覇王の妹は笑う



「兄上もお甘いようで。」

ふふ、と女の口から思わず、といった様子で笑いが溢れ落ちた。覇王、豊臣秀吉の妹であり、兄同様、力を振りかざし敵からは怖れられ、また同軍の者ですらもその者の笑んだ顔を見たことが無い程の冷徹振り。しかし、自ら先陣を切って行くその背に着いて行く者は少なく無く兵から慕われていた。さぞや豊臣に対する思いが強いのだろうと思われたその人は、誰もその女の口から聞いたことのないような甘い声色で、実兄の死を嘲笑った。
女の頬に落ちた雨が、涙の様に落ちた。

「ようやく、ようやく、死んでくれた。ねねさんを殺した、私を殺そうとした、兄さんでは無い、誰か。そう、兄上が。」

上質な布地が雨でぐちゃついた地で汚れるのも気にせず、女は膝をついた。目の前には死んだ、天下の覇王だった者。

「兄上が居なくなれば、豊臣も終わりだな。んん?私は抜けるさ、当然だろ。兄上が、ふふっ、兄さんが死んだんだ。豊臣なんて私には関係無いもの。ね?」

微かに幼さの残る彼女の喋り方は、かつての兄の友が、風来坊が聞けば懐かしい、と言うであろうものだった。しかし、此処に彼は居ない。
雨は亡骸と女に無慈悲に打ち付け、染み込んでいった。

「私は貴方を殺した奴を恨まない。寧ろ…、いや、やっぱりどうも思わないな。此の世で私が恨むとすれば、あの梟…。優しかった兄さんを、恐ろしい覇王、兄上に変えたあの男。あいつさえ、あの梟さえ、居なければ今頃は、きっと幸せだった。きっと、な。」

女はしばらく、じっと動かずに座り込んで居たが、唐突に立ち上がりゆっくりと、だがしっかりとした足取りでその場を去っていった。
この後に、かの豊臣の忠臣が駆けつけるのである。

主亡き後、覇王の左腕であった石田三成は、一時は狂いに狂いに手がつけられない有様だったが、彼を支える友と部下のおかげで何とか正気を取り戻しつつあった。とはいえ、彼の内に蔓延る憎しみは健在ではあったが。
そんな状態の彼は、豊臣の復興を目指し奔走していた。しかし、彼にはそれに並行して尽力していたことがあった。亡き主の妹君の捜索である。
覇王の妹が行方不明。
この事実は、主を失って直ぐに発覚したことであった。かの妹君は、彼女の兄と共に、思い出すのも忌まわしい、あの戦場を駆けて居たはずなのである。有り得るはずもないが、もし、万が一、討たれていたのならば、報告が上がるはずであり、健在であれば自分の前に立ち、認めたくないが落ち目にある豊臣を率いてくれるはずなのである。
だが、いくら待っても、探しても、その存在の手掛かりを見つけられなかった。聡い眼を持つ彼の友も、身が軽く各地を駆け回った部下も首を捻って不思議がった。
諦める、などという言葉自体を凶王と呼ばれつつある男は持ち合わせていなかった。
その死が確認されない以上、いつか、必ず、この豊臣を率いて頂く。それまで豊臣の栄華取り戻し守り切ろう、と。

乱れる世のことなどお構い無しに、前だけ向いて歩く女がいた。
女は、ただひたすらにある男を殺す為に歩いていた。それだけの為に生きる存在、復讐と呼ぶには身勝手な、私欲が過ぎるそれを糧に生きている、と自覚しながらも思い直す気は更々なかった。豊臣の兵達が自分を探している、という事を聞いてもその気持ちは変わらなかった。何一つ。
兄が健在の時からこうしよう、と決めていたのだ。寧ろそれだけが女の希望だった。生きる目的と言っても過言では無い。何だ、今と大差ないじゃ無いか、と女は意味もなく笑む。
女が覇王の妹として存在した時は、意味もなく笑むなんてこと、しなかったものである。女にとって、このなんてことの無い差異が嬉しかった。

女はただ歩く。
この時が早く終われば良いとも、ずっと続けば良いとも、どっちつかずの事を延々と考えながら。
女にとって優しかった兄を足蹴にし、変えた梟は忌むべきもの以外の何者でも無かった、兄が死ぬまでは。今、女はその男の存在だけを欲していた。もしかしたら昔からそうだったのかもしれない、と女は考える。憎くて憎くて仕方の無い相手は女の特別に他ならなかった。
彼女の男を憎む心は愛しさすら感じる程の、熱く粘く深いものだった。

女は自覚していなかったが、兄が愛を捨て覇王として君臨していた時も、女は妹として兄に愛を期待していたのだ。
だから、兄を覇王として押し上げる軍師が気に食わなかったし、兄を無条件に敬い慕う忠臣が羨ましく疎ましかったし、元来の彼女とは似ても似つかない冷徹な覇王の妹としてでも、苦しみをひた隠しながら妹の座に居座っていた。だが、家族として無条件に慕う、それは愛に違いなく覇王として目覚めた豊臣秀吉が、彼の愛する妻の次に砕き壊したものだった。

かつて、妹である女は義姉の死を嘆き悲しみ兄を止めようとした。豊臣として旗を掲げる前のことである。優しいと思っていたその手は、堅く強くそして無慈悲に女の首を掴み上げた。苦しみに*きながら、女は滲む視界で若き覇王の目を見て、思った。
死にたく無い、と。
その時である、幸か不幸か女は特別な力に目覚めた。皮肉にも覇王と同じ光を女はその身に秘めていた。
こうして覇王の妹が誕生した。

女の中に幽かに漂っていた兄への期待は、終ぞ覇王のまま散った兄によって完全に霧散した。消える他なかった。優しい過去はただの過去でしかなくなってしまったのだ。
女も気付いていない内に進んだ心境の変化である。
そうなれば、はっきり立ち現れるのは彼女の心の殆どを占めていた元凶への怨みである。
妹は殺されかけても、優しかった兄の面影を恨む事が出来なかった。
期待という薄氷の如き蓋が取り払われたら、後は簡単であった。成る程これが自分の望みか、怨みを持って此の世に居るなんてまるで幽霊と同じだな、と納得し、失望したが、こちらは彼女にとって馴染み深いものであったので、すとん、と落ち着いた。

兄が生きていても、彼の死の先を思っていた自分を一体どれだけの人が気付いたか。
それを考えると可笑しくて哀しくて、優しい過去を期待してきた事に気付かない女はまた笑うのだった。

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