時期尚早であったと花京院が気付いたのは千里が身を翻してその背中を見せたときであった。彼らの友人と妻君より夫婦の家に招待されたまではいい。花京院は何度か訪れたことはあったが、常に世界中を飛び回っている千里はこれが初めてであった。誘われて断らなかったのは彼女だが、花京院が半ば無理矢理連れて行ったとも言えた。
空条夫妻の家には齢六つの娘がいる。それを失念していたわけではない。何度か訪問していればそれが当たり前のことだと思ってしまって特に意識もしていなかったのだ。最初は友人夫妻と花京院と千里でお茶をしていた(会話に花を咲かせるのは主に花京院と妻君だ。たまに承太郎。千里は昔から聞き手の役目である)が、エレメンタリースクールより夫妻の娘が帰宅したその時、状況は一変した。夫妻が娘を家に迎え入れたまではいい。その後仲睦まじい親子の姿を見た途端、千里が席を立つ。
「……失礼する」
その呟きを花京院が理解するよりも、夫妻が娘を紹介するよりも早く、手短に礼と謝罪を述べて彼女はジャケット片手にさっさと空条夫妻の家を後にしたのだった。席を立った瞬間の彼女の表情が人形のように無表情だったことを花京院は見逃していなかった。
困惑する空条夫人に「明日は仕事で朝が早いから」と言い訳をして、花京院は承太郎に目を向けた。彼らしからぬ、戸惑いの色を浮かべている。理由はなんとなくお互い察していた。しかしまさかここまでとは思いもよらなかったのである。
夫妻には悪いが花京院も帰ることにした。この後夕食を一緒にどうかと誘われていたが、千里のあんな横顔を見せられては放っておくわけにもいかない。
「ノリアキもう帰っちゃうの?」
「彼女が心配だからね。ごめんね」
残念がる空条家のお姫様の頭を撫でる。女の子らしいかわいい髪型は彼女の母親が結ったのだろう。ほどけばそこそこの長さだろう髪の色は父親譲りだ。その左肩にも親子の印を宿しているのだと言う。あの血族を表す証拠だ。
「さっきの人、ノリアキのおくさん?」
「――そうだったらよかったのかもね」
あまり困らせるなと父親が少女を抱き上げた。そうするとさらに親子の相似が際立つ。千里が拒絶反応を示すのも仕方のないことなのかもしれない。彼女はこの中で一番親子のつながりを知らない。
娘と同じ色の瞳が花京院に向けられる。承太郎はなにも言わない。あの頃から承太郎と千里は似ていると言われることが多かったが、こういうところばかりはまったく似ていない。彼の瞳のほうが能弁に物を言う。父親になってからそれが顕著になったと花京院は勝手に思っている。
「今度遊びに来たとき、あたしにおくさんを紹介してね」
約束よ、と指切りをして念を押す徐倫と夫妻に別れを告げて、花京院は空条邸を後にした。
いつの間にか雨が降り出していた。ここまで来るのに花京院の車を使ったはずだが、その車もちゃんと最初に停めた位置に鎮座している。歩いて帰ったらしい千里がもしかしたら雨に濡れてしまっているかもしれないと思いながら花京院は車のエンジンをかけた。
■□
人によってはそれを同棲と言うのだろうが、花京院と千里のそれを正確に言うならばルームシェアである。共同のダイニングキッチンとリビングにそれぞれの部屋が一つずつ。互いの部屋はもちろん不可侵が原則だ。ただし千里の部屋の掃除は自発的に花京院が行っている。それについて千里がなにかを言ったことはない。
2LDKのマンションの一室で共同生活を始めたのは最近のことではない。財団の仕事で常に世界中を飛び回っている千里が拠点としながらもほぼ使わないアメリカのアパートを引き払い、ホテル暮らしにしようと考えていた矢先に花京院が提案したのである。帰る場所はなくちゃ駄目だ。自分は主に内部の仕事だから、家の管理はぼくがしよう。しかしなぜ自分がそこを彼女の「帰る場所」と称したのか、花京院自身にもわからない。
そうして始まった奇妙な共同生活だったが、やはり一年のほとんどは花京院が一人で暮らしていた。事実、千里の部屋以外は彼のセンスで統一されている(共に家具を吟味するほどの熱心さと時間が彼女になかったのである)。かと言って彼女の部屋にあるのは彼女が最初の部屋を借りたときに購入した新品に近い安物のパイプベッドとデスクくらいのものだ。殺風景で私物自体がまったくと言っていいほどない。普段着らしい普段着もほぼ持っていないためにクローゼットも閑古鳥が鳴いている。
連絡らしい連絡をまったくしない彼女の生存を知る術は毎月彼の口座に自動で振り替えられる折半した家賃が入ったときだけだった。光熱費は彼女が家に滞在した月だけ支払う約束になっていたが、滅多に振り込まれることのない金である。
見慣れた白いドアを花京院は開ける。オートロック式の鍵だから本当に彼女が中にいるか、ドアを開けた時点ではわからない。だがきっと千里は家の中にいる。確信に近い直感だ。
部屋の中は真っ暗だった。出がけに閉めたカーテンもそのままだ。物音はまったくしなかったが気配が一つ、暗闇の中で息をひそめている。小さな呼吸を一つ。それから花京院は電気をつけた。それだけの行為でもわずかな勇気が必要だった。
リビングの真っ白なソファーに沈み込むようにして千里が座っていた。靴を履いたままの両足をローテーブルに投げ出し、ソファーの背に支えられるようにして天井を向いている頭には右腕が乗せられていてその表情を隠している。ほんのわずかな呼吸音だけしか花京院の耳には聞こえない。
やはり帰宅する途中で雨に打たれたらしい。千里の数少ない普段着とダークブラウンのショートヘアーがしっとりと濡れている。床に投げ捨てられている湿り気のあるジャケットが彼女にそれを着る余裕すらもなかったことを伝えていた。
部屋の中が少しでも荒れていればまだよかったかもしれない。そうして己の感情を外部に向けることができる性格だったならばよかったと思うことがたまにある。しかし彼女はその点に関しては酷く不器用であった。いや、ある意味器用だと言えるのかもしれない。やりどころのない感情を自身の中に抑え込んでしまうのだから。それでもこのような弱々しい姿を見せるようになっただけでも、あの頃とは変わった。自分自身に素直になったとも言える。
花京院が帰宅しようとも無視されることはよくあるが、弱った姿をさらしたまま微動だにしない様子はかなりの重症だ。なにせこれまでに一度も見たことがない。こういう時の千里に声をかけたところで無駄だろうと察した花京院は捨てられているジャケットを拾い、コートハンガーにかける。それから自身の荷物を自室に置いてキッチンに立った。
それから数分後、よく練ったココアと角砂糖を二つ溶かした紅茶を一つずつ、両手に持ってリビングに戻ってきた花京院はココアをローテーブルに置きながら千里の隣に腰を下ろした。ご機嫌取りのココアにはマシュマロが浮かべられている。それが彼女の好物だと知ったときは驚いたものだ。同時に千里が別段特殊な人間ではないのだと思い、苦笑したのだと覚えている。
「あの子は徐倫って言うんだ。今年七歳になるんだが、承太郎にそっくりだっただろう」
どのくらいの時間が経過しただろうか。しばらくして花京院が口を開いた。千里が必要としている言葉はわからなくても、必要としていない言葉くらいはわかっている。言葉を選べば無難な選択肢しか残らなかった。
しかし千里はぴくりとも動かない。花京院のすぐ横に投げ出されている左手だって指先まで針金が入っているかのように微動だにしないのだから、相当参っているのだろう。しかし想定の範囲内ではある。伊達に同じ時間を共有していないし、少々の落ち込み具合ならここまで至らないからだ。
「きみとおしゃべりできなかったことを残念がっていたよ。その辺りは父親に似なかったんだね。きっと母親似なんだ」
承太郎も昔はちゃんとした、かわいげのある子供だったらしいけれど。以前彼の母親から聞いた情報を思い出しながら花京院は言葉を続ける。承太郎はどちらかといえば寡黙な男だが、それでも家族思いの男だと花京院は知っている。ただそれを表に出すのが苦手なだけであるのだと。
「――親子とは総じてああいうものなのか」
ローテーブルに投げ出した足を降ろそうともせず、無気力に薄い唇から放たれた呟きは酷く掠れていた。なにを指した言葉なのか。明確にわからずとも理解はできる。
返す言葉はいくらでもあったが、彼女が慰めや同情を求めていないことくらい花京院は知っている。きっと彼女のそれは自己嫌悪なのだろうと花京院はぼんやり思った。
歳を重ねてようやくわかるのは、決して彼女が完全無欠の鉄の塊ではないという事実だ。承太郎が寡黙ならば千里は沈黙。だが彼女は生きている。花京院と同じようにこの世に生を受け、今だって呼吸している。
「そうだね。普通の親子なら大体そうさ」
「……きみも、そうだったのか?」
千里から質問など珍しい。しかも個人に関する質問など。もしかしたら初めてのことかもしれない。
灰色の瞳は相変わらず腕の下にある。隙間から見える表情はまったく変化がなかったが、その声色には十分すぎるほどの感情が込められていた。知らない人間からすれば淡々としているようにしか聞こえないだろう。だが花京院の耳には違いがよくわかる。伊達に十年近く付き合っているわけではない。
「ぼくの場合、両親とも勤めていたから学校から帰っても誰もいなかったよ。でも、その分はしっかり愛してもらっていたと思う。家族で外食や旅行はよく行っていたから」
もし家族でエジプトへ行っていなかったら、と花京院はたまに思う。行ったとしてもあのタイミングでなければDIOには出遭わず、ひいては承太郎や千里と出逢うこともなかったのだろう。そもそも揃って旅行をするほど家族の仲がよかったことが要因か。そのすべてが揃わなければ未だ自分はひとりぼっちだったかもしれない。スタンドを持つ友人を作れなかったかもしれない。まったく運命とは奇妙なものだと花京院は思うのである。
それは千里とて同じことで、家族の仲がよければDIOへその身を捧げられることなどなかっただろう。エジプトにすら足を踏み入れることもなかったのかもしれない。彼女がスタンドを発現させた一因だって両親に捨てられたからである。もっと真っ当な人生を過ごしていた可能性だってあるのだ。
だがすべては想像の中のこと、仮定でしかない。正反対の家庭環境が二人を引き合わせたと言っても彼女は決して喜ばない。花京院だって嬉しくない。
「――駄目だな。あんなもの、いらないと思っていたはずなのに」
苦痛にまみれた自嘲が沈黙の中に消える。マグから立ち昇る湯気ばかりが優しい熱を持っているようだ。だが、ふたりのどちらもそれを体内に取り込もうとはしない。
千里にもそのようなことを考える感情があったのか。内心驚きながらも花京院の口は勝手に動く。
「羨ましいのかい」
「わからない……だが、おそらくそうなんだろう。そうでなければ、こんな気持ちにはならない」
「欲しいと願っても罰は当たらないさ」
「欲しがっても手に入れられないことくらい理解している。それに、もう子供ではない」
以前より口数が増えたとはいえ、自分のことを語り出すのは余裕がない証拠だ。千里は必死に自身の感情と戦っている。心に抱くそれを不相応な感情だと断じ、決して受け入れようとはしない。無駄だと理解してしまっているからこそ、千里はそれを拒絶する。惨めな自身が大嫌いだからだ。弱みを他人に見せられるほど自分自身に心を許していない。
それ以前に弱音を吐いたところでどうにもならないと知っている。右往左往する暇があるなら前を見た方が生産的だと考えてしまっているために千里は自身を受け入れない。そうやってこれまで生きてきたのだから、仕方のないことなのかもしれない。
「似たようなものならきっと今からでも手に入れることはできると思うよ」
「わたしとてそこまで貪欲ではないさ。それに目の前にぶら下げられても取りにいけるほど素直でもない」
決して欲を見せない千里を前にすると花京院はどうしても自身の卑小さを直視せざるを得ない。自身がどのような欲を持って彼女に接しているのか露呈してしまうようだった。
だが一方で、なぜそこまで禁欲的になれるのかわからない。欲望とは人の本能だ。手足の指では到底足りないほどの数を人間は有しているというのに、それを拒絶するなど精神衛生上、この上もなく悪いに決まっている。
我慢のしすぎは体に悪い。誰だって知っている。
「――きみらしくもない」
気付けば花京院は言っていた。言わずにはいられなかった。
「DIOに対してだってあんな執拗に追いかけていた癖に今更臆病風にでも吹かれたのかい? 今のきみはまるで暗闇に怯える子供のようだ。夜中に一人でトイレに行けなくたって、ぼくはついていかないぞ」
一体なにをそんなに恐れているのだろうか。花京院にはわからない。彼からしてみればDIOを倒すために命を捨てることよりも数倍容易なことだと思うのだが、千里はそうでもないらしい。
理屈や損得にがちがちに固められて生きているから感情という移ろいやすいものを持て余しているのかもしれない。感情も欲も、不要なものを切り捨ててしまえば惑わされずにすむと知っているから、千里はこれまでまっすぐに生きてきた。割り切ることがとても得意だから、どうやっても割り切れないものの扱い方がわかないのだろう。
「いい加減自分を認めてやったらいいんじゃあないか。きみだって生きているんだから、いろんなことを考えるのは当然だ。それを全部否定するなんて、きみ自身がかわいそうだろ」
「……面白いことを言う。それは新しい冗談か?」
「これでも結構真面目に話しているつもりなんだけどな。そもそも千里が堅物すぎるんだ。ポルナレフなんてどうしようもないくらいちゃらんぽらんの癖にちゃーんと生活できてる」
ああ見えてポルナレフは存外真面目な部分もあるのだが、今は関係のない話だ。千里は生真面目すぎる。もっと肩の力を抜いてもいいと花京院が思っても叶うはずがなく。そもそもそう簡単にリラックスできるような性格であれば彼女もまったく違っただろう。
「都合がよくても悪くても、きみはいつだってだんまりだ。……でも、せめて言葉にしてみたらどうだろう。感情の整理になるし、気も楽になる。誰かに言う必要はないんだ。それに、言うだけならタダだからね」
文字通り気休めの言葉である。話してほしいという花京院の欲求が八割くらい含まれているだろうか。だがそんなおざなりの言葉に千里が乗ってくれるなど露とも思っていない。それでも言うだけならタダだ。
彼女の性格的に誰かがいては吐き出すものも吐き出せないだろうと立ち上がろうとした花京院だったが、すぐに両足にこめた力を抜くこととなる。深いアルトは恐ろしいほどに弱々しかった。
「……愛情の足りない子供では決してなかった。不満もなかった。庇護も安心感も知っている。決して不遇な環境で育ったのではないと思っている」
興味がないと言い切るほどに両親を切り捨てた千里だが、彼女には祖父母がいる。彼らからあふれんばかりの愛情を注がれて育ったことは想像に難くない。ゆえに両親からどのような仕打ちを受けようと千里は誰かに話すこともなく、また悲観することもなかった。
千里の両親が彼女を捨てたように、彼女もまた自身の両親を捨てた。千里が苦悩する原因は、おそらくそこにある。
「だが、わたしは羨んでしまった……権利はないとわかっているはずなのに、妬んでしまった」
その独り言に応えるべきか花京院は逡巡したが、千里から離れるタイミングを失った以上、付き合うべきだと結論を出した。花京院もまさか話してくれるとは予想していなかった。気休めの言葉は言ったが、聞き入れられることはないだろうと思っていたのだ。だが千里は花京院に聞こえるように話した。その意味がわからないほど彼も馬鹿ではない。
彼女は決して慰めを求めていない。気休めの言葉など無意味だと理解している。だから花京院は慎重に言葉を選ぶ。千里が本当に欲しているものは真実だけだ。
「うん、そうだね。でも、なぜいまさらになって? 他所の親子を見るのが初めてだったと言うわけじゃあないだろうに。親の愛情が欲しいだなんて言うきみでもないだろう」
「……忘れてたつもりだった。わたしが捨てられたのは、あの年の頃だった。――あれは、わたしが得られなかった、過去のわたしだ」
苦虫を噛み潰したような声。表情は未だ腕の下に隠れていてわからないが、それでも感情は明確に花京院へ伝わる。
あの小さなお姫様のようになりたいとは言わない。だがなにかが違えば千里もあのような親子の絆を得られていたのかもしれない。祖父母からどれだけ愛されていようとも、いくら両親を切り捨て興味を失おうとも、現実までは否定できない。