ヨコハマのとある地区の片隅に小さな喫茶店があった。喫茶店、茶紗―ササ―。
茶紗は日本茶をメインに紅茶や珈琲、軽食に甘味などを提供している。
店に置かれる商品の全てに共通するのは「日本人の舌に合う」をコンセプトにしていること。様々な地域の日本茶から世界のお茶や珈琲まで、気軽に美味しく楽しめる茶紗はヨコハマの片隅で密かに人気を博していた。

「ありがとうございました。またのご来店お待ちしております」

茶紗の営業時間は夜八時まで。先ほど店内の鳩時計が定刻を告げ、本日最後の客が支払いを済ませ店を出ていった。
カチコチと鳩時計が時を刻む音が静かな店内に響く。マスターであり店の厨房を取り仕切る梅川蜜ことミツさんも既に帰路についており、現在店に残っているのはナマエだけだった。

一日が終わる前の少しの間。薄暮が終わり、深い宵が始まる時間。静寂が一層の深淵を伴って辺りを包んでいた。
茶紗があるのはヨコハマの繁華街から離れた場所にある裏通り。昼でも喧騒から遠い茶紗は夜には更なる静けさに包まれる。

カチャ、最後の客が使っていた食器を重ねる。陶器の触れ合う音がやけに大きく響いて、すとんと腕の力が抜けた。

(あぁ、)

どうしようもなく独りだと、そう思った。
世界に取り残されたような深い孤独感。それが背後から圧し掛かってきて、指先を痺れさせ腕を重くさせる。
店の片づけを終えて現在の家に帰ればミツさんもいるし、ミツさんの夫である義影さんもいる。行き場のないナマエを迎えてくれて実の娘のように接してくれる優しい人たちだ。
しかし、それでも。拭いきれない孤独がふとした瞬間にこうしてナマエに襲い掛かる。
泥土のようなそのぬかるんだ孤独にナマエが沈んでしまいそうになった時だった。

「ナマエちゃん、今晩は」
「っ」

すぐ背後から聞こえた穏やかなテノールにはっとして振り返る。そこには声と同じように穏やかに微笑む一人の男性の姿があった。

「森さん!」
「やあ」

上質なスーツとコートを着こなす彼は森林太郎といった。茶紗にとってもその裏側で営む店にとっても上客である男の急な来訪に、ナマエは慌てて彼に駆け寄る。
そんなナマエを見つめる男の紅玉の瞳がゆらりと煌いた。その視線は見守るように優しげで、けれど。

「逢いたかったよ、ナマエちゃん」

零された計算尽くの言葉にナマエはくすぐったそうに笑う。それに返すように彼は微笑んだ。
しかし微笑んだその眼差しの奥に燻る熱に気付き、その意味を正しく理解できるものは誰もこの場にいなかった。