スターライト・ナイト
――何だか泣いてしまいそうだったから、彼に会いたかった。
胸が寂寞感に包まれて、ふとそんなことを思った。真夜中にほど近い時間。居酒屋なんかはまだ営業しているし、真っ暗闇というわけでもない。それでも昼間とは違い真っ黒な空に覆われた窓の外を眺めているとどうにも心が不安定になってしまう。いつもだろうと言われれば、それはまったく否定できないのだけれど。
普通、であれば。もしもこんな時間に会いたくなったとしても、相手の事情を考えて本当に会いになんかいかないだろう。せめてトークアプリでメッセージを送ったり、電話したりとか、その程度のはずだ。けれど今日の私は一段と面倒臭くて、会いたい、と思ったその5分後には、何とか外に出られる程度の身支度をして、スマホと財布だけを持って玄関の外に出ていたのだった。
夜道を歩くことに不安がないと言えば嘘になるが、少しばかり楽しいと思ってしまったのは事実だった。私がこうして一人で夜道を歩くことはあまりない。彼に止めろと言われているからだ。二人で歩くことはあっても、彼は丁寧に私を家まで送り届けてくれるから。それに、別に彼の言葉に反抗してまで一人で夜に出かけたいと思うこともなかった。だから今日のこれは、私にとって完全に非日常。人間であれば誰しも、程度はあれど非日常に憧れるものではないだろうか。たとえば、学校や会社をサボって、どこかで遊んだりとか。いつもと違う道を通って帰ってみたりとか。そういう時に見た景色というものは、普段とは違って見えたりして、いやに綺麗に映るものではないだろうかと思う。まあ、今の私には何だか恐ろしく見えるのだけれど。まるで、飲み込まれてしまいそうな夜空だった。前を向いたって絶対に空が視界に入るから下を向きたいけれど、それでは転んでしまいそうだし、誰かにぶつかりそうだった。早足で歩きながら、私はスマホをいじる。今しがた転びそうとか誰かにぶつかりそうとか思っていたことは忘れて、だ。歩きスマホ、ダメ、絶対――どこかで見たような標語が頭をよぎったが、よくよく見れば人通りが多いわけでも、車通りが多いわけでもないから、今だけ許して欲しかった。
『わたし、メリーさん』
『今イケブクロ西口公園前にいるの』
こんな時間に送るにしては、悪ふざけが過ぎただろうか――そんなことを考えながら、真っ暗な公園の写真を撮る。フラッシュが焚かれた風景の写真はなかなかに不気味で、自分がこんな時間にこんなメッセージと写真を送られたら絶対に怒るな、と思う。まあ、送るのだけれど。
既読がつくまで、しばらく立ち止まる。すると2分ほど経った頃か、私の送ったメッセージの横に既読の文字がつく。
『は?』
数秒して、そんな言葉がぽこんと音を立てて浮かんだ。次いで、『駅で待ってろ』と。夜道の一人歩きも危ない、かといってここに来るまで一人で待たせるのも危ない。そういう理由から、まだ安全だろう駅前を選んだのだろう。大人しく駅まで少しだけ歩いて、人もまばらなその場所に立ち尽くす。ああ、早く来ないかなあ――きっと、怒られるのだろうけれど。それでもだ。会いたくて、それからやっぱりどうにも不安で、じんわりと目の奥が熱くなってきた。会いにきてくれるから、泣いたりする必要はないのに。
トーク画面には、あれ以降メッセージは上がって来ない。かわいいと思って買った着せ替えは最近少し飽きてきた。そろそろ新しいのを買おうかな、なんてぼんやりとさもないことを考えていると、いつのまにか十数分経っていたらしい。けたたましい――夜間にしては、という意味であり、これが日中であればおそらく気にならなかっただろう――エンジン音が聞こえて、私は顔を上げた。
「……いちろう」
「……こんな時間に何してんだ」
バイクに跨る彼――一郎が、いる。ヘルメットを外したら、呆れ顔なんだか怒っているんだか、よくわからない顔が見えた。急いで出てきたのか、スウェットのままなのが少しアンバランスで、面白かった。
近づいてきたら、私の目がじんわりと泣きそうに潤んでいるのがわかったのだろう。少したじろいだように目を瞬かせて、私の前に立った。
「……どうした?何かあったか」
「何にもない……」
「いや、だってお前」
「これは、何にもないの。目にまつげが入った、から」
「……そうか」
まつげなんてもちろん入っていない。でも、何もないのも本当だった。別に悲しいことがあったわけでもないのだし。私がこれ以上何か言うつもりがないことを察したのか、一郎はこれ以上の言及はしなかった。その代わり、来たら言おうと思っていたのだろうことについて私に投げかけてきた。
「一体何だってこんな時間にうろついてんだ。あと何だあれ、ビビるだろ。やめろメリーさんとか」
「……会いたかったからって言ったら、怒る?」
「………怒るな……」
怒りたくないという顔をしているけれども。
ぐしゃりと前髪をかきあげるみたいに、額に手を当てる。少し何か言おうか迷ったように「あー」とか「クソ……」とか呟いた後で、一郎は左右で色の違う瞳を、私に向けた。あんまりに真剣な表情をしているものだから、私も少し背筋が伸びた。
「俺が怒ってんのはな、こんな夜に、一人で外に出たことだ」
「……メッセージは?」
「やめろとは思うけど、怒ってはねえよ。ただ、夜に一人で歩いたら危ねえから。それは、わかるな?」
「うん」
それはわかる。今は女が優遇される時代になったけれど、年若い女の子が一人で――というのは、危険なことも。優遇されていたって、どうしても男女で力が強いのは男のほうだし、むしろ優遇されているからこそ、不満のはけ口になってしまう可能性もある。私なんて非力だからすぐに押さえ込めてしまうだろう。それに、一郎が言うには私はどうもぼんやりしているみたいだから、そういう子は目をつけられやすいのだと言うし。
一郎は優しい。私はその優しい一郎の彼女だから、私を心配しないはずがない。それは、わかっている。わかっているから、敢えてこの方法を選んだのだ。
私を心配した一郎は、きっとこんな夜中でも、絶対に私に会いにきてくれると思ったから。
「会いたいなら、そのまま言やいいだろ」
「……だって、会いにきてくれないかもしれないし」
「そりゃまあ、会いに行けない距離にいる時もある。けど、そういうどうしようもねえ時以外は、会いに行くから。もうこういうことすんなよ」
こくりと頷くと、本当にわかってんだろうな、と目を眇められた。わかっているとも。一郎はこんな迷惑極まりない時間に呼んでも会いにきてくれる、これだけは。
「ねえ」
「ん?」
「好きって言って」
「……何だよいきなり?」
「言ってほしい」
「好きだ」
一郎は、恥ずかしげもなくそういうことを言う。本心だから恥じるべきことではない、と思っているからなのだと、いつだか言っていた気がする。けれど別になんとも思っていないわけではなくて、人並みに照れはするらしい――そう知ったのは、そう最近のことではない。だって、ほら。街灯に照らされた一郎の耳は、熱をもって赤いのだ。
「私も、好き」
「知ってる」
帰るぞ、と投げて渡されたヘルメットをどうにかこうにか受け取って被る。留め具をしっかりと留めたら、満足そうに「よし」と笑った一郎が顎で後ろを指した。乗れ、ということだ。大人しく後ろに腰掛けて、ぎゅうと一郎に抱き着いた。なんて広い背中だろう。別に初めてではないのに、私は一郎に背中から抱き着いた時、いつもこの背中の広さに驚くのだ。
きっと心の広さに比例しているはずだ。でなければ、こんな面倒くさいことをし出す女に怒鳴り散らさないはずがなかった。私だったらきっと、あんなメッセージが来たら「帰って寝ろ」としか返せない。
しっかり掴まってろよ、と声がかかる。言うまでもない、離すつもりなどなかった。エンジンがかけられて、バイクが走り出す。一人で乗る時よりもスピードは緩めだろうバイクは、それなりに乗り心地が良い。一郎の運転が上手いからというのももちろんあるだろうけれど。
「……ちゃんと会いにきてくれないと、怒るからね」
「悪い、聞こえなかった。何て言ったんだ?」
ボソッと呟いた言葉は、風の音にかき消されて一郎の耳には届かなかったらしい。しかし、それでも良かった。一郎は、自分の言葉を曲げたりしないだろう。私の真夜中のわがままにもきっと、応えてくれるはずだ。
不思議だ。さっきまであんなに恐ろしく見えた夜空が、今ではこんなに綺麗に見える。背中に耳を押し当てて、微かに聞こえる一郎の心音を聴きながら、私は漸く心底安心したのだった。
私の家の前でバイクが泊まる。少しだけ離れていた我が家が少しだけ懐かしくて、ほっと息を吐く。
私はヘルメットを一郎に返しながら、逡巡した後に結局問いかけた。
「ねえ、泊まっていってって言ったら、怒る?」
「じゃあね、とか言われたら怒ってたな」
「……泊まっていってくれる?」
「いいぜ」