彼に応援すると言われた次の出勤で、上司に昇進と転勤の話を受けると返事をした。
この業界に入ってからずっと目をかけてくれていたその人は、まるで自分の事のように喜び破顔してくれて。
それは私の顔も同じようにする事はできたけれど、喉の下の胃の裏の辺りでどうしても素直に受け取る事のできない小さな自分もいた。
業務の引継ぎや新しい住処を探したり、何度も次の勤務地に足を運んで色々と教わっていた。
やらなくてはいけない事がたくさんあるからと、それなりの期間を貰っていたのにそれもあっという間に消化されていった。
いくつもバツ印を書き込んだカレンダーを壁から外して、ゴミ袋に落とす。
慣れ親しんだこの部屋とも今日でお別れ。
部屋だけじゃない。
桐生さんのいる神室町とも、これで最後になるかもしれない。
あの日以来彼とは会っていない。
忙しかったという事もあるけれど何よりも、もう一度会ってしまえば押し込んで隠していた本当の気持ちが溢れてしまいそうだったから。
それに桐生さんからも連絡はなかった。
頻繁にやり取りをしていたわけではないけれど、それでも彼からコンタクトを取ってくれた事だってあったのに。
やっぱり距離ができてしまえば切れてしまう程度の繋がりだったんだろう、桐生さんの中では。
まだ余裕のあるゴミ袋の口を縛って玄関へと運ぶ。
それなりに遅い時間だからそっと扉を開けて鍵を閉めた。
エレベーターでエントランスまで降りて、人目につかないゴミ置き場にそれを投げ入れた。
もう一度箱に乗ろうと三角形の矢印を押そうとしたけれど、指が触れる事はなかった。
はっきりと何かを考えていたわけじゃない。ただぼんやりと催眠術にかかったみたいにつらつらと、これからの事を思い浮かべていた。
そうしたら唐突にあの人の顔が浮かんで。それから、このままでいいのかと問いかけてくる声が聞こえた。
その声は確かに自分のもので、とうとう抑え切れなくなったんだなと、やけに他人事のように思った。
気がつけば体は外へと続く自動ドアの方を向いていて、すぐさま脚と腕が動き出した。
今まで桐生さんと会う時は、少しでもよく思われたくて自分なりにきちんとした格好でいたのに。
荷造りをしていた今の姿はどう見たって可愛くもないし、綺麗でもなんでもない。
化粧だってしてないし、なんなら疲労やストレスで顔色もよくないだろう。
そんなボロボロの状態でもどうしても最後に会いたかった。
結局途中で一度も止まる事なく、彼の住んでいる場所の前まで来てしまった。
久しぶりの疾走だったせいかいつまで経っても荒い呼吸のまま。
何度も何度も深呼吸をしたりして、ようやく静まってくれた。
三角形を押さなかった指先が音符の描かれているボタンを押す。
高いベルの音が響いて、すぐにずっと聞き続けてきた低い声が耳に届いた。
「はい」
「……夜遅くにごめんなさい。なまえです」
返事よりも早く目の前のドアが開いて、驚きというより焦りの色が濃い表情をした桐生さんが出てきてくれた。
「……なまえ」
「本当に、こんな時間にすみません」
「いや……。どうしたんだ? 確か明日が引越しだろ?」
とりあえず入れ、と彼の温かい手の平が冷え切っていた腕に触れて。
そのまま玄関へと足を踏み入れて刹那、届く場所にあった桐生さんの服を掴んで思い切り引き寄せる。
どんなに力の強い人でも、気を抜いている時に急にこんな事をされれば簡単に体勢は崩れる。
落ちてきた彼の薄めの唇に、目を閉じ少しだけ背伸びをして己のそれで触れた。
勢いのまま押しかけてキスをするなんて、今までの自分では考えられない。
それよりももっと考えていなかった事は、桐生さんが拒絶しないでくれるという事だった。
最初で最後の小さな思い出にしようと。だから突き放されてもそれでいいと思っていた。
支えるように右側の腰に手を回されて、もう片方の手はうなじに這わされる。
予想外の事に瞼を上げれば、同時に唇が離れていった。
視界に広がった彼の顔。その瞳は初めて見る色だった。
まっすぐで強さを湛えていたはずの色が、迷いや戸惑いや不安という弱さに近いものになっている。
ゆるりゆるりと夜の穏やかな海の波みたいに揺れている目を、ただじっと見つめていた。
「なまえ」
「……はい」
「……いいのか?」
桐生さんが何を言いたいかなんて分かり切っていた。
むしろそれこそ望んでいたものだったから。
声で返そうとしたら頬がとても熱くなってしまい、頷くだけになってしまう。
彼を引き寄せた時の私の力なんかよりもはるかに強い力で、部屋の中へ引き入れられて。
然程もない数歩の距離すら切羽詰まったように歩かされて、そのままベッドへと押し倒される。
洗ったばかりなのか、シーツから洗剤の匂いがしたけれどすぐにそれは消えてしまった。
いつの間にか慣れてしまった桐生さんが吸っている煙草の匂いに包まれて、呼吸を許さないと言わんばかりの深くて眩暈のしそうなキスが降ってきた。
剥き出しの右肩が冷え過ぎた事でゆっくりと意識が浮かんできた。
下半身の違和感と脇腹から腰を通って背中へと続く温度を感じて、これが現実だという事を認識する。
それでもまだどこか信じられなくておそるおそる瞼を開けば、鼻先がついてしまいそうなほどの距離に長い間恋い焦がれ続けた人の顔があって。
揺れていた瞳は隠れていて、控えめで規則正しい寝息が耳に届く。
桐生さんに恋をしてからずっと、この位置にいられる存在になりたいと願っていた。
でもそうなるための努力や挑戦をした事は一度もない。
何かを悟られてしまって、一歩を踏み出してしまって、それで彼がもっと遠くに行ってしまうのではないかと怯えていたから。
彼の心の中に居場所を作る事ができた人達に比べて私は、とてもちっぽけな人間だから。
想いが募れば募った分だけ動けなくなって、臆病な自分自身のせいで雁字搦めになっていった。
それが今たった一夜の事だけど、こんなにも近くに桐生さんがいてくれる。
かすかに震える手を持ち上げて指を伸ばす。空気に触れている方の頬にそっと滑らせて、そのまま顎へと。
一度離して掌で彼の頬を包んだ。
冬が終わり春がすぐそこまで来ていると言っても、暖房をつけていない部屋はとても寒くて。
外気に晒されていた頬はとても冷たくなっている。
明日、この場所から遠く離れた所に行く。
会おうと思えば会えるかもしれない。もっと遥か長い道を隔てた所にいても、繋がっている人達だっている。
その人達から見れば神室町と異動先は大した事なんてないのかもしれない。
離れたくないと言いながら本当は、失う事が怖くて逃げようとしているだけなんじゃないだろうかと思う自分もいて。
このまま桐生さんの傍にいればきっと、彼以外の人を好きになる事なんてできないだろう。
けれどそうだとして、果たしてこの想いが実を結ぶ事はあるのかと思ってしまった。
だからこそ今回の事を彼に相談した。そして自分との賭けで私は負けただけ。
カーテンの隙間から光は射していないけれど、壁に掛けてある時計を見ればもうすぐ朝になる数字を指している。
まだ少しだけ片付けが終わっていない事と、引越し作業を始める時間を思い出して彼の腕から抜け出そうとした。
起こさないように気を遣ってそっと出ようとしたせいか、なかなか起き上る事ができなくて。
一瞬だけ、回されていた腕に力が込められたように思ったけど気のせいだったのか、その後にすぐ抜ける事ができた。
散らばった下着と服を手早く身に着けて最後にもう一度だけ、と言い聞かせて振り返り枕元に座った。
見ようによっては怖いと言われるような、それでも整った顔。
どんな風に笑って、怒って、泣いて、喜ぶのか私は知っている。きっとただの知人では見られないような表情だって。
最後じゃないけれど私は最後にするだろう。
そのせいできつく締めていたはずの線が緩んでいく。
下唇を噛みながら歯を食いしばって、なんとか声を漏らす事だけは耐えた。
「ずっと、好きでした」
聞こえないで、と。
聞こえて、と。
そう願いながら少しかさついている頬に唇を触れさせて、立ち上がった。
部屋を出て急ぎ足で自宅を目指す。
我慢していたものが一気に溢れ出していって、どうにも止まる様子のない雫を何度も拭いながら足を動かしていた。
これでいい。
この夜の思い出があれば私はこの先も生きていけるはずだ。
きっと新しく恋をする事もできるだろう。それにそれだけが幸せの形ではない。
夢を掴む事ができた、一生の宝物になる記憶もできた。
これ以上何かを望めばもしかしたら罰が当たってしまうかもしれない。
だから、これでいい。
心の底からそう思っているはずなのに、いつまで経ってもそれは流れ続けていた。
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Ash.