小さい頃から憧れていた職業があった。生涯を賭けてでも叶えたい夢と言っても過言ではないくらいの。
狭き門の中にさらに険しく続く山道のようなもので、周りの人達は暗に諦めろと口にしていた。
それでもどうしても実現させたかった。一度きりの人生、眠りに就く時に笑っていたいから。

けれど揃いも揃って同じ事を言われ続け、バランスを取れなくなって崩れ落ちそうになった事がある。
どうしようもなくなって地面に膝をつきそうになった時、支えてくれた人がいた。

その人はとても強い色をした瞳を持っていて、大空みたいな心を持った人。
何度も転んでその痛みに顔をしかめて辛い塩水を零してしまった私を、大きな手の平で撫でてくれた。
それは時に痛みを伴う事もあったけれど、もう一度立ち上がろうと思わせてくれるものだった。

とても遠いところにいて、私が想像もできないような事ばかりの中で生きて闘ってきた人。
きっと私なんて気にかける必要もない存在だったのに、それでもちゃんと偶然の出逢いの中から見つけてくれた。
違う世界で自分の力だけで生きている彼に憧れて。
丸くて淡い色をした宝石みたいな憧れは、いつしか形も色も変わっていった。
目を背けたくなるくらいに醜いのにどうしても手放せない。自分では制御ができないくらいに暴れてしまう。


「桐生さん」


上擦ったような声で呼べばすぐに振り返って目を細めてくれる。
彼が心の真ん中に住むようになって一体、どれくらいが経つんだろう。



もう何度一緒に来たか分からない小料理屋の個室で、ぽつぽつと言葉を交わしていた。

出逢った頃と行く店は変わったけれど、桐生さんとはこうしてよく食事をする。
彼の生活であった事、私の生活であった事を話しながらお互いの知らないものを教え合う。
だから私の過ごしている時間のほとんどを桐生さんは知っているだろうし、私は彼が話してくれている部分と勝手に耳に届いてしまう噂程度の事は知っている。

密にとは言えないかもしれないけれど、それなりに長い時間を過ごしてきた。
その間に当然ふたりとも年齢を重ねたし、私達になんらかの関係があっても問題のない状態にはなっている。
けれどこの関係性を言葉にするとすれば「年の離れた友人」だろう。

ただ食事だけをする日もあれば、どこかに出かける事だってあった。
ふとした時に口にした映画を覚えてくれていて、まだ観ていないなら一緒に行くか、と誘ってくれたり。
遥の喜ぶような贈り物が分からないから一緒に選んでくれ、とデパートを巡ったりもした。
その度に、もともとあった予定をキャンセルしてまで桐生さんとの時間を優先していた。

想いを明確に、正面から伝えた事も分かりやすく行動した事もない。
周囲の人には、あれだけ一緒にいて何があっても隣でにこにこしているなら彼も気づいているだろう、と言われた。
それに、彼の積んできたものはその目をとても鋭く相手の奥底にあるものを見透かす事ができるようにさせていて。
だからとっくに桐生さんは、私の抱いているものの正体を知っているだろうと思っていた。

だけど、彼の口から私の想いに関するものは何も出てきた事はない。
受け取ってくれるとも、いらないと突き返された事すらもないのだ。

たとえば私達の間に体だけの繋がりがあったとする。
そもそも桐生さんはそんな事をするような人ではないけれど、仮にもそうだとすればはぐらかすメリットはまだある。
宙ぶらりんの揺れたままにしておけば、私に彼への気持ちがある限り離れていかないだろうと考えられるはずだ。
そんな事をしなくても桐生さんには、彼を待っている蝶や華のような女性達が大勢いる。
こんな雑草や転がっている石みたいな私でなくても、いくらでも選んで手に入れる事ができる。

むしろ、だからこそなのかもしれない。
桐生さんにとって私は女ではないのだろう。
舎弟や親戚の子という位置づけかもしれない。

彼が過去、心の底から愛した女性を二人知っている。
一人は子どもの頃から一緒に育ってきたという由美さん、そして共に事件を解決した狭山さん。
桐生さんの話の中でしか知らないけれど二人ともまっすぐとした一本の芯が通っている、同性でも惹かれてしまう人達だ。
何があっても自分の足で立っていられて、下を俯いてしまってもまた上を向ける強さを持っている。
彼女達に憧れてしまうのと同時に、敵わないと早々に白旗を揚げてしまった。

由美さんと狭山さん、その二人と比べて私はあまりにもちっぽけで。
何か誇れるものも胸を張れるような事もない。
鮮やかに輝く二人の女性と過ごし心を奪われた桐生さんから見れば、確かに私を女性とは認識できないだろう。
それはもうしょうがない事だと理解しようとするけれど、彼の瞳に映る自分を見る度にみじめになるくらい足掻こうとしてしまう。


「そう言えば話したい事があるとか言ってたな」


粗方食事を終えた頃、桐生さんから切り出された。
直前の話題で浮かんでいた自分の笑みが、すっと後ろに引く。
自分で相談を持ち掛けてわざわざ時間を作ってもらったと言うのに、どうしても言い出しづらい。


「……昇進の話をされました」

「本当か?」

「はい」

「よかったじゃないか」

「ただ……転勤が前提なんです」


話し始めてすぐに俯いてしまった。
私がどうして悩んでいるかを、気がつかれたくなかったから。

幼い頃からの夢は幸運にも叶える事ができて、まだ半人前ではあるけれどなんとか形になってきた。
周りの人達は目を丸くさせながらもおめでとう、と言ってくれた。
桐生さんは「よく頑張ったな」と言ってくれた。
祝福の言葉も嬉しかったけれど、続けてきた事を知っていてくれたからこその彼の言葉が何よりも胸を温かくさせた。

もともと神室町の近くに生まれ育って、仕事の拠点もここだったから動く事はなかった。
何よりここには彼がいたから。多少不便だったり時間がかかったとしても、この場所から離れる事は全く考えていなかった。
けれど今回の話で出てきた地域は、どう足掻いてもその地に行かなければいけないほどの距離で。

今回の話を蹴っても冷遇されたりという事はないだろうけれど、チャンスを自ら逃す事にはなる。
それがまかり間違ってもいい方向にいくとは決して考えられない。

何より、遠い地に行きたくない理由がただ桐生さんの傍を離れたくないからという、見ようによってはとてもくだらない事だから。
人生で最大の目標であったものをようやく手に入れて、それもまだ序盤だというのに。
天秤の片方は確実に昇る事のできる階段が続いていて、もう一方は崩れ落ちてしまうかもしれない不安定な道が伸びている。
分かり切っている事なのに、どうしても決心がつかないのは道の先にもしかしたら何かあるかもしれないと思ってしまっているからで。


「転勤先すごく遠いんです……。情けないですけど、一人でやっていけるか不安で……」


本当の理由は言えない。目を見て話せばバレてしまうだろうから、自分の握り締めている拳をずっと見ていた。


「その話、受けるべきだ」


どれくらいの時間が経ったのか分からないけれど、桐生さんの声に思わず顔を上げた。
急にそうしてしまったからか、珍しく彼の目が見開かれている。


「どうした?」

「あ、いえ……なんでもないです」

「そうか……。俺は、なまえがどれだけ努力し続けて今の職に就いたか少しは知っているつもりだ。それがさらに上に行けるチャンスを貰えたんだ」

「そう、ですね」

「心細いだろうが、変わらず俺は応援する」


やっぱり桐生さんは、私が傍にいてもいなくてもどちらでも構わないのか。
ずっと応援してくれていて、これからも支えてくれるんだ。
どちらの感情も涙が零れそうなのには変わりないけれど、全く逆の方向を向いている。

ありもしないと分かっているのに、どうしても心のどこかで彼が「行くな」と言ってくれる事を待っていた。
その言葉の真意がたとえ愛とかそういうものでなくても、ただの気紛れだったとしても私は。

あんなにも追いかけ続けてやっと叶える事ができた夢なのに、こうもあっさりと捨てる事ができそうだという事に自分自身も驚いている。
そして同時に、自分がいかに底の浅い人間なのかという事を思い知らされた。
こんな私だから彼も引き止めないんだろう。


「……ありがとうございます。やっぱり、桐生さんに相談してよかったです」

「そうか。少しでもなまえの力になれりゃあそれでいい」


そう言って桐生さんの目が細められて唇がゆるりと弧を描いていくのを、薄い何枚ものガラス越しに見ていた。
「新しいなまえの門出に」と掲げられたグラスに自分のそれを軽くぶつける。
かち、かち、と二度ぶつかってしまったのは、抑えきれずに震えてしまっていた手のせい。




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Ash.