それは偶然であったのか、それともあらかじめ仕組まれていたことなのか。ピクト人の襲来。それはこれまでのどの襲撃よりも苛烈であった。
夜陰に紛れてハドリアヌスの壁に近付いて哨戒の兵を数名密かに殺し、離れた場所で仲間が鳴り物を鳴らして兵達の意識をそらしたのを合図に彼らは火を放って突撃する。そこでようやく兵士達は異変に気付き、一気に混戦へと突入した。
遠くに聞こえる角笛の音と空気に混ざる焦げ付いた臭いに気が付いたグリフレットは跳ね起きた。外はまだ静かであったが篝火とは違う臭いに眉根を寄せ、息を殺して奴隷小屋の外の様子を伺う。その際に忌々しい鎖の音が小さく鳴った。脱走しないようにと、夜はそれぞれの寝床に繋がれるのである。
角笛の音がやんだと思えば鬨の声が風に乗ってグリフレットの耳に届いた。それでもまだ微かに聞こえる程度であるから、騒ぎはどうやらかなりかなり遠いところで起きているようだ。
それと共に強くなる焦げた臭いが尋常なものではないと判断したグリフレットは視線を壁から外さないまま、横で眠るマニウスを揺さぶり起こす。
「あー……どうしたんだよ。まだ夜半だろ」
「起きろ、外の様子がおかしい」
「おかしいって? 兵隊の奴らが酒盛りでも始めたんじゃないのか?」
「いや、違う。――火事が起きている。火の手がここまできたら焼け死ぬぞ」
「……はあっ!?」
空気に混ざる臭いを嗅ぎ取り呟かれたグリフレットの「焼け死ぬぞ」というその一言にマニウスは弾かれたように飛び起きた。鎖に繋がれてることも忘れて彼はグリフレットの両肩を掴み、まじまじと彼の顔を覗き込む。
グリフレットの顔に焦燥感は見られない。それどころかいつ通り涼しげな表情を浮かべ、琥珀色の瞳も同様にいつも通りだ。本当に火事が起こっているのかを疑いたくなるほどに、むしろ冗談を言っているのではないかと思いたくなるほどに、グリフレットは冷静そのものである。
「マジか」
「本当だ」
「火事ってそれ、ヤバいやつじゃ……というか、俺達、逃げられねーんじゃ?」
「ああ、そうだ。鎖に繋がれているからな」
「いやいやいや! 何でおまえそんなに冷静なんだよ!!」
騒ぐマニウスに対し、「マニウスうるさいぞ」寝ている奴隷達が眠たげに文句を言う。グリフレットもまた夜半だから静かにするようにとマニウスをたしなめるものだから、信じられないと彼は頭を抱えた。グリフレットは比較的まともな人間だと思っていたはずなのだがそんなことはなかったらしい。
マニウスのなどお構いなしにグリフレットは自身の寝床の頭元に当たる場所の土をどかし、その下に隠された薄い板を取り除いて槌と楔を取り出した。仕事道具の一つである。
信じられないものが出てきたことにマニウスは目を剥く。道具の数に関して厳しく管理されているはずなのだが、どうやってくすねたのか、どうやって周囲に気付かれずに隠していたのか疑問は尽きない。
しかしそんな気は無いように見せかけておいて逃げ出す準備はしっかりとしていたことにマニウスはどこか安堵していた。奴隷達の希望、奴隷達の夢を担うグリフレットがいつか奴隷達を連れてここから逃げ出してくれると信じていたからだ。
この終わりのない生き地獄から救い出してくれるとするならば、彼しかいないとマニウスも他の奴隷達も分かっている。
慣れた手つきでグリフレットは槌と楔を使って己の足と寝床を繋げる鎖を破壊した。足首に巻き付いたままの足枷など気にせずに立ち上がると、そっと扉に耳を当てて外の様子を伺う。
早く枷を外してくれと催促するマニウスに寝ているふりをするよう手で制して外の音に耳を傾け、空気の臭いを嗅ぐ。そしてゆっくりと軽く三回扉を叩いた。扉の影に身を潜め、しばらく間を置いてもう一度、同じように扉を叩く。
グリフレットの行動が見張りの兵が奴隷達の様子を見るために扉を開けるのを狙っていたのだとマニウスはすぐに理解する。
扉の隙間から兵が顔を出した瞬間、グリフレットは素早くそのたくましい二の腕を兵の首に巻きつけた。ほどなくして兵の体から力が抜ける。
「こ、殺したのか……?」
「いや、意識を失っているだけだ……あった。足枷の鍵だ」
兵の腰から鍵束を取り上げ、グリフレットは自身の足枷を外した。すぐにマニウスの足枷も外す。
これを狙っていたのかとマニウスが問えば、今日の見張り番は間抜けな男だからタイミングよく火事が起きて僥倖だったとグリフレットは小さく笑う。そして兵が火事の方に駆り出されていなくてよかったと付け加え、表情を引き締める。今すぐ逃げ出そうと言わんばかりのマニウスを制し、部屋の中を見回した。
グリフレット達と共に寝食を共にしている奴隷は人数にして約三十。火の手か鬨の声の大元のどちらかが来る前に彼らを全員解放しなければならない。その上この場所以外にも大勢の奴隷が囚われている。
彼らすべてを解放できるかは分からないが、危険であろうと不可能であろうとしなければならないとグリフレットは思っている。それは義務でも何でもなく、ただの道理である。すべきなのではなく、して当然なのだ。
「外の様子を見張っていてくれ。私は他の者達を解放する」
「それは構わないけどよ。その……全員助ける気か? ピクト人とか、アイルランド人とか……」
「ああ、助けるとも。ブリトン人の敵であろうとも今は同じ奴隷の身。助けない理由はないさ」
眠っている奴隷達の足枷を外しながらグリフレットはさも当然とばかりにそう言った。マニウスは虚を突かれたような顔をしたが、お前はそう言う男だったなと首を振りながら見張りのために外へ出て言った。
奴隷達の中には寝たふりをしている者も何人かいた。その全員がピクト人である。グリフレットが自分達を解放する気でいると分かったところで体を起こし、じっと自分の番が来るのを待つ。
待ちながら語る彼らの話によると、ピクト人による今夜の襲撃はあらかじめピクト人達のみが知っているものであったという。奴隷となった同胞の救出も兼ねた襲撃は殺戮と侵略が目当てだと。
奴隷達の大半は争いに負け捕虜となった異民族であった。本来は敵であるブリトン人のグリフレットだが、これまでの彼の奴隷としての振る舞いから一目置いていた。
ゆえに彼らはグリフレットを誘う。あなたはブリトン人だが異民族である我らピクト人に対して見下さず敬意を払った。あなたは我らをよく助けてくれた。ゆえに我らはあなたを害さない。客人としてあなたを我らが国に迎え入れたい。
グリフレットは彼らの申し出に少し困った表情を浮かべ、頬を掻く。
私は大罪人だ。もしかしたらあなた達の中には私の正体を知っている者もいるかもしれない。私を憎んでいる者もいることだろう。殺したいと思っている者もいるはずだ。だがこの国にいては罪人として追われる身。ゆえに行き場がないことも確か。私の正体を知ってなお受け入れてくれると言うのであれば、そのお言葉に甘えたい。この恩義は必ず返すと約束しよう。
「あなたの名前をお聞きしたい」
「私の名はガルハール。アーサー王麾下、円卓の一員であった者だ」
焦げ付く臭いが一層強くなり、角笛の音が間近に聞こえた。