いち
私には、ある悩み事がある。
「伊地知、マジビンタね」
「マジビンタ!?」
「……相手をするだけ無駄ですよ、伊地知くん」
「ナナミンひどーい」
「その呼び方やめてもらえますか。あなたに呼ばれると気持ちが悪い」
「七海、もっと言ってやれ」
「硝子ひどい」
伊地知くんに用があり、居場所を聞いてやって来るとそこには五条先輩と七海先輩、硝子先輩がいた。まるでコントのようなやりとりをぼんやりと眺めていると五条先輩と目が合う。目が合うと言ってもアイマスク越しに、だが。
「名前、どーしたの?」
名前を呼ばれてどきりとする。そのまま近づいてきた五条先輩は、目の前まで来るとずいっと顔を近づけた。
「伊地知くんに用があって」
平静を装って返事をするが、心の中はざわざわしている。相変わらず綺麗な髪だなとか、肌が綺麗だなとか。むくむくと湧き上がる感情をおさえつけて、目に映るものに集中した。五条先輩はとんでもなく綺麗な顔をしている。残念ながら今はアイマスクで見えないが、それでも滲み出るイケメンオーラは相変わらずだと思った。高専の頃はサングラスをしていて、性格も今とは全く違っていたから近寄り難い雰囲気があったしお前弱すぎと嫌そうな顔をされた記憶もある。そんな五条先輩が教師をして、しかもいつもニコニコして悪ふざけをするのだから人生何が起こるか本当に分からないものだなと思った。この間なんか釘崎さんのスカートを履いていて、人生何が起こるか本当に分からないものだなと思った。
「元気ないけど何かあった?困ってることがあるなら僕が聞くよ」
「ありがとうございます。元気なので大丈夫ですよ、五条先輩」
「ほんとに?あ、これあげる。さっき買ってきたんだけどさ、おいしかったんだよね」
そっと手を取られて、お菓子を渡される。そのまま優しく頭に手を置いて五条先輩は去っていった。ぎゅう、とお菓子を握りしめて振り向くが五条先輩はこちらに背を向けてふらふらと歩いているだけ。
「……私、五条先輩に嫌われてるんでしょうか」
「今の流れでそれか?」
そう、私の悩み事は五条先輩である。
「だって、明らかに態度が違いますよ。みなさんには軽口叩いて冗談も言って…私とは当たり障りのない普通の会話しかしてくれません」
「あれが当たり障りのない普通の会話なんですか」
「七海さんだって、この前山手線ゲームしてましたよね」
「してません。あの人が一人でやっていただけです」
「それでもいいじゃないですか。私の前では絶対やってくれませんよ」
「突然ハイテンションで山手線ゲームを始める人の何がいいんですか」
「重症だな、名前」
硝子さんにため息を吐かれ、つられて私も重いため息を吐く。五条先輩に特別好かれたいわけではないがさすがにこうも距離を取られると傷つきもするだろう。
「距離を取られるって…さっきから何言ってるんですか貴方」
「五条先輩と仲良しの七海さんには私の気持ちなんて分からないですよね…」
「私から見れば名字さんも充分仲良しに見えるのですが…?」
「伊地知くんマジビンタね」
「マジビンタ!?」
仲良し、という言葉にピクリと反応して嫌そうな顔をした七海先輩だが見離さずに話を聞いてくれるあたり律儀な人だなと思う。八つ当たりされた伊地知くんは本当に不憫な人だなと思うし、硝子先輩は適当に話を聞いてくれるからそれがちょうどいい。五条先輩は、昔から私に当たりが強かった。優しい言葉なんてかけられたこともないし鍛錬中に投げ飛ばされたこともある。校内で会おうものなら何かと絡まれていた。しかし高専を卒業して補助監督となった今では口調が柔らかくなり、優しい言葉ばかりかけられる。私を投げ飛ばしていた手は、頭の上に乗るかお菓子をくれるか手を振るかのどれかになっていた。
「今でも弱い人が嫌いだってことですかね?私、散々暴言吐かれてましたし」
「あれはひどかったな」
「嫌いなら関わらなければいいのに、構ってくるからこんなに悩まなきゃいけないんですよ」
「なんだ、飲みに行くか?」
「行きましょう。もちろん七海さんと伊地知くんもですよ」
呆れた顔をした七海先輩と、マジビンタの言葉が残っているのか少しだけ顔を青くしながら頷く伊地知くん。ここでノーと言わないのが二人の優しいところだ。私の愚痴に付き合ってくれる先輩と同期。持つべきものは友である。無事全員定時で上がり、居酒屋について目の前にビールが出された瞬間カチリとスイッチが切れた。
「……名前、飲みすぎ」
頭の中がふわふわして、硝子先輩の肩に寄りかかりほっぺたをくっつける。硝子先輩はといえばもう片方の手で平然とお酒を飲んでいた。
「言っておきますが介抱はしませんよ」
「私もそれだけは…殺されます」
「殺されるって誰にですか…大体、ぜんぶぜんぶ五条先輩のせいなんですから文句は五条先輩に言ってくださいー」
「僕が何だって?」
ヒッ!と伊地知くんの短い悲鳴が上がる。五条先輩の声が聞こえるなんて相当酔っているのかなと顔を上げるとそこには本当に五条先輩がいた。それでもぼんやりとしている頭は、この状況を正しく理解することができない。
「ああ、やっと来たな五条」
「五条先輩、なにしてるんですか?」
「んー?名前のこと迎えに来たの」
「お迎え?」
「うん、お迎え」
そうなんですか、なんて世間話をするかのように頷くと五条先輩が手を差し出す。何の疑問も持たずにそのまま手を伸ばすと腕を引かれて優しく手を握られた。とても大きくて、あたたかい手だった。
三人に別れを告げてお店を出ると、ひやりとした風が吹き抜けて肩をすくめる。繋がれた手だけが熱を持ったようにあたたかかった。
「五条先輩」
何だか夢を見ているような心地よさに、自然と笑みが溢れる。なあに、と振り向いた五条先輩も笑っていて心まであたたかくなった気がした。夢の中なら聞けるかも、と私は五条先輩に問う。
「五条先輩は、私のことが嫌いですか」
綺麗な瞳が大きく見開かれて、そして。
*
「少々強引だったのでは?」
「あの二人にはあれくらいがちょうどいいだろ」
五条と名前が去った後も、七海と伊地知、硝子の三人は酒を酌み交わしていた。話題に上がるのはもちろん先程の二人のことだ。
「五条さんは何でもできる人だと思っていたので、なんというか…意外です」
「不器用にも程があるだろう。好きな子を虐めるなんて今時の小学生でもやらないよ」
「大人になってその分を取り返そうと必死ですね、あの人」
「しかし実際のところ、名字さんはどうなんでしょうか…」
「どうって、好意のありなしを聞いてるのか?」
頷く伊地知に、硝子と七海は顔を見合わせてぐいっとグラスに残っていたお酒を飲み干した。空になったグラスをほぼ同時にテーブルに置くと声を揃えて言う。
「あれは惚れてるでしょう」
「あれは惚れてるだろう」
名字さんに幸あれ。
そう願った伊地知は翌日、やけに機嫌のいい五条から昨日はありがとうだなんてお礼を言われ、五条を見た途端顔を真っ赤にして逃げ出す同期の姿を見ることとなるのだが。
そんなことなど知る由もなく、二人に倣って酒を煽るのだった。
20220326
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