*様々な捏造を含みます



 細く、けれど滔々と続いていた声が「あ」と途切れた。日誌を持つ五虎退の目に困惑の色が浮かぶ。彼の連れている虎のうちの一匹が、私の指を弄び噛んでいた。何よりも先に口からついて出たような「すみません」を幾度も幾度も繰り返しては、虎を諌めようとする五虎退に、構わないから続けてと促した。
「え、えっと。昨日と比べて玉鋼が八百八十、冷却材が七百六十減って、木炭が七百と砥石が六百増えました」
「そう。報告ありがとうございます」
「その、確認、お願いします。…だ、だめだよ。こっちにおいで」
 虎と交換するように日誌を受け取る。終日の翠雨で屋外での鍛錬は中止。遠征部隊も出発を見合わせ、稽古場は混雑し、衣類の洗濯を担当した新撰組の刀達は頭を抱え、それを見つけた五虎退と秋田藤四郎は晴天のお呪いの人形をつくった、と。一期一振がそれを縁側に結びつけ、三日月宗近と鶯丸が人形の出来を大層褒めたこと。そのとき雨の中にも関わらず長谷部が畑仕事をしているのを見つけたこと。夕餉には歌仙兼定の美味しい茶碗蒸しが出たこと。小さい字が呼吸をするように、たくさんのことが書いてある。
「ご苦労様でした。たくさん書いて疲れませんでしたか」
「い、いいえ。楽しかったです。また近侍の任、お命じください」
「はい。…あ、五虎退。ここの日付だけ、」
「す、すみません。すみません」
 空白を指さすと五虎退はまた謝った。文具を手渡す。「え、えっと、今日は水無月の、」「十六の日」。答えると、その文字が瑞々しい黒で書かれる。顔を上げた五虎退が何かを乞う顔をした。少し考えて、彼の頭を撫でる。そのふわふわした白銀の髪よりはすこし控えめに、けれど幸福そうに彼の表情が綻んだのを見て、私は正解を確信して胸を撫で下ろす。
「それでは五虎退、下がっていいですよ」
「は、はい。あ、明日の近侍はどなたですか…? 日誌、渡さないと…」
「…明日は長谷部の日です」
「あ…。そっか…、もう、また、一週間が経つんですね」
「ええ。長谷部には私から渡しておきますから、五虎退はお休みなさい。きっと一期一振たちが部屋で待っているのでしょう?」
「はい。え、えと、それじゃああるじさま、おやすみなさい」
「ええ。おやすみなさい」
 丁寧に下がっていった五虎退と、それを追いかけていく虎たちの足音が外の雨音に紛れて遠ざかっていくのをしばらく聞いていた。そのうちに鼻先を掠めた鉄の匂いで、指の出血に気づく。甘噛みと考えていたよりも強かに噛まれていたらしい。五虎退が気づかなくて良かったなどと考えながら、傷口を小盥の水に晒した。

「 主 」

 急に降ってきた声に背筋がぞくりと戦慄いたのが分かった。恐怖に近しい、けれど恐怖ではないなにか。その言葉は呪縛のようだった。小盥の水に溶け、歯牙の傷口からじくじくと入り込んでくる―。解術の手段を持たない愚かな私は、唯一知る取り繕い方のように、その声の持ち主を乾いた喉で呼ぶ。
「…は、せべ」
「手巾ならここに」
「ありがとうございます」
 気がつけば、私の体はすっかり長谷部がつくった陰の中にあった。どれほど厳密に言えどあと二刻半ほど、あなたの出番には早いのでは、というようなことを辛うじて言うと、「そうですね。けれど五虎退が下がったのを見かけたので」と返ってくる。彼はいつも肯定を欠かさない。そして大事なことを暈す。五虎退が下がったのを見たところで、明日の近侍である長谷部がやってくる必要など、私と長谷部の間のどこを探してもありはしないことをよく知っている。
「…いつも言っているでしょう。近侍は朝からで良いし、長谷部にはこうして頻繁に近侍をお願いしているのだから余計、近侍を務めていない間はあなたの為すべきことに時間を使ってほしいと」
「俺の為すべきことは主のお傍にこそあります。と、それこそ何度もお伝えしていると思うのですが」
「……」
「詮無い鼬ごっこはそろそろ終わりにしましょう、主。日誌を拝見しても?」
 言葉を探しているうちに、長谷部は軽やかに次の目的地へと駆ける。したり顔で振り向き、うまく追いつけない私の喉元に蹲る是を彼方から見透かされている、ような気がするのは考えすぎだろうか。
 長谷部はすこしの微笑みを浮かべてみせてから、日誌を繰った。燭台切、加州、薬研、山伏、石切丸、五虎退…。呟かれる名は直近の近侍のもの。そうすれば彼が近侍でなかった時間を把握しきれるとでも言いたげに澱みない。
 へし切長谷部という刀、というより刀剣男士は、今代の主たる審神者にとりわけかたく根をはる向きがあるようだ、というのが、政府をはじめ審神者たちの中での見解であるらしい。目の前にいる長谷部も、どこかの本丸のへし切長谷部も、前に倣うように。果たして、その認識の正否は分からない。少なくとも私には分からない。
 近侍としてそばにいたがるのは『へし切長谷部』の性質に依るものなのか、それとも私という個人に対して長谷部が出した決断なのか。そして私は彼から向けられる忠義を徒なるものと切って捨ててしまいたいのか、…或いはその真逆か。
 私は、長谷部を好ましく思っている。
「直近の近侍たちは比較的真面目だったようですね」
「皆立派に任を果たしてくれていますよ。ありがたいことです」
「そうでしょうか。俺からすると、平時は不真面目な奴らも大勢いますよ」
「向き不向きがありますから。そういえば長谷部は、今日は雨の中畑仕事をしていたそうですね。ご苦労様でした」
「五虎退が書いていましたね。ですがそのようなこと、主に労っていただくようなほどの事ではありません。当然のことです。それに、」
 続けた言葉の後、長谷部が押し黙った。予感がして、私は長谷部の方を見た。長谷部の両の眼は今や日誌にはあらず、一心に今代の主たる私を見つめている。
「…話してくださったでしょう。雨の中で生きることの美しさを」
「…ええ、そうですね。まさか実践するだなんて思いもしませんでしたけれど」
「主、恐れながら…。このあと、いつもの話をしてくださいますか」
「…長谷部は本当にあれが好きですね」
「主の話を聞きながら作業すると、雑務がたちまち終わるのですよ」
 彼の両眼から逃れようともしないまま、私は承諾の返事をした。彼がいったい何を考えているのか、やはり分からない。分からないと反芻する頭のすぐ裏には、矮小な私を詰る声がしている。
 分からないのではないだろう。分かりたくないのだろう。もし分かってしまうことができたときには、などという思いあがったたらればを腹の内に飼っているくせに、なぜ可愛らしく非力そうに纏まった体裁を取ることができるのだろう。
 甲斐甲斐しい長谷部は、私の話を聞きながら雑事を片付けるための段取りをつけている。長谷部から借りた手巾の皺を広げれば、私の赤色が毒々しくそれを汚しているのである。





 四つ折りにした大量の紙片を目前にしながら、不思議な奴だと山姥切国広は考えていた。「…次。葉月 三の日」。「次郎太刀」。彼女が読み上げた通りの名前を表に書き入れる。最後のはらいを待って、次の籤に書かれた名前が読み上げられた。「次は、前田藤四郎」。清廉な声。歪みも味もない、その透明さだけが取り柄の清廉な声だ。
「…なあ」
「どうしました、山姥切国広。休憩にしましょうか」
 返事をする前に散らばっていた籤を隅に片付けられたので、山姥切国広はそれに甘んじることにした。文机を挟んで相対する審神者は相変わらず無害な顔をしている。煎れられた茶が一客分であることにはもう慣れた。曲がりなりにも初期刀として、この不思議な奴と付き合ってきたのだから。
「…口に合いましたか」
「ああ」
「それは、良かった。山姥切国広と話すのも久しいような気がしますね。ひと月半ほどになるのかしら」
「他も増えたからな。気になるならたまには室から出てくれば良いだろう」
「ふふ。…世間様を知らない私と、そんな私に選ばれてしまった気の毒な山姥切国広と…。今日があるのはすべてあなたの尽力の結果と言っても違いないでしょう。感謝していますよ」
「…たいしたことはしていない」
「私、暦も知らなかった」
「今でも睦月と水無月があやふやだろう」
「そのようなことを知っているのはあなたくらいですよ。…本当に、感謝しています」
「…そうか」
 山姥切国広は、この不思議な審神者のことを嫌いではなかった。他の山姥切国広が抱えているという自らの立ち位置に対する葛藤というものも、自分の中では比較的薄いような気がする。この審神者は今まで人間が歩んできた歴史というものにとんと疎かった。軽視するわけではなく、その系譜とは全く異なるところから、ぽんと弾き出されてやってきたような…。兎に角この審神者には、その歴史に連なる真作とは、写しとは、などといったことを論じようとも、まるで意味が無いのだった。
「…毎度思うんだが」
「はい、なんでしょう」
 すでに役目を終えた分の籤が審神者の手によって小箱に納まっていく。
「長谷部を週に一度近侍に命じて、それ以外の日の近侍を日替わりで決めるくらいなら、いっそのこと長谷部をずっと近侍にすればいいだろう」
「そうですね」
「毎回こうして表を作り、籤をひくのも手間がかかる」
「それは、もっともですね」
「…検討の余地がないなら無理に返事しなくても良い」
 同調する言葉を吐くくせに、その足元はすこしも揺らいでいないのを隠そうともしない。彼女は批判めいた進言すら穏やかに流してみせた。桐の小箱に丁寧にしまわれる籤は次回があることを何よりも雄弁に物語っている。
 茶を啜りながら、山姥切国広はまた「不思議な奴だ」とぼうと考えた。彼女の選択を、何も考えずに受け入れることは容易だが、いざそれを真髄まで理解しているかと問われれば頷くことはできないだろう、とも。いったいどこでそのような問いと遭遇するのかはさっぱりわからなかったが、それは事実だと茶と共に飲み下した。
 空になった器にまたぽととと茶が煎れられる。上辺に舞った茶葉が沈澱してしまうのに十分な時間の無言のあと、審神者が口をひらいた。
「…たとえば、山姥切国広は覚えているでしょう。はじめの頃、私は皆の名を政府から通達されたもので呼ぶことにしていました。ながい時の中で他にも慣れた名があるとは知っていましたけれど、その選択に恣意が介入するのはあまり良いことではないと考えたので」
「あんたの融通の利かなさは筋金入りだからな」
「…転機はへし切長谷部でした。あれは長谷部と呼ばれたがって…。諾した後に、今まで守ってきた公平を自ら欠いたことに気づいて愕然としたものです」
「でもそれからすぐに政府の通達とは異なる名で呼ばれたい奴は申告するようにしただろう。燭台切なんか喜び勇んであんたのところに行ったのを覚えてるぞ」
「そんなこともありましたね。けれど、私はいつまでも、そのことが引っかかっているのですよ。私のこころの澱みには、長谷部へのやましさのようなものが…」
 審神者の目は朔の日の夜闇のような黒をしていた。眺めるだけの山姥切国広は、こういうのを綺麗と言うのだろうと無責任なことを考えていた。そのような両目では光を映すことなどできないだろう。
「…粟田口の刀らを慈しまぬ一期一振がおりましょうか。和泉守兼定を憎悪のみの瞳で追いかける堀川国広がおりましょうか。
 私に傅くあなたたちの心の成り立ちが、私、には、…分からないのです」
 長谷部へのやましさがあるから、中途半端にしか申し出を受け入れられないのだ。
「…そのことを、必ずしもあんたが気に病まなければならない謂れはないだろう。分からないからと言ってあんたを責め立てる輩もいないだろう」
「そう、ですね。責めはしません。誰も」
 瞼が美しい黒を隠した。惜しいと思いながら、山姥切国広は茶器を片して表の用意を黙々と行った。どうせこれからも、審神者は生真面目に近侍決めをして、週に一度の燻った特別を用意するのだ。融通の利かなさは誰よりもよく知っている。



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Ash.