いち
状況は最悪だった。
張り詰めた空気と、恐怖で震える吐息、声を押し殺して泣く声、鼻を啜る音、エトセトラ。
離れた場所には血塗れで横たわっている人がいて、そばには男が立っていた。この事件の犯人である男の手に握られているのは、刃物。これだけ見るとよくある立てこもり事件であり、私からすれば大した問題ではない。問題はもう片方の手にあるリモコンだった。どうやら爆弾のリモコンらしく、仕掛けられている爆弾も複数。そして他にも仲間がいるようだ。となると他の仲間がいる場所でもそれぞれ私たちと同じように室内に閉じ込めて人質をとっているのだろう。冷静に状況を把握して、せっかくの休日が台無しだ、なんて他人事のように考える私の隣には眼鏡をかけた小学生くらいの男の子がいた。
「クソッ、どうすれば…」
そして驚くことに、少年はこの状況をどうにかしようとしているらしい。犯人を睨みつけながら部屋の至る所に視線を彷徨わせている姿は本来の小学生とはあまりにもかけ離れている。無意識なのか、ぶつぶつとああでもないこうでもないと呟く少年を軽く小突いた。
「少年。"今すぐ全員助ける方法"は捨てなさい」
「!?何言って、」
「考えてる間に全員死ぬよ」
そんなこと分かってる、と今にも叫び出しそうな少年の口を塞いでため息を吐く。何も命を諦めろとは言っていない。
「判断が遅い…って、君みたいな子供に求めるものじゃないか」
「……お姉さん、何者?」
「通りすがりのFBIだよ」
途端に表情を変えたところを見ると、FBIが何なのか分かっているらしい。それに加えて何か策があるの?と協力的な姿勢を見せる彼はやはりただの少年ではないようだ。なかなか頭もキレるようだしこれは協力してもらう他ない。
「少年。人を助ける時はまず先に優先順位をつけるんだよ」
命が脅かされているという点では人質全員に言えることだが、立場や状況はそれぞれ違う。たとえ全員同時に助ける方法を思いついたとして、一発目でイレギュラーが起きれば計画は振り出しに戻るのだ。時間のロスでしかない。
「まずは目の前の命。OK?」
不安気に、しかし大きく頷いた少年の頭を優しく叩いて動き出した。
*
「キャメル、後は任せた」
「はい!」
無事事件は解決し、警察と消防の目をくぐり抜けた私は同僚であるキャメルと合流した。休日に災難でしたね、と労ってくれるキャメルに全くだよと頷いて事件の詳細を伝える。国際テロ組織のメンバーによる犯行だったこの事件、あとは優秀な仲間が片付けてくれるだろう。
「お姉さん!」
「少年。さっきはありがとう」
キャメルと別れ、残り少ない休日を満喫しようと歩き出したところで呼び止められる。振り向くと、少年とその隣に眼鏡をかけた茶髪の男性がいた。親子というにはあまりに歳が近いように見え、兄弟というにはだいぶ歳が離れているように思う。
「お姉さんのおかげで助かったよ!ありがとう!」
「私からもお礼を言わせてください。この子を守ってくれてありがとうございました」
「とんでもない。それじゃあまたね、少年」
「待って!僕の名前、江戸川コナンっていうんだ!」
「……少年。もしかしてナンパ?」
「え!?ち、ちが…!」
「残念だけど私には恋人がいるんだ。ごめんね少年」
「だからちげーって!」
あと名前!と突っかかってくる今の少年ーーコナンくんの姿は、とても子供らしい。冗談だよと思わず笑うと、コナンくんの隣にいた青年が左手を差し出した。
「私は冲矢昴といいます。コナンくんに便乗しても?」
「残念。年下は恋愛対象外なの」
ああ、嫌なことを思い出してしまった。左利きの人なんて世の中にいくらでもいるというのに、なぜ今思い出してしまうのか。しかも彼とは似ても似つかないような男の前で。
「それに、さっきも言ったけど恋人いるから。それじゃあコナンくん、あんまり無茶したらダメだよ」
わしゃわしゃと頭を撫でれば、名前教えてよと小さな手が私の腕を掴む。さすがにこのまま流されてくれるわけないか。
「名字名前だよ」
そして今度こそ別れを告げる。が、二人の間を通り抜ける瞬間ふわりと香った匂いにハッとした。香水の人工的な匂いではなく、その奥にあるよく知った匂いに。
「どうかされました?」
しかし目の前にあるのは、私がよく知る顔ではない。声も違えば口調も違う。服装も、髪型も。それらはまるで全て"違う"と主張するために作り上げられているかのようだった。
「いえ、なんでも」
一気に現実に引き戻され、頭を振る。落ち着かせるには少し時間が必要なようだ。少しだけ視界が歪んだのには気づかないふりをしてもう一度振り向くと、話をしている二人が見える。
「……は?」
それは一瞬のことだった。
ばちりと目が合って、ゆるりと上がった口角。途端に先ほどまであれだけ違うと否定していた脳内がクリアになり、ある結論に辿りつく。
「……沖矢、昴」
赤井秀一。私の記憶の中にある名前だって、全く違うというのに。確証はないが確信に似たものが生まれた瞬間一気に身体が軽くなった気がした。それと同時に湧き上がった感情はーー
「もし知らないのが私だけだったら許さないんだから」
休日を満喫しようとしていた私はどこへやら。気づけばそのまま職場へと向かっていた。それまで余裕の笑みを浮かべていた彼が途端に身震いをしていたというのは後日コナンくんに聞いたことで、そしてもちろん私がこのまま彼とハッピーエンド、なんて呆気ない結末を迎えるわけもなく遠い遠い道のりを歩むことになるのはコナンくんのよく知るところである。
20220327
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