「きみは実に馬鹿だと思うよ」
千里がなにを欲しているのか。なんとなくだが花京院は理解した。とてもシンプルな答えだ。素直でない堅物の彼女だからこそたどり着けない回答でもある。だから言わずにはいられなかった。
「ぼくは正直、堅物で不器用なのは承太郎だけでいいと思っている。なのに千里、きみは彼以上に融通が利かなくて不器用だ。大人になってそれなりにマシなったとはいえ、それでも世の中から見れば充分にクソ真面目さ」
あのころならば決して言えなかっただろう言葉が次々に出てくるのは、花京院も成長した証拠である。ゆったりと足を組んで冷めきった紅茶をすするくらいの余裕だってある。新しいココアを作り直そうかと考えることだってできるのだから、花京院は大人になった。なにせ友人の子供が学校に通うほどになるくらいの年月を生きているのだから。伊達に歳を重ねてはいない。
「――耳が痛いが、事実だ。自覚はしている。だが、こんな堅物の相手をするきみも大概にお人好しで甘い」
「おいおい、そう早合点するものじゃあない。最後までちゃんと話を聞いてから判断してほしいな。――きみだからルームシェアをして、こうして話を聞いているんじゃあないか。そもそもぼくは他人との共同生活なんて煩わしいと思っているタチなんだ。相手が承太郎だって御免被るくらいにパーソナルスペースが広い自信はある……つまり、ぼくはきみだからこうして付き合っているのさ」
花京院の挑発的なそれに対して反論も抵抗もない。千里はただ素直に認めるだけだ。だがそれも花京院にとっては想定の範囲内だ。彼とて拙いながらも千里の扱い方を心得ているつもりである。
「思うに、きみは両親という負い目があっておじいさんやおばあさんに素直に甘えられなかったんじゃあないのか? たっぷり愛されていたとはいえ、それに寄り添う勇気はなかったはずだ」
ゆっくりとローテーブルから長い二本の足が降ろされた。顔を隠していた腕が動き、機械の右手がぐしゃりと前髪を掴む。薄い唇は真一文字にきつく結ばれている。
聞かれている。花京院は強く自覚した。戯言だと右から左へと流すのではなく、一字一句聞きもらすまいと千里は花京院の話に耳を傾けている。彼女の心の、その一番柔らかいところに触れたのだ。そして、これから爪を立てる。
「だから徐倫を見て羨ましくなったんだろう。彼女のようになにも気にすることなく愛されたいと思ってしまった……違うかい?」
答えはなかった。しかし間違っていないはずだと花京院は自信を持って言える。
壁にかかった時計が帰宅してから一時間経過したことを告げている。千里は未だ表情を隠したままだ。
「……そんなこと」
「そんなことはない、とは言わせないぞ。だからぼくに親子のあり方を聞いたんだろう? ……納得していないようだね。ならば、言い方を変えようか。相手に負い目を感じなくていい居場所が欲しいんだろう。損得を抜きにして相手と対等であることができ、そして受け入れてもらえる場所を望んでいる。まあ、それならすでに用意されているけどね」
掌の下の小さな隙間から怪訝そうな視線が花京院に向けられた。焦がれるほどに切望しているものがすでにあると言われたのだから、千里のそれも当然のものだろう。しかし花京院は嘘など言っていない。口にするのは真実ばかりだ。
手応えはあった。もう一押しだ。
「言っただろ、帰る場所は必要だって。きみの帰る場所はここだ。ぼくはどんなきみでも受け入れる準備ができている。なにせ数年来の付き合いだ、振り回されるのには慣れている。――つまり、ここにはきみの存在すべき場所が用意されているってことさ」
三食ベッドつきで、しかもハウスクリーニングもついている。当然純粋な善意による無償の提供でね。他のオプションは要相談だけど今のご時世、こんなに至れり尽くせりもそうそうない。とっても魅力的だと思わないか。花京院は言う。
「……よく動く舌だ。それになんだ、きみはボランティアでカウンセラーでも始めたのか?」
「なるほど、それもいいかもしれないな。でも千里専門と但し書きがつくけれど、それでもいいなら開業するのも悪くない」
「きみは馬鹿か」
「うん、確かに僕は馬鹿なんだろうね。だって昔から千里のこととなったら、いても立ってもいられなくなる。それだけきみに夢中なんだって理解してもらえるとありがたいな」
しれっと花京院がそう告げる。対して千里が吐き出した仰々しいほどの溜息に含まれていたものは呆れと苦笑だった。機嫌が直ったというより、気落ちしているのも馬鹿らしくなってしまったのだろう。そんな溜息だ。いつまでも落ち込んでいても仕方がないと持ち前の切り替えの早さで思ったのかもしれない。
花京院も千里に対してここまで言うつもりはなかったが、機会を窺っていたのは事実だ。だからこのチャンスを使わない手はない。そう花京院は思っている。しかしここまで言ってしまった以上後には引けない。弱っているところにつけ込むのはどうかと良心では思いつつも、利用できるものは利用しなければと考えている自身も確かにいる。目的を遂行するためならば敵味方関係なく利用すべきである。それはあの旅を通じて彼女から学んだことだ。
「熱烈な愛の告白のようだな」
千里の顔を隠していた手がするりとソファーに落ち、呆れを含んだ表情を見せる。向けられた双眸は相も変わらず鋭いが、いつものように茫洋としていなかった。感情というべき色が浮かんでいる。同時に発せられた声にも同じ感情が載せられていた。
思わず花京院は笑ってしまった。感情を素直に向けてくれたということは、真底呆れているのだろう。取り繕うことさえも億劫になるほどに馬鹿馬鹿しくなったのだろう。こんなに素直な千里を見るのは初めてのことだ。数年来の付き合いがあると言っても、いつも花京院が見るのはなにを考えているかわからない人形のような顔ばかりだったからだ。
「そりゃ愛の告白なんだから熱くもなるさ。オブラートに包んだりしたら、きみは気付かないふりをするだろう?」
「違いない」
小さく千里が笑った。普段の彼女を知っている者からすれば、笑むところなど想像がつかないことだろう。千里の笑みは非常に柔らかい。そのためだけに常日頃表情が乏しいのではないかと思わせるほどに、彼女は優しく笑う。薄い唇を緩めて目を細めて笑う。きっと承太郎だって見たことはないだろう。花京院も初めて見たのだから。
「――さて、きみの意見を伺おう」
花京院は冷めきった紅茶をを一口、嚥下する。唐突に喉の渇きを覚えたのは、その回答を千里に求めてしまったからか。切れるカードはすべて切った。使える手段もなにもかもすべて使った。これ以上は逆立ちしたって出せない。オープンしたカードをどう動かすかだけである。
ゆっくりと千里が姿勢を正す。たったそれだけのことなのに先ほど纏っていたネガティブな雰囲気が一気に払拭され、本来の軍人然としたそれに戻った。ほんの少し前まで自己嫌悪で沈んでいた彼女と同一人物とは思えない。まっすぐ前を見つめるその横顔は昔から変わらず凛としている。
「おそらく、わたしはきみより早く死ぬぞ」
従来の自身らしさを取り戻した彼女は思考する時間も逡巡する間も求めることなく、単刀直入に口を開く。なんの熱も孕んでいない淡々とした、いつも通りの声色だ。おそらくとは前置きしながらも断定的な言い方もやはり彼女らしい。
「確かに。長生きしそうには見えないな」
「加えてこの性格だ。きみになにかしてやることも、労わることも、慰めることもできないだろう」
「おや、自覚はあったのか。でも、それはぼくの担当だ。言っただろう、いつでもきみを受け入れる準備はできているって。きみはちゃんとこの家に帰ってきてくれればそれでいい」
「確約はしかねる」
「おいおい、そこは素直に頷くところだ」
「だが事実だ。欲しているとはいえ、わたしに安穏は似合わない」
それにわたしは人を殺しすぎた。きみもわたしのせいで生活に制限があるだろうが。灰色の瞳が花京院の腹部に向けられ、千里が呟く。
花京院の腹には大きな傷跡が残っている。あの夜、DIOに洗脳された千里に至近距離から花京院の体に何発もの弾丸を撃ち込まれた。臓器を傷付けられ、激しい運動を制限されたためにエージェントとして世界中を飛び回ることができなくなった。内勤としてサポート側に回ったとはいえ、以前のように戦うことはできない。
「だから、きみの申し出を受け入れることはできない」
確固たる意志を持った声は罪の意識の大きさだろうか。拒絶ではない。しかし拒否ではある。
顔に出さずとも千里は罪悪感を抱いている。許されるべきではないと考えている。自他問わず厳しい彼女は自身の行いがどれだけのものだったのかを理解している。仕方がないと妥協を許さない。花京院が許そうとも千里に甘んじる気がない。それが彼女なりのけじめのつけ方なのだと、口にせずともわかっている。
「……残念。振られてしまったな」
でも。花京院は続ける。切れるだけのカードをすべて切ったとはいえども、それでも千里は折れないとは思っていた。彼女は強い。そうそう簡単にほだされ流されないほどに個を確立している。花京院もその程度は想定していた。ゆえに対策も考えている。
花京院はおもむろに、そして見せつけるように軽く自身の腹を撫でる。卑怯だと言われても構わない。どうせ相手は千里である。格好悪いところは散々見られてしまっているのだから、いまさら取り繕おうともすべて見抜かれるに決まっている。
「ぼくの体のことで責任を感じているのなら、責任を取ってぼくの恋人になってください」
「……きみは責任という言葉の意味を理解しているのか?」
「もちろん。それを利用することだってちゃんと知っているさ」
千里は責任感が強い。しかも自身に対して非常に厳しい。だからこのように言われてしまえば無下に断ることができないだろうと花京院は予想した。汚い手段だとはわかっていても、こうでもしなければ千里は首を縦に振ってはくれないだろう。目的のためならば手段など選ばない。
断れば責任を取ることを放棄したことになる。なにせ被害者からの申し出だ、そう簡単に千里も拒絶はできまい。拒否できるはずがない。
「よく言う」
馬鹿なことを言うなと瞳が告げる。しかしそこに拒絶はなく、あるのはやはり呆ればかりだ。苦笑混じりに唇を柔らかく歪ませ、千里は体を花京院に向けた。雨に濡れていた髪はすでに乾いている。
「仮に責任を取ってきみの言う通りに従ったとしても、さらに要求を重ねる気だろう」
「当然。千里には一生かけて責任を取ってもらわなくちゃあ割に合わない」
「まったく……タチの悪い男に引っかかってしまったようだ。しかも相当ひねくれている」
「当たり前だろう。ぼくはきみに恋をした。あの頃からきみに片思いし続けているんだ。それに比べれば些細なものさ」
「何度も言うが、わたしはきみになにもできない。期待するだけ無駄だ」
「多くは望まないよ。千里が隣にいてくれるだけでいい。ぼくのそばにきみがいてくれることに意味があるんだ」
「なにを言っているのだか。その望みが大きすぎる」
「大事なことさ。いい加減、ぼくが千里を独占したっていいだろう?」
「……あの頃の情けないきみとは大違いだ」
聞こえがよしに盛大な溜息をついてみせ、再び千里が笑む。それが苦笑でも花京院にとっては充分すぎる。
ここまで来るのに時間がかかりすぎた。承太郎はすでに結婚して子供までいるというのに、花京院はようやくスタートラインに立てたのだから。
「――花京院典明、きみの要求に従おう。責任を取ってきみの恋人になろう」
静かなアルトはよく響く。一寸たりとも恥じらいを見せない千里の本心はわからない。本当に責任感からの結論なのか、花京院に判断する手段はなかったが、きっとそれはないだろうと思っている。なぜなら以前の彼女ならば、くだらないと一蹴したはずだからだ。このふざけた申し出に乗ってくれたということは、少なからずともそういうことになる。
その堂々とした様に逆に気恥ずかしさを覚えた花京院だったが、ごまかすように左手を差し出した。ここで格好悪いところは見せられない。
「ぼくのことをようやく名前で呼んでくれるなら、フルネームじゃあなくってファーストネームがいいな」
「注文の多い男だな、典明は」
握り返された左手のぬくもりに花京院の顔がさらに綻んだ。