東リべ 松野 千冬
繁忙期を終え、身も心も疲れ切っていた。かといって癒やしスポットを巡るほど体力も残っていないし、友人達を誘って飲みに行く元気も今日に限ってなかった。いつもと同じ景色、いつもと同じ日常の中に、それはふと紛れ込んできたんだ。キャンキャンとどこからともなく聞こえてきた鳴き声。犬だろうか?普段なら何とも気にならないであろうそれが今日に限って耳に残った。視線を向ければいつからあったのかすら分からないけれど、比較的新しそうな店構えのペットショップが目にとまる。
一人暮らしのマンションはペット禁止ではないけれど、ワーカホリックでもないのに仕事に追われる毎日を送っているもとかにペットを飼う余裕なんてない。だから飼うつもりはないけれど、見るのは自由だよね。そうもとかは自分自身に言い聞かせ、下がりかけていた鞄の紐を肩にかけ直すと何故か背筋を伸ばし、そのペットショップの中へと足を踏み入れた。
ほんのりオレンジがかった目に優しそうな照明の店内をゆっくりと歩く。最奥にあるガラス窓の向こうに仔猫と仔犬が見えた。小さな生き物がおもちゃを一生懸命に追いかけて転がっている姿に心の疲れがドッと薄れていくような不思議な感覚だった。
「いらっしゃいませ!仔猫をお探しですか?」
低めの声に視線を向けると、黒髪の男が可愛らしい猫の絵がプリントされたエプロンをつけてニッコリと微笑みながらもとかを見ている。その何とも言えない雰囲気に、彼の醸し出す柔らかな空気にもとかはハッと息を呑んだ。なんと言えばいいだろうか。どう説明すれば納得できるのだろうか…
「あの…すいません、飼うつもりではなく、癒やしを…」
もごもごと自信なさげにそう言うもとかを見て、エプロンの胸元に【松野】と書かれたネームプレートをつけているその店員は「あぁ、なるほど」そう呟くと、ふわりと笑顔を見せて続ける。
「癒やされるでしょう、猫って。俺も飼ってる猫に毎日癒やされてるんです。いくらでも見ていってくださいね。時間はたっぷりあるんで」
人生で人を好きになったことはあるものの、一目惚れというのを経験したのは初めてだった。ある程度相手を知っていく上で、共通点があったり、笑いのツボが一緒だったりと、そんな時間を経て相手を好きになっていく事が多かったせいか、こんな衝撃はもとか自身も初めてで、どうしたらいいのかなんて分からずにいる。
確かに小動物に癒やしを求めて中に入ったけれど、今はもうもとかの目にはこの店員松野しか入らなくて…
「あのっ、店員さんの猫ちゃん、見てみたいですっ!」
気づくとそんな声をあげていた。当然ながらそんな事言われると思っていなかったであろう松野は眉毛を下げて一瞬固まるけれど、次の瞬間目を細めて笑うと「いいっすよ」そう言ってポケットにしまっていたスマートフォンを出し、カメラロールを開いてもとかの前に差し出した。
真ん丸お目々のキュートな黒猫が何枚もあって、それを楽しそうに説明しながらもとかに見せてくれる。時折一緒に写っているロン毛の黒髪の男は、その黒猫を人間にしたような感じに思えたなんて。
「千冬〜!おめぇなに仕事中にナンパしてんだよ」
「場地さんっ!!違いますよ、俺のペケJが見たいって言われたんで見せてただけっすよ〜」
もとかから離れて弾むように小走りで場地さんと呼ばれたロン毛の黒髪の男の元へ行くと松野はさも嬉しそうに笑った。会ったばかりのもとかでも分かる。この場地の事が好きなんだろうと。勿論それは人として…だろうけど。人として尊敬しているとか、そんなところだろうか。カメラロールにも黒猫と場地しか写っていなかったのが、それを無言で物語っている。
てことは、ライバルはあの男だ!ともとかは気合いを入れる。
「あの、チフユさん!」
急に名前で呼ばれて一瞬顔を歪ませた松野は、もとかを見て苦笑いで近寄ってきた。
「俺名前言いましたっけ?」
「いえあちらの方がそう呼んでたので。チフユって、千の冬で千冬?」
「そうですけど」
変わった奴だな…という顔でもとかを見れば、当たった!と、嬉しそうに笑う。
「すっごく変なこと聞いてもいいですか?」
目をランランとさせて千冬を見つめるもとかに、先程までの疲れ切った表情はもうない。この店に入る前と入った後とで変わったことがあるとしたら、この千冬に出逢ったことだろう。
好きな人には好きだとすぐに伝えたくなる性格であるもとかは、胸の奥から湧き上がる熱情をなんだか抑えきれそうもなかった。
「なん、ですか」
嫌な予感なのか、もとかの表情を見て逆に一歩下がるような気持ちで千冬はゴクリと唾を飲み込む。
「彼女、いますか?」
「は?」
「千冬さん、彼女いますか?」
「…いねぇけど」
「分かりました!また明日来ます」
よしっ!と、腹の横で小さくガッツポーズをしたもとかは千冬に向かって笑顔を見せるとペコリと一礼をして店内から去って行った。
まるで嵐のようなもとかとの出会いに千冬はわけがわからない…と困惑している。そんな千冬の元にニヤケっ面で近寄る場地が、呆然と立ち尽くす千冬の首に腕をかけた。
「千冬〜なんだー今のは?」
「場地さん!いや俺も何がなんだかさっぱりッス…」
苦笑いで場地を見つめるも、片眉あげて笑っている場地。
「オイオイあの女、千冬目当てで毎日来んじゃねぇか」
「まさか!そんな事、あるわけないっス、勘弁して下さいよ」
そう言ったものの、千冬の言葉とは裏腹に、場地の言うとおり、翌日から毎日もとかがこの店に顔を出すようになるのであった。
カランとガラス張りのドアが開く。備え付けの鈴がチリンと鳴る事で視線をそちらに向ければ今日もまた、仕事終わりであろうもとかが元気よく入店してきた。
「千冬さん、こんばんは」
聞こえた声に苦笑いで「どーも」と、低い声でもとかに答える。そんなの気にしないとでも言うように、まるで定番の挨拶かのように「今日も素敵です、千冬さん!」ニカッと花が咲いたような明るい笑顔に千冬は内心ほっこりしながらも、表情を崩す事なく小さく頭を下げるだけだ。
「今日も逢えて嬉しいです」
「…邪魔はしないでくださいよ、もとかさん」
「勿論です!目の保養、癒しの保養、精神の保養、元気の保養、そして愛の保養!千冬さんがいれば私はどんな時も元気でいれるんですよ。すごいことですよね〜」
面倒そうな顔をしながらも、拒否することなく適度に相槌をうってくれる千冬に、もとかの心はいつになく浮かれていた。恋をすると、自然と仕事にも私生活にもやる気が出るのは昔からで、もとかにとってそれが今だった。ガラスにへばりついて仔猫に手を振るもとかを見つめる千冬に、「あのぉ〜」後ろから声がかかる。
振り返ると数日前に接客した仔猫を買っていった女性客で、千冬が近づくとほんのり笑顔を見せた。
「実は餌が合わないのかお腹の調子があまりよくなくて…」
「仔猫は環境や餌が変わると慣れるまで少し時間がかかるかもなんですよ。先日購入されたのは確かこちらですよね?そしたら、こっちの餌にしてみますか?」
記憶に新しい客だった事もあり、仲良さげに話す千冬を見てもとかは小さく息を吐き出した。胸の奥がチクリと痛くて、心がモヤつく。お客相手にヤキモチなんて焼くこと無いと分かっていても、近そうな年齢の異性が千冬に近づくだけで、心がざわついてしまう。
勿論もとか自身は今の時点で千冬とどうこうなるとは思っていない。ただの店員と客…それ以上でもそれ以下でもない二人の関係。関係を変えるのなら、一歩踏み出す行動と勇気が必要だ。それでなくとももとかの千冬好き好き光線は出ているものの、残念ながら今の所相手にされてはいない。千冬としてもただの客をそんな恋愛感情で見るなんて事はしないだろうと。けれど、もとかにとって千冬はただの憧れでも何でもなく、本気で好きな人に変わりつつある。
一目惚れをしてから毎日もとかは千冬のいるペットショップへなんやかんや理由をつけて顔を出しては、素敵だの、格好いいだのと伝えている。あまりに伝えすぎていて、千冬もそれを毎度軽くあしらうようになってしまっているけれど、どれも全部嘘偽りのない真実である。
だからあんな風に自分以外の異性と楽しそうにしている姿を見ると、もとかの表情は分かりやすく曇ってしまう。
「顔に出過ぎだー」
ポカンと軽く頭をどつかれて苦笑い。千冬の憧れの相手場地が、もとかの隣でクッと八重歯を見せて笑った。長身の場地を見上げたもとかはムスっとした顔のまま「なんか、千冬さん、親切すぎませんか?」思ったことをそのまま口にした。
「いや当たり前だろ。客相手に不親切にできねぇよ」
「え、私は?」
「お前は千冬のストーカー」
「ストーカー!?…まぁ否めない感ありますけど。けどあの女の人、千冬さんのこと好きそう。好きじゃなくても格好いいって絶対思ってそう…やだなぁ」
唇を尖らせるもとかを見て場地はポコンと今度は髪を優しく撫でた。大きな場地の温かい手にキュンとしない事もないけれど、やっぱりもとかにとってはどうにもこうにも千冬だけなのだ。
「ありがとうございました、またお越しください」
ペコリとお辞儀をして客を見送った千冬が場地ともとかの所へ戻ってきた。ブスッ面のもとかを見て眉毛を下げた千冬に、「千冬さん、浮気しないでくださいね?」なんて冗談交じりなもとかの言葉。千冬は今度こそ思いっきり眉間にシワを寄せた。
「そもそも俺、もとかさんの彼氏じゃないんで」
「彼氏になってくれますか?」
「はぁ?なりませんよ、全く。用がないならさっさと帰ってくださいね。俺たち暇じゃないんで」
棚の整頓をしながらも千冬の後をついて回るもとかにぴしゃりと冷たい言葉を飛ばすけれど、それでももとかは千冬と話せる環境が嬉しくて堪らないんだ。それは、お気に入りのカフェを見つけた瞬間だとか、大好きなブランドの服を買った時だとか、そんな事と同じように、気持ちが晴れて清々しい気分になれるのであった。
だけれど――カランとまたお店のドアが開く音がして振り返ると、今程出て行った女の客が戻ってきて…
「あの松野さん!ご迷惑でなかったらライン教えて貰えませんか?」
「え?」
もとかが最も恐れていた事が目の前で繰り広げられている。千冬はキョトンとした顔でそちらに歩いて行ってしまう。勿論ながら、「行かないで!」なんて思っていても言えやしないし、言ったところで傍観している場地に笑われるのがオチであろう。
それでももとかの脚は千冬を追いかけたくて、もとかの手は千冬を引き止めたくて、もとかの声は千冬を行かせたくないと叫びたくて堪らない。
「えっと、あの」
「あ、違うんです。邪な意味じゃなくて、もしお店がお休みだった時に何かあったら相談できる人がいれば嬉しいってそれだけで…」
胸の前で大げさに手を振って困ったように真っ赤な顔で千冬に言い訳しているけれど、恋するもとかから見れば、彼女の心に隠れた下心なんて丸見えだった。図らずしもあの目は、千冬に恋をする瞳ではないとは言い切れない。
少し考えるように腰に手を当てていた千冬が、レジのあるカウンターまで移動すると引き出しの中から名刺を取り出してそれを彼女に渡した。
「名刺…私も欲しいな…」
思わず口をついで出た本音に、場地がもとかの耳元でこっそりと教えてくれたんだ。それでももとかの中の不安やモヤモヤが消えないのは、千冬が好きで好きで堪らないからなのだろうか…。
学生の頃は恋をしているだけで世界が薔薇色に色付いて見えてとても楽しかったイメージがある。今だって楽しくないわけじゃない。それなのに千冬の心を独占できないもどかしさに少しばかり胸が苦しいんだ。
「恋って、こんなに苦しかったっけ?」
小さく呟いた独り言が、当たり前に千冬に届くことなく消えていった。
◆
2月。カレンダーを見てもとかは小さく気合いを入れ直す。
来たる2月14日といえば、バレンタインデー。いつからこの風習ができたのかは定かではないが、もとかが物心ついた時から、バレンタインデーは、女から男にチョコを渡して告白するというイベント化されていた。その風習に乗っかって、もとかも千冬に本気で想いを伝えようと思っている。
今日はその下見も兼ねて千冬の働くお店にまた仕事帰りに顔を出した。千冬がチョコを好きかどうか聞こうと意気込んでカランとお店のドアを開ける。
「いらっしゃいま、――またアンタですか、もとかさん。今日は何の用ですか?」
相変わらず冷たい〜なんて苦笑いで千冬を見返したもとかは、店内の奥にある仔猫の顔を見に行くフリをして千冬に視線を送る。サラサラな黒髪のてっぺんがほんの少しクネりとうねっているのを見つけて口端が緩む。寝不足なのかキメ細かな色白の肌は少しばかり荒れていて、目の下にはほんのり隈ができている。
「千冬さん、ちゃんと寝てますか?」
「は?なんですか、急に」
「いえ、顔が疲れているみたいですし、隈もできています、」
スッと手を伸ばしてもとかは千冬の目の下に一瞬手を触れさせる。けれど次の瞬間、バッと顔を伏せる千冬。伸ばした手を振り解かれはしなかったものの、一歩後ろに下がる千冬にもとかはカァッと赤面させる。
「あ、す、すみません!ごめんなさい、手が勝手に!!千冬さん本当に疲れてるみたいで、心配で…」
恥ずかしくなって手を元の位置に戻すも、勝手に千冬に触れようとしてしまった事を後悔しつつあった。暴走しがちな恋心。止められない千冬への気持ちが、今みたいに無意識で行動に出てしまう。
「平気っすよ別に。ここんとこペケJの調子が悪くて寝ずに様子見てただけです、それだけ」
嫌われてしまわないかと俯いたもとかに聞こえた千冬の少し掠れた声にもとかは首がもげそうな程顔を上げて千冬を見た。
照れくさそうに視線を逸らす千冬は、ポリポリと寝癖混じりな髪を指でかきながら、「客に体調心配されるなんてカッコ悪いな、俺…」なんてボヤくもんだから、「格好いいです、千冬さんは!私が出逢った中で一番格好いいです!」そう口に出していた。
目を見開いて恥ずかしげもなくそんな言葉を口にするもとかの想いに、千冬はフッと鼻から空気が漏れた。
「全く、モノ好きッスね、もとかさん」
千冬から伸びてきた手が、この日初めてもとかの髪に触れた。クシャっとほんの数秒の出来事だったけれど、もとかの心はいっぱいいっぱいで、それでもバレンタインまで我慢と思い、千冬の小さな温もりに、ただ嬉しさだけが溢れていたんだ。
あぁやっぱりもとかは千冬が好きなのだと、改めて確認せざるを得なかった。
迎えた2月14日。
聖バレンタインデー。一年に一度、女から男にチョコを渡して告白をする日。定時で仕事を終え色々準備してと脳内で決めたいたのにも関わらず、今日に限って定時間際に急ぎの仕事が入り込んで来た。時間通りに帰ってゆく派遣に押し付けるわけにもいかず、もとかは時計とにらめっこしながらもPC画面をひたすら見つめていた。どの道閉店時間に間に合うように行くつもりではあったものの、時間に余裕がないと、心にも焦りが出てしまうような気がして、一分一秒でも早く仕事を切り上げようと集中していたせいか、思ったより時間はかからなかった。それでも今から千冬のいるお店に行くとなると、夕飯を食す時間はない。本当は珈琲でも飲んで落ち着いてからと思っていたけれど、そこはもう致し方ない、予定変更、プランB!そんな事を脳内で思い浮かべながらも、千冬の店の前についたもとかは、閉店時間まで後少しの時間を一人胸を踊らせながら待っていた。
人だかりの少ない店舗前、漆黒の空の下、月明かりが眩しい事とネオンが輝くここらでは星はあまり見えない。それでも今夜は七夕とは違い、雲はなく青白い星がポツポツと空に浮かんで見えた。
街灯の下にあるベンチに座ってそんな星空を眺めていると、カランとドアが開く音が聞こえて、途端にもとかの胸は爆音を鳴らす。
いつもいつも千冬には想いを隠すことなく伝えてきた。それでも「好き」という言葉を口に出した事は一度もなく、だから千冬も本気にとらずに軽くあしらっていたのかもしれない。それでも千冬に伝わっていて欲しいと願う…もとかが本気で千冬のことが好きだと。
「場地さんマジ凄いっすね」
「あ?千冬のは本命ばっか。俺のはどーせついでの義理だろ」
そんな会話をしながら千冬と場地がペットショップから出てきた。千冬の手には紙袋いっぱいに入っているチョコの贈り物。そんなに!?そう驚くくらい沢山のチョコが入った袋を抱えていて、それを見た瞬間もとかの心臓がドクンと脈打った。途端に怖くなる。あんなに沢山貰って、自分のチョコもあの中に入ってしまうのかと。その他大勢と一緒になってしまうと思うと脚が竦んで動けずにいる。
鍵を締めてくるりと反転した千冬の視界に街灯の下、不安顔のもとかが目にとまった。
「もとか、さん?」
「あ、」
目が合ってしまう、千冬と。もとかの方に一歩近づく千冬に、ハッとして慌ててくるりと向きを変えるとそのまま逃げるように歩き出す。
無理だと思ってしまった心はとてもじゃないが変えられそうもない。あんなに沢山の本命チョコを持った千冬に、もとかの本命チョコが勝てるのか…一瞬で自信が無くなった。日々伝えてきた言葉に嘘はないけれど、今日まで何の進展もなかった千冬との関係が、今日で変わるとはとてもじゃないけど思えず、チョコを持つ手が震える。落ちないようにと胸にギュッと抱きしめるもとかの肩を、不意に千冬の両手が止めた。
止まりたくない、逃げ出したいと心のなかでは叫びたいくらいなのに、千冬の触れたそこは熱くて、触れた肩からもとかの緊張が千冬に伝わってしまうかもしれないなんて。
「俺に用事、あるんですよね?」
核心をつく千冬の言葉にブンブンと首を横に振る。一度怖気づいた心は直ぐには元通りになどなれやしない。いつもは煩いくらい千冬に格好いいと伝えている口も、喉の奥から震えが止まらない。
「ありません…本当に」
そう口にするのが精一杯だった。
それなのに…
「嘘だ。もとかさんは俺を待っててくれた。そうでしょう?だって今日はバレンタインですよ…」
ゆっくりと千冬の手によって向きを変えられるもとか。漸く千冬と向かい合う形で視線を絡ませた。その表情からは千冬の気持ちなんて読めやしない。どうして今日に限ってもとかを追いかけるのが千冬なのだろう。これではいつもと反対である。それに今日は一般的には女から男に告白する日であって、千冬に呼び止められた事でもとかの脳内には、怖いと思う反面、何かふわふわとした期待が生まれてしまいそうだった。それを振り切るように首を振って千冬を見つめるも、見つめ返された瞳は驚く程優しくて、その瞳の奥はほんのり揺らめいて見えた。
ドクンと心拍数があがる。ドキドキと胸が爆音を立てていて、やっぱり目の前の千冬にもとかの心音が聞こえてしまうのではないかと思える程であった。
「でも千冬さん、チョコいっぱいで…」
視線を落とせば千冬は紙袋を地面にそっと置いた。それからふぅ〜っと溜息を漏らすと、ストレートな黒髪に指を入れてワシャワシャと掻きむしる。
なにごと!?と、それをただ見ていると、もう一度千冬が大きく息を吐き出した。
「場地さん目当てのついでに決まってるじゃないスか、こんなの全部」
先程聞いた二人の会話と少し違っていた。さっきは確か、千冬が本命で場地がついでの義理だと話していたはず。
「嘘です。さっき反対に言ってました。千冬さんが本命で場地さんが義理だって…」
言葉が続かなくて。これ以上言葉を繋げると泣いてしまいそうだ。喉の奥からこみ上げる嗚咽をグッと飲み込む。目頭が熱くて、視界がボヤケてしまいそうで、もとかは千冬から顔ごと逸らした。
「関係ないッス…そんなの。俺にはどーでもいいんです」
「え?」
「もとかさんは、くれないんスか?俺に…」
そんな言葉の後、ふわりともとかの肩に千冬のオデコが落ちてきた。この状況に脳がついていかなくて、それでももとかの手は千冬の腕にぎゅっと掴まる。それが自然の原理とでも言うように。
怖気づいていた心が、千冬の温もり一つで解けてゆくようだった。今の今までチクリと針を刺されたように痛かった胸の奥が、ポゥっと熱くなっていくのを感じた。
「あります、あるに決まってるじゃないですか!当たり前です、だって今日はバレンタイン!一年に一度と女子から告白していい日ですよ」
「そうっスね…それで、もとかさんは俺に言うことあるんスよね?」
なんだろうか。もとかの心を楽しんでいるような千冬の誘導がちょっと癪に思えてきた。それでももとかの心はどうしようもないくらい、千冬一択だけだ。
千冬の胸を押してほんのり距離を作る。ふぅ〜と小さく深呼吸をして息を吸い込んで真っ直ぐに千冬を見つめ上げる。
「好きです、もとかさんが」
言葉にしたのはもとかではなく、千冬の方だった。正にもとかが言葉にしようとしたものが千冬の声で、千冬の言葉で、千冬の声でもとかの胸に届く。
そんなことってあるだろうか、止まりかけていた涙が蘇ってくるかのよう、もとかの視界が歪む。でもこれはさっきまでの苦しい涙ではなく、幸せいっぱいな嬉し涙だ。
「ほん、と?」
ポロリと一粒頬を滑る涙に、千冬の指がそれを優しく拭う。
「つーかもとかさん狡いッスよ。あんなに毎日俺に逢いに来てくれてたのに、今日に限って来ねぇとか…。格好いいも、素敵も嬉しいけど、ずっと好きって聞きたかったんスよ俺…」
「ゔぅ、千冬さぁん…泣きそうです」
「もう泣いてますけど、たく。ほんっと可愛いなぁ、もとかさん」
コツンと千冬のオデコがもとかのオデコに重なる。分かってしまう、長年の経験から。
…これはキスの合図だと。
もとかの肩に手を乗せて頬を指で擦る千冬が真剣な顔で見つめてくるから、寸前で目を閉じると外の冷気で冷たくなった唇に、千冬の熱い吐息がかかる。
「ンッ」
漏れた声が最早どちらのものなのかも分からない。だけれど、それはきっともとかの声で、千冬の腕がもとかを思いっきり抱きしめた。
「待った、唇めっちゃ冷てぇっ、何時間外で待ってたんスか?」
「え、そんなでもないですよ」
「たく〜。仕方ねぇ俺が温めてやりますよ」
ニヤリと口端を緩めた千冬は、寒空の下もとかを自分の腕の中に閉じ込めると徐ろに唇を重ねる。ちゅっと甘ったるいリップ音を鳴らして、冷えた唇を温めるように何度も角度を変えて唇を濡らす。
最初は冷たいと感じたもとかの唇も、徐々に体温を増して千冬の舌を受け入れると口内で滑らかに絡ませていく。キスの合間に漏れる白い息がロマンチックに二人を温めてゆく。
いくら人気がないとはいえ、ここは外だ。離れないと…キスを止めないと…そう思うのに名残惜しく離れた唇はまた吸い寄せられるように重なり続ける。
「…ちょっとこれ以上はヤバいッス…マジで」
ギュッともとかを抱きしめて耳元で呟く千冬に、もとかもコクリと頷いた。まだキスの余韻が残っていて、むしろ恥ずかしくて千冬の顔を見ることができなさそうだ。
「そういえば千冬さん。この前ライン聞かれたあの女の人からもチョコ貰っちゃいましたか?」
ふと気になって聞いてみた。千冬は一瞬視線を泳がせたものの、あー…と怠そうな声を零す。
「貰いましたけど、ちゃんと断りましたよ。好きな女いるからって」
あの時もとかに教えた場地の言葉、それは…
「あの日渡した名刺に書いてあったのは、お店用のスマホのラインIDだって、場地さんが教えてくれたんですけど、それでも私…ヤキモキしてました」
「なんだ、そこまで分かってたのに、俺の気持ちは分からなかったんスね、もとかさん」
「分からないです、千冬さんモテそうだし、何より好きになったのは私の方ですから」
もとかからの告白に、千冬の頬も締まりなく緩んだ。好きになったのはもとかの方。それでも毎日自分に逢いに来てくれる人がいるなんて、千冬の人生で初めてで。最初は信じていなかった言葉も、いつしか待つようになっていたのだろう。
いつどこに、恋のつぼみが落ちているのかなんて誰にも分からないけれど、その花を見逃すことなく咲かせられたなら、未来は幸せだと信じたい。
「千冬さん、大好きです」
ふわりと抱きつくもとかを、今夜は帰すまいと家に持ち帰る気満々の千冬が嬉しそうに笑った。
―――――完。
