめてくれた背は骨がまるっきり壊れていて、いつだって、目が合うたびに、愛に溢れた甘ったるい目で見つめてくれた瞳は、潰れていた。
 そんなボロボロに壊れ飛び散った彼の身体にしがみついていた『一生一緒の証』が、今俺の指で微かな輝きを散らしている。


 俺は、何がしたかったんだろう。どうして死のうと思ったんだろう。⋯⋯彼の居ない世界は、明日からどうやって、回るんだろう。

 今俺が横たわっているずっと下で、あいつはまだそこにいる。手を伸ばせば、まだ届くような気がした。目を瞑ったままじっと彼に思いを馳せる。浮かぶ顔は全てかつてのもので、もう記憶と記録にしか存在し得ないものだった。



*



 事情聴取、心理カウンセリング、事情聴取、心理カウンセリング⋯⋯。幾度となくそれを繰り返した俺が解放されたのは、例の夜から三日後の朝だった。初めて乗る警察車両で東京まで戻り、マンションの下で少ない荷物を手に降ろされた。走り去るそれを、軽く頭を下げて見送る。事件性がないこと、今の俺に自死の意思がないこと。そんなものが何故信じてもらえたのか、俺自身が一番不思議だった。
 もう帰ることがないと思っていたマンションに入り、二人の部屋の鍵を開ける。
 たった数日しか経っていない部屋は当然変わっていなくて、特段何も感じなかった。淡々と荷物を置き、無事部屋に着いた旨を警官に連絡する。ひとまず部屋着に着替え、ソファに腰掛けた。
 今頃、彼やその周囲はどうなっているのだろう。スマホを警察から返却されたのはついさっきの事で、俺は、彼やそれを取り巻くいろいろなことについて何も知らされていない。⋯⋯もう、世間は彼の死を知ってるのだろうか。何年会っていないかすらわからない彼の家族も、東京へ来ているのだろうか。
 付き合いが長く、一緒に暮らしている恋人とはいえ、彼の死について俺に何か関われる部分はない。それは意思の話でも、法律的な話でもある。ポケットに突っ込んだままだったスマホを取り出し、三日放置したにも関わらず通知のない画面を開く。あいつのとトーク画面の最後は、俺から送った「気をつけて帰ってな」だった。やっぱり、何も感じない。だけどこれを送った時、あいつはどこに居て、何を思っていたのだろう。

『話してたっていうか⋯⋯』
『あれ、⋯⋯そんなレベルやったんや』
『一週間以内に、連絡して』

 会ったばかりで衝撃的な言葉を放っていった彼を思い返す。

「⋯⋯一週間以内、か」

 もう、少なくとも三日は経っている。誰一人入れたことのない俺とあいつの部屋に突撃されるのはやっぱりちょっとごめん被りたかったから、彼に押し付けられた紙を開き、手書きの番号へ慎重にショートメッセージを打つ。
『神山です。今さっき、警察の方に送ってもらって家まで帰ってきました』
 悩んだ末に出来上がった文面は何が言いたいんだかわからないものだったけど、考え直す気力もない。少なくとも彼はあの時俺に怒っている様子はなかったし、いいだろう。そう判断してそのまま送信すると、一分もしないうちにスマホがブルブルと震えた。着信だ。
「も、もしもし?」
「あもしもし、かみちゃん? 連絡くれてありがとうな。悪いねんけどちょっと今から⋯⋯えーと三十分後? かな、しげの葬式あんねん。ほんでその後もしばらく相当忙しなると思うから、俺から言っといてなんやけど、また連絡できんのかなり先になると思うねん」
「あ、⋯⋯そう、なんや」
「うん、どんくらい先になるかはわからんけど、あー⋯⋯ちゃんと生きて、待っとってな。後たまに事務所の人が話聞きに行くと思うねんけど、それと警察以外は誰が来ても出ちゃあかんから。ネットも見んときや」
「え? お、おう」
 よく意味がわからないまま頷くと、通話口の向こうで彼が誰かに呼ばれている声がした。「ごめん、じゃあそういうことで」と返事を待たずに切れた通話画面をじっと見つめ、まぁええか、と投げ出す。疲れていた。何をしに行って、何に疲れているのかも、わからなかったけど。
「⋯⋯葬式、か⋯⋯」
 つまり俺がよくわからないカウンセリングを受けていた昨夜のちょうどその頃、ほぼ生涯の全てを共にした人の通夜が行われていたのか。遺族や周りの人たちの気持ちを思えば、それも、今俺がここにいることも、当たり前のことだった。きっと目一杯綺麗に戻してもらったであろう彼の姿を最後に見られなかったのは少し、悲しかったけど。
 三十分後に葬式が始まるなら、今日の夕方には、諸々を終えたあいつは俺の知らないどこかで俺の知らないままに、灰になるのだろう。
 のっそり立ち上がり、寝室へ向かう。ベッドへ横になろうかと考え、しげのベッドに何枚かの洗濯物が畳んで置かれたままだったことに気がついた。手を伸ばし、そっと顔を埋める。自分が畳んだそれからはまだしげの匂いがして、勝手に溢れた液体が頬を濡らした。




 彼から再度連絡があったのは、それから十日ほど過ぎた頃のことだ。

 葬式があったという日の翌朝、相変わらずぼうっとしたままなんとなしに初めてテレビをつけると、ちょうど彼らがグループに起こったことについて生放送で会見をしているところだった。
 初めにリーダーが、ここ数日予定されていた生放送や収録番組の出演を全て取り止めにしたことについて謝罪し、その後、今この場にいないメンバーが数日前事故死したことを告げた。大きなザワめきと、一斉に焚かれるフラッシュ。何人かの記者が走って会場を飛び出してゆく。

『詳しいご説明や経緯等は、会見後所属事務所の公式サイトにて公開させて頂きますので、そちらをご確認ください。口頭でのご説明が出来ないことは非常に心苦しくありますが、ご容赦いただけると幸いです。メンバーである私たちも大きなショックを受けているため、グループとしての活動を一度無期限休止とさせていただきます。』

 真っ黒なスーツを着て横一列に並んだメンバーたちは、皆痛々しい面持ちで俯いていた。その中には、あの日病室で俺を強い目で見つめた人の姿もある。彼の目元は真っ赤で、だけど俺はそれに何も感じなかった。

『ファンの皆さんには大きな驚きとご心配をお掛けし、誠に申し訳ございません。ですがどうか少しだけ、僕達に考える時間をください。』

 リーダーの言葉に、全員が腰を折る。一斉に焚かれるフラッシュに目を細めながら、どうしてこの人たちが頭を下げているんだろう、とぼんやり考えていた。食事も水分も摂っていないからか眩暈がして、ソファに倒れ込む。その日はそのまま、部屋が暗くなっていくのを眺めていた。




「かみちゃーん、生きてる?」

 ノロノロと手を伸ばしてなんとか通話ボタンを押した端末から流れ出した声は、思っていたより明るかった。あの会見では、彼だって目を腫れさせていたのに。
「⋯⋯まだ色々忙しいんちゃうの?」
「いやぁ、大変やったけどまぁある程度落ち着いたとこ。やからこっからようやく、活動休止スタートやな」
「⋯⋯へぇ」
 それなら、彼だって疲れ果てているだろう。俺なんかのことより、自分の休息を優先したほうがいいんじゃないのか。思うだけで口から出ない心配をよそに、通話口の彼はあっけらかんと告げる。
「今、マンションの駐車場居るんやけど、出てこれる? 外は今俺ら、あれやからさ。俺ん家で話したいねん。下まで降りてこれなさそうやったら迎えに行くで」
「⋯⋯⋯⋯十五分、待ってくれるなら」
「あ、自分で来れる? ほんなら待ってるわ」
 あまりに訳がわからなくて、何も言い返せなかった。ベッドに張り付いていた身体をなんとか起こし、クローゼットから適当に引っ張り出した服に着替える。洗面所に行くと、彼とは違って自分の顔は思っていた何倍も酷いものだった。
 最低限の身支度を済ませて部屋を出る。オートロックのかかる音を背に、そっと顔を上げる。そういえば外の空気を吸うのは久しぶりだと思った。


「かみちゃん、こっちこっち」
 運転席から顔を出して手を振っていたのは、正真正銘、しげのグループのメンバーである藤井流星だった。後ろ乗って、と手で合図されるがまま、窓にスモークのかかった後部座席へ乗り込む。じゃあ車出すな、そう言いながら彼はサングラスを掛けたけど、綺麗にすぎるその顔は全く隠せていない。
「十五分くらいで着くから、寝とってもいいよ。てか寝れてる? この時間の電話に普通にでたの、掛けといてびっくりしたんやけど」
「さぁ⋯⋯今、何時なんですか?」
「え、十二時半やけど。夜の」
「⋯⋯まぁ、非常識ではありますね」
「いいやん、寝とったらそれはそれでいいことやし。ていうか敬語なんか使わんでええで、同い年やから。流星って呼んで」
 バックミラーで俺の表情を確認しながら、彼はあくまで軽い口調で告げた。それに何か異論を唱える気力もなくて、口内で小さく「りゅうせい」と呟く。時々恋人の口から聞いていたからか、違和感はさほどなかった。
「そうそう、それでええよ。仕事相手でもないんやし、これからは友達くらいの感覚で喋ってや」
「⋯⋯わかった」
 友達なんて、顔を思い出せる奴すら一人もいないのに? それ以降流星は何も喋らないまま運転に専念していて、俺はぼんやり窓の外を眺めていた。時折目に入る大型ビジョンは大半がしげの笑顔を映し出していて、夜中の道ゆく人は皆それを、国民的アイドルの死を、見上げていた。
 もうすぐ、あっという間の夏が終わる。「もうすぐしげ誕生日じゃん」と笑い合っていた彼女たちは今、何を考えているんだろう。


「⋯⋯お邪魔します」
「どーぞ。ちょっと散らかってるけど、まぁ適当にくつろいで。お茶とコーヒーとオレンジジュースやったらどれがいい?」
「えっ、お、オレンジジュース、かな」
「ほい」
 彼は特に案内もせずそのままキッチンに消えてしまったから、おずおずと広いリビングに進み入る。他人の家に入るのなんて、大学生だった頃以来だ。恐らく一人暮らしだろうに、今いるリビングすら俺たちの部屋と変わらないかそれ以上に広くて、「こだわりが強い方なのか」となんとなく思った。
 立ったままでいても文句を言われそうだから、大きな革張りのソファの隅へ腰掛ける。家電屋でしか見たことがないくらい大きなテレビの下にはガラス張りのラックがあって、そこにはゲームソフトや見覚えのあるコンサートDVDが並んでいた。
「お待たせぃ」
「あ、ありがとう」
 綺麗なグラスを受け取り、そっと口をつける。生活をおろそかにしていたからか、少しずつ飲まないと咽せてしまいそうだったのだ。ちらと視線をやると、流星はペットボトルの炭酸水をグイグイと煽っている。聞きたいことは色々あったが、口火を切っていいのは俺じゃない気がして黙っていた。しばらくの沈黙の後、「あのさ」とさっきより幾分低い声が呟く。
「明日、デカい会場貸し切って、しげのお別れ会みたいなんあるねん。ファン向けのやつ」
「⋯⋯へぇ」
「多分すごい人数になるから、早朝スタートで夜九時までやるらしいねんけど」
「はは、すごいなそれ」
「⋯⋯⋯⋯もしあれやったら、かみちゃん、行く? 近くまでならマネージャーが連れてってくれると思うし。⋯⋯かみちゃん、通夜も葬式も、出れんかったやろ」
 思わず顔を上げると、彼は少し悲しそうな、憐れむような目で俺を見ていた。法事に出られなかったって、だってそれは、俺が殺したようなものだから当然のはずなのに。
「⋯⋯自分が殺したのにって思ってる?」
「そ、そりゃ⋯⋯。だって、そうやん」
「ちゃうよ。少なくとも俺と、⋯⋯しげは、そう思ってる」
「⋯⋯なんで⋯⋯」
 なんで。どうしてこの人は、俺なんかのことを気にかけ、そんな優しい言葉までくれるんだ。この人は一体俺としげの何を知ってて、俺は何を、知らないんだ。俯き、もう一度ジュースに口をつけた。果肉の入った高そうなそれを少しずつ口内に含みながら、プチプチと、舌先で潰す。
「⋯⋯行かれへんよ。だって、ファンのためのもんなんやろ。⋯⋯尚更、行ける訳ない」
 床を見つめながらそう言うと。彼は短く溜め息を吐いた。
「そっか。まぁそう言うかもなって思っとった。じゃあ、」
「あ、うん。じゃあもうかえ⋯⋯」
「風呂入ろか、かみちゃん」
 思わず、グラスを取り落としそうになった。あんぐりと口を開いて見上げる俺を、彼は綺麗な顔をなぜか自慢げにして笑っていた。


 十分おきに「大丈夫?」と外から声をかけられ、そのたび水音に負けないよう声を張り上げて「うん」と返す。それを何度か繰り返してようやく風呂から上がる(広い湯船に張られた湯は紫色で、やたらといい匂いがした)と、脱衣所の目の前で流星が待ち構えていて思わず大声を上げた。
 差し出されたコップから強制的に水を飲まされ、それを飲み終えると、入れ替わりに着替えらしき服を渡される。明らかに彼の物なそれはギリギリ170センチを超えた身長の俺にはあまりにも大きそうだったけど、流石に意地が勝ってそれは口に出さなかった。
 そこにドライヤーあるから、とだけ告げてさっさと出ていったのを呆然と見送って初めて、自分が素っ裸だったことに気づく。当たり前だけど平然としていた顔を思い出しながら、置いてくれていたタオルで身体を拭き始めて自嘲気味に笑った。
「⋯⋯しげ、やっぱり俺、お前以外が見たら可愛くもなんともないただの男みたいやで」


 髪までしっかり乾かすと、なんだか一皮剥けたような気分だった。シャワーはちゃんと浴びていたけど、やっぱり湯船は偉大なのか、それともよくわからないあのいい香りの力なのか。脱衣所から顔を出すと、すぐそれに気づいたらしい流星の「おっちょうどいい」という声が聞こえた。キッチンの方だ。未だ慣れない高級感溢れる部屋を横切って行くと、彼は何か鍋で湯掻いているようだった。
「そうめん。食べれる? てか食べなあかんで。会ってすぐ、ろくに食ってへんってわかったもん」
「あー⋯⋯たぶん、食べれる。ありがとう。⋯⋯なんか手伝うことある?」
「じゃあ冷蔵庫から麺つゆ出して割っといて。俺も食べるから二人分な」
「ん」
 彼はまるでそれが当たり前かのように言うから、俺もあまり躊躇うことはなく冷蔵庫を開けた。予想通り⋯⋯というか俺たちの冷蔵庫と同じように一番下の野菜室に入っていたそれを取り出し、食器棚から取り出した目盛り付きのカップに注ぐ。目盛りピッタリまで合わせて水と氷を足したそれを完成させて振り向くと、いつの間にかそっちの準備は終わったらしい流星が何故か微笑ましそうに俺を見ていた。
「⋯⋯なんかおかしかった?」
「いや、キッチリしてんなと思って。確かにしげと相性良さそうやわ」
「⋯⋯⋯⋯あの、前から気になってたんやけど、しげって、その⋯⋯俺とのことについて、どこまで話してたん? 俺はてっきり、ほんまに友達って言ってるんやと⋯⋯」
 その質問に、流星は数秒俯いた後軽く首を振るだけで、何も答えなかった。二人分の皿を持ってキッチンを出る背を見つめるしかない俺に、ただ「自分ら、思ってた以上にお互いのこと分かってなかったんやな」と小さく呟いた。




 翌朝、彼が貸してくれた客人用の部屋で俺が目を覚ましたのは、朝八時のことだった。最近の生活を思えばよく眠れた方で、なんとなく頭がスッキリしたような気がする。「冷蔵庫にあるもんは全部好きにしていいから」と寝る前言っていた彼に甘え、ゼリー状のエネルギー飲料を一ついただく。
 まだ眠っているらしい彼に「カウンセリングあるの思い出したから帰ります」「なんでか分からんけど、世話になりました」とだけメッセージを送り、物音を立てないようそっと玄関の扉を閉めた。
 いかにも高級マンション、といった風のエントランスから出ると、外はどんよりとした雨だった。あの日を思い出すようなそれに、少し眉を顰める。近くのコンビニでビニール傘を買い、ひとまず歩き始めた。雨のおかげか気温はさほど高くなくて、その分じっとりとした湿度が重い。すぐ近くにあった駅から地下鉄に乗り、何度か乗り換える頃には周りは若い女の子ばかりになっていた。普段なら賑やかになりそうなその車内で、皆が一様に暗い顔をしてポソポソと喋り合っている。中には既に泣きじゃくっている子も何人かいて、俺はそれを横目で無感情に眺めていた。
 ゴトン、ゴトン、満員で、周りは女性ばかりで直立するしかない車内。ここ数日の不規則な生活や不摂生が祟ったのか、彼のおかげで少し上向いていた体調は見る間に地べたへ下り落ちて行く。目的地の駅へ電車が止まる大きな揺れに耐えながら、吐き気を必死に堪えていた。


 人、人、人。吐き気を治めるために深呼吸を繰り返しながら、傘を低く持って視界をできるだけ遮る。ちょうど開始の少し後に着いてしまったそこは、余りにも多くの人に溢れかえっていた。
 しげが席を用意してくれた、半年ほど前のコンサート会場前を思い出す。だけどそこは、しげのことが大好きな人たちばかりなことを除けば似ても似つかない空気だった。流れに身を任せるまま列に入り、時々少しずつ前に人が進むのに合わせて足をすすめる。
 イヤホンを持って来なかった俺の耳には周りの話し声が全て入ってきて、それを遮断する術はカウンセラーに習っていなかった。

「⋯⋯っうぅ、ひぐ⋯⋯っ、なん、なんで⋯⋯っ」「⋯⋯しげ、ほんとにいなくなっちゃったのかな⋯⋯現実味ないよ」「ねぇ、事務所の声明、どこまで本当だと思う? 偶然通りかかって死のうとしてた人を助けたって⋯⋯。しげなら、やるかもしれないけど。言っちゃアレだけど、あんな辺鄙な所、なんであんな時間に偶然一人で通りかかるの?」「やだ。ほんとにやだ。解散しかないって」「信じられない、信じ、たくない⋯⋯」「こんなの、あんまりだよ。ドームツアーも決まったところで、誕生日ももうすぐで、まだまだ、まだまだ輝くはずだったのに⋯⋯。その助けたって人のこと、恨まずにいられない⋯⋯」「グループ、どうなるんだろう。続いて欲しいけど、しげが真ん中にいない姿なんて見たくない」「本当に、ただの偶然、なのかな」
「ここから列、曲がりまーす!」

 遅れて気がついたスタッフの大きな声に顔を上げると、外を並んでいたのが今から建物内に入ることになるらしい。周りに合わせて慌てて傘を畳み、前の人へ続く。少なくないけど多くもない男である俺は時折ちらちらと見られていて、これ以上目立つのは避けたかった。
 建物内に入った途端、小さな音量でグループの曲が流れていた。それから所々にはモニターが設置されていて、今までのコンサート映像や冠番組、ドラマなどから切り取ったしげの姿が映し出されている。時折デビュー前の練習生だった彼のレッスン中の映像が挟まれると、周囲の嗚咽は一層大きくなった。懐かしい、幼さの色濃く残った姿に思わず目を細める。この頃にはもう、付き合っていたんだっけ。それでも前からも後ろからも聞こえる泣き声が、今彼がいる世界の違いを思い知らせてくる。
 なんで、お前たちが泣くんだ。この頃のしげはまだ世にも出ていなくて、俺と、メンバーである彼らしか知らないはずなのに。しれず握りしめていた拳をそっと開き、すみません、と何度も呟きながら列を外れて外へ出る。雨はさっきより強くなっていたけど傘を開くなんて思いつきもしなくて、会場から逃げるようにただただ走った。何をしにあの場へ行ったのか、あの先に何があって、俺は遺影になった彼になんの『お別れ』をするつもりだったのか、わからない。いっそ、何もかも全部叫んでやればよかった。

「⋯⋯全部って、何を?」

 立ち止まる。いきなり走らせたボロボロの身体は酷く息を切らせていて、思わず膝に手をついた。雨に濡れたアスファルトを見つめながら、呼吸はいつまで立っても落ち着かなくて、それどころか速さを増していく。俺は何も知らない。どうしてしげがあの辺鄙な場所に来ていたのか、どうして俺なんかのために、これからまだまだ輝くはずだった人が六十メートルの高さから落ちて、数時間前までマイクを握っていた指すら数本しか残らないほど惨い姿になったのか。

『自分ら、思ってた以上にお互いのこと分かってなかったんやな』

 気づけば、アスファルトにしがみついてボタボタと涙を零していた。酷い目眩と吐き気に視界が歪んで、そこにしげの笑顔とグシャグシャにひしゃげた遺体が映るたび、俺は何度も「ごめんなさい」と泣き喚いた。なんで。どうしてこんな事になってしまったんだ。ねぇ、本当は俺が聞きたいんだ。ごめん、ごめんなさい。何も知らないまま俺があいつを、誰より綺麗だったあいつを、グシャグシャにして殺したんだよ。きっと今彼の遺影の前に幾重も花束が積み重なっていて、これから何時間もかけてどんどん、何万人もの思いと共に積み重なっていくそれが、今雨と一緒になって俺へ降り注いでいる。
 ガタガタと震える手で、何度も落としながらスマホを取り出す。時刻は十時前で、ロック画面には彼からの連絡が一件、『もしかして行ってる?』と、二人で指輪を並べて撮った写真の上に浮かんでいる。常に付けていられないならせめて、と二人でどこが一番綺麗に取れるか試行錯誤しながら撮った、一生一緒の、証。
 いつの間にか辺りは大雨になっていて、座り込んだ俺の周りは涙なんだか吐瀉物なんだかわからない俺から溢れた全てと混じり合っていた。震える手で通話ボタンを押したら、ワンコールも待たずに通話口から「かみちゃん?」と焦った声が聞こえる。

「お、教えて、全部⋯⋯っ! お、おれの知らんかったこと、あいつが思ってたこと、ぜんぶ、教えて⋯⋯っ!」



*



 俺が友人の異質さに気がついたのは、案外早い方だったように思う。

 同じグループのメンバーであり、同じ地方出身の友人でもある男──重岡大毅について、だ。
 芸能人が携帯電話を複数持ちするのは当たり前に近いことだが、俺が見たことがあるだけでも四台それを持っていたあいつとその用途は、変なやつの多いこの業界でも異様だった。そのうちのどれか一つを楽屋でじっと見ながらあいつが舌を打つ姿を、何度見ただろう。少なくとも仕事用のそれではないものに対するその行為は、デビューしてすぐの頃には見かけていたように、思う。
 俺たちがスカウトやオーディションによって集められた事務所は、アイドル事業は初めてとはいえ既にドラマや舞台など俳優業の大手事務所として業界に広く知られている企業だった。その分ツテも多く、俺たちはデビュー直後からさほど苦労することなくテレビ出演などを果たし、安定した人気を得ることができたと思う。その中でも演技が得意だったしげは、事務所の力もあり多くのドラマや映画に立ち続けに出演し、すぐに頭ひとつ抜けた人気を持つようになった。そこに彼だけが持つ独特の空気も加わり、誰が決めたわけでもない『不動のセンター』と彼が呼ばれるようになるまで、時間はかからなかった。
 だからこそ俺たちは、あいつの持つ様々な特異さ、それこそがあの魅力を形作っているのだと、不用意に彼の『中心』に踏み込むことを避けていた。
 それが起こったのは、デビューから一年近く経ち、事務所の想定を遥かに超える勢いでグループの人気は上がり、一方で俺やあいつの同級生は大学二年になっていた夏のことだ。あいつが楽屋の隅で一人、眉間に皺を寄せて仕事用でも私用でもないスマホを睨んでいた。それ自体はもう珍しいことでもなかったから、俺も、メンバーも、特別気にかけてはいなかった。ただ問題になるようなことじゃなければいいなとは思っていたが、何故か、こればかりは感覚としか言いようがないが、そういった類のものではないことを全員が理解していたように思う。だからこそ次の瞬間、全員が大きく肩を跳ねさせ、俺は咄嗟に楽屋の鍵を締めたんだ。

「⋯⋯ッッックソ、クソが!!!クソ、クソ⋯⋯やっぱり、大学なんて行かすんやなかった!!!こいつら全員、あぁでも、〜〜〜ッッ!!」


「⋯⋯⋯⋯し、げ?」
「なに!?」
 バッと勢いよくこちらを振り向いたあいつはその瞬間ようやく周りに気がついたようで、見たことのない、激昂した顔を硬直させた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯ぁ、ご、ごめ、ん。やってもうた、な⋯⋯」
 長い沈黙の後そう言ってしげはヘラりと笑ったけれど、全員、笑うことなんてできなかった。このまま流せる領分を有に超えていたこと、あいつ自身も理解していたのだろう。彼は笑顔だった顔からゆっくりと表情を消し、「収録終わって、時間あったら⋯⋯話す」と呟いたきり、スタッフが呼びに来るまで一度も口を開かなかった。俺たちも、互いに時折目を合わせる程度でなにも話さなかった。話せなかったんだ。
 その日の収録はトークコーナーもある音楽番組で、最も知名度がありグループのセンターであるあいつは当然話題の中心になっていたけど、彼は恐ろしいほど、いつも通りだった。出会ったのは中学生の時で様々な姿を見てきたけれど、あいつを『恐ろしい』と思ったのはそれが初めてのことだ。だけどそんなもの、始まりでしかなかった。その後、事務所の会議室をメンバーだけで借りて人払いまで頼んで、深夜にあいつが淡々と告げ始めた言葉に比べれば。


 会議用の真っ白な机に、しげは無感情に五つスマホを並べた。俺が思っていたよりひとつ多かったそれを順番に指差し、人より少し高い声が告げる。
「これが仕事用。で、こっちがお前らも知ってるプライベート用。これがかみちゃんのスマホのデータをそのまま同期させてるやつで、こっちが諸々の監視用。これはどうしてもの時に使う予備のやつ。⋯⋯さっき見てたのは、これとこれ」
 そう言ってしげが指したのは、三つめと四つめだった。正直話の突飛さに俺は驚きのあまり全く声が出なくて、おそらく顔も固まっていたけど、四つ目を「監視用」と呼んでいたことだけわかっていた。恐る恐る、と言ったふうに手を挙げたのは、俺たちより一つ年上のいつも明るい穏やかなメンバーだった。
「⋯⋯⋯⋯かみちゃん、っていうのは彼女?」
「違う」
「あ、よかっ⋯⋯い、良い? のかな」
「⋯⋯じゃあどんな関係の相手なの? 仮に友達なら、はっきり言わせてもらうと異様だけど。場合によっては、会社に言ってやめてもらうことにもなるよ」
 一番の年長であるリーダーが、そう言って鋭い目であいつを見る。それでもしげは無表情で、この場の酷い空気に何かを思っている様もなかった。
「友達じゃない。し、彼女でもない」
「⋯⋯じゃあなに?」
「恋人や。男で、産まれた時からの幼馴染で、事務所に入ってすぐの頃に付き合い始めた。今は大学二回の⋯⋯一般人。俺がこういうことしてんのも、何も知らん」
 最後の一言をつけ加えるときだけ、しげは少し目元を和らげて口角を上げた。
 誰も、何も言えなかった。驚き、安堵、衝撃、恐怖、あまり良くはない頭の中を色んな感情が駆け巡って、俺は多分口が開いていたと思う。明日も早朝から仕事があるのに、あまりの話の大きさに、誰も席を立とうとしない。
 変なやつだとは思っていた。楽屋の隅で険しい顔をしながら見たことのないスマホを睨んでいる姿を見た時も、あいつ大丈夫なんかな、とは思っていた。だけど、だけどこんな話だなんて、きっと全員考えもしなかっただろう。何も知らないという「かみちゃん」とこいつがどこで会って、どんな風に話しているのか、想像すらできない。
「⋯⋯会社に言うとかは、やめて。今日みたいなことはもう絶対せんって誓うし、問題にもならんようにする。⋯⋯相手男やから、早々大きな話にもならんやろうし、俺が、死に物狂いでこのグループをてっぺんに連れてくから」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯それは、あの子の為でもあんねん。そしたらもう、わかるやろ?」
 そう言って、しげは机につくほど深く頭を下げる。日付をとうに回った深夜の会議室で、全員が何も言えずにそれを呆然と眺めていた。




 それから二年もしないうちに、あいつの言った通り俺たちはこの国の男性アイドルでトップに立った。それは色んな数字や貰った賞で決まったものだけど、日本のどこへロケに行ったって、相手が年配の方であっても名前を言えば分かってもらえたから、きっと本当にそうなんだろう。
 あの件以降時折、メンバー、特に俺の前で「かみちゃん」の話をするようになったしげは、当時より少し精神が安定しているよう見えた。実際楽屋の隅で難しい顔をして黙っていることも、常に持ち歩くスマホの台数も減った。それでもあの日の所謂三台目と四台目は変わらず時折チェックしていたが、誰もそれを止めることはしなかった。無事大学を卒業し、そのまま東京のどこかに就職したという「かみちゃん」としげの関係は良好に見えて、それは時折仕事の合間に掛かってくる電話から漏れ聞こえる彼の声色で察することが出来たからだ。
 仮にしげが押しつけのような束縛をしているなら、あんな柔らかな声はきっと出ない、それにもう俺達も彼も一般的には社会人になるような歳で、しげの少し重さのすぎる『束縛』は、今は彼との同意の上に成り立っているのだろうと、勝手に思っていた。
 まさかあいつが今も相手に黙ったまま強烈な監視を続けているだなんて、思いもしなかった。ある日楽屋でなんとなく見えてしまった、あいつの四台目のスマホの画面。それに映し出された映像が明らかに誰かの部屋らしきものであっても、きっとそれも同意の上だと、互いに生きる世界が違いすぎているからこそ成り立っていることなんだと、思い込んでいたんだ。


「⋯⋯かみちゃん、元気?」
 ある日の、仕事の隙間時間。そう思い切って話しかけてみたのは、ほんの少しの好奇心からだった。俺はメンバーの中で一番あいつと仲が良い自負があったし、時折あいつが彼の話をするのだって、もっぱら俺の前だったから。恋愛の許され難い職業で、だけど相手が同性だから怪しまれることもなく上手くいっているように見えていた友人の惚気話を、ちょっと聞いてみたいと思った。それ自体は別に、おかしくないやろ? だけどその途端にあいつはパッと顔を上げて、次の瞬間俺を訝しむような目で見た。
「は? ⋯⋯なんでそんなこと訊くん」
「え、なんでって⋯⋯ちょっと惚気でも聞きたいなって思っただけやけど。そんな顔せんでええやん。しげ、たまにかみちゃんの話俺にするし、話したいんちゃうん」
 言ってから、あれ? と思った。そういえばこいつが「かみちゃん」についてしてきた話は、その人間関係や就職先、環境についてばかりで、口調はいつも愚痴染みていた。恋人同士としてのこいつらの話を聞いたことなんて、⋯⋯そう言えば一度も、ない。だけどそう気づくには一瞬、遅かった。
「⋯⋯んな訳、ないやろ⋯⋯」
 喉の奥から絞り出たような声は低く、掠れている。まずい。そう、頭のどこかで激しく警鐘が鳴る。
「しげ、」
「もう二度と⋯⋯お前にも、他の誰にもあの子の話せんわ。お前が、⋯⋯俺以外が⋯⋯“かみちゃん”なんて、絶対口にすんな」
 そう言ってあいつは、二人きりだったスタジオの隅から出て行った。十分後、撮影再開の時間になっても姿を見せることはなくて、スタッフとメンバーで「珍しい」「誰か探しに行くか」なんて相談をしている所へ、笑顔でふらっと戻ってきた。
「すまんすまん、ちょっと腹下してました」
 そう言ってスタジオを笑いで包み、数年前、メンバーを凍り付かせたあの日の音楽番組の時のように、あいつはいつも通りの姿で収録を進めていた。
 ただ俺だけが気づいていた。あの日とは違う。完璧に仕事をやりきっていたあの日と、今のしげは、明らかに違う。それは俺があの日よりも重岡大毅という人間のことを知っていた、というだけの話だったのかもしれないけど、いずれにせよあいつはずっと瞳の奥で笑っていなくて、常に何か違うことを考えていた。どこか、違う場所を見ていた。
 それが何かなんて、明らかなことだった。


 あの時の言葉通り、しげは俺たちの前で恋人の話を一切しなくなった。仕事の合間に時折かかってくる、普段のあいつなら一瞬も待たせることなく出ていた電話に出ることもなくなり、いつの間にかそれは掛かってこなくなった。その変化は流石にあからさまで、あいつが単独の仕事に出ていてその場にいない時、俺にこっそり「もしかして別れた?」と尋ねてきたメンバーもいたほどだ。
「別れてない。俺が地雷踏んでもうた。⋯⋯って、上手いことタイミング見計らって全員に回しといてくれへん? もうあいつの前で「かみちゃん」は禁句やから」
「⋯⋯それ、大丈夫なのかな」
「さぁ」
 明らかに自分が何か悪いことをしてしまったのはわかっていたが、それがなんなのか、今から何かするべきなのか、分からなかった。その頃には俺たちはもう、トップアイドルとして全国のドーム会場全部を回っても倍率が高いと批判が出るほど大きな存在になってしまっていて、あの時事務所の会議室に集まったような度胸は失っていた。
 現状仕事は上手く回っていて、裏でも不和は本当にない。現状無いそれを生んでしまう可能性があるのに、わざわざそこへ踏み込むのはどうしたって恐ろしい。特に相手は、正真正銘自分達の先頭で、真ん中で、誰より強い輝きで引っ張っていく存在だったのだから。
 あの歪さにさえ目を背ければ、しげは最高のアイドルで、最高のセンターだった。

 だけど、それでも俺たちはまだ二十代の半ばで、先がまだまだある存在だった。現状を失うことに怯え、いつか割れてしまうかもしれないヒビから目を逸らしていいはずがなかった。俺や他のメンバーが目を背けていたそれに、ただ一人だけが気がついていた。

 ある日のコンサートのMCで、それぞれの家についての話になった。流星はこだわり強いよね、いやお前がシンプル過ぎんねん、でも正直忙しくて寝に帰るだけだもんなぁ⋯⋯、そんな風に続いていく話の流れで、しげはいつも通り時折ツッコミを入れておちゃらけながら、だけど自分のことは離さない、というファンにもお馴染みのスタイルを貫いていた。そう、そこまではいつも通りだった。
「⋯⋯しげは? しげの家、誰も行った事無いじゃん。どんな雰囲気なのかくらい、教えてよ」
 わぁ、と湧いた歓声の中で、メンバー全員がほんの一瞬表情をこわばらせたのがわかる。しげのプライバシー。それはつまり「かみちゃん」に直結していて、全員が地雷だと理解していたのに。それを言ったのは、あの日「⋯⋯それ、大丈夫なのかな」と呟いた彼だった。
「うーん、聞きたい? 聞きたいっすかぁ?」
 にんまりと、いつものおちゃらけた笑顔をしげが浮かべる。だから俺は咄嗟に、恒例になっている「うざ! ええわ別に」を口に出そうとした。でも、違った。
「実はなぁ、一緒に暮らしてる人居って」
「っえ?」
 ざわ、とドーム全体が揺れるようにザワついた。メンバー全員が、まるでスローモーションのように時間が流れるのを感じながら、しげの綺麗な口元が微笑むのを凝視している。
「昔からの幼馴染となぁ、仲良過ぎて、今でも一緒に暮らしてんねん。⋯⋯あ、もちろん男やで?」
 不安に満ちていたザワつきは、すぐ黄色い歓声に変わった。珍しいメンバーのプライベート。しかもそれが、カワイイ情報だったのだ。ファンが喜ばないわけがない。それとは対照的に一言も喋ることができず突っ立っている俺たちの顔を覗き込み、しげは「これで満足っすか」と笑った。
「っ、う、うん! ていうか雰囲気くらいって言ったのに、友達と住んでるって、えぇ!? 逆によく今まで黙ってたね!」
「でも一般人なんでしょ? 生活リズム合わなくて大変そう⋯⋯あ、生活リズムといえばさ、⋯⋯」
 こればかりはそれなりに長くやってきたことが功を奏したのか、メンバーはすぐに動揺を隠し、さりげなく話題を次へ移していった。俺は普段からあまり積極的に喋る方でもなかったからこれ幸いとばかりに黙っていて、普段より明らかに多くかいている汗を拭きながら顔をこわばらせている彼と、いつも通り大口を開けて笑っているしげを眺めていた。
 きっと沢山考えた末に、コンサートのMCという、逃げられない、だけど、だからこそ笑いに持っていくことのできる場所で彼は踏み込んだ。だけど咄嗟に俺が入ろうとしたように、しげには幾らでも逃げ道があった。それにも関わらず、わざわざ話したんだ。彼と、⋯⋯かみちゃんと、今一緒に暮らしていることを。話すことも、訊くことももう一年近く無くなっていた彼の話を。




「ごめん。ごめんね、しげ。あんな逃げ場のない場所で訊いて。でも、でも俺、どうしても今のしげを放って置けなくて、グループとして放っておいたらいけないと思って、」

 コンサートが終わってすぐ、シャワーすら浴びずに俺たちは何年かぶりの人払いをして楽屋にこもっていた。五人分の熱がこもったそこは暑くて仕方ない。
「一緒に住んでるって、本当? 上手くいってるならいいんだ。本当に、何の文句もないんだよ。実際しげはずっとあの日の言葉をちゃんと⋯⋯」
「そんな謝らんでいいよ」
 ソファに腰掛け俯いたままだったしげが、ポツリと呟いた。ぽた、ぽた、と立て続けに綺麗な黒髪から汗が滴って落ちていく。明日も明後日もドラマの撮影が控えているしげのスペースには、読み込まれた台本が無造作に置かれている。
「⋯⋯謝んのは、俺の方。⋯⋯センターやのに、俺が引っ張らなあかんのに、ずっと気使わしてごめんな」
「⋯⋯引っ張ってたよ。俺達はお前に引っ張られてここまで来たし、お前がいなかったら何もかも、違う道になってたかもとすら、思う」
「そう、やで。誰にでも、踏み入られたくない部分なんかあって当然やろ。⋯⋯俺が悪かった。しげと、⋯⋯しげの大事なもん、軽視しとったんやと思う」
「⋯⋯優しいなぁ、自分ら」
 そう言うとようやく顔を上げ、しげはいつもとは違う、悲しそうな顔で笑った。そのまま立ち上がったかと思うと、大きな黒いリュックサックからいつものスマホたちと、見慣れない器具をいくつかテーブルに並べていく。
「前、⋯⋯あれもう、何年前になったかなぁ。あん時言ってたのと全く同じことしてんのが、このスマホ二つ。あいつは相変わらず気づいてへんけど、最近はスマホと車にGPSも付けてるし、家の部屋には全部カメラつけてるし、会社の人間関係とか誰が既婚者かとかも、全部調べてんねん」
「そ、それ⋯⋯」
 もう、一歩間違えればほぼ犯罪なんじゃないのか。しかもまだ、相手にそれを言っていなかったのか。きっとみんなが同じようなことで驚いていて、しげもそれを分かっているのか眉を下げて微笑んでいる。
「あいつも働きだして忙しなったけど、一緒に住んでくれるようにもなって、上手くいってるよ。上手く、いってると思う。でも、でも耐えられへんねん」
「⋯⋯なにが?」
「俺達が成功すればするほど忙しくなって、あいつに取れる時間もどんどん減ってって、いつの間にかあいつも、なんかちょっと一歩引いた目で俺のこと見るようになった気がして……。なぁ、お前らさ、なにで事務所に入った?」
 唐突な感情の吐露と質問に、皆が戸惑って顔を見合わせた。俺が「スカウト」と端的に答えると、それにもう一人が続き、リーダーを含めた残りの二人が「オーディション」と呟いた。何の話なのか、さっぱりわからない。だけどしげはグッと顔を歪めて、泣くのを我慢しているように笑った。
「な。オーディション、あったやろ。あれ、きっとあいつ受けてんねん。産まれた頃からすぐ近くに居ってさ、俺がサッカーボール追いかけてる間ずっとあいつはダンス教室通っとったし、昔から歌も素人とは思えんくらい上手かった。俺には絶対言わんかったけど、色んなところのオーディション受けてんの、親づてに聞いとってんな」
 汗に紛れ、しげの頬を涙が一筋だけ伝った。このグループをてっぺんに連れていく。それが、あいつの為でもある。あの日のしげの言葉が、脳内を反芻する。
「やからスカウト受けた時、どうしたらいいか、ほんまに悩んで、悩んで⋯⋯俺、それをあいつに相談してもうたんよ」
「⋯⋯」
 手で顔を覆い、しげがくぐもった声で苦しそうに呻いている。泣いてるわけじゃない。苦しんでるんだ。
「俺さぁ、正直アイドルなんてちょっと楽しそうやなぁくらいにしか思ってなかった。でもあいつは背中押してくれて、だから、かみちゃんの代わりに夢を叶えられたらって思った。俺が誘ってどうにかなるもんなのかも分からんかったし、そもそもあいつは嫌がるやろうから。でもそんなん間違っとったんや。だって、あいつの夢やったんやから。次の日にはあいつはダンス部も教室もやめとって、大事にしてたシューズも部屋から無くなっとった」
「⋯⋯⋯⋯そ、それの、何が悪いの!? 何一つしげのせいじゃないじゃん! オーディションを通らなかったのは彼の実力か運だし、スカウトを受けたのも今この場に立ってるのも、全部しげの力だろ!」
「そう、そうやで? 知ってんねん、分かってんねん、俺も、あいつも⋯⋯でも、でも俺にはあいつが大切過ぎて、この世の、何より大切で⋯⋯」
 そう俯いたまま呻くように語り続けるしげを見ていられなくなったのか、歩み寄ったリーダーが黙って新しいタオルを差し出した。それを受け取ったしげは、タオルに顔を埋めたまま黙りこくっている。
 鈍感な自分でも腑に落ちてしまった話を、俺はゆっくりと咀嚼していた。国民的アイドルの、それもセンターであるしげのスケジュールは、他の同業者と比べれば相当忙しい方の自分でも少し引いてしまうほど過剰に詰め込まれている。そんな日々の中で実際一番大切なものが他にあるというのは、どんな思いだったんだろう。
 あの時本当は、電話に出なくなったんじゃなく、出られなくなっていたんじゃないのか。目まぐるしく変わっていく世界、寄せられる期待、重圧、勝手に埋められていく日々。あれほどの執着を持つに至るほど大切な人が本来立ちたかったはずの場所に立って、本人はごく普通の人生を送りながら自分には入れない世界を広げていく。
「⋯⋯それ、本人とはちゃんと話してるの? 今の話じゃ、相手は未だにしげがこういう事してるって知らないんだよね」
 こういう事、と言った時彼の目はテーブルに並べられたあれそれを向いていた。しげは、緩く首を振る。
「言うつもりは?」
「ない。⋯⋯言ったら絶対、ややこしい話になるやん。同じ部屋に住んでんのに、一緒に過ごせる時間なんかほんの少しや。そんな中で喧嘩なんてしたないやろ⋯⋯」
「⋯⋯かみちゃんは、それで怒る人なん?」
 名前を呼んでしまったのはわざとじゃなかったけど、しげはもう怒らなかった。と言うより、興味すら、気づいてすらいないように見える。
「怒らんわ⋯⋯。びっくりはさせるかもしれんけど、何でかそもそもこんな監視するほど交友関係広ないし。別にスマホくらい見てええよ、って笑うかも」
「じゃあ、」
「でも、でも⋯⋯上手く言えんけど、おかしいねん。最近あいつ、おかしいねん⋯⋯! だから、だから⋯⋯目、離したくない。狂ってるって自分でも分かってるけど、もう今更、仕事も、あいつとのことも、後戻りなんかできひん。余りにも離れすぎてしまったからって手放したることも、どうしても出来ひん。だから、」

 そう言ってしげはタオルから顔を上げ、笑った。涙に揺れた瞳は儚くて、いっそ可哀想なほど、誰より綺麗だった。

「⋯⋯だから、頼むから、見逃して。もうほんまにどうしようもなくて、⋯⋯俺の全部をあげるくらいしか、やれる事ないねん」




 指輪をプレゼントした。しげが移動中のバンでそう呟いたのは、それからしばらく経った頃だった。
 あれ以降弱さや不安定さをメンバーに見せるようになったあいつが取り出したそれには、二人のイニシャルと記念日が掘られていた。それをしげは小さな袋に入れて、忙しすぎる日々の中で時折ふと取り出しては、袋越しにぼうっと眺めていた。「かみちゃん」も指に付けることはしてくれなかったというその小さな銀色のリングは、遠く離れた世界で生きながら恋をしているあの二人を繋ぐにはあまりに頼りなく、空虚に見えた。
 実際、形になるものを贈ったにも関わらず、あいつの監視癖は日に日に酷くなっていった。こっそりメンバーが進言したことで少し仕事を減らしてもらった結果以前よりメンバーといる時間が増えたあいつは、暇を見つけては四台目の、恋人を監視するためのスマホを眺めていたように思う。
「⋯⋯最近おかしい、って言ってたやん。それ、どういう所なん?」
 その日は、新しく出る曲のMV撮影だった。休憩時間にコーヒーを啜っていたしげに小さく声をかけると、少し前の話なのにすぐ何のことか理解したらしく、表情を消して俯いた。だけどもう、以前のように怒ることはない。
「⋯⋯上手く、説明できへんけど。俺のこと好きやのに、ずっとなんか、⋯⋯諦めたような顔してる気が、すんねん」
「諦め、かぁ」
「俺は横に居んのに、ずっと一緒に居ろなって、言ったのに、あいつがそれを心から信じてるようになんて到底見えへん」
「⋯⋯」
「でも、どんだけあいつの周りを調べても、俺が帰れん時家で何してんのか見てても、何もわからん。むしろ、むしろ俺以外あいつの周り誰も居らんのちゃうかってくらい、あいつは⋯⋯」
 しげがそれ以上何かを言うことはなく、俺も黙って隣でコーヒーを傾けていた。
 ちゃんと話をした方がいい。それは明らかなことだった。だけどそれをするにはしげも彼も少し大人になり過ぎていて、そしてただ単純に、しげには時間がなかった。
 鞄からまた小袋を取り出し、しげはそれを、遠く離れて生きる二人を唯一繋いでいるはずの指輪を、ぼんやり見つめている。「かみちゃんが仕事辞めた」。二人の時にしげが半ば呆然としながらそう告げたのは、それから半月ほど経った頃で、俺たちにとって、とても大きな仕事が決まった直後のことだった。


*


「⋯⋯⋯⋯そっからはもう、想像つくんちゃうかな」

 長い、とても長い話をずっとソファで話を聞かされていた彼は、力なく投げ出した自分の手を呆然と見つめていた。車で何とか見つけ出した彼を回収してすぐ自宅の風呂にぶち込んだから、彼は昨日と同じように大きすぎる俺の部屋着に一枚上着を重ねていて、その姿は同い年とは思えないほどやけに幼く見える。
 かみちゃんは、俺たちが思っていたその何倍も無知だった。しげは本当に自分の綺麗な部分しか大切な恋人に見せていなかったのかと驚いたのと同時に、彼の鈍感さにも言葉が出ない。こんな事って、あるのか? そう内心笑ってしまうほど、互いを深く愛していたこの二人は、余りにも互いを知らなさ過ぎた。
 だけど、それは自分にも言える事だ。俺達だって、しげから見た彼のことしか知らない。しげがメンバーの前でも弱さを見せるようになったあの頃から俺たちは何度も「もう介入するべきなんじゃないか」と話をしてきたけど、結局それを実行に移すことはできなかった。彼にコンタクトを取ればすぐしげにバレるのが分かっていたし、それでややこしくなるであろう事に割ける時間がないのは、メンバー全員しげと同じだったからだ。
 あの日、しげが死んだ日。昼間の数時間に行われた冠番組の収録で数日ぶりにメンバー全員が集まっていて、その時も皆がしげの心配をしていた。恋人が仕事を辞めたこと、その報告が自分になかったこと、いるはずのない友人と旅行に行くと言っていること。⋯⋯昨日、仕事と嘘をついてどこかの山奥へ一人で行っていた事。その全てに追い詰められ、あいつは初めて仕事でボロを出していた。それも、何度も。だけどそれがテレビで放送されることは恐らくない。
 その日、まるで運命のようにあいつの仕事はそれで終わりで、他のメンバーは全員その後にも予定を控えていた。普段ならそんな事があろうものなら浮き足だってそそくさと帰っていたあいつは、ボロボロだった収録についてスタッフと俺たちに謝罪したのち、いくつかのスマホをじっと見つめながら消えていった。俺が見たあいつの最期が、それだ。
 彼の話と合わせれば、その日に限って自分の車で来ていたあいつはどこかの駐車場で恋人の位置情報を眺めながら時間を過ごし、夜、その車があらぬ方向へ走り出したのを見てすぐ追いかけたのだろう。そうして、知らぬ間に命を絶つ決意をしていた彼に追いついた。追いついてしまった。


 洗っていないのだろう。血と泥に汚れて袋に入ったままの指輪を、彼は呆然と眺めている。その姿は、つい最近のしげによく似ていた。電話の後すぐに駆けつけた彼は大雨の中吐瀉物に塗れて道端に倒れ込んでいて、誰も救急車を呼ばなかったことが不思議なくらい酷い有様だった。
 彼は、何も知らなかった。何年もの間自分に向けられていた恋人の異様なまでの執着、依存、それに伴う苦しみ。俺の前では、しげは、いつも綺麗なだけやった。そう、小さな声で彼が呟く。
「何でこんな人がずっと俺のこと好きでいてくれるんか分からんくらい、綺麗で、眩しくて、神さまみたいな存在やった」
「⋯⋯はは。神様、か。確かに、俺らにもそう見える時はあったわ」
 俺の言葉には何も言わず、かみちゃんはテーブルからゆっくりとグラスを手に取り、水を口に含んだ。その目は、どこも見ていない。最期に見たあいつと同じ目だ。
「⋯⋯俺さ、しばらく何も予定ないし、家からも基本出んなって言われてんねん」
「うん」
「だからさ、かみちゃん、このまま俺ん家住んでくれへん? あっちの家賃も俺が払っとくから」
 そう告げると、初めて彼は俺の方を見た。幼い顔が苦しそうに歪む。
「流星、なんでそんな俺の事気に掛けてんの? しげが死んだのは間違いなく俺のせいやし、他のメンバーも世間も、みんなそう思ってる」
「⋯⋯さぁ。メンバーはみんな今、何考えたらいいかわからんと思うで。かみちゃんのせいやと思ってる奴もおるかもしれんし⋯⋯自分たちが何とかできたはずやと思ってる奴も絶対おる」
 今日事務所であるはずだった集まりは、俺のたった一言の欠席連絡であっさり中止になった。全員、集まって何かを話せる状態なんかじゃなかったんだ。当然だろう。自分達にだって何か、何か一つでも、このすれ違い過ぎた恋人たちを助ける手段はあったかもしれなかったのだから。
「ほんまはな、ずっとかみちゃんと喋りたいと思っとってん。しげのああいう所の事どう思ってんのか。納得してんのか、してないのか。まぁ、それ以前の話やったみたいやけど」
「⋯⋯そう、やな」
 空になったグラスをテーブルに戻し、かみちゃんが指を組む。その掌の中には、相変わらず小さな袋が握りしめられたままだ。
「だって、そんな素振り見せた事一回もなかったし、俺、には⋯⋯しげ以外に友達も家族も大切な人も、一人も居らんかった。俺にとって、しげが世界そのものやった。それで自分が疑われてるかもなんて、誰が思う?」
「疑ってなかったよ。疑ってはなかった。ただしげは、自分とかみちゃんの生きる世界がどんどん離れていって、どんどん自分とは違う、自分の介入できない世界が広がるのが嫌やったんやと思う」
「⋯⋯そ、そんなん、しげの方がもっとそうやろ! じっと見てても目が追いつかないくらいどんどんデカい存在になっていって、いつの間にか一番上にまで昇り詰めてテレビで見ない日もなくて、それで、⋯⋯それで俺の為やった、って!? 俺は最後の日にすら踊りたいとも歌いたいとも思わなかった! あいつにそんな重い物を背負わせるほどのものなんて俺のどこにもなかったし、そんな、そんな夢なんて⋯⋯中学生の頃、とっくにゴミ箱に捨てて⋯⋯⋯⋯」
「ほんまに?」
「⋯⋯え?」

 ソファから立ち上がり、彼の足元にしゃがみ込む。彼は本当に何を言われたのかわからない、って顔をしていて、これを訊くのは酷な事だとわかっていた。それでも口を閉ざせなかったのは、起こってしまったことへの無念と、どうしても彼のことをもっと知りたかったからだ。

「かみちゃんは、何で死にたかったん? そこまでの絶望が、どこにあった?」
「⋯⋯⋯⋯ぁ、」
「『重岡大毅』の恋人でいるのが耐えられなくなった? それとも、自分はゴミ箱に捨てた夢を叶えたやつを真近で見続けるのが辛かった?」

 恋人を目の前で失ったばかりの人には酷い質問だと、わかっていた。それでも、事の次第を知った時から恐らく皆が思ってはいたことだ。かみちゃんは途端に瞳をゆらし、落ち着きなく指輪を握りしめた手を擦り合わせる。

「⋯⋯⋯⋯わからん、っわからん、ねん。何で死のうとしてたのか、あんなにずっと思ってたはずやのに、もう分からんし、思い出す事も、できんくて⋯⋯だから、だからきっとそんな大した理由じゃなかった。それやのに、俺は何も知らんまま、あいつが考えてたこともどれだけ俺なんかを想ってくれてたんかも知らんまま、あいつを、六十メートルから落として殺して、グチャグチャにして、俺が⋯⋯」
「かみちゃん。かみちゃーん。ごめんごめん、一回やめよ。考えんの一旦やめて、俺の目見て、ほら。⋯⋯はい、十秒口に出して数えれる?」

 肩を掴んで無理やり目を合わせると、彼は虚な目からポタポタと涙をこぼしながらゆっくり数を数え始めた。荒くなっていた呼吸をサポートしながらそれを眺め、内心で、あんなに執着して大切にしていた人をこんな状態にして置いていってしまったあいつのことを考える。
 きっと今メンバー全員が、あの日、しげが初めて異様な姿を俺たちの前に見せた日から今までの数年間のことを考えていて、ファンが心配している未来に目を向けられている奴なんか一人もいないだろう。その中で俺がすべきことが、ひとまずこの人の傍にいることのような気がしていた。
 今このボロボロになったままの彼をそのままにしておくのは、嫉妬の鬼みたいなあいつでも流石に許せない、はず。それが俺にできる唯一の事で、あるいは贖罪と呼ぶこともできるかもしれないものだ。⋯⋯そう、やろ? そう呼びかけてみても、俺たちを先頭で引っ張ってくれた、俺たちの光だったあいつは、もう何も答えちゃくれない。




 渋るかと思っていたかみちゃんは、案外あっさり俺との同居生活を受け入れたし、一人での生活が乱れていたようには見えないほどしゃきしゃきし始めた。
 彼がしげと住んでいた部屋から持ってきた荷物はボストンバッグ一つで足りる程度のもので、その中には必要最低限の衣服や、しげの私物らしきものが入っていた。あいつが部屋着にしていたという地味なパーカーを無表情で取り出し、最近はこういう物がないと寝られないのだと呟いているのを横から眺めながら、俺は何も言えずにいた。
 前回泊まらせた客間をそのままかみちゃんの部屋にすると、数時間後には来る前より片付けられていたし、俺があちこちに物を置きっぱなしにしていたリビングも、「⋯⋯片付けていい?」と苦笑した彼に任せておけば、すぐ引っ越したてのような姿になった。すげぇすげぇ、と喜んだ俺が「二人の部屋もこんな綺麗やったん?」と尋ねたのは、割かし自然な流れだったと思う。
「⋯⋯まぁ、俺もしげも散らかってるよりは綺麗な方が好きやったし。⋯⋯見る?」
「え?」
 見るって、と呟きかけた俺に背を向けて自分に与えられた部屋へ行ってすぐ戻ってきたかみちゃんの手には、見覚えのあるスマホが何台か握られていた。思わず「あ、」と声が漏れる。
「うん。⋯⋯しげの、俺には隠しとったやつ。流石に遺族に渡すようなものじゃないからって、警察に貰ってん。他の私物は結構実家に送られちゃったけど」
「⋯⋯見たん?」
「見たよ、まだちょっとだけやけど。こっちはまるっきり俺のスマホのデータが入っとったし、こっちはほとんど俺が生活してる姿が映ってるだけやった。何が楽しかったんかわからんわ」
 そう言ってかみちゃんは笑ったが、その笑顔は無理しているようにしか見えなかった。流石に自分一人の所は恥ずかしいから、そう言って彼が見せてくれたのは、言っていた通り綺麗に片付いたリビングで食事をしている二人の姿だった。棚か何かの上にでも設置されていたらしいカメラは、キッチンも含めた周囲全体を上手く一画面に捉えている。


『しげ、もう目開けていい?』
『まだやで〜もうちょい待ってな⋯⋯はい! どうぞ!』
『⋯⋯うわ、すご!! 何これ、全部しげが用意したん!?』
『や〜、流石に全部は時間なくて無理やったけど、半分くらいは俺が作ったよ』


「⋯⋯これな、去年の俺の誕生日」
 テレビ画面に映した幸せな映像に、横に座っていたかみちゃんがぽつりと呟く。


『それでも、それでもめっちゃ嬉しいわ⋯⋯しげ、ほんまに忙しいのに』
『んなもん関係ないよ、かみちゃんの誕生日やもん。この世で一番大事な日やで』
『⋯⋯ありがとう』


 そう言って、少し遠いカメラ越しでもわかるほどかみちゃんは幸せそうに目元を緩めた。そんな幸福に溢れた映像を見ながら、俺は夏前になるとよくマネージャーや社員に対して休みを求めていたしげの姿を思い出す。基本どれだけ過酷なスケジュールでも特に文句もなく受け入れていたあいつの珍しい姿に、「きっとかみちゃんの誕生日とかがこの時期なんだろうな」と皆察していただろう。
 ふっと映像が途切れ、しばらくスマホを操作していたかみちゃんが今度はニヤニヤしながら画面をタップする。映し出された映像は、誰もいないリビングにしげが入ってくる所だった。


『ただーいまー⋯⋯あ〜やっぱりまだかぁ。そうやんなまだ二時やもんなぁ』
『⋯⋯かみちゃん⋯⋯あーーーかみちゃぁん、はよ帰ってきてやぁ』


「ふふ、あいつ独り言やばすぎ⋯⋯カメラあんの、自分は知ってんのに」
「まぁ観んのも自分だけなら関係ないもんな」
 しばらくソファに死んだように突っ伏していたしげが、横に置いたままだった鞄から徐にスマホを取り出した。何度か操作した後じっと見つめているそれは、恐らく今この場に並んでいるものの一つだ。しばらくすると満足したのか再度鞄に直し、入れ替わりに取り出した何かの台本らしきものをパラパラと捲り始めた。数分ほど黙って真面目に読み込んでいたしげは、ある瞬間突然パタっと台本を取り落とし、そのまま眠り始めてしまった。
 昼過ぎ、綺麗に片付いた広いリビングの大きなソファで眠っているしげは、まるでドラマの一幕のように絵になっている。
「⋯⋯こういうとこ、見たことある?」
「や、意外かも⋯⋯あんまり休憩時間とかも寝たりするやつじゃなかったし、そもそもこうやって読まなあかん台本がいっぱいあったから、それどころやなかったんちゃうかな」
「そっか。家では、よくあったで。ご飯食べた後とか特に、つい数秒前まで楽しそうに喋ってたのが急にコトンと寝てまうから、赤ちゃんみたいやなぁって笑っとった。でも今思えば、それだけ無理して一緒の時間を作ってくれとったんやな」
 編集する時間なんかは流石になかったようで、その後も映像はかみちゃんが仕事を終えて帰ってくる夕方過ぎまで続いていた。
 その間、しげは突然ふっと起き上がったかと思えばもう一度スマホをチェックし、仕事用、私用と順に確認した後は自分の出演したドラマや番組の確認をしていた。だけどそれは全て義務的というか、特別熱意があるようには見えない。しばらくそれを続けていたしげがふと時計とスマホを確認した後、当然のようにあいつは立ち上がり、玄関へ向かうらしき扉へ消えていった。一分も待たないうちに、急に賑やかになった話し声と共に二人がリビングへ入ってくる。
「⋯⋯しげさぁ、自分が先家に帰ってきた時、いっつも玄関で出迎えてくれとってん。音でわかるんかなぁとか思っとったけど、今思ばあの高いマンションではおかしな話やな」
「そうやな。俺たちは絶対相手も同意の上でそういう⋯⋯監視してるんやと思っとったもん。かみちゃんニブすぎんねん」
「はは、そうかなぁ⋯⋯皆俺の立場やったら、そんなん想像もしないと思うけど」
 そう言われると、反論はできなかった。スーツのままのかみちゃんを着替えさせながらいちゃつき始めた画面内の自分達に慌てて映像を止め、彼はまた何度かスマホを操作している。次に映ったのはさっきと同じリビングだったが、二人を包む雰囲気がどこか、違う気がした。咄嗟に「最近のものだ」と感覚が判断する。


『そう言えばさぁ、またドーム決まったって言ってたやん? あれ秋頃東京スタートなんやけど、かみちゃん来れそう?』
『秋なぁ。行けると思うけど、仕事は繁忙期ですね』
『あらぁ〜⋯⋯』
『でも楽しみにしてるよ。東京ドーム、久しぶりやん』
『おう! いっちばんいい席取っといてもらうから』
『えぇ、申し訳ないわそんなん⋯⋯三階席くらいにしといて』
『遠いわ! そんなん俺からかみちゃん見えへんやん!』
『一番上の席も見えてるで〜って、いっつも言ってんのに?』
『ぐっっっ⋯⋯』


 見事に痛いところを突いたかみちゃんは笑いながら淡々と料理をしていて、しげは会話をしながらソファに腰掛けてスマホを見つめている。だけどその手がぴたりと急に止まり、固まる。
 ゆっくり振り返ったしげは、それには気づかず料理を続けている彼に向かって何か口を開こうとし、やめた。トイレ行ってくんな〜、と告げ、あいつはリビングを出ていく。

「⋯⋯かみちゃん、この日って」
「俺が仕事辞めた日やな」

 思わず横を見ても、かみちゃんは画面からじっと目を離さずにいた。トイレというには長すぎる時間、映像を沈黙が支配し、いつの間にか彼の料理の手も止まっていた。中途半端に野菜を切ったまま、彼はぼんやりと空を見ている。
 しばらく経って戻ってきたしげの目は、俺の目には明らかに変わっていた。何度も見た、彼に対する何かで敏感になっている時の目だ。

『かみちゃん? なにぼうっとしてんの。包丁危ないで?』
『⋯⋯っあ、ごめん。大丈夫』
『そ?』

 そう言いながら、あいつはかみちゃんから目を離さない。一方で彼は、まるでしげと目を合わせることを避けているかのようだった。

『なぁ、今日なに?』
『八宝菜』
『うわぁ〜、めっちゃいい。最高』
『言うと思ったわ』
『ひひ』

 明らかに今までの映像とは違う空気の異質さに本人たちは気づいているのかいないのか、普通に会話を再開した。おちゃらけて歌まで口ずさんでいるしげの姿は、その内心を想像することのできる人間が見れば、あまりに痛々しい。

『あ、そうやかみちゃん。今週末、どっちか空いてる? 二日続けてオフなってさ、出掛けられへんかなって』
『へぇ、二日も? 凄いな』


 この時初めて、はっとしたようにかみちゃんは俺の目を見た。
 流石にメンバー全員の個人スケジュール、しかも過去のものなんて把握していないから俺は首を傾げておいたけど、二日連続のオフがこの夏のしげに自然に生まれることが有り得たのかを考えてみれば、答えは明白だった。
 まだ画面内の会話は続いていたが、無言で彼がそれを止める。俺も黙って、自分の足元を見つめていた。同居生活が始まってまだ二日目だったが、俺と彼は意外と波長があっていて、こういう時何も喋りたくない、だけど一人になりたい訳でもない、と言う点で似ていた。夕方になって俺の腹の虫が鳴るまで、俺たちはソファに座ってただじっと考え込んでいた。




 それから二週間、結局ただの一度もメンバーで事務所に集まることはなかった。広告契約や途方もなく先の仕事まで決まっている存在を抱えた事務所の人達は本当に大変そうで、日に何度か電話がかかってくることはあったが、メンバーの死という事柄がデカすぎたのか、俺たちは当初思っていた以上に『そっとして』もらっていた。
 かみちゃんはその二週間の間にみるみる体調を回復させ、ほっそりと痩せて血色の悪かったついこの間とは別人のようになった。彼はどうやら元来世話焼きな性格らしく、心身共に弱り切っていた彼を回復させてしまったのは何故か、俺のだらしなさだった。喜ぶべきなのか反省すべきなのか微妙なそれでも、あの日死にかけのような顔色で雨の中倒れていた彼よりかはずっとマシだ。俺自身がどうというより、あの部屋で一人で暮らしていたことが彼に一番良くないものだったのかもしれない。
 互いに朝は強くないから十時か十一時頃に目を覚ましてブランチを摂ると、そこからはだらだらゲームをしたり映画を観たりして過ごす。そうは言っても職業上あんまり体力を落とすわけにもいかなくて、夕方には室内バイクを一時間漕ぐようにし、渋る彼にも十分だけ頑張れせていた。


 そうしてさらにその生活が一週間ほど続いた、つまり俺たちが約ひと月ほど自由にさせてもらった頃、とうとう事務所から招集がかかった。それぞれ落ち着く時間を持ち、話し合う余裕も出てきた、ちょうどいい頃合いだろう。会っていなくたって、仮にも五年以上家族より長い時間苦楽を共にしたメンバーだ。それくらいは分かる。恐らく、しげ無しでグループの活動を続けて行くことになるであろうことも。
 この一ヶ月、あまり興味がない俺なりにインターネットを見ていて、色んな意見があることは知っていた。他のメンバーは俺の何倍も普段からそういう事をしていたから、きっと今回も色んな意見を見て頭から湯気が出るほど悩んだ事だろう。それでも、きっと答えは決まっている。あいつが死に物狂いでてっぺんに持っていったグループを、あいつが居なくなったからといって手放して、諦めていいはずがなかった。


「明日とうとう事務所集まることになったわ」
 いつものブランチ中にそう告げると、彼は特に驚くこともなく「そっか、じゃあ俺も家戻るわ」とあっさり告げた。思わず眉を顰める俺を嗜めるように、かみちゃんは穏やかに笑う。
「やっぱり、俺の家はあそこやねん。あ、家賃も来月からは自分で払うから」
「⋯⋯大丈夫なん? 家賃もそうやけど、かみちゃん自身も」
「大丈夫。流星も一ヶ月一緒に居ってわかったやろ? 今の俺に死ぬ気はないから。それに、お金についてはまぁ⋯⋯結構、あるねん」
 そう言って彼が見せてきた銀行の口座管理アプリには、俺が思っていたより数個ゼロの多い預金が並んでいた。それでもあの広いマンションに住み続けるには足りないのでは、と口を挟むより早く、今度は別の口座が見せられる。
「こっちが、しげの提案で作った二人の口座。なんか将来のためにーとか言われて、時々お互いお金入れとってん。⋯⋯まぁ、入れてる額は全然違うけどな。恥ずかしながら、ただの会社員やったんで」
 かみちゃんは、そう言うと少し恥ずかしそうに頬を掻いた。そこに並んだ数字は、なるほど、たとえ働かずともあのマンションに数年住むくらいなら簡単にできそうなものだった。
 広告、ドラマ、テレビ番組、映画、雑誌⋯⋯。どこに行っても、何をつけても見ない日はない存在だったあいつの唯一の趣味が目の前で恥ずかしそうにしているこの人だったことを思えば、むしろ家賃の心配なんてしていた自分が馬鹿に思える。
「どういう仕組みなんかは知らんけど、この口座はそのまま俺になるらしいから。だからほんまに大丈夫。流星こそ、これから頑張ってな」
 そう綺麗に笑い、かみちゃんはその後すぐ少ない荷物をまとめて出て行った。マンションまで送らせてすらくれなかったその背中は一ヶ月前より何倍もしっかりしていたけど、何故か胸の内から不安が消えてくれることはない。

「⋯⋯かみちゃん!」
「ん?」
「⋯⋯⋯⋯また、連絡するから。あと、もしまたコンサートがあったら、今度は俺がかみちゃんの席用意するから」

 自分がどうしてここまで彼のことを気にかけ、こんな言葉をかけているのか、俺にはわからない。ただ一つ理由が思いつくとすれば、大切な友人の大切な人を、失いたくなかっただけだ。

「行きにくいなぁ、それ。まぁ考えとくわ」

 そう笑い、今度こそ彼は出て行った。俺が心配しているのをわかっているのか、一時間後にはリビングを背景とした自撮りと共に「無事帰宅しました」とメッセージが届き、無意識に詰めていた息を吐く。確かに、今の彼から自死の気配は感じない。だけど、何故だろう。何がこんなにも引っかかっているのだろう。

『⋯⋯かみちゃんは、何で死にたかったん?』

 あの話は、あれ以降一度もしなかった。彼がそれを見つけられた様子も、なかった。だからなのだろうか。
 握りしめたままだったスマホが揺れ、画面に「やっぱり明日じゃなく今日の夜集まろう」と言うリーダーからのメッセージが浮かんでいる。やっぱり、みんな覚悟は決まっていたんだ。それならもう、気が逸って仕方ないだろう。了承の返事を送ってから、準備をするべく立ち上がる。
 あいつが灰になって、一ヶ月。『俺達』は、ようやく最初のほんの一歩を踏み出そうとしていた。


*



「ただいま」

 誰もいない部屋に呟く。一ヶ月放置してしまった部屋は流石に少し埃やらが溜まっていて、明日は朝から掃除の時間にしようと決めた。
 冷蔵庫を開け、中身を確かめる。流星に連れ出せれる寸前、正直なところ、俺は碌な食事を取っていなかった。だからこれと言ってダメになっているものはなく、帰りにスーパーへ寄って買ってきた食材を淡々と詰めていきながらこれからは自分一人の為でも動ける性格にならないと、と考える。
 思い返せば、俺は一人暮らしの頃からいつもあいつの存在を想定しながら料理や掃除をしていたし、実家には兄弟もいた。自分だけの為に何かをすることに慣れていなかったんだ。⋯⋯まぁ、当時の精神状態が原因の一つであることは否めないが。
 何故かやたらと俺を気にかけてくれているあいつに帰宅した旨を連絡し、運動も兼ねて風呂場の掃除へ向かう。『健康な精神は健康な肉体から』。彼の家で過ごした一ヶ月で学んだことだった。完璧に掃除を終えてスイッチを押し、リビングへ戻る。
 見た目のスッキリさを重視して何も入れていなかったテレビ下のラックに、例のスマホたちと、それに収まりきらなかったらしい今までのデータ全てが入っているSDカードを並べた。その隣に、帰りにコンビニで印刷してきた二人の写真を写真立てに入れて飾る。前には二つ、お揃いの指輪を並べた。
 医者の手から渡されてから初めて袋から出したそれは、相変わらず汚れたままで、このまま放っておけば間違いなくどんどん劣化が進むだろう。だけど、⋯⋯だけど、それでよかった。
 それで、よかったんだ。


 翌朝は、思っていたより早く目が覚めた。流星に勧められたバスソルトの効果が思いがけず凄まじくて、風呂上がりに何とか髪を乾かしたらそのまま倒れるように寝てしまったからかもしれない。それでも社会の人々と比べれば数時間遅い起床だが、今の俺と社会は地続きのようでまるで関係ない存在だった。
 食パンを焼いてイチゴのジャムを載せ、時折コーヒーを啜りながら咀嚼する。何となくつけてみたテレビでは朝の番組が左上に『9:05』と時刻を映していて、そこではキャスターが声高に同じ言葉を何度も繰り返していた。
 
『繰り返します。元メンバーである重岡大毅さんの訃報により先月から活動を休止していた、国民的アイドルグループ“───”が来月より活動を再開することが、先ほど所属事務所のホームページにて発表されました。このあと朝十時より、メンバーによる会見が行われる模様です。繰り返します───』

「⋯⋯朝、十時か」
 見られるけど、今朝は掃除をするって決めてたしなぁ。そう考えながらパンを食べきり、残ったコーヒーで流し込む。番組をそのまま眺めていると今日はどうやら日曜日らしいことが分かり、「明日とうとう集まることになった」と言っていた割には早い、と思った理由に思い至った。なるほど、日曜という出来るだけ多くの人が見やすい時にしたわけだ。
 立ち上がり、たった一枚の皿とマグカップを洗って水切りに置く。二人で住むにしたって広かったこの部屋の全ては、これから何度も俺に『一人』を叩きつけてくるだろう。だけどそれに傷つく心は今のところない。
 今ここには、あいつの、重岡大毅の居ない世界で、ただぼんやりと穏やかな日曜の朝を迎えている自分が居るだけだった。
 リビングの隅に立てかけている掃除機を久しぶりに手に取る。最新式のそれで、広くて部屋数も多いこの住処を隅から順に掃除していく。無心で続けたそれを終えて時計に目をやる頃には時計は十一時を指していて、つけっぱなしだったテレビでは彼らが最後の挨拶を述べているところだった。

『簡単な道だなんて思っていません。納得できないファンの方々がいることも、分かっています』
『それでも僕たちは、彼の居なくなったこの場所を、終わらせたくないと思いました。それはあいつが、僕たちをここまで引っ張ってきたからこそです。だからこそ、死に物狂いで前に進むことを決めました』
『これからも応援してくれ、とは言いません。それはこれからの自分達を見て、判断してもらうことだと思います』
『目の前にある一つ一つから、大切に、着実に、⋯⋯あいつに恥ずかしくないように、全力でやっていきます』

 あの日と同じ真っ黒なスーツを着たメンバーが、順に決意を語っていく。だけどもうそれは、喪に服した格好には見えなかった。端っこにずっと黙って立っていた流星が、最後にマイクとカメラを向けられ、口を開く。

『⋯⋯あいつを⋯⋯重岡大毅を、今まで愛してくださって、ありがとうございました。俺たちも、その一人でした。だからこのグループを、⋯⋯あいつという存在のいた証を、ずっと守ります』


 その言葉を最後に、全員が礼をして会見は終わった。

 スタジオに戻った映像でキャスターや出演者が感極まっているのを掃除機を手に持ったまま眺めながら、俺は世界が動き始めた音を聞いていた。あいつの死から、この世界で一番綺麗で眩しかったあいつが居なくなってから、たった一ヶ月で、世界は回り始めた。
 悲しい。虚しい。非情だ。結局みんな、その程度なんだ。そんなありふれた言葉が脳内を右から左へ流れていって、だけど一つも残らなかった。自分のせいで誰かが死んで、だけどその理由すら思い出せない人間に、何かを想う権利なんてあるわけがなかったんだ。
 掃除機を元の位置に戻し、充電が始まったことを確認する。適当に買ったジュースを冷蔵庫から取り出し、グラスに並々注いだ。テレビの画面を切り替え、下のラックからスマホを、しげが片時も離すことのなかったというそれを取り出して接続する。
 手付かずだった一番古いカードを差したそれから流れ始めた映像に映っていたのは、今見る瞬間まで忘れていた学生時代のアパートだった。


「⋯⋯っあほ、やなぁ、ほんま⋯⋯⋯⋯俺も、おまえも⋯⋯っ」


 何も知らなかった。

 こんなにも好きで、大好きで、産まれた時からずっと一緒にいたのに。お互いのこと何にもわかっちゃいなかった。愛情以外の表現のやり方を、知らなかったんだ。
 どちらかが何か一つでも伝えることができていれば、あの『一生一緒の証』は、綺麗なままでいられたのだろうか。
 わからない。わかったとしても、もう何一つとして取り戻せない。⋯⋯なら、ならばせめて、今から少しでも拾い集めたい。ぐしゃぐしゃになって死んだあいつが、俺の前で優しく笑いながら何を思っていたのか。俺が何故、死のうと思ったのか。そこまでの絶望が、一体どこにあったのか。
 物置から小さな踏み台を取ってきてリビングの棚の上を覗くと、幾つか並べたフェイクグリーンの隙間に小型カメラのようなものが潜んでいた。高い場所の掃除は「かみちゃん届かんやろ」なんてからかっていつもあいつがやっていたから、知らなかった。だけど仮に見つけても、防犯の為だとか言われれば俺はあっさり信じただろう。その小さなカメラがちゃんと稼働していることを確認し、取り外すことはせずにそのまま台を降りた。
 あいつが最期まで俺に見せないままだった執着の証は、何枚ものSDカードの形をとって残っている。全部合わせたら一体何時間になるのかもわからないそれを辿るだけの時間が、今の俺にはいくらでもある。
 テレビに映し出された面白くもなんともない自分の姿を眺めていると、画面の中で一人レポートを書いていた自分が着信を知らせたスマホを手に取り、何か話し始めた。その相手がしげじゃないことは、口調からすぐに分かる。まぁ大学生だったのだから、学内で一緒に授業に出たり課題やレポートで助け合う程度の知人はいた。俺にとってはその程度のものだったけど、この瞬間も何もかも全てを見ていたというしげの想いを彼自身の言葉で知れなかったことが、ただ純粋に残念だった。


*



 朝起きた時、まずその寒さに顔を顰め、それでもなんとか布団から這い出て上着を羽織る。軽くベッドを整えたらカーテンを開け、ちゃんとタッセルで纏める。適当な部屋着に着替えて寝室を出ると、リビングの大きな時計は朝七時半を指していた。
 不思議なもので、予定も何もないまま長く生活を続けていると、人間は本当に明るさや体内時計で起きるようになるらしい。会社員だった頃あんなに苦労していた早起きも、今なら簡単にできそうだった。ふかふかのスリッパでリビングの窓に歩み寄り、シャッターを開ける。見えた外の空気はツンと澄んでいるように見えて、寒そう、と一人呟く。

 あいつが死んで、半年。季節は冬になっていた。

 適当な朝食を用意し、もう慣れた一人には大きいテーブルで黙々と食べ進める。地上波の番組を見ることはめっきりなくなっていたけど、あいつが残した映像は半年経っても見終わっていなくて、テレビはまだ一応その役割を果たしていた。昨日の続きから再生したそれを、コーヒー片手に眺める。先週ようやっとこの部屋に越してきた画面内の二人は、仲睦まじげに喋りながら俺の作った夕食を囲んでいる。


『映画、好評らしいやん』
『そう! あんまり数字の話はアレやけど、興行収入今んとこ想定の倍らしいわ。なんか今回、やたら宣伝で番組出ること多かったもんな〜』
『主題歌もよう売れてるんやろ?』
『あっ、そう、そうやねん! かみちゃんもうMV観てくれた? 今回、結構振りむずかったけど頑張ったんよ』
『な、これしげ苦労したやろなぁって笑ってもうたわ』
『笑うなや!』


 そう笑い合う二人は、傍目に見ても幸せそうだった。だけど、わかる。自分のことだからわかる。「ほんまに?」「それとも、自分はゴミ箱に捨てた夢を叶えたやつを真近で見続けるのが辛かった?」。あの日の流星の言葉に、一人で遅すぎる返事を零す。

「こんな目した奴が、捨て切れてるわけ、ないやんな⋯⋯」

 存外鈍かったしげが気づいていたかは分からない。だけど振りの話になった途端、俺の目はほんの僅かに曇っていた。きっとこの時も、頭の中でその振り付けについて考えていてんだろう。それでも話は続いていて、内心とは裏腹に丁寧に映画の内容について感想を述べる俺を、しげはいつものはちみつみたいな甘い目で見つめていた。最後にこの瞳を見てから、もうどれだけ時が流れたんだろう。
 映像の中で「いつもの」俺だけのしげを毎日観ている俺にとって。彼の葬式も、灰になった姿も見ていない俺にとって。この半年間はずっと、ぼんやり、どこか別の世界で生きているような感覚があった。
 それでもあの日病院で感じた、手を伸ばせば届くような気はしない。たとえ玄関やこのリビングで何時間待とうが彼が帰ってこないことを、今の俺は理解している。


『確かまたドラマも決まったんやんな? 今撮影してるやつすらまだ放送されてないのに、仕事しすぎちゃう?』
『うーん、まぁそうやけど、でもそれがグループの為にもなるし、もっともっと知名度は上げていきたいし⋯⋯』
『貪欲やなぁ』
『はは、だって自分で決めた道やし、やるならてっぺんまで行かな。⋯⋯それを、かみちゃんにも見せたいねん』
『⋯⋯うん、見てるよ』


 しげは、途中から俯きながら喋っていた。よく覚えている。当時の俺はそれをいつものしげの照れた時の癖だと思っていて、上手く笑えない自分を見られずに済んで都合がいいと思っていた。だけどカメラは二人をちょうど横から見る位置に置かれていて、俯いているしげの虚な瞳をしっかりと映している。
 数秒の間の後顔を上げたしげは嬉しそうに微笑んでいて、ありがとうかみちゃん、と囁いた。可哀想なほど、彼は演技の才能に恵まれていた。もしかするとそれは俺も同じだったのかもしれない。
 コーヒーを飲みきり、ちょうどキリよく映像内の自分達も食事を終えてそれぞれ動き始めたから映像を止める。簡単に食器を片付け、俺はいくつか目星をつけていたダンススクールの講師募集ページへ応募メールを送った。送信を確認したらすぐにパソコンを閉じ、ソファに腰掛けて天井を仰ぐ。傍のスマホへ語りかければ、AIが最近発売されたとあるグループの曲を再生し始めた。賛否両論と露骨な数字の低迷を受け止めながら、彼らはまだ半年とは思えないほど精力的に活動を行なっている。
 それでも。グループの顔を失ったとしても、彼らは一度トップへ昇り詰めた国民的アイドルグループで、しかもそれが途轍もない覚悟と共に戻ってきたのだ。その立場は簡単に揺るぎはしなかった。『年明けからアリーナツアーやるよ〜ん』と軽いノリのメッセージが彼から送られてきたのは数ヶ月前のことで、俺が何か返事をする前に横浜での公演全てに席を押さえた旨が送られてきた。だから俺はそれには何も言わず、「新曲よかったで」と返事になっていない返事をした。いつの間にかその日はもう二ヶ月後に迫っていて、当日コンサート会場の席に座るのか、俺はまだ決めていない。
 ツアー自体はもう一ヶ月も待たないうちに、大阪を皮切りにして始まる。いつも関東スタートだった彼らのコンサートツアーが他の場所から始まるのは、初めてのことだ。

 数十分後、応募したいくつかの先から面接についてのメールが返ってきて、それから更に数日、簡単な面接やらを受け、無事俺は翌週から社会復帰することが決まった。
 棚の上に視線を向け、やったで、と声に出して笑ってみる。軽く手を振ると、ちょうどそこからピーッと音がした。慌てて物置から踏み台と小箱を持って戻り、かつてと違って堂々と置かれているカメラを手に取る。やっぱり容量が限界に近づいた合図だったらしい。小箱から予備のSDカードを取り出し、今のものと入れ替えで差し込む。安定して作動し始めたのを確認し、台を降りた。そのままテレビラックを開け、半年前より随分数が増えて俺のものとしげのもので分けないといけなくなってしまったそれに加えておく。横に目をやると、二人の写真の前でまた一層傷んだように見える指輪が微かな輝きをちらちらと揺らしていた。

「⋯⋯待ってな。もう少し、あともう少しやから」


*



 結局、二月のある日、俺は横浜にある大きなコンサート会場に来ていた。関係者としての入場は慣れていたけど、なんとなく、正面の方へ回ってみる。そこでは、かつてのように楽しそうなファンたちが集まって写真を撮ったり語り合ったりグッズの交換をしたりと、懐かしい光景が広がっていた。
 中にはしげのメンバーカラーを身につけた人やそのグッズを持ってきている人もいて、そういうものなのか、と思ったのと同時に、後ろからヒソヒソと囁くような会話が耳に入ってくる。
「⋯⋯やっぱ、いるんだねああいうの」
「ね。もうしげのパートない曲も多いし、今までの曲も全部パートも振りつけもまるっきり元から四人だったみたいに変えて、しげの抜けたグループじゃないようにしたじゃん。きっとそれが四人の答えなのに、なんであんなことするんだろうね」
「きっと⋯⋯流星が言ったからだよ。あいつという存在のいた証を守るって。⋯⋯それ、私達がすることじゃないのに。なんで分からないんだろ」
 彼女たちは淡々と、だけど悔しそうにそう話していた。そういうものなのか、とまた考えながら、踵を返す。この半年間で俺は、あの時出来なかった遮断する術をいつの間にか学んでいて、それ以降周りを取り巻く大勢の人の声が耳に入ることも、さっき聞いた話が気になることも、なかった。
 少し早く着いてしまったけど、話は通っていたのか俺はあっさり関係者用口から入れてもらい、何の気遣いか用意された空き部屋で待たされていた。しばらくぼうっとしていると、遠くから誰かの走ってくる足音がして勢いよくドアが開く。入ってきたのは当然、今日俺をここに誘った(というか無理やり来させられた)流星で、つい数週間前に彼の部屋でゲームをした友人だった。
「おーー! ほんまに来てくれた!」
「まぁ、席空けんのも悪いし。⋯⋯ていうかほんまに俺三日間全部席取られてんの?」
「うん」
「⋯⋯あぁそう⋯⋯。ごめんやけど、明日は無理やで。仕事あんねん」
 呆れてツッコむ気も削がれながらそう言うと、流星は一瞬黙ったのち大声を上げた。いつもはむしろ静かな方なのに、ライブ前で少しハイになっているのだろうか。
「え、し、仕事!? かみちゃん仕事始めたん!? いつから!?」
「二ヶ月前」
「⋯⋯っええーーー!!」
「中高生向けの割と本格的なダンス教室でな、講師やってんねん。十年ブランクあってあっさり雇ってもらえたから、俺ほんまにダンス上手いんかも」
 訊かれる前に手早く告げたら、流星は過剰に驚いていた顔をそのまま固まらせた。芸人みたく肩の上まで上げていた腕をそっと降ろし、神妙な顔で「そうなんや」と呟く。彫刻みたいな彼の顔はそうしている方がよっぽど似合うのだけど、その性格や一連の流れからか、俺は思わず吹き出した。
「笑うとこかぁ? これ⋯⋯」
「や、顔おもろくて」
「⋯⋯俺にそんなん言うの、かみちゃんだけやで」
「だって、彼氏しげで友達流星やで。そら目肥えるやろ」
「⋯⋯まぁ、確かに」
 そう顎に手をやって頷く流星。本当に面白いけど、この半年でかなり慣れたからちょっと笑うだけで済ませる。改めて見ると彼はライブ前のはずなのにまだラフな格好をしていて、手には自分の個人グッズとペンライトを持っていた。
「流星、こんなとこ居っていいん? 準備とかあるんちゃうの。着替えすらまだやん」
「え、あぁほんまや⋯⋯えっとな、これペンライトで、これ俺のグッズやから。しっかり持っといてや」
「誰のファンとして座るかまで固定なん⋯⋯?」
「いいやん、だって俺以外メンバーよう知らんやろ」
「うーん⋯⋯」
 ふと、さっき聞いたり見たりしたファンの姿が蘇る。四人の考えを汲み取り、しげの存在は心のうちに留めたままこの場に来ている子たち。しげの存在を、自分自身でも残そうとしている子たち。今日だけじゃなく、このツアーに来ている人たち皆が、似たような、だけどそれぞれの分だけある想いを抱えてチケットを買ったんだろう。⋯⋯まぁ、俺はチケットを買っても頼んでもいないけど。そう自嘲気味に笑い、俺は緩く首を振った。
「しげ、凄かったんやろ? もう自分いないとはいえ、違う男のグッズなんて持っとったら流星祟られるかも」
「⋯⋯そう、やなぁ⋯⋯そういえば一回、名前出しただけでキレられたこともあったわ」
「ふは。気になるなぁ、その話」
「聞いてもおもんないで、多分。じゃあこれ、ペンライト。準備終わったらまた来るわ」
 そう言ってシンプルなペンライトだけを俺に渡し、彼は部屋を出て行った。
 結局俺の予想通り準備がギリギリだったらしい彼がその後訪れることはなくて、俺は開演十分前にスタッフさんに連れられて関係者席へ案内してもらった。ぼうっとしているといつの間にか会場が暗くなり、ファンは歓声と共に立ち上がる。関係者席だからか俺の周りは別にそうでもなくて、ありがたく俺は座ったまま彼らの、かつてしげがいたグループの舞台を見ていた。
 昔からの馴染み深い曲。最近の曲。特に区切りもなく作られたセットリストは確かに四人のコンサートになっていて、いつの間にか頬を涙が伝っていた。知ったはずの曲が全部別物になっていて、別にそれが悪いことだなんて思わないのに、勝手に心が血を流す。
 初めてしげがステージに立った日、ラスサビ前のソロパートで会場を沸かせたあの瞬間、日本で一番大きな会場のステージを踏んで出てきた時の、感極まった表情。全部見てきたそれが、全部、全部頭に浮かんで、今会場を流れている同じようで別物の曲と交錯して、頭を滅茶苦茶にする。気がついたら公演は終わっていて、スタッフさんに「出ますか?」と声を掛けられていた。俺は流星に「頑張ったんやな。ほんまに良かったよ」と端的に感想を送り、案内されながらそそくさと会場を出てタクシーで家まで帰った。
 この半年ただぼんやりと生きてきて、傷つくかもしれないものを遮断するようにもなった心が、初めて揺れている。
 とっくに涙は止まっていたけど、なぜか歩く気力も、電話をくれた流星と話す気力もなかった。


 まだギリギリまともな金銭感覚で高いタクシー代を払い、ふらつく足を叱咤しながら部屋へ戻る。いつものリビングに着くと安堵の息が漏れ、途端に我に帰って流星へ帰宅したことと今日はそっとしておいてほしいことを連絡する。それだけなんとかこなしたらふと体の力が抜けて、ここ数ヶ月の仕事でかなり筋力が戻ったはずの身体を引き摺りながらソファへ倒れ込んだ。
 ⋯⋯居ない。居なかった。あのグループにもう、あいつは居なかった。だけど、彼らが国民的アイドルとしてトップに立ち続ける限り、きっとあいつは生き続ける。それが、彼らが選んだ答えだったんだ。
 ふと、視線を棚の上、半年以上ただの一人の男を映し続けているカメラへ目を向ける。そのレンズ越しにあいつが今も俺を見ている気がして、俺は泣いた。
 ──気づいた。ようやく、思い出した。俺が居なくなりたかったのは、あいつを殺したものは、ただの劣等感だ。ただの勘違いだ。

「おれ、あいつから俺を奪ってみたかっただけなんや⋯⋯」

 生まれた時から隣にいた彼は、昔から誰より綺麗で、誰より眩しかった。
 俺が抱えた小さな夢は偶然あいつと言う星の元へ落ちてきて、あいつはそのまま、今まで以上にもっと、この世界で一番輝く存在になってしまった。
 実際はそんな神聖な人間でもなんでもなかったのに、俺が勝手にそう思っていた。俺があいつをそうさせていた。そんな人の一番近く、特別な位置にいさせてもらえることがどうしてなのかわからなくて、申し訳なくて、妬ましくて、だけど嬉しくて、手放すのはもっと怖くて。隣の輝きが強くなればなるほど、周りへの興味も失せていく。そうしていつの間にか一人になっていた俺は正真正銘あいつが世界の全てになっていて、それに気がついた時、居なくなることを考え始めていた。
 馬鹿みたいに忙しい生活の中であいつが俺を同じ部屋に住ませるようになった理由も、なんとかして俺と一緒に過ごそうとしてくれるほど愛してくれていることも、わかっていたのに。それだけだった。それしか、わかっていなかった。
 俺の世界はあいつだけなのに、あいつは万人に愛されて、俺が夢見た場所に立って、なんでか知らないけど大好きな俺のことも独占している。
 それだけ。たったそれだけだった。そんな些細な劣等感と勘違いを丁寧に丁寧に拗らせた俺は、自分で自分の命を絶つ決意をした。「俺のことなんてすぐ忘れる」「あいつにはいくらでも代わりがいる」「仮にそうでなくても、万人の愛に包まれてるんだから別にいいじゃないか」。そんなことないって知りながら何度も同じ言い訳を連ねて、俺は何一つ気がつかないままあの日あの場所へ、車を走らせたんだ。⋯⋯だけど、だけどさ。

「⋯⋯⋯⋯お前だって、一言ぐらい言えば良かったやん⋯⋯」

 涙に震えた懺悔と恨み言は、レンズ越しに届いただろうか。半年回し続けたってあいつの半分にも及ばなかったカメラのスイッチを切り、カードを取り出す。俺用の小箱に最後の一枚を入れ、蓋をした。カメラは、すべてのデータを消して翌日には売ってしまった。



*



 グループのツアーが終わり、数ヶ月が経った夏の終わり。あいつが一周忌を迎えた。
 現場となった場所は前日から警察が大量に派遣され、絶え間なく訪れるファンの整備を行なっていた。その日は真夏日で、炎天下の中涙ながらに花を供えるファンの姿がどこの局でも流されていて、一年経ってもなお霞まないその存在の大きさを窺わせた。あるいはこれを「感動ポルノ」と呼ぶのかもしれない。
 俺はそれを空調のよく聞いた部屋でテレビ越しに見ていたが、その後すぐ時計を見遣って「休憩終わり」と声かけをする。中高生に囲まれて熱心にダンスの指導をする俺がついさっきまでテレビに映し出されていた故人の恋人であったことを、この場の誰も知らない。この世界の数人しか、知らない。知らないままに、世界は回っている。


 二ヶ月後、「バックダンサーとしてやっていくことになった」とまた嘘をついて、俺は一年弱お世話になった職場を去った。やたらと懐かれたいた中高生に惜しまれるのは流石に後ろ髪を引かれ、スタジオを出るのは予定より一時間ほど遅くなってしまった。なんとか抜け出して車に乗り込みながらスマホを見ると、先週相手の家で飲み会兼ゲーム会をしたばかりの友人から「飲みに行かん?」と連絡が入っている。それには既読をつけず、俺は車を発進させた。
 マンションの解約と荷物の引き払いはすべて済ませていて、『二人だけの部屋』に気を使って一度も入ってこなかったあいつは、そのことを多分、知らない。知ってたら流石にこんな呑気な連絡はしてこないだろう。⋯⋯まぁ、俺には前科があるから、油断ならないけど。そう喉奥で笑いながら、あの時とは随分違う、晴れやかな秋晴れの中車を走らせる。
 処分しなかった数少ない荷物は後部座席に積んでいて、それを時折バックミラーでチラリと見遣る。信号待ちの間になんとなくそこから写真立てを引っ張り出し、ダッシュボードへ置いた。倒れるかと思ったそれは、案外揺れるだけで持ち堪えてくれている。自然と笑みが溢れ、俺は小さく歌を口ずさんだ。
 彼がいたグループの、一番好きな曲だった。この曲の最後にある彼のソロパートが、好きだった。そう、好きだったんだ。こうして一人穏やかな生活を送ってみれば、俺は自分がもうとっくに夢に区切りをつけられていたことに気がついた。隣の輝きがあまりに大きすぎて、勘違いしてしまっただけで。
 その相手すら俺がこの世で一番大事だったって言うんなら、もう、他の誰がなんと言おうがお互い様だったんだって、今なら思えるよ。
 道中に立ち寄ったコンビニでペンを借り、イートインコーナーの机であらかじめ用意していた遺書に一文だけ書き足す。ついでにアイスコーヒーを買って車に乗り込む頃には、空は西日が差し始めていた。




 目的地付近に着いたのは日暮れの少し前で、名所というだけあってまだライダーが時折通り過ぎていくのが見えた。それが落ち着くのを路肩に停めた車で待ちながら、用意しておいた遺書を読み返す。

『胃のなかに何かあると思うんですけど、大事なものだしただの指輪なので、どうか出さずにそのまま焼いてください。
 教室の生徒たちには俺について何も言わないであげてくれると嬉しいですが、所長に任せます。神山智洋』

「⋯⋯ま、こんなもんやろ」
 二十数年生きてきたにしては端的な遺書だが、俺にとって世界の全てだったやつが先にいってしまったんだ。他に何を言い残すことがあるだろう。折り畳んだそれを再度封筒にしまって残りのコーヒーを飲み干す頃には日は完全に暮れていて、バイクはおろか、人も車も通らなくなっていた。
 封筒と写真立てを鞄にしまい、車を発進させる。十五分ほど山道を走れば、懐かしい、だけどつい数ヶ月前テレビで見たばかりの場所に辿り着いた。ポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出し、唯一の友人にメッセージを送る。ずっと変えていない待ち受けを数秒眺めたのち、電源を落とした。
 鞄からいつもの小袋を取り出し、取り出した二人分の指輪を手に握る。SDカードはすべて明日到着指定で流星の家に発送しておいたから、俺の荷物はこれですべてだった。『一緒に燃やしてください。恥ずかしいから出来れば誰にも見られんように何とかしてくれたら嬉しいな』、そう手書きの一言を添えておいたその要求にあいつや警察が応えてくれるかはわからないけど、まぁ、それを知る術もないから関係ない。スマホは運転席に放置し、指輪と遺書だけを握りしめて車を出た。
 天気は悪くないはずなのに、山風というやつか、風が強い。あの日よりは随分マシとはいえ、相変わらず激しいそれに目を細めた。道端で適当に重そうな石を数個拾い上げ、そのまま一年前とは随分様相の変わった橋へ歩みを進める。
 嗚咽はなく、だけど涙が滴り落ちて止まらない。


 しげ。なぁ、しげ。
「⋯⋯ごめん。⋯⋯ごめん、ごめん⋯⋯ごめん、な⋯⋯⋯⋯」


 俺、少し幸せだったんだ。この一年と少し、お前は、俺が殺したお前はどこにも居なくて、誰も会えなくて、生きてるお前を最後に見たのだって、俺一人で。
 お前の居ない世界で俺がぼんやりとこうして生きてきたのは、お前が居なくても少しずつ回り始めた世界を見ていたかったからなのかもしれない。そうして過ごして得た答えだって、大したものじゃなかった。「お前から俺を奪ってみたかった」、だなんて。そんなもの死んだ後でどうやって知るっていうんだ。
 なぁ、もし本当にそうだったら、しげは怒る? それとも俺が思ってた何十倍も嫉妬心の強かったお前は、むしろ喜ぶのかな。
 なぁ、俺たち、産まれてからずっと一緒にいてずっとずっと大好きやったのに、お互いのこと全然知らなかったみたいやからさ。あんなに一緒に居たのに、聞きたいことが山ほどあって、会いたくて、会いたくて、堪らないねん。


 歩道に遺書を置き、風で飛ばされないよう拾っておいた石を全部載せた。ゆっくり深呼吸をしたら、山の澄んだ風が肺を通って心地いい。
 握りしめていた指輪を口元に寄せ、二つ丸ごと喉元へ放り込んだ。異物に驚いた身体が必死に吐き出そうとするけど、無理やり飲み込む。額には脂汗が浮かんだけど、もう一度深呼吸をすればすぐに落ち着いた。
 一年前より随分大層になった保護柵へ手を掛ける。内向きに鉄柵まで張られていて登りづらいったらありゃしない。手のひらのあちこちから血が出て、もう数刻も先のない身体にはどうでも良かったけど、あいつはいい顔をしなさそうだなぁ、と笑った。なんとかして一歩ずつ柵を登っていくたびに、あの日のことがついさっきのように鮮明に頭を過っていく。

『かみちゃん、何してんの? ここ、眺めいい? こんな天気じゃなかったら一緒に来たかったけどなぁ』
『なんで⋯⋯っなんでなん!? ずっと一緒に居ろなって、そしたらお前、頷いたやん⋯⋯! その指輪やって⋯⋯っい、今までずっと隠しとったくせに付けてるやん!』
『不満があるならなんでも聞くから!! かみちゃんの為なら俺何でも、何でも、するから!! かみちゃんの為に、俺──⋯⋯!』
『かみちゃん!! あぶ、え、⋯⋯ぁ、⋯⋯⋯⋯かみ、』

 最後に、あいつは何を言おうとしたんだろう。本気で言い争ったのなんて、結局あれが最初で最後だったなぁ。
 何とかして一番上まで登り切ってそこへ腰掛けると、さっきまで吹いていた山の風がふっと止まった。失敗しないよう見守ってくれてんのかな。それとも、やめろって言ってんのかな。

「⋯⋯どっちにしろ、聞こえんからわからんわ」


 わらってそう呟き、重心を前に倒した。高い橋の上から、今度こそ重力に従って揺らいだ身体が真っ直ぐに落ちてゆく。聞いたことはあったが、本当にゆっくりに感じた。あいつも、同じ体験をしたんだろうか。あぁ、また後で話すことが増えた。
 段々と意識が揺らぎ始め、走馬灯が瞼の裏を駆け巡り始める。
 実家のアルバムにきっと数えきれないほど残されている、赤ちゃんの頃から幼稚園までいつも二人でくっついていた俺たちの姿。毎日一緒に登下校して、終業日には大荷物に揃って悲鳴をあげた通学路。わざわざどちらかが終わるのを待ってまで一緒に帰った夕暮れ、お互い得意分野を教え合って何とか乗り越えた定期考査。あいつが学校を休みがちになった夏、色を失った生活、必死に逃げ回った俺の手を掴んで「好きや」と呟いたあいつの涙。⋯⋯初めて客席からあいつを見た日、液晶越しのぎこちない笑顔に笑って、だけどどこか心が痛んだ日、やたらと広い部屋を案内されて、その鍵を渡された日。俺が作った飯を食べて、テレビでもドラマでも見せない俺だけの笑顔で、「うまい」と心底嬉しそうに目元を綻ばせた、数えきれないほどの幸せな日々。


「⋯⋯しげ、ばっかりや⋯⋯⋯⋯」


 ぼやけた視界でも、地上がすぐそこに迫っているのがわかる。「あいつも同じだったらいいな」。途切れかけた最後の意識で頭に浮かんだのは、それだった。


*



 約一年前の衝撃的な事故によって有名になった橋で、また人が死んだらしい。

 テレビの報道に乗らなかったそれはインターネット上で少しだけ話題になり、発見された遺体が二十代の男性であったことから「後追い」でもないただの自殺だろう、とすぐに流れていった。
 だけど俺は知っている。昨夜あの場所から飛び降りたという人が彼で、まごうことなき「後追い」であることを。
 楽屋の隅で黙ったまま、メッセージアプリを開く。あいつの死後俺と彼に繋がりがあったことをメンバーは知っているからか、誰も話しかけてこなかった。

『色々迷惑かけて、というか多分今からもかけるけど、ごめんな。あと、ありがとう。』

 彼からの最後のメッセージは、夜八時半、俺が音楽番組の生放送へ出演している最中に届いていた端的な一文だった。短いデジタルの文字列を、二度、三度と読み返す。これを打った時確かに同じ世界で生きていたはずのこの人は、今はもういない。不思議と、涙や深い悲しみは湧いてこなかった。救うことができればと思っていたが、同時に、救えないことを心のどこかで理解していたんだ。
 だってこの一年半、彼と正しく目が合った瞬間なんて一度だってなかった。あの二人は本当に、最初から最後まで互いのことしか見ていなかった。
 どこまでも、ばかな二人だ。周りや世間を嵐みたいに巻き込んで、当の本人たちは二人きり、どこかへ居なくなってしまったのだから。

「今日みなさんこれで上がりの予定だったんですけど、あの、流星さんだけ警察の方から⋯⋯」
「あ〜はい、わかりました」

 マネージャーに連れられ、俺一人メンバーと離れて違う車へ乗った。もう一度スマホを開くと、彼とのトーク画面が暗い車内を青白く照らし出す。しばらく逡巡した末、適当に買ったキャラクターのスタンプを押した。
 もう届く宛のないトーク画面で一人、手を振り続けている柔らかな動物のキャラクター。それはこの一年半の俺と彼に、よく似合っていた。


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