おいでませ主人公







今日の夕飯は余ったカレーを温めよう。
そしてお風呂にはバスボム入れて、上がったら肌寒い中アイス食べて、漫画を読んで寝よう。
私は会社帰りの道すがら、雄大な計画を立ててはほくそ笑んだ。今日は花の金曜日、贅沢したっていいじゃない!
自分の好きなようにゆったりと過ごすのは、身体はもちろん心を休めることにも最適だ。
つい鼻で歌ってしまいそうになるのを堪え、電柱の灯りを右にくぐっていけば私の城。
小さなアパートの二階にある一室は狭くともなかなか快適なのだ。

電気をつけて着替えをして、カレーの入った鍋を火にかけしばらく待つ。
4月の始まりということもあり、ここしばらく忙しい毎日が続いた。久しぶりに早く帰れた上に金曜日、非常についている。
ふつふつとカレーに穴が開き始め、温まったと確信した私は用意していたご飯とカレーを器へよそう。鼻孔へ漂う香りが期待を高める。一人占めできるって最高!
テーブルへ運ぼうと振り返った所で、――私はそこに男の子を見つけた。

「…………は?」

大きいものがいいからと折り畳みでないしっかりした木製のテーブル、合わせて購入した木製の脚のある椅子はセット購入で二脚あった。
そのうち一つの椅子とテーブルをはさんだ向こう側で、背もたれに手をかけながら彼はのんびりと発言した。

「あれ、母ちゃん、朝ごはんカレーなの?」

薄青のスウェットを身にまとった男の子は頭をかきながらこちらに歩いてきた。
焦げ茶色の髪を真ん中で垂らした彼と、カレーを持ったままの私の目は合っていない。
ふいに目線をこちらに寄越した男の子。
視線が交差し、動きが止まり、空気が固まる。
私の目を無表情で見つめたあと、この狭い部屋をぐるりと見渡し、後ろを振り返り、また私へと戻った。

「……」
「……」

私は静かに器をテーブルに置き、トイレへと歩き出す。
その間視線が向いていたことは分かっていたが、私から合わせる気はすでに無い。
この時点で私は状況を把握し、また男の子はそれをできていないことを理解していた。
しかし説明するには私にも余裕が無かったのだ。
トイレに入り、扉を閉め、両方の拳を握りしめ、力の限り叫んだ。

「円堂だよあれッ!!」
「ここどこだあッ?!」

扉の向こうと重なり合う。
先ほど現れた男の子、私の記憶に合致するのは――架空の作品、イナズマイレブンに登場する円堂守ただ一人。
この世に生まれて十九年、私の人生の重大事件に『架空のキャラクターに出会う』が追加された瞬間であった。




「もぐ……もぐ……いつから、いたの?」
「んぐ……本当に、もぐ、ついさっきです。うめー」
「ありがと、もっもっ……二日目の、カレーだからね、んぐ」
「そりゃーうまいわけだ……もぐ、俺、寝てたはずなんですけど、んぐ、気付いたら、こんなことに……むぐ」
「はむ、私も仕事から帰って、カレーを一人占めしようとしたらきみがいたから、ふう、びっくりしたよほんと。はあ、ごちそうさまでした」
「それなら俺だって母ちゃんだと思ったらお姉さんがいて、ちょっと怖いくらいでしたよ。ごちそうさまでした! うまかったー!」

ひとしきり叫んで混乱した後は、取りあえずお互いの顔を見ることにした。
テレビ越しならばともかく面識のない二人の間には微妙な空気が流れており、互いに話しかけるタイミングを探っていた。
長い沈黙の後、急に私の腹が空腹を訴えたために、「カレー、食べる?」「あ、はい」というやり取りの末食卓についたのである。
円堂でよかった。
これが鬼道や不動だとしてみろ、奴ら速攻で逃げ出して私は警察の世話になっていたことだろう。

三大欲求の一つである食欲が満たされたことで、私たちは落ち着きを取り戻し、比較的円滑な会話をすることができた。
円堂の前には空になったお皿。
おそらくよく食べるだろうなと思い私より多くよそったが、ちょうど同じタイミングで食べ終えたので正解だった。
はふはふとかき込むようにカレーを食べ進む彼と、口内へ消えていくカレーとご飯を見て、本当に円堂が目の前にいるのだなあと実感した。

「あ、俺、円堂守っていいます。中学二年生です」
「……そうだ自己紹介してなかったね」

引き寄せたティッシュ箱の中身を取り出し口元を拭っていると円堂に話しかけられる。私は一方的に円堂を知っていたためかつい忘れてしまっていた。

「私は天野一葉だよ、社会人二年目の十九歳」
「天野さんですね!」
「ほあ……」

キャラクターに名前を呼ばれる日がくるとは。
つい動揺して変な声が出てしまった。私は全国のイナイレファンに殺されるのでは?

「どうしたんですか?」
「なんでも! なんでもない! ところで、どうして円堂……くんはここにいたんだろうね」
「うーん…………………………………………俺が寝ぼけて入り込んだとか?」

んなわけあるか。
そんな気持ちの籠った鋭い視線から逃げるように円堂は肩を丸めた。

「いや、いや! だって思いつかねえよ……。天野さんが連れてきたなんて、きっと無いだろうなあって。カレー食わせてくれたし」
「カレーひとつでその結論になるのは円堂くんだけだよ……!?」

つい眉間を押さえた。
円堂が私を疑っていないというのは嬉しいが、もっと疑うべきだ。
確かに誘拐犯が縛り付けもせず、脅しもせず、むしろ何が起きているのか分からないという様子でカレーを与えてくれば、私が能動的にこの状況を引き起こしたのではないと考えるかもしれない。それは納得しよう。
ただ円堂のような年頃であればもっと怖がってもいいはずだろう。
おそらくこの信用に、説明できるだけの論理的根拠は無い。なおカレーを論理的とは認めない。
その優しさを与える人間を信じるのは彼の特長だと知っているけれどこうも目の当たりにすると、……心配だ。

「円堂くんは、こっちに来る前は眠ってたんだよね?」
「はい」
「ワームホールとか、時空の歪みとか……なんかこう、ファンタジーっぽいのに触ったりとかは?」
「ないです」

なけなしの想像力を働かせてみたが、本当に円堂は眠っていただけで、異変などには気付かなかったようだ。引き出せるそれらしい情報は無いよなあ、と思案する。

「取りあえず……お皿洗ったりとかちょっとしてるから、テレビ見てていいよ。そっちの部屋にあるから。ベッドじゃなくて座布団に座ってね」
「俺、なんか手伝えないですか? カレー食ったし、さすがに」
「この量なら一人の方がはやいから、ね?」

居心地の悪そうな顔をする円堂を別部屋に追いやり、私は片付けを始めた。実は朝食の後片付けもあったので見られたくなかったのである。
さて、この状況はどうしたものか。スポンジを泡立てると同時に微かに聞こえてきたテレビの音は、確実に円堂守が実在していることを示している。

――問題は何故こちらに来たか。ではなく、『いつ戻れるか』だ。
明日なのか、明後日なのか。一週間後なのか一年後なのか、それとも永遠に帰れないのか。
円堂がこちらに来たことによって、あちらの世界がどうなっているのかも仮定に必要だ。

あちらの世界は止まっているのか、動いているのか。
時間の進み方は同じか、異なるのか。
円堂は身体ごとやってきたのか、精神だけなのか。
もしかしたら円堂が眠っている間だけ来ているのかもしれないし、この出来事さえ私の夢なのかもしれない。

そこまで考えた所で、現時点で私に結論どころか仮定を決めることすらできないと自覚した。
ならば、『明日を迎えてみなければ分からない』。これを私の中の結論づけとして終わりにしよう。

円堂が使った皿と食器が目に入る。
カレーのルウが線状に残っているのは、スプーンでかき集めたからだ。
皿とスプーンは、若干乾いてしまったルウでザラザラとしている。
その使用感は私のものと大して変わらない。
それを見つめてからしばらくして、ようやく洗う作業に移った。

「私シリアスすぎない? 折角キャラがやってきたのにな」

何故だろうか、掠れた息しかできない。
イナズマイレブンという大好きな作品の登場人物の一人、その存在が目の前にいて食事を共にしたというのに嬉しいという感情が希薄だった。
中学二年生というので、無印時代まっただ中だろう。そんな円堂を見ても感情が振り切れたのは始めの出会いのみだった。
今はただ焦りのような感情だけが胸にある。

おそらく食べている姿を見てしまったからだった。
私が作ったものを私と同じように食べ、取り込んでいく姿。咀嚼し、飲み込んで、空腹を満たす。使った食器類は汚れ、こうして洗っていかなければならない。

私と同じ人間だ。言葉にしてみれば要領を得ないが、本当にそうだったのだ。
架空の人物だからといって特別なことはない。家があって学校があって、明日があるのだ。
円堂はいつ帰れるのか、ずっとこの世界にいることになってしまったら。
実家は無いし学校もいけない。それはとても怖い。
こちらの世界にやってくるというのは、生きていく上で必要な身分を手放すということだ。
だから私は、中学生であるあの子のこの先を、真剣に考えなくてはいけない。

――円堂は一体どこまで考えているのだろうか。
違う世界だと気付いてはいないだろう。せめて今日だけは楽観的でいてほしい。
浮かれられないなんて、夢も希望もへったくれも無い話だ。





「見て見て円堂くん、プリンだよ!」
「あっ!」

家主がプリンを両手に戻ってきた。
円堂のテレビからこちらに視線を移し目を輝かせている姿はとてもかわいい。

「食べよ」
「い、いいんですか?」
「嫌なら全部食べちゃうよ〜」
「食べる!」

素直でよろしい。
台所と同じ部屋にあるテーブルは大きいが、この寝室にあるテーブルは折り畳み式で小さい。私一人で化粧に使うぐらいなのだ。
プリンをふたつと、平たい皿が二枚。洗い物の後だから皿を出すのは迷ったけれど、せっかくのプリンを『ぷっちん』しなくてどうするんだ。
小さなテーブルを正座した二人で挟み、プリンを一緒に『ぷっちん』する。
ぷるるん! と魅惑の揺れを見せつける黄金色のプリンを二人で凝視する。

「いただきまーす!」
「いただきます」
「この食べる前のぷっちんがいいんだよなあ〜」
「一種の儀式だよね、プリンを食べるための」

スプーンをプリンに突き刺し、すくって口へ運ぶ。
美味しい。難しいことを考えた後は甘いものが一番だ。

「ねえ円堂くん」
「むぐう、はい」
「ここに来たのが円堂くんの意思でも私の意思でもないなら、これは私たちのどちらかの夢なんじゃないかな」
「夢?」
「うん。円堂くんは眠ってたって言うし、誘拐の可能性が無いなら摩訶不思議の可能性だよ」
「まかふしぎ」

夢。
私が円堂に納得してもらうための結論である。
少しぶっとんではいるが、違う世界だと説明したら『帰れないかも』と思うかもしれない。ゲームやDVDを見てもらうのは流石に決断できない。
いずれにしてもそうするタイミングでは無いと思っている。
もし円堂がすぐに向こうへ帰ることができるのであれば変に詳しく教えない方がいいのではないか?
一番正しい物を判断する力は私には無い。ひとまず円堂がすぐに帰ることができる可能性にかけ、平和に過ごしてもらうことにした。

「夢かどうかはあと数時間で分かるよ。円堂くんが目覚めて朝を迎えれば戻るし……だから今日は、プリン食べて、テレビ見て、私と話そう」
「…………そうですね!」

――よし。

「じゃあ円堂くんのこと聞かせてよ」
「はい! んー、そうだなあ。やっぱりサッカーかな。俺、サッカー部なんですよ。今は部員が七人で、マネージャーが一人いて――」



たくさん話して、気が付けば眠ってしまっていたようだ。
差し込む朝日が眩しくて壁掛け時計を見れば朝の八時。日頃の起床時間を考えるとなかなかの爆睡だった。
床に転がっていたみたいで身体が痛い。身体を起こすとかけた覚えのない毛布がずり落ち、そこで私は昨夜過ごした人物を思い出した。

「――円堂ッ!」

咄嗟に円堂『くん』とは呼べなかった。
ただ、彼が今どうしているのか知りたいがため気持ちが回らなかった。
私の部屋。
重なった二枚の皿と二つのプリン容器。しかし物音のない空間。
痕跡こそあれど、円堂はそこにいなかった。

「……帰ったんだ」

途端に襲い掛かってきた気だるい感覚――安堵だ。
円堂はきちんと帰ることができたのだ。
ずっと円堂が帰れるか気にしていた。この後どうなるのか不安だった。結果的に眠ってしまい決定的瞬間は見逃してしまったが、帰ったことは確実だ。

ようやく、ようやく会えたことの嬉しさと、帰ってしまったことの寂しさを感じる余裕ができた。
私は今一度、脱力の息を吐くのであった。


「……あ、お風呂入ってない」







- 1 -

*前次#


ページ: