「そこは静かで、穏やかで、とても美しいところでした」
 主の話はいつも、そう前置きしてはじまる。

「此方の昼のような明るさは彼処にはありませんでした。薄藍の空と、星々が雪崩れるように降る空とが繰り返されていました。『終わりのときを彼の空で迎えん』と願う星がたくさんあって、幾つもの空を駆けてでもこの空に憧れてやまなくて、それなのでこんなにも星々がこの天でいのちを燃やし、尽きていくのですよと、教えてもらったことがあります」

 琅々たる鈴の音のような声をききながら、俺は自発的に毎日つけていた資源の残量と、各日の近侍達が日誌につけた資源の残量を照らし合わせていた。これが終われば日課の完遂報告用の文書を。それが終われば月課の達成率の確認と配分の見直しを。主は傍らで掛布を羽織って、膝を抱いていた。
 『主の話をききながら作業すると、雑務がたちまち終わるのですよ』。いつかの文句は自嘲がうまれるほどとってつけたものだった。比重が主の話をきくことにあるのは明らかである。雑務の数々は主の話をきくために、用意しているような節さえあるのだから。
 主は繰り返す俺の不審を咎めるようなこともせず、今日もまたゆっくりと言葉を紡ぎ続けた。掛布の端から桜貝の装飾のような爪が覗いている。

「両の手の指よりも少ない数で、私たちはそこに在りました。私はいつも、彼らに守られていました。彼らは私がいなくても生きていけましたが、私は彼らがいなくては、傍にいてくれなければ生きていくことはできないだろうと、そう思っていました。
 私たちはずっとずっと、…本当にずっとずっと、そこにいました。諍いもなくただ穏やかに」

 常に嫋やかな主は、かつてあった時間を語るこのひとときだけは、別人のように見えた。嫌がっているようではなかったが、心ここに在らずとばかりの様だ。蝋燭の橙のあかりが烟るような睫毛を照らし、陰を落としている。
 不意に、こちらを見た主の瞳とかち合った。手にしていた筆を取り落としそうになる。
「それで、長谷部。なんの話をしましょうか」
「あ、雨の話を」
「長谷部はその話がすきですね。わかりました」
 何を思ったのか、主は微笑んだ。雨の話、とだけ言えば伝わるほどに、俺はその話を何度も乞うてきた。
 主はどうやら遠い場所―それも『幾つもの空を駆けたところ』―からやってきたらしい、ということは、この本丸では俺しか知らないことだった。初期刀である山姥切でさえも知らない。けれどたったそれだけでは満足できなかった。

「冷たくて透明で清らかな…。水、は、緑を常に満たし、また私たちの足元を流れていくことはあっても、私たちの上から落ちてくることはほとんどありませんでした。ただ稀に、水が降ってくることがありました。星ではなくて、水が空から落下して、水脈ではない地をもしっとり濡らすのです」

「体躯を冷やすと障るからと諌められて、私は時々降ってくる水を眺めているだけでした。けれど私はどうしても、あれに身を晒してみたかった。ある時、いつも一番傍にいてくれた世話役に乞うてみました。世話役はすこし考えてから私を抱えると、水の降るあちらこちらを駆けてくれました。
 頬に触れるそばから水ははじけました。透明な緑が琳琅、琳琅と鳴っていました。冷えていく爪先に、私は命を燃やした熱をもっているということを思い知りました。世話役はずっとずうっと走って、私はなんだかとても楽しくて、そのうち彼の腕からとびだして、結局ふたりで倒れるようになって、それから、どうしてでしょうね、しばらくずっと笑っていました。目に映るもの、触れるもの、すべてが美しかった…」

「先に笑いやんだのは世話役でした。危ないでしょうと叱られて、また抱えられて元の場所に戻りました。私はその間も笑いがとまらなくって、語気強く叱っていた世話役は私がどこか変になってしまったのかとそのうち心配し始めました。
 元の場所に戻ると他の世話役たちからふたり揃って叱られてしまいました。沢山叱ってから、世話役たちは「彼処は楽しかったですか」と訊いてきました。たしか私は「美しかった」などと答えた気がするのですけれど、世話役たちは泣き笑いのような表情で長いこと私の傍にいました。…きっと私が何と答えても違わなかったのでしょうね。あのような彼らを見たのは後にも先にもあのときだけでした」

 最後の一言だけが揺らいでいた。主の方を見やると、なんとも形容し難い表情をしているのである。激しい感情の爆発ではないが、どの時よりも心乱されている表情であることを俺は知っていた。
 この顔が、俺は見たかった。誰も知らない、恐らくは主自身でさえも気づいていないだろう。彼女がこのような顔をすることなど。けれど俺はそれを知って、尚も髄液にしみこませるように何度も繰り返す。
 ふと、主が指をそっと伸ばして俺の手から小筆を抜き取った。思わずそれに手をのばすと主はすこし中腰になって小筆を遠ざけて、それから机案に広げていた料紙と書簡を空いている方の手でぱらぱらとさらった。そこにはある程度体裁の整えた文言が連なっているだけで、やましいものなどなにもない。
 軽く目を通してから、主はとうとう勝手に文具の片付けをし始めた。
「主」
「駄目です。お話もしましたし、今日はこれで仕舞いです。今日は、というのも奇妙な話ですけれど。何度も伝えていますけれど、近侍は朝になってからで結構ですから」
「ですが俺はまだ」
「長谷部なら明朝からでも用事を全てこなせるでしょう」
「しかし、…いえ、わかりました。ですが片付けは自分でします。よろしいですね」
 食い下がろうとしたのを切り上げて、何拍か互いの顔を見合う。溜息よりは軽い息をついた主から小筆を譲り受けて、順々に近侍の箱に仕舞った。主はしつこく見張っているのも気が引けたのか日誌を眺めてはいたものの、結局片付けが終わるまで傍らから離れようとはしなかった。
「…それでは主、失礼致します」
「ええ。おやすみなさい」
「…すみません、主。ひとつだけ訊いても?」
 室の戸口まで見送りに立った主の目がぱちぱちと瞬いた。
「なんでしょうか」
「主は、いつまで…」
 喉まで出かかった言葉の正体を自覚して、慌てて飲み下した。一時の興味に任せるにしてはあまりにも代償の高い問いだった。そも、それを訊いて何になるというのだろう。「すみません、なんでもありません。失礼します」。足早に退出しようとしたとき、つんと衣服の裾が引っ張られた。
 振り返ると、いつもの嫋やかな主がいた。
「私はいつまでも、あなたたちと共に在ります」
 知らず知らずのうちに息をのんだ音が聞こえた気がした。「いつまでも」。いつ閉まったのかも分からない戸口の前で、俺はしばらく立ち尽くしていた。それは確かに訊ねかけたことへの答えで、きっと主の本心に違いなかったのだが、そこに確約はないとどうしてだか思った。





 目を覚ますと昨夜確かに近侍の勤めから帰したはずの長谷部が、もうすでに近侍用の文机で何事かの作業をしていた。褥から見える衝立の向こうに長谷部の紫色の衣が見えているのをぼうっと眺めながら、それほどまでに終わらせたい用があったのだろうか、それならば昨夜強引に下がらせたのは悪いことをしたのかもしれない、などと考えた。
 しかし私はぐずぐずと、褥から抜け出して長谷部のもとへと向かうことができずにいた。体の左側を下にして倒れた状態のまま、紫を視界から消し、先程までみていた夢の残滓にじっと懸想する。靄の中に消えていきそうなそれをどこまでもどこまでも追って。
 懐かしい、星の雪崩れる天の夢だった。あの頃ずっとそうだったように、あの日美しい景色へと連れて行ってくれた世話役が傍にいてくれていた。

『なまえ様』

 夢の中で彼は笑っていた。あのときのように私の体躯を抱えて駆けていた。なんて幸福な夢だったのだろう。
 瞼の裏の暗闇の中で、夢の輪郭が消えてしまうまでの束の間を過ごした。目を開く。衝立の向こうに、やはり紫がある。両手をついて上体を起こした。名前を呼ぼうとして、何度か失敗した。声にならなかった呼吸はとても虚しかった。
「おはようございます、長谷部」
 かたりと筆を置く音が聞こえた。私は思わず目を閉じる。瞼の裏にまだ薄ら残っている夢の端を一心にひろげる。星が雪崩ている。頬に水がはじけ伝う。彼が微笑んでいる。
「おはようございます、主」
『おはようございます、なまえ様』
 私は長谷部を、好ましく思っている。正しくは彼の声を。いつも傍にいてくれた彼にそっくりな、彼の声を。
 目をひらいた。そこはもう十分に馴染んでしまった室だった。誰の耳にも届かないような溜息が唇からふと漏れでる。分からないの一言で無理矢理封をしている物事の多さとその醜悪さに頭がくらくらした。
 へし切長谷部は今代の主たる審神者にとりわけかたく根を張る向きがあるらしい。私はそのことを知っている。そして私の長谷部もどうやらそうであるらしい。そのことも、知っている。皆に平等な主であらねばならぬと言いながら、私は長谷部のことを、あのひとによく似た声をした長谷部のことを調べていた。長谷部は主の一番になりたい。それを知っていながら、私は。
「…主? まさか、どこか悪いのですか」
「すこし起き抜けの目眩がしただけ」
 衝立の向こうの声はやはりあのひとの声によく似ている。つい先程までの尤もらしい「良心の呵責」もそこそこに、考えてしまうことはやはりそれなのだった。
 適当な上衣を引っ掛けて、ずるずると褥から抜け出した。このささやかな幸福と、自分を正当化したいがための自己否定を得るために、私はきっとこれからも長谷部を時々傍に置くのだ。


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Ash.