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磨かれてワックスもかけられた床の上に並ぶ、いくつもの段ボール。
そのうちの一つを開けて中身を取り出し決めた場所に閉まっていく。
その作業を昼頃からずっと続けて、ようやく多少は見られるようになってきた。
小さな達成感を覚えながら窓の外を見れば夕陽が沈み始めている。
まだ台所用品の片づけはしていない事を思い出し、今日の夕飯はコンビニで済ませようと財布と携帯電話だけを持って家を出た。
見慣れない道をなんとか歩いて目的地を見つけて、入店し少しだけ迷っておにぎりとお茶を買ってまた外に出る。
早くこの辺りに慣れようと、携帯電話でマップを見ながら来た道とは別の所を歩き始めた。
せっかくだから風景でも、と画面に向けていた目線を上げれば前から誰かが歩いてくるのが見えて。
その人も視線を下ろしていて、私の気配に気づいたのか顔を上げる。
まるでスローモーションのようにゆっくりと、その目が見開かれるのが見えた。
「なまえ……?」
「はい」
名前を呼ぶ事で私の存在が本物かどうか確かめるような、そんな雰囲気だった。
この人は意外と色んな顔をするんだなと、改めて知る桐生さんの一面にまた胸が音をたてる。
「なんで、神室町に……」
「上司からの話を受けて、帰ってきました」
「……そうか。家は、この辺りなのか?」
「はい。歩いて少しくらいです」
そう言うと彼は空の色を見て「送る」と言ってくれた。
断る理由はもうないので頷いた。
歩き始めてすぐは会話もなかったけれど、ぽつぽつと仕事の話をしていた。
あと少しで自宅に戻るというところで意を決したように桐生さんが口を開いた。
「……結婚の話、どうなったんだ?」
「……断りました」
それなりの時間を一緒に過ごして、お互いに適齢期で。相性だって悪いわけでもなく、むしろいい方だったのかもしれない。
けれど私が彼にしたのは断りの返事だった。
どうしてとか、何でだとは言わなかったけれど、それを聞きたくでどうしようもないんだろうというのは感覚で分かった。
私はあえて詳しい事は言わず、それだけを言ったまま黙っていた。
「俺のせいか?」
予想外の言葉に思わず足を止めてしまう。
思いつめたような顔をした桐生さんに、首を振った。
「違いますよ。ただ、自分の正直な気持ちに従っただけです」
彼のために夢を捨てる事はできなかった。
でもきっと、桐生さんのためにだったら捨てられるだろう。
ひどい話で私は、桐生さん以上に彼を愛する事ができなかったようで。
我ながらとんでもない女だと思う。
新居に着いて「ここです」とマンションを見上げた。
エントランスで別れようと思ったけれど、彼はわざわざ玄関前まで送ってくれた。
鍵を開けて振り返ればまだ桐生さんがいてくれて。
その姿を、顔を見ているだけで胸が痛くなる。
でもその痛みすら愛おしいと感じてしまっている自分がいて、それすら幸せだと思えてしまうほど。
想うようになった日から変わらず、ひたすら彼への気持ちを募らせている。
神室町を離れなくてはいけないとなった時、ずっと追い続けていた夢すら捨ててしまおうかと思ってしまった。
そして今度は、愛して結婚までして欲しいと言ってくれた人と天秤にかけて、望みなんてない桐生さんを選んだ。
「私やっぱり、成長なんてできてないです」
わがままで、彼に対して恐ろしいほどまでに貪欲で、彼だけのために人生を変えてしまう。
何も言わないままの桐生さんに笑って頭を下げて「送ってくれてありがとうございました」と扉を開ける。
中に入ってもう一度彼を見てから閉めようとした時。
扉の動きが鈍くなってもう一度大きく開かれる。驚いて見れば桐生さんがこちらに手を伸ばしていて。
バタン、と扉の閉まる音がくぐもって聞こえたのは彼に抱きしめられていたから。
「好きだ」
最初は、幻聴かと思った。
けれどもう一度ささやかれた同じ言葉と、一層力を込められた腕でようやくこれが現実なんだと分かった。
何もかもが理解できなくて、ひたすらに思考を巡らせていた。
「なんで……私なんか……」
「お前が学生の頃から夢のためにがむしゃらに頑張ってるのを見て、気づかないうちにな。お前ほど何かにひたむきになれる女、俺は他に知らない」
「……そんなに、私は……」
私は桐生さんに想ってもらえるような人間じゃない。
それでも彼の口から溢れる言葉に、どうしようもなく泣きたくなってしまう。
普段は口数の少ない、必要な事だけを話す人なのに。
まるで今までずっと我慢してきたかのように、たくさんの音が零れ始める。
彼が気持ちを自覚したのは私が転勤の相談をした時で。
悩んでいる私に行くなと言いたかったけれど、今までどれだけ努力してきたか、その夢がどれだけ大きいかを知っていた。
だからこそ困らせたくなくて必死に想いを押し殺していた。
あの夜、本当は行かせたくなかった事。
一瞬離れないようにと力を込めたけれど、やはりそれはしてはいけないと。
私が夢を追っていた姿を見て惹かれた。だからずっとそのままでいて欲しい。そう自分に言い聞かせて腕を緩めた。
「ずっと、どこかでお前を探していた。それでも、なんとなくだがもう会えないんだろうと思ってたんだ」
「……はい」
「だろうな。だから余計にあの日、久しぶりに会った時は驚いたんだぜ」
会わないと決めたのに、本当は会いたいと思って歩いていたなんて言えない。
「すぐになまえだって分かったが、大分成長したんだなと思った。前よりももっと綺麗になってたからな」
自分は縛られたままだったけれど選んだ道は間違っていなかったと安心した。
けれどほんのわずかな時間、隣にいただけで想いが鮮やかに蘇ってしまって。
さらに結婚の話をされてとうとう抑えきれなくなった。
「俺は、あの日から今までずっとお前のことを愛してる」
ずっと夢見ていた。とても低い確率でも、桐生さんが私のことを想ってくれていたらと。
そう願っていたのに、大した努力もできない自分を心底嫌っていた。
「……っ私、本当は桐生さんが思ってるような、いい人間じゃないんです」
「そうなのか?」
「わがままだし、卑屈だし、ネガティブで……本当は、仕事も、桐生さんのためなら捨てられるかもしれなくて……」
言の葉と一緒に涙が溢れて止まらない。
本当の私を知られたら、この腕の拘束が解けてまた色も光も何もない日々に戻るかもしれない。
それでも嘘の自分のまま愛されるなんてどうしてもできなさそうで。
腕は解ける事なく、むしろさらにきつく抱き締められたように思う。
「俺のために仕事、捨てられるのか……」
「は、い……」
「……とんだ殺し文句だな」
「え……?」
緩い振動が彼が笑っている事を伝える。
「それだけなまえは俺のことが好きだって事だろう?」
そうか、とやけに納得してしまった。
結局、私もあの夜にずっと縛られたままだったんだ。
思い出にしたつもりで、いつも箱から取り出しては磨いてみたりうっとりとそれを眺めたりしていた。
夜が明けて朝が来たなんて思っていたけれど、本当は全部まぼろしだったのかもしれない。
「……まだ、部屋ぐちゃぐちゃですけど、上がっていきますか?」
腕の中から桐生さんを見上げてそう聞けば、目尻を拭われて唇がそこに触れる。
ようやく本当にあの夜を忘れられない思い出にできる。
これからもっとたくさんの、大切な朝も昼も夜も重ねていく。
アポトーシス、朝はまぼろし
あの痛みも涙も全て、今日とこれからのためにあったんだと今なら思えるから。
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Ash.