齋藤の私用のスマホに電話がかかって来たと思えば相手は当真であった。待ち受け画面にポップアップされた名前を見た齋藤は左耳に装着しているワイヤレスイヤホンに触れて電話に出た。ちなみに資料の山の上に鎮座しているボーダー用のスマホはスピーカーフォンに接続されているから混線することはない。

『伊織ちゃんただいま。ちゃんとメシ食って寝てたか?』

 遠征部隊が帰ってきたと聞こえていても彼らの状況までは耳に入っていなかったため、久しぶりに聞く親しい後輩の元気な声に齋藤は仕事で凝り固まっていた表情筋を緩めた。しかし開口一番に向けられた質問に対してほんの一瞬考える。
 昨日諏訪隊と買い出しに出た後、変な時間にエナジードリンクを飲んでしまったために目が冴えて仕事が捗って実は一睡もしていないとは言わない。ボーダーのエンジニアならば一徹程度はよくあることだ。そのまま午前中は大学で講義を受けて、午後は開発室に引きこもっているとしても、学生エンジニアの日常である。栄養とカロリーは完全栄養食で補っているし、先程新商品のカフェインたっぷりエナジードリンクを後輩からもらってしっかりすぐに完飲した。サプリメントも継続的に摂取している。ゆえに今日も問題なく健康である。

「当真くんおかえり。わたしは問題なく健康体ですよ」
『本当かあ? 伊織ちゃんのそういうトコ、信用できねえんだよなあ』
「あはは信じてほしいなあ。でも、うん。その様子だと無事に帰還みたいだね」
『おう、トーゼンよ。全員無事に帰還したぜ』
「よかった。みんな無事で何よりです」

 遠征艇関連の職員達が慌ただしく開発室を出入りする様子が個人ラボの窓から見えた。齋藤は声をかけられていないから、どうやら出番はまだまだ後らしい。唐突に突っ込まれる先はどうせ片手間で終わらないような雑務なのだろうと想像しつつ、今は後輩との会話を楽しむことを選んだ。ゆったりと椅子の背もたれに体重を預ける。仕事はあるが今すぐやらなければならないことではないから後回しにしても問題はない。

『そーだそーだ。隊長が船酔いでダウンしてるから看てやってくんね? 俺も真木ちゃんも任務入っちまって面倒見られねーんだわ』
「それは大丈夫だけど……え?」

 齋藤も乗り物に弱い冬島の看護の依頼はあるだろうと薄々予想はしていたが、流石に帰還早々の遠征部隊に任務が入るとは想定していなかったため、思わず椅子の背もたれから体を起こした。思考が脳内を駆け巡る。
 ちらりとパソコンの隅にいる時計を見て、個人ラボの窓から開発室の様子を見る。隊員のヘルスチェックやトリガー点検を担当する職員達はまだ動いていない。当真に何を問いかけるべきか、自身が何をすべきか考えてしまうのはもはや癖の域だ。

「帰ってきたばかりなのに今から任務?」
『そうそう。城戸司令直々の命令による遠征部隊全員出張っての超重要任務』
「全員ってことは太刀川隊と風間隊も?」
『ああ。超豪華なメンツだろ。任務は夜からで、これから作戦会議』
「そっかあ……それはお疲れ様だね」
『まったくだぜ』

 口調はあくまで軽やかに、一方で齋藤は素早くチャットを立ち上げた。チーフとシニアのグループを選択し、要件を打ち込む。

【遠征部隊全員、夜に任務らしいです。冬島隊の当真くん情報です】

 まだ誰からも共有を受けていない事柄であるため得た情報は素早く関係者に流すべきである。すでに対策が取られているなら取り越し苦労で終わるからまだいい。共有されていない最新情報だとしたらタイムスケジュールの少なくとも半分は組み直しになるし、人員の配置だって見直す必要が出てくるだろう。
 齋藤がエンターキーを押してからそう時間を置かずして、ぽんぽんとメッセージがチャット画面に現れた。全員チャットに張り付いているのかと思うほどに高速で会話が進んでいく。

【マジで? 誰か聞いてる?】
【初耳】
【知らない】
【やめて聞いてないんだけど】
【本当に全員?】

 メッセージが出てきてすぐに齋藤は電話越しに当真に問いかけ、返答をチャットへ打ち込んだ。

【不参加は冬島さんのみです】
【あのオッサンまた船酔いかよ】
【じゃあ冬島さんのホルダーだけ先に回収で。ヘルスチェックもやれたらやる】
【了解。ヘルスチェック組とトリガー点検組に連絡しとく】
【今喫煙室で根付さんに会ったんで聞いてみたんですけど任務はマジです。内容は教えてもらえなかったけど】
【極秘任務? いつ終わるか聞けない?】
【聞きましたけどダメでした】
【雷蔵、室長に確認とって】
【今電話で確認しました。スケジュールは任せるだそうです】
【遠征部隊の中に中学生っていたっけ】
【いないですね。一番下は風間隊と冬島隊の16歳です】
【上も22時までには帰すはずだから、逆算して遅くとも21時前には戻ってくるはず】
【太刀川隊にも16歳いなかった?】
【スポンサーの子は遠征不参加だから大丈夫】
【把握】

 こういう時のエンジニアの連携は早い。一気に崩れるスケジュールへの適応とそれを瞬時に立て直すスキルはお手の物だ。
 チーフの中でもリーダー格の者が他のチーフやシニアに指示を出していく。齋藤は冬島の看病に行くため、彼より新しい情報が入り次第全員に共有するよう仰せつかった。解散のメッセージが出てすぐにシニアがの一人が開発室から走って出て行く。それを眺める齋藤の耳に電話の向こう側で当真を自身を呼ぶ声が聞こえた。

『おーっと風間さんに呼ばれちまった。やれやれ、作戦会議に行ってこようかね』
「あはは、気を付けていってらっしゃい」
『じゃーな伊織ちゃん。愛してるぜ』

 ぷつりと電話が切れる。完全に通話が切れたことを確認してから齋藤は大きく息を吐き出した。
 上層部が近界から帰還したばかりのトップチームを総動員して何をしでかそうとしているのか皆目検討がつかない。尋常ではないことくらいはさすがに分かったが、彼女としては正直仕事が増えるのだけは勘弁だと思っている。余計な仕事が増やされなければいい。増えたとしても自分でなければならない案件以外は別のエンジニアに回してほしい。組織としてマネジメントくらいはきちんと行なってほしいものである。
 やれやれと呟いて齋藤はデスクの引き出しの常備薬の中から酔い止めと冷却シートを出した。冬島船酔い介護セットの中身はだいたい決まっている。タオルなどと一緒に適当な紙袋に投げ込んでいく。飲み物はラウンジで買って行けばいい。
 そのままラボを出てまっすぐラウンジに向かいミネラルウォーター二本買う。その際に佐鳥と時枝に会い、佐鳥から「これから任務なんで伊織さん応援してください!」と言われた。彼の頭を撫でながら齋藤が頑張れと告げれば、佐鳥は飛び上がらんばかりに喜び、時枝は礼儀正しく礼と共に頭を下げた。
 このタイミングでA級3位までのみならず、5位までもが任務とは。自分達の作戦室に向かう佐鳥と時枝に手を振りながら齋藤は考える。偶然にしては出動する面子が豪華すぎる。その疑問に答えるかのように仕事用スマホが先ほどのグループチャットのメッセージを受信する。

【嵐山隊もこれから極秘任務(ただし城戸派は知らない模様)】

 何人かが把握と返事をしていた。当真達の極秘任務は城戸が命令を下したものだ。一方で嵐山隊の任務を城戸は把握していない様子である。つまり、グループチャットのメッセージがもう答えのようなものだろう。
 もし4位の草壁隊が県外へスカウトに行っていなければ果たして彼らも任務に入っていたのか。そこまで考えて齋藤は思考を止めた。そこまで興味のある事柄ではないし、エンジニアである以上思想はともかく立場は中立だ。どの派閥相手だろうが等しく技術を提供する。派閥争いは隊員達がやっていればいい。
 ラウンジを出ようと齋藤が踵を返したとき、遠くから迅がこちらを見ていることに気付いた。緑川に絡まれつつもじっと齋藤を見ている。普通の視力では彼の顔がこちらを向いているのは分かっても視線までもが注がれているとは分からない距離である。目が合ったとはっきり分かるのはそのサイドエフェクトの恩恵を得る齋藤だけだ。
 またお得意の暗躍か。そう結論づけて齋藤は視線を外す。彼のサイドエフェクトで何かが視えていたとしても、直接の接触がない限りきっと齋藤には関係ない。
 ラウンジからまっすぐ向かった冬島隊の作戦室のチャイムを鳴らす。返答がないので勝手に入れば、当真はおろか真木すらいなかったが、僅かな呻き声を齋藤の耳が拾う。奥の部屋、ベイルアウト用のマットが置かれている部屋である。
 足早に向かうとマットの一つに顔色の悪い冬島が私服姿で寝転がっていた。換装体でないのはトリガーホルダーが点検のために回収されているからなのだろうと齋藤は見当をつける。

「冬島さん大丈夫ですか」
「あー……伊織か」
「はい、伊織です。冬島さんおかえりなさい」
「おう……気持ち悪ぃ……」
「当真くんから聞いています。お水ありますが飲めますか?」
「ん、飲む……」

 遠征艇から降りてそれなりに時間は経っているはずだが未だ冷や汗を浮かべて船酔いに苦しんでいるところを見ると、今回も相当だったらしい。彼が船に弱いのは昔からだ。
 のろのろと身を起こした冬島に齋藤は蓋を開けたペットボトルを手渡す。冬島が水を飲んでいる間に給湯スペースを拝借し、タオルを二枚冷水で濡らしてきつく絞る。一枚はビニール袋に入れて冷蔵庫へ入れ、残る一枚を持って戻る。ペットボトル片手にぐったり項垂れている冬島のもう一方の手に酔い止めを二錠乗せて水と共に飲ませた。そして手からペットボトルを抜き取り、マットに腰を下ろしてその大柄な体を支えながら横たえさせる。濡れタオルで額や首筋を拭ってやれば、冬島は「きもちい」と呟いた。ぬるくなったタオルの代わりに額に冷却シートを貼る。

「コンタクトは外してますか」
「おう……」
「ベルト緩めますね」
「おう……」

 齋藤は慣れた手つきでベルトをボトムスから抜き取る。本当は圧迫感を少しでも軽減させるためにフロントボタンを外してファスナーも開放したいところだが、冬島の尊厳を守るためにやめておいた。事情があるとはいえ恐らく当真は爆笑するだろうし、真木は齋藤に何をさせているのかと冷たい目を向けることだろう。齋藤自身は慣れているから気にしないが、未成年達に笑われるのはあんまりである。
 目元を冷やすために冷蔵庫に入れているタオルを持ってこようとマットから立ち上がろうとすると、冬島が小さく身じろぎをした。指先が心許なくマットの表面をひっかく。何か要求があるのかと齋藤が問いかけるより先に長い指が彼女の手を捕らえた。齋藤より一回り以上大きい掌が彼女の手を覆い、力なく握られる。

「……伊織」
「はい、冬島さん」

 掠れた声が齋藤を呼ぶ。齋藤はもう片方の手をさらに冬島の手の甲の上に乗せた。声がよく届くように顔を近付ける。

「伊織」
「はい」
「ただいま」
「はい。慎次くん、おかえりなさい」

 冬島は青い顔で情けなく締まりのない笑みを齋藤に向け、齋藤はそれに答えてゆるりと笑った。齋藤に捕らえられていない方の大きな手が彼女の頭を撫で、頰を撫でる。それでようやく安心したようだった。酔い止めの副作用も手伝ってか、間もなく小さな寝息が齋藤の耳に届く。冬島の手は先ほどよりもしっかりと彼女の手を握っている。
 そこでようやく齋藤は息を吐き出した。冬島にとっての齋藤は妹分であり、齋藤にとっての冬島は兄貴分である。冬島は齋藤の兄の友人であり、齋藤は冬島の友人の妹である。齋藤をボーダーに誘ったのが冬島であるし、冬島に誘われたから齋藤はボーダーに入った。開発室時代はエンジニアと助手であり上司と部下でもあった。
 彼らの関係性を表す言葉はいくつもある。距離感がおかしいと揶揄われることも多々あったが、おそらく齋藤が一番心を許しているのが冬島であったから、その関係は仕方のないことだ。