密やかなくちびる


カナメくんが最近、よく山田くんを始めとするクラスメイトに話しかけられている。私が用事があって行けなかった文化祭の打ち上げで、友好を深めたらしかった。正確には行けなかった、ではなく、行かないつもりだったから用事を入れたのだが。まさかカナメくんが行くなんて思わなかったから。
人当たりが良くて男女ともに交友関係の広い山田くんが話しかければ、必然的にカナメくんの周りに人が集まってくる。教室でもそうだし、近頃山田くんは友達を引き連れて屋上にまで出没する。今まで、カナメくんのいる屋上を訪れる人は私しかいなかったのに。カナメくんを名前で呼ぶ人は、少なくとも校内では私しかいなかったのに。
カナメくんの言う、“お姉さん”。私は絶対にそうは呼ばないけれど。とにかくあのひとのせいで、私はカナメくんの唯一では無くなってしまった。
カナメくんは、言わずもがなかっこいい。高校生にしては落ち着いた言動や毅然とした態度で、この都内でも有数の進学校においてトップクラスの成績を修め、そもそもが整った容姿をしていることもあり、あんなに愛想がなくても人気があった。そのカナメくんが、他者と自ら関わるようになったら。なって、しまったら。そんなの――自然と輪の中心に入ってしまうに決まっているではないか。今みたいに。私だってその輪の中にいるはずなのに、妙な疎外感があって仕方なかった。自分のせいだと、わかってはいても。
私はカナメくんが、私だけに名前で呼ぶことを許して、私だけと話をしてくれていることに、正直な話優越感を覚えていたのだ。私はカナメくんに他の人と関わりを持ったほうが良いなんて一度も言ったことがない。私だけのカナメくんでいてほしかったから。たとえそれが、学内だけでの話であったとしても。だってカナメくんにはきっと、私よりも大事な存在が学校の外にいて、大事な場所があるのだろうから。カナメくんが学校にいる時よりもよりカナメくんらしく、年頃の男の子らしくいられる場所。物分かりの悪い私はそれをとても不愉快に思っていたけれど、仕方のないことなのだと、私は学校内で唯一カナメくんが自ら話そうとする相手なのだから――と無理矢理納得させていた、のに。
あのひとに会ってから、カナメくんは変わった。端的に言えば、笑顔が増えた。クラスメイトと笑い合う時間が増えて、今まで屋上で私と二人で食べていた昼食を、もっと大勢でわいわいと食べるようになった。
周囲はそれをいい変化なのだと言う。カナメくんでさえ。カナメくんはその変化を不愉快には思っていないはずだ。その証拠に、カナメくんは今や山田くんを名前で呼んでいる。不愉快に思っていたのなら、仮に必要にかられていたのだとしたって名前で呼んだりはしないはずだった。
――……私の名前しか呼ばなかったのに。
私以外の誰かの名前をカナメくんが呼ぶたびに、私の名前は呼ばれなくなっていく。カナメくんの周りに人が増えるたびに、私の居場所はなくなっていく。
あのひとのせいで、私のカナメくんはいなくなってしまった。
カナメくんが柔らかな声で、楽しそうに、嬉しそうに、照れ臭そうにあのひとについて語るのを、どんな気持ちで私が聞いていたか、カナメくんはきっと知らないだろう。そして肝心のあのひとは、私の存在なんか知りもしないのだろう。カナメくんがあのひとといる時に――あのひとの話をしている時でさえあんなに楽しそうなのに――私なんかのことを口に出すなんて、到底思えなかった。だって私以外の誰かと話すことに対して楽しさを覚えたのなら、私という人間が如何につまらない人間であったのかも、カナメくんの優秀な頭ではすぐに理解できるだろうから。
カナメくんにとって、私とあの屋上で過ごした時間は一体何だったのだろう。――……何でも、なかったのだろうか。
じわ、と目の縁に涙がたまっていく。慌てて下を向いて後悔したのは、縁にたまった涙がスカートの上にこぼれ落ちたのをかろうじて視認した時だった。みんなで楽しく話していた時に、いきなり泣き出す女。気付かれたら当然みんながギョッとして、視線を集めるだろう。私は慌てて目にゴミが入ったような素振りで、手で目元に触れる。案の定隣にいた子が「どうしたの?」と声をかけてきたので、「目にゴミが入ったの」と震えそうな声をどうにか取り繕って言った。

「大丈夫?鏡貸そっか?」
「ううん、大丈夫。お手洗いで洗ってくる」

私は立ち上がって、逃げるようにその場を去った。トイレに行くつもりなのは本当だ。だって学校の中で絶対に一人になれる場所なんてトイレくらいしかない。
屋上から一番近いトイレを使う人は滅多にいない。個室に入り込んで、蓋を下ろしたままのトイレに座ってメソメソ泣く私はきっと今、世界で一番惨めで無様な女の子だった。
昼休みの予鈴が鳴る頃になっても、涙は止まる予兆を見せなかった。涙腺がばかになってしまったみたいに。このまま授業になんて行けるはずがないし、泣きすぎてぼんやりする頭でどうしようと考える。結局思考能力の落ちた頭では良い発想が浮かんでくるわけもなくて、ただ時間を無駄にしただけだったけれど。結局良い解決策が浮かぶこともなく、本鈴が授業が始まってしまったことを告げた。
もはや濡れていないところを探すほうが難しいくらいに涙でぐしゃぐしゃになったハンカチを目元に押し当てながら、上を向く。

「……私じゃ、ダメだったのかなあ……」

無意識に呟いた声は自分で思っていた数十倍は情けなくて、余計に涙が出てくる始末だった。それに、そんなことは言うまでもない事実だった。
カナメくんから聞いた。「あのひと、俺に青春の何たるかを教えてあげるとか言ってた」って。私からすれば、デートの仔細を聞いているようなものだったそれは、私だってできたのに、と思わせるに十分なものだった。それでもカナメくんに普通の高校生みたいな青春を教えてあげる役目は――カナメくんが、好きになる相手は。私では、いけなかったのだろうか。授業をサボって二人きりで屋上で過ごしてみるとか、一緒にお昼ごはんを食べてみるとか、お互いが唯一名前で呼び合う異性だったりとか。いつもより働きの鈍った頭でもこれだけ思いつく程度には一通り特別めいたことをしているはずなのに、カナメくんにとっての私は、退屈な日常の背景のひとつに過ぎなかったのだろう。私にとって全て色鮮やかな思い出であっても、カナメくんにとってはきっと、取るに足りない日常の一部だったに違いない。

「……カナメくん」
「なに」
「………ッ、!?」

なに。なんで。そんなはずない。でも、今、たしかに。
ドアの向こうから聞こえてきた声は、間違いなくカナメくんのものだった。まさか幽霊なんてことはないだろう、こんな綺麗に整備された学校の中で。しかも、ここ。

「か、……かな、カナメくん……?え、なんで……授業中……」
「それ名前が言えたこと?」
「あ、や……て、ていうか、ここ……じ、女子トイレ、だよ?」
「今は誰も使ってないんだから、問題ないでしょ」
「……や、あの、私、使ってるよ……」

いや、確かに本来の意図で使っているわけではないけれど。それでも扉越しにカナメくんがいるという事実に、挙動不審になってしまうのは仕方のないことだろう。というか万が一こんなところを他の人に見られたら、カナメくんが女子トイレに入る変態扱いされてしまうのではないだろうか。さすがに小学生ではないのだし、そんなふうに揶揄うひとはいないかもしれないけれど。
――というか、どうして、いつから、カナメくんはここにいるのだろう。

「……ていうか、早く出てきてくれない」
「え……」
「俺は別に女子トイレで話する趣味ないんだけど」
「わ、私も……ないけど……」

言われるがまま鍵に手をかけようとしたけれども、すぐにこんな顔でカナメくんの前に出られるはずがないと思い直す。そもそも私は今、まだ涙が止まってすらいないのに。

「……何考えてるか知らないけど、泣いてる云々の話だったら、別にアンタが泣いてたことは知ってるから気にしないで出てきてくれていいから」
「……や、やだ」
「は?何で」
「だって今たぶん、顔、すごい……ぶさいくだと思う、から」
「……はあ」

ガタ、と扉が揺れる。私が困惑している間に、トイレのドアの上に手がかかったのが見えた。まさかと思ってみれば、その上からカナメくんの顔が覗く。……台もないはずなのによくそんな芸当ができたものだと呆然と見上げれば、案の定カナメくんが呆れたような顔で溜息を吐いた。

「……いつもと変わらない、阿呆面だよ。もう見たんだから良いでしょ、早く出てきて」
「……はい」

カナメくんの手が離れたのを見届けて、鍵を開ける。カナメくんは思ったほど不機嫌そうな顔もせずにそこに立っている。一応女子トイレにいるはずなのに少しも所在なさげでなさそうなのは、何となく流石だと思った。
先程はもしかしたらカナメくんが女子トイレに入る変態だと思われてしまうのではないかと思ったけれど、きっとこの場面を誰かに見咎められたとして、私が気分悪そうだったのが心配だったとか何とか言いくるめるんだろうな、と思い直す。
用を足したわけではないが、一応トイレから出たのだから手を洗う。洗い終わって気が付いたのは、私のハンカチはもはやハンカチの役割を果たせないくらいぐしゃぐしゃだということ。それでも制服で拭くのは少し嫌で、無理矢理ハンカチで手を拭いた。案の定、ほんの少しの水気しか拭えなかったけれど。
カナメくんは、教室に戻ろうというんじゃなさそうだった。その証拠に、トイレを出たら真っ先に、空き教室に入り込んだからだ。ドアのすぐ近く、廊下側からは死角になっているだろう場所に座って、私にも座れと促すように自分の隣をぽんと手で叩いた。躊躇いはあったけれど、こんな時だというのにカナメくんが当たり前のように私に隣を許してくれたのが嬉しくて、つい促されるまま、その隣に座ってしまった。

「……何が、自分じゃダメだと思ったの?」
「、……」

やはり聞かれていたのだ。わかっていたけれど。
カナメくんの質問に対する答えを、私は明確に持ち合わせていた。もしもこれが私のことではない他人のことであれば、極めてわかりやすく説明ができるだろうと確信を持って言えるくらいには、はっきりした答えだった。けれど――それをそのままカナメくんに伝えるのは、さすがに憚られた。
だって、その通りだと肯定されてしまったら私は一体どうしたら良い?

「……カナメくんには、」
「言っとくけど、俺には関係ないとか言わないでよ。関係ないことだったら、あんな風に名前なんて呼ばないはずだよね」
「……、じゃあ黙秘権を行使する……」
「……そんなに俺には言えないこと?」
「い、言えるわけ、ない」

人の気も知らないで。そう思ってしまうことを、咎められたくはなかった。だって、カナメくんがあのひとと関わりを持って。クラスメイトとの関係にいつのまにか雪解けを迎えて。そういうひとたちと話している時間を楽しいと思っている間中、ずっとずっと私は苦しかった。泣きたかった。辛かった。
どうして私じゃいけなかったの。どうして私だけじゃいけなかったの。どうしてあのひとだったの。どうして、――どうして、私のことを好きになってくれなかったの。
そんな馬鹿みたいな考えを、カナメくんに話せるはずがない。それにきっと言われたって困るに違いないのに。
瞬きをしたまぶたの裏に、文化祭の時一度だけ見たあのひとの姿がちらついた。カナメくんの隣に当然のように立って、楽しそうに、大人のくせにやけに無邪気に、それでいて綺麗な笑顔を浮かべていたあのひと。カナメくんを変えたひと。カナメくんの心の柔らかいところを、きっとカナメくんが望んで触れさせたひと。
――……聞けば、カナメくんとあのひとの出会いは学校の中だと言うじゃないか。
ずるい。
私のほうが、先にカナメくんに出会っていたのに。カナメくんが学校で一番最初に仲良くなったのは私なのに。
ずるい。
妬ましくて、疎ましくて、そんなふうに思ってしまう自分が、心底嫌だった。

「……ねえ」
「………なに、」
「アンタが泣いてるのは、俺のせい?」
「……そうだよ」

もう否定するのも、馬鹿馬鹿しかった。

「カナメくんのせいだよ」

カナメくんにとっては身に覚えのないことで責められて、うんざりすれば良い。そしてここを立ち去って、それからこれから先、もうずっと、私に声をかけなくなれば良い。私を名字と名字で呼んで、以前クラスメイトを見ていた時のような冷めた目を私に向ければ良いのだ。
そしたら。そしたら、私はきっと、カナメくんのことをいつか、好きじゃなくなることができる気がするから。

「アンタはさ、自分で思ってるほど嘘が上手くないよ」
「……え」
「俺が前にお姉さんの話した時、今にも死にそうな顔してたから、俺はアンタにお姉さんの話は一回しかしたことない。……あとはまあ、アンタが誤解したのは俺の責任だから、文句も甘んじて受け入れてあげる」
「……かなめ、くん?」
「あの時のアンタの反応と、俺のせいだって発言。泣いたタイミング。……他にも判断材料はいくつかあるけど、諸々踏まえて、さっきの話を推測するなら答えはこう。『カナメくんが好きになるのは、私じゃダメだったのかな』」

――図星だ。
言い当てられた、それはつまり、私がカナメくんに、好きでいて欲しかったことを知られているということ。よりによって、カナメくん本人に。

「アンタが良くなかったのは、俺が何を考えてたか聞いてもいないのに答えを決めつけたところ。俺が悪かったのは、意固地になって明確な答えをアンタにあげなかったところ。……要するにお互い様なんだけど、……ごめん、こんなに泣く程、苦しかったんだね」

カナメくんが、手を伸ばして親指の腹で私の目尻を拭う。その指先があんまり優しくて、私の目からはもっと涙が溢れてしまったのだけれど。
ひくり、と喉の奥から引き攣ったような声が出るのが情けなくて仕方なかった。――あのひとも、カナメくんの前でこんなふうに泣いたりするんだろうか。こんなふうに、カナメくんに涙を拭ってもらったことがあるんだろうか。

「まず、訂正すると。俺は、お姉さんのことをそういう意味で好きなわけじゃないよ。確かに……そうだね、好ましいとは思ってる。憧れみたいなものもあると思うけど、それはこんなひとが姉だったらって意味で。次に、……クラスメイトとつるむようになったからって、名前をないがしろにしたつもりは、これっぽっちもなかったよ」
「……、そんな」
「嘘じゃない。あと、……俺は、アンタが俺のことを好きだって、気付いてた。俺がお姉さんの話をした時の反応とか、クラスメイトと話すようになった時の寂しそうな顔とか、まあ……それより前から、俺と話してる時の表情とか、声のトーンとか、……まあ、いろいろあるけど。多分アンタが、俺のことを好きでいてくれてるんだっていうのは、何となく。いつから、とか明確には言えないけど」
「……それじゃあ、」
「そんな死にそうな顔しないでよ。話は最後まで聞く。……そんなふうにわかりやすいくせに、アンタは頑なに、俺のこと好きだって言わなかったから」

当たり前だ、と言い返したかった。誰だって好きな人にそう軽々しく告白なんかできるわけがない。それにカナメくんが誰かに告白されて冷たく振っているところなんて何回も見ていたし、あの女の子たちが落ち込んだり、泣いたりしているところを見るたび、安堵すると同時にいつか私もあの中の一人になってしまうんじゃないかと恐怖を覚えていた。そして告白なんてしたら、私はカナメくんの特別でいられなくなってしまうんじゃないかって思ったら。そんなこと口に出せるはずが、なくて。

「だから俺も、意地になってたんだよね。屋上にクラスメイトが来るようになっても追い返したりしなかったし、昼も一緒に食べるのを許したりして。……あれ自体は別に不快だったわけでもないけどね。ただ嫌なら、早く好きだって言えばいいのにって思ってた。そしたら俺は、名前が望む言葉をあげられるのに、って……、……ごめん、これはただの、言い訳。本当は自分で言い出すだけの意気地がなかったんだよ」
「……ず、るいよ、カナメくん……」
「うん。……うん、そうだね、ごめん。でも今から、もっとずるいこと言うよ」

カナメくんの少し冷えた指先が、私の頬に触れる。思わずカナメくんのほうに顔を向けると、にじんだ視界の中で、カナメくんがいつもより少し強張った――否、緊張した面持ちでいるのがかろうじて見えた。

「ねえ、名前。名前は、俺のこと好き?」

――本当に、本当に、ずるい。卑怯だ。肯定されることを前提とした問いなんて、わざわざ疑問形にする必要なんてないはずなのに。
いっそのこと当てつけに首を振ってやろうかと思った。私が今まで傷付いてきた分だけ、カナメくんも傷付けばいいと思った。
思った、のに。

「……わ、わた、しは……っカナメくん、なんて、…………カナメくん、が、……好き」

カナメくんなんて好きじゃない。どうしてもその言葉が出てこなくて、代わりに私の口は、正直に気持ちを伝えてしまっていた。

「うん。……うん、俺も名前が好きだよ」
「……か、カナメくんの、ばか……っ」
「うん」
「す、好き、だよ、ずっと、好きだったの、好きだったから、ずっと……っ」
「うん」
「ひどい……っ」
「うん、ごめん。……ごめんね、好きだよ」

カナメくんの言葉で、私のぐちゃぐちゃになっていた心がゆっくりほどけていく。ずるいだの、ひどいだの、そんな幼稚な言葉を繰り返していても、私はもう既にカナメくんのことを許してしまっていた。
だって、カナメくんが私のことを好きだって言ってくれた。それ以上に嬉しいことなんて無いのだから。
やがて、ゆっくりとカナメくんの綺麗な顔が寄せられて、腫れぼったくなっているだろう私の瞼に、涙の跡がついているだろう頬に、それから、まだ小さく震えている唇に、やさしく触れる。

「……かな、」
「名前が、好きだよ」
「……わ、たしも、好き」

嗚呼、今の私、世界で一番幸せな女の子だ。