いち
「ないはずのものがあるって、こわいことだよね」
池袋から帰ってきた臨也をおかえり!と元気よく玄関で迎えると、臨也はそう言ってため息を吐いた。私は言葉の意味を理解しようと頭を働かせて、自分の中で導き出した答えを口にする。
「えっと…たとえば、臨也も波江さんも私も髪の色は黒なのに金髪の髪の毛が落ちてたりとか?」
「たとえば、君のことだよ」
直前に淹れておいたコーヒーを当然のようにカップに注ぎながら、臨也はデスクへ向かう。その間も私の頭の中は忙しなく動いていて、うーんと首を傾げた。
「君のそれはわざとなの?言っておくけど君がやってることは立派な犯罪だよ」
「私はただ臨也を待ってただけだよ?」
「留守中の事務所にピッキングして入るなんて不法侵入以外の何物でもないし、そもそもここのセキュリティーは割としっかりしてるはずなんだけど」
そう言われたって、ドアが開いたんだもの。それに私以外にも張間さんが入ってるよ、なんてことは師匠なだけに言えないし言わない。きょとんとしている私にもう一度ため息を吐く姿を眺めていたらパソコンの立ち上がる音がした。チャットルームを覗くのか、ダラーズの掲示板を覗くのか、はたまた情報屋の仕事をするのか。パスワードを入力した後、そばにある書類を眺めながら画面が切り替わるのを待っているところを見ると情報屋の方らしい。カチカチとマウスの音が響く中階段を上がって、ファイルを手に取る。デスクの端に置いてからソファへ腰掛けると臨也が顔を上げた。
「君の情報網はどこからどこまであるんだい?」
「えへへ、秘密!」
「まるで監視カメラと盗聴器をつけられてるみたいだ」
「臨也のことなら何でも分かるよ!」
いつものカップに私もコーヒーを注いで、今日の味も完璧だと自画自賛。しばらくパソコンと向き合っていた臨也だが、背もたれにもたれかかって伸びをしているからひと段落ついたのだろう。
「臨也はないはずのものがあるのはこわいことだって言ったけど、それって逆もだよね」
「あるはずのものがないのは、こわいことかい?」
「こわいことだよ。そうだなあ…たとえば、臨也が大事にしてる首がなくなるとか」
「残念だけど、突然首がなくなったとしても俺は恐怖を感じないと思うよ」
「うーん、あとは…そうだ、私がいなくなるとか!」
自分を指差して笑うと、臨也は少しだけ考える素振りを見せた。私は臨也がいなくなるのがとてもこわい。こうして毎日のように顔を出していても、鍵を開けてドアを開けた先に何もなかったらどうしようといつも不安だ。臨也が何も言わずに自分の意思でここを出たとしたら、きっと私は臨也と二度と会うことはないだろう。見つけきれないのかって?それは違う。私は臨也が地球上のどこにいたって見つけることができる。これは自信だとか曖昧なものじゃなく、事実としてとらえてほしい。そう、会えないのではない。会わないのだ。
「たしかに、名前が急にいなくなるのはこわいね」
地球が終わるのかと錯覚しそうになるかもしれない。
余計な一言を付け加えて、臨也は笑う。だけど私にはそれで十分だった。私にとって臨也が、あるはずのものがなくて恐怖を感じる対象であるように臨也もそうなのだと。
世の中で一番こわいものは当たり前と日常である。私が淹れたコーヒーも、私だけのマグカップも、私が資料を触れるのも、私がここにいることも、私が臨也の全てを知っていることも。本人も知らないうちに日常と化してしまった私という存在は、じわじわとこの空間を、臨也を侵食していく。臨也は私の日常になり、私も臨也の日常になる。そうすればきっと。
「ねえ臨也、夜ご飯何がいい?」
「そうだねえ…ハンバーグがいいな」
ここを離れる時も、どんな時も、私を離さないでいてくれると安心できるのだ。
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