そういえば明日遠征部隊が帰ってくるんでしたっけ、と誰かが不用意に呟いたのを機にラボ内ではあー、だのうー、だのと頭を抱えて呻く者達や、ぼんやりと遠くを見つめて魂を飛ばす者達が続出した。主に遠征艇のメカニックやトリガー関連のエンジニアである。遠征関連とは関係のない者達は頑張れと笑いながらやる気のないエールを彼らに送る。
 決して忘れていたわけではない。ついこの間、およそ三日後に帰還するらしいと通信室から聞いていたため、だらだらと迎え入れる準備は進めていた。
 ただ現実から目を背けたかっただけなのだ。ただでさえエンジニアは暇ではないというのに、忙しさに輪をかけるような、忙しさの二乗や三乗と言っても大袈裟ではない特大イベントが明日から始まることに対して、歓迎五割拒否五割程度なだけなのだ。
 近界から持ち帰られる未知のトリガーの分析、遠征艇の点検やメンテナンスからブラックボックスの解析、遠征隊員達のトリガーや換装体の検査に修理などなど目白押しのイベント達は数え始めたらきりがない。それに対してエンジニア達は粛々とタスクリストに沿って業務をこなすだけだ。
 遠征関連の業務は最優先事項に位置付けられるゆえに後回しにすることもできず、現在抱えている仕事を傍に押しやって挑まなければならず、魔法のように人員が増えるわけでも他の案件の納期が延びるわけでもない。地獄のような、文字通りのデスマーチが満面の笑みで旗を振って待っている。明後日には発狂者と死体が増えているのだろう。いつものことではあるが。
 新しいトリガー技術にお目にかかれるかもしれない希望と興味と知的好奇心だけを糧に、エンジニア達はのろのろと明日の準備に取り掛かる。チーフ達は案件のスケジュール調整とシフトの組み直しに入った。割ける人員は最低限プラスアルファ、シフトが決まり次第、遠征対応組は仮眠室に投げ込まれるはずだ。現行の業務をいかに止めないかがチーフ達の腕の見せ所である。
 現ボーダーが設立された当初は、慢性的な人手不足で労働基準法も無視されているような状態であったが、今では諸々の規定によって労働者の権利は守られている。そのはずなのだが、研究者という性質のせいか守る者は少ない。残業が増えれば人件費がかかると、鬼怒田がラボからエンジニア達を追い出すのもよく見る光景だ。しかし大人しく帰るエンジニアはそこまで多くない。
 別に時間通りに来て、時間通りに帰ってもいいのだ。実際通いのエンジニアは比較的時間を守る。一時間の休憩もきちんと取るし、小休憩だって自主的に取っている。仕事さえすれば、煙草休憩もコーヒー休憩も許されている。なんならラウンジで仕事をしたって許される。
 トリガーを扱うエンジニアという特殊な職種ゆえに他の職種と比較することは難しいが、その職場環境は世間一般と合わせるよう意識されている。そのくらいのことは上層部にもできるのだ。
 問題なのは、齋藤のように本部に住んでいる者達や、寝袋や宿泊セットを持ち込んでいる物好きな者達だ。夜間待機のついでに仕事をした。寝ようと思ったけど目が冴えてしまって仕方がないから仕事をした。手持ち無沙汰で他にやることもなく暇だったので仕事をした。せっかくなので仕事をした。仕事が生きがいなので仕事をした。仕事じゃないです研究です。おかげで就業時間はあってないようなものになっている。
 当然こっそりトリオン体に換装して二十四時間稼働する物好きなエンジニアもいるが、鬼怒田に気付かれればこっぴどく叱られ、反省文を書かされる。最悪城戸の前に引き摺り出される。気を許せば劣悪になりかねない職場環境を守るための措置である。

「齋藤は買い出ね。そのあとはいつも通り未定だからよろしく」

 個人ラボに現れた寺島に法人契約のクレジットカードを差し出されながらそう告げられて、齋藤はあははあと乾いた笑いをこぼすしかなかった。
 いつも通り若手かつ運転免許を持っている彼女の担当は雑用だ。寺島がチーフエンジニアなら齋藤はシニアエンジニア、同い年だろうと等級で見れば寺島の方が上である。齋藤は鬼怒田直下に属し、どのチームにも属さない遊軍扱いであるが、便宜上寺島の下についている。ゆえに齋藤は彼の小間使いだ。
 そして買い出し以降の予定は未定、つまり適宜状況に合わせてどこかに投入されるということだ。何をやらされるかも未定である。遠征艇関連かもしれないし、持ち帰られたトリガー関連かもしれない。諸々の後片付けの可能性だってあり得る。なまじ技術や知識を幅広くカバーしていることもあって、齋藤の扱いはいつもこうだ。彼女の才能と冬島の教育の賜物とも言う。遊撃隊扱いされる所以でもある。
 齋藤はとりあえず一旦現実から目を背けることにした。買い出しに行ってくると寺島に告げてクレジットカードを受け取り、キーボックスから車の鍵を抜き取った。作業着の上着を脱いで椅子の背にかけてコートハンガーからコートを取る。財布にクレジットカードをしまい、スマホと共にバッグに放り込んだ。
 齋藤は倉庫を覗き込み、エナジードリンクの在庫数が一番減っていることを確認して、今回は多めに買ったほうがいいと判断した。買い出しで買うものはいつも同じだ。メーカーも種類も決まっている。お菓子は適当につまめるものを選べばいい。ガムや飴の類はラウンジの売店で買えるから買い出しリストには載せない。
 デスマーチ突入直前の職員達に欲しいものはあるかと声をかければ、癒しだの愛情だの有休だの金一封だのと齋藤にはおおよそ叶えられないものばかりを叫ばれる。結局、クリスマス限定の高いチョコレートが食べたいと主張した女性職員の意見を採用されることとなった。先日、駅前のデパートに寄った時に見かけて食べたいと思っていたらしい。
 どれだけ買い込もうとも、どうせすべて経費で落ちる。分かっているから職員達に遠慮はない。なおミニスカサンタコスでチョコレートを配ってとの欲望丸出しの意見は却下された。
 要望がクリスマスに偏っていること気付いた齋藤はもしかしてとスマホのカレンダーを見る。なるほど、クリスマスまであと一週間であった。だからクリスマス限定のチョコレートだとかミニスカサンタコスだとかの発想になるわけである。そういえば駅前の大通りの街路樹がイルミネーションで輝いていたと思い出す。ボーダーに籠っていると気付かないが、世間はクリスマスムード一色なのだろう。
 買い出しに行ってきますと言い残し、ラボを出た齋藤は端末で各部隊のシフトを見て、お目当ての隊員が本部にいることと防衛任務が入っていないことを確認してからすぐに電話をかけた。三コール目が鳴りかけたところで相手は出た。

「お疲れ様です、齋藤です。諏訪くん、暇だったら買い出しを手伝って欲しいな、って。――うん、そう。いつもの開発室の買い出し……そうそう、そうだよ。明日風間くんが帰ってくるよ。……あはは、すっごい嫌そう」

 先方からの二つ返事ですぐに約束を取り付け、地下の駐車場へと向かう。本当に暇だったのか、電話をかけてからさほど時間が経っていないにも関わらず、駐車場にはすでに諏訪隊の四人が待っていた。
 齋藤としては諏訪一人だけがいる想定だったのだが、それが外れて三人も多い。買い出しの人手は多いほどいい。とても喜ばしいことである。

「よう伊織。パシりご苦労さん」
「お待たせしました。もしかして諏訪隊総出で手伝ってくれるの?」
「ええ、俺達も手伝いますよ。買い出しなら人数いた方がいいと思いましてね」
「堤くんありがとね。笹森くんと小佐野さんまで手伝ってくれるの? 嬉しいなあ」
「諏訪さんが男手が必要だって言っていたので手伝いに来ました」
「齋藤さんが焼き肉奢ってくれるって聞いたので来ちゃいました!」
「あははあ、焼き肉はまた今度ね。今日は買い出しだけお願いします」

 四者四様の反応を前にして齋藤は思わず笑みをこぼす。
 同い年の諏訪を通して、齋藤は諏訪隊の面々とそれなりに交流がある。各々の性格や、彼の隊自体が仲がいいことも起因しているのかもしれない。エンジニアの齋藤に対しても友好的に、また気安く接する。隊員達と仲がいいのはエンジニアとしてもありがたいことだ。

「そういや嵐山が遠征部隊の慰労会を企画してるって聞いたか?」
「うん。柿崎くんから聞いてるよ。ラウンジを貸し切りでやるんだってね」
「本っ当、あいつはそういうのが好きだよな」
「率先して幹事をやってくれるのはとてもありがたいことだよ」
「まあな」

 諏訪は咥えていたタバコを携帯灰皿にねじ込み、手を齋藤に差し出した。車の鍵をよこせという合図である。それをよく心得ている齋藤は彼に鍵を渡した。
 勝手を知る諏訪は近くに停まっている白のオフロード車のロックを解除する。彼にとって齋藤の車は自分の物に近い。それだけ散々使っているということでもある。
 本部と三門市内間は地下通路でつながっており、行き来は基本的にそこを通ることになっていた。シャトルバスが走っているためそれを使用する者が多いが、一部は自転車やスクーター、車などを利用してボーダー本部に通っている。ごく少数ながら地上を通って警戒区域内の出入り口を使用する物好きもいたが、当然叱られる行為である。
 本部に住んでいる齋藤は地下通路を車で移動する一人だ。十八になってすぐに免許を取った彼女は、ボーダーの給与と両親の遺産と冬島の知識と唐沢の伝手で中古のオフロード車を格安で購入した。また唐沢の入れ知恵でカーシェアリングを条件にボーダーとリース契約を結び、齋藤がボーダーに車を貸し出している体裁にして車にかかる諸費用の一部を経費計上できるように取り計らった。個人名義の社用車のような扱いである。ボーダーの命令であれば他人に貸し出さねばならないとはいえ、維持費を比較的安く抑えることができているのだから悪いことばかりではない。
 そもそも時間無視かつ目的地直行の個人所有の車は使い勝手がいい。しかも所有者が気さくなエンジニアとなれば声もかけやすい。結果、齋藤本人を含め本部に住んでいる者達の日用品の買い出しから、酔っ払いや学生達の送迎まで大活躍している。要は都合のいい足である。
 諏訪も堤も何度も飲み会帰りに世話になったことがあるし、諏訪に至っては今のように運転席に座ることもある。他にも数名ハンドルを握る者は決まっていた。個人名義とはいえボーダーの車でもあり、場合によっては瓦礫が散らばり荒れた路面の多い警戒区域内を走ることもあるため(そのために冬島はオフロード車を選んだ)、運転手もボーダーが許可した者達だけに厳選される。ボーダーが許可した者ならば齋藤もハンドルを任せやすい。
 その理由ゆえに免許を持っていない学生達の中に齋藤の車に憧れる者はそれなりにいる。一度だけ防衛任務明けに警戒区域内から高校へ送ってもらったことのある穂苅が免許を取ったら運転してみたいと言っているが、運転に慣れてからと齋藤から条件を付けられているためだいぶ先の話だろう。そしてボーダーの許可が降りるかどうかは別問題である。

「買い出しの店はいつものところでいいんだろ」
「うん。あと駅前のデパートにも寄りたいんだけどいい?」
「デパートだあ? 人手いるか?」
「私ともう一人いれば大丈夫かな」
「なら手分けした方が早いな。お前と日佐人でデパートに行って、残りで買い出し済ませとく」
「了解です。買い出しリスト送っておくね。多分こっちが先に終わるから、終わり次第そっちに向かうよ」

 了解、と答えて諏訪は隊員達に目を向ける。彼の中ではすでに運転ルートと買い出しプランが完成している。

「堤、お前助手席な。おサノは奥座れ。日佐人と伊織を駅で落として、残りで買い出しだ」

 さすが隊長と言ったところか手早く隊員達に指示を出し、諏訪は運転席に乗り込んだ。堤は後部座席のドアをスライドさせてから、助手席のドアを開けた。「つつみんサンキュー」と小佐野が後部座席の三列目にするりと乗り込み、小佐野に続いた齋藤は二列目に座った。最後に乗り込んだ笹森が齋藤の隣に座ってから車は走り出した。