***
懐かしい夢を見た。
涙が目の横を伝っていく感覚で目を覚まして、何度か瞬きをしてから起き上った。
もうとっくに慣れた部屋の風景に少しだけ違和感を覚えて、それがなんだか妙におかしくって呆れたような笑いが零れる。
枕元に置いてある携帯電話を見る。起きようと思っていた時間よりやや早いけれど、このまま動き出してしまおう。
アラームが鳴る前に解除していると、未読メッセージのマークが目に入る。
開けばそれは恋人からのもので。今日の仕事終わりに夕飯でもどうか、という他愛もない内容。
了承と終業時間を返信して、布団を退けてベッドから降りた。
引越してからすぐの日々は、全ての事に食指が動かなくなっていた。
けれどだからといって仕事がなくなるわけでもないし、そもそもこの場所に来たのはそのためであって。
打ち込むものがそれ以外にない事と仕事が心底好きで相性がいいという事が幸いして、膝をついていた頃から立ち直る事ができた。
この逃避方法は正解だったようで、評価はぐんぐんよくなっていったし認めてくれる人達も増えていった。
今ではそれなりのポストに就く事もできて、その流れでこんな私を支えてくれる人もできた。
あの日の痛みは、あの恋が死んでしまった事は今の私を形作るために必要だったんだと。
夜はいつか明けて朝になるという事。長い時間が経った今だからこそ、ようやくそう思えるようになった。
身支度をして家を出て、満員電車に揺られて出勤する。
すると、いつもより早く出社していたこの地での上司に呼ばれて。
何かやらかしてしまったのだろうか、と考えながらコンマ何秒だけある事が浮かんで。
それはないだろうと鼻で笑い飛ばせたはずなのにどうしてもそれができない。
やけにうるさく感じる心臓を抑えながら上司のデスクの前に立つ。
「おはようございます」
「おはよう。悪いね、いきなり呼び出しちゃって」
「大丈夫です。それで、お話とは?」
上司が引き出しからクリアファイルを取り出す。そしてその中から数枚の書類を出している。
ちらりと窺えばそこには異動、勤務地変更なんかの言葉。
何よりも「神室町」の文字がずっと騒いでいた心臓を一瞬で止めてしまった。
「確か前は神室町にいたんだよな?」
「は、い……」
「あっちでさらに新しく事業を始めるんでな、上から直々にみょうじを指名されたんだ」
神室町でよくしてくれていた上司と同じように、目の前の彼もまるで自分のことのように柔らかな笑顔を浮かべている。
あちらでの新事業での責任者を任される事になるそうで、今よりもまたさらに昇進するとの事だ。
同じ表情に同じ顔にならなくてはと思うのに、うまく筋肉を動かせない。
「どうした? 顔色悪くないか?」
「え、いえ……ちょっと寝不足で……すみません」
「そうか。大した事ないならいいんだ」
どうやら今回は選択の余地がないようで、上司はそのまま今後の事の説明を始めていた。
話を聞きながらも、頭の中は高速回転するコーヒーカップに乗っているような状態だ。
恋人はこちらが地元の人間で、もちろん彼の自宅も仕事先も実家もこの地だ。
神室町に戻るとなれば色々な問題が生じるだろう。
彼の家柄は代々続いていて将来的に彼が本家の長になると言っていた。
決して格式が高いわけではないとは言っていたけれど、彼自身それを誇りに思っているようだった。
となれば彼が神室町に一緒に来るという事はまずない。
そして私達は家庭を持つにはいい年齢になってきている。
これからまた遠距離恋愛をして、いつになるか分からない戻ってくる事ができる日を待つというのは、あまりにも非効率的だ。
「……どうしよう」
ぽつりと呟いた言葉は、上司の耳に届く事なく床に落ちていった。
意識とか心がこの場になくても慣れた作業は滞る事なく、一日の業務が終わった。
デスク周りを片づけて携帯電話を見れば、恋人から仕事が済んだ事と今夜は何が食べたいか、というメッセージが届いていて。
自分もこれから会社を出る事、特に希望はないという事といつもの場所で落ち合おうという事を返す。
今朝の話はとても重要な事で、私だけではなく彼の将来も決まる。
それを簡単に電話でのやり取りで始めてはいけないような気がして、直接会ってから話す事にした。
二人の自宅の中間駅で待ち合わせをして、そこから程遠くないたまに顔を出す和食の店に行く事になった。
「どうした?」
「え?」
「いや、なんか変だから。何かあった?」
「……ううん、大丈夫」
普段もそれほど喋るわけではないのに、私の様子が違う事に気がつかれて。
それだけこの人は私の隣にいてくれたんだな、とガチガチに固まりかけていたものが少しだけ解れた気がする。
目的地に着いて暖簾をくぐれば、すぐに店主が奥の席を案内してくれた。
半個室の席で、まるでこれから話さなくてはいけない事を知られているのかと思ってしまうほど過敏になっている。
適当に注文を済ませ、出されてくる食事を口に運びながらとりとめもない話をしていた。
そして大体の物を胃袋に収めた頃、重く閉ざされた門のようになっていた唇を開く。
「あの、今日さ」
「うん」
「上司から、話されて……」
「話?」
「……神室町で始める新事業の、責任者に選ばれた」
今にも持ち上げられそうだった湯呑が音を立ててテーブルの上に転がる。
中身はそんなに残っていなかったようで、小さな水たまりができただけで済んだ。
薄緑の水たまりに目をやりおしぼりで拭く。そして目線をそのままテーブルの上に彷徨わせていた。
他の卓にいる客のにぎやかで明るい声が、とても遠くで空気を震わせているように感じる。
ふらふらしている私の視界が、きつく握られた彼の拳を捉えたその瞬間声が聞こえた。
「なまえ……結婚しよう」
「え……結婚?」
過ってはいたもののそういう風に使われるとは思ってもいなかった単語を認識して、思わず彼の顔を見た。
いつもは柔らかくて綿菓子みたいな笑顔を浮かべている人なのに、今はとてもくっきりとした強さを秘めた表情をしている。
顔も体格も性格も何もかも全く違うのに、見た事のない彼の表情の後ろ側にあの人を見てしまう。
「急な話だから指輪とか何も用意してないけど、真剣だよ」
単純に嬉しくなって喜んでもいい状況なのに、すぐ頷く事も素直に笑顔になる事もできずにいた。
そんなおかしな私に気づいていないのは、多分彼もいっぱいいっぱいだからだろう。
私は一体どうしたんだろうと思ってすぐに、その答えが浮かんだ
「……結婚って事は、私、仕事辞めなきゃいけないって事だよね……?」
「そうだな」
「……そっかぁ」
昼間に色々とシミュレーションしていて結婚というワードも確かに出てきたのに、どうしてかこの結果を予測していなかった。
心細いだろうが、変わらず俺は応援する
まるで今目の前で聞こえたかのように、桐生さんの声が脳内で蘇った。
あの時とは関係性も状況も違う。
同じなのは、今いる場所から離れた所に行かなくてはいけないという事と、私の仕事に対する思い入れを相手が知っていると言う事。
夢を叶えるために色んな事を犠牲にしてきたと思う。
学校での勉強とは別にこの業界の事なんかを頭に叩き込み続けて、必須の物からあれば有利になるような資格を取得するためにノートや手を真っ黒にした。
学費や試験費用をまかなうためにバイトを掛け持ちしていた事もある。遊んだという記憶は数えられるくらいしかない。
人に話す必要のない自分だけの努力の証を、どうしてか桐生さんは知ってくれていた。
それを終始見ていた人達でさえ笑った夢をずっと応援してくれていた。
彼もまたその事を知る数少ない人だ。
それに神室町を離れた頃よりもさらに私の中で勢いを増している仕事への熱を、彼は知っている。
涙が流れてしまう事があった日々も、つまずいてそのまま立ち上がれなくなってしまいそうだった事も、それでもなんとかここまで這いつくばって来た事も。
「なまえ?」
「あ……ごめん。ちょっとびっくりしちゃって……」
「それで、返事は?」
その言葉に、顔は見ていてもずっと外していた視線を彼の瞳に合わせざるを得なかった。
私のその行動が意外だったのか、その瞳もまた大きくなっていて。
それが、セーターに親指のささくれが何度も引っかかってしまったような、そんな感覚を覚えさせる。
「大事な事だし、ゆっくり考えたい……」
「……そっか……指輪、用意しておいてもいいよな?」
その言葉に返事はできず、薄墨のさらに上澄みだけのような笑みを湛えた。
< < | > >
Ash.