神は乗り越えられる試練しか与えない

 一瞬の、ほんの一瞬の隙を突かれた。決して油断したわけではない。左側の死角が広いことを失念していたわけでもない。彼女の反射神経をはるかに上回るスピードが決定打となった。
 二挺のオートマチックピストルの射撃を掻い潜って、敵のスタンドがぬるりと千里の目の前まで間合いを詰める。猫のような瞳が弧を描いた。瞠目し、咄嗟に飛び退こうとした千里よりもさらに速く、それの拳が彼女の腹に沈み込む。小さい体のどこにそんな力があるのだろうか。かはっ。前髪に隠されていない右目が大きく見開かれた。息が無理矢理押し出され、思わず両手に握るプラネット・スマッシャーズを取り落とす。肺の中にほんのわずかな空気すらも残さんと言わんばかりの衝撃に耐えきれず、彼女は体を折り曲げまずにはいられなかった。その勢いでホルスターからS&W M19が落ちる。

「千里ッ!」

 誰かが千里の名を叫ぶ。殴られて吹っ飛べばその方がよかった。だがスタンドの拳はゆっくりと千里の腹に沈みこみ、さらに押し込んだ。彼女に押されるようにして背後の空間が破れた。発生した破れ目に千里が押し込まれる。顔をわずかに歪ませながらなおもショットガンを発現させ、敵スタンドに向けて彼女の指が動く。弾丸はスタンドの顔面に命中した。頭部の上半分が吹っ飛び、血と脳味噌が吹き出した。しかし敵の攻撃は続いている。残った口が三日月を描く。ダメージはまったく敵本体にフィードバックされていない。灰色の瞳が見開かれる。それ以上の発砲がなかったのは、腹部のダメージに千里が耐えきれなかったためである。ついに体の半分が消えた。空間の破れに沈み込む。だが敵スタンドの拳は止まらない。

「別の場所、別の時間に飛んでっちまえ!」

 青年が嘲るように叫んだ。ずぶずぶと破れ目に沈み込む。一番近くにいた承太郎がスタープラチナの手を伸ばしたが届かない。ついでハイエロファントグリーンの触手が鞭のようにしなり、千里の手に絡み付こうとしたが、それよりも早く彼女はずるりと空間の隙間に押し込まれてしまった。音もなく破れ目が閉じる。本当にそこが裂けていたのかと疑ってしまうほどに、なにも残っていない。だが千里の姿はどこにもない。

「てめえ……ッ!」

 承太郎が青年に殴り掛かる。しかし胸ぐらを掴まれ、殴られてもなお彼は笑うばかりだ。殴り飛ばしたところでへらへらと笑うのをやめない。

「さあね。あいにくおれの猫は細かい設定が苦手なものでね」
「千里はどこだ」
「もちろん別の時代の別の場所にいる。戻ってくるかは……知らないねえ」

 起き上がって口元の血を拭いながら、傍らに戻ってきた“おれの猫”の頭を撫でながら青年が嘲笑う。いつの間にかスタンドの頭部は元通りになっていた。吹き出たはずの血の跡もない。
 たった今まで、ほんの数秒前まで千里がそこにいたはずなのだが、今はいない。どこに行ってしまったかなど、誰も知りはしないのだ。