「薄氷は爪先で歩くもの」


授業は其の実、中々に面白かったりする。

大まかに腹部と分類される始まった其れ、、から始まった講義は、座学に始まり今じゃ実技、、へと移行していた。

そうして今は授業、、が終わった直後で。
一応念の為、、、に軽くシャワーを浴びて、"作業着"から元の制服に戻った私は、熱い突風を吹き出すドライヤーに髪を遊ばせていた。
そう、なんとこの会社、シャワールーム迄あるのである。
大企業って凄い。

最初は割とドン引きだった授業も、段々と回数を増していけば興味と面白さを惹くものになって来ていた。
例えば今日みたいな、電子ピンセットを使った直接的な内臓、、、、、、へのアプロ、、、、、―チ、、は中学の頃に授業で作ったカエルの神経脚標本を思い出して、なんだか少し懐かしい気持ちにすらなったりしている。

確かあの時も、電流を流しただけでびくびくと反応する筋肉がとっても面白くて。
先生が止めるまで何度も何度も電流を流し続けたなあなんて、記憶を遡ってみたり。

水気が完全に抜けきった髪の毛を、適当に指で分けて編み込んでいく。
下ろすのも邪魔で、切るのも面倒くさくて、髪型は基本的にいつだって邪魔にならない三つ編みだ。
だけどこれはこれで今後もシャワータイムが多発するなら、面倒くさいなあとも思ってしまって。

いっそのこと、ばっさり切り落としてしまうのもいいかもしれないと思うのだけれど。
だけど其の場合の"申請"がまた面倒だったりと、正直自分を取り巻く全てが億劫だ。

私の"異能"の指導者は鉄斎さんで、私の"管理者"は帽子帽子さん。
ほぼ毎日顔を合わせるのは鉄斎さんだけど、私の行動の一つ一つに許可を出すのは全部素敵帽子さん。
──もういっそ、私の管理権限を鉄斎さんに全部流すとかは、駄目なんだろうか。

そう、思ったり、いや思わなかったり。
髪の毛を全て編み切ってから、なんとなく溜息を吐いて、視線を下ろした。

使ったドライヤーを棚に戻して、作業着の詰まった鞄を肩にかける。
最後にもう一度鏡を見て、三つ編みの位置に若干のズレを見つけるも、もう面倒臭いからそのままでいいやと視線を外した。

そうしてドアの横に挿し込んである施錠カードを引き抜いてドアを開け潜り、その反対側の差込口に同じカードを入れて部屋が"未使用"状態になったのを確認して。
問題ないと判断してから、手に持っていたスマホで"今から地下エレベーターに向かいます"と連絡を入れていく。

すると数秒後に"了解"という簡素な返答が返ってくる事はもうわかっているから、私は端末をスカートのポケットの中に入れて奥に隠された地下エレベーターへと向かうべく歩き出すのである。

私の"異能"の指導者は鉄斎さんで、私の"管理者"は素敵帽子さん。
この二つともが鉄斎さんの支配下になったとしたら、まあ、ぶっちゃけ。

──大変な事になるんだろうなとは、わかってるのだ。




それは、絵本をひとつ読み終えた矢先の事だった。

「紬ちゃん、なにか僕に、隠し事してるでしょ」

今読み終えたのは"つきよのくじら"と云う絵本で。
内容としては、小さい時にお父さん鯨と恐らく死別した子供鯨が、成長して父の面影を求めて海を彷徨う話。
まあ家族愛みたいでいて、そしてちょっと神秘的なストーリーのものだ。

私とQちゃんは、今ふたりでごろりとベッドに寝転んで横になって居て。
絵本の世界で鯨になって居たらしいQちゃんは、不思議そうに手をゆらゆらと動かしながら、惘乎(ぼんやり)と虚空を眺めていた。
恐らくは、私に解らない世界で、そうやって海を泳いでいたんだろう。

「別にしてないよ」
「ほんとに?」
「ほんと」

ごろりと寝返りを打てば、スカートが少し捲れた感触がして。
でもまあいっかと其の儘で居ようとしたら、"檻"の向こうから黒服さんの何かを訴える様な咳払いが聴こえてきたので、仕方なく片手で適当にぺいっと裾を下の方にずり下げた。

あの黒服さんは、割と存在を主張する方だ。
そんでもって身嗜みとかに言外に煩い。
つまりクソダルい。

「最近、紬ちゃんお風呂の匂いが変わった」
「……お風呂の匂い?」
「この前までお花みたいな匂いだったのに、今は石鹸みたいな匂いがする」
「…………」

云われた言葉に──ああ、シャンプー類の話をしているのかと理解する。
確かに今迄はホテルの付属の整髪剤を使っていて、今は此処のシャワールームに常備してあるものを拝借させて頂いている。
鉄斎さんから、血や死臭は髪や肌にこびり付くから必ず授業後には身を清めなさいと指導を受けていたから、そうしていたのだけれど。

いやでも真逆、そこに反応されるとは。

「……ホテルの常備品が変わったんだよ」
「……ほんとにぃ?」
「ほんとに」

──まあ、嘘だけど。
そう心の中でこそりと思って、ゆっくりと瞬きをする。
Qちゃんの訝し気な視線は真横から真っ直ぐ当たっているのがわかるからこそ、なんだか今、その眼を見る事が出来なかったのだ。

──いや別に、秘密にしなきゃいけないと、思ってるわけじゃない。
首領さんにも鉄斎さんにも、Qちゃんに"あの事"を隠し通せと言われてはいないし。
別に、言っても佳い事だし、云った処で何か問題があるとか、そんなのも、思ってないし感じてない。

別に。別に、隠さなくったって、いいこと。
いいこと、だけど。

「ねえ、紬ちゃ──っ!」
「折角優しい絵本、、、、、にしてあげたのに。意地悪したくなっちゃう事云わないでよ」

なんとなく腕を伸ばして抱き込めば、途端に強張りつく躯に。
本当に抱きしめられ慣れていないなあと思い乍らも、其の儘頬に当たるおでこに頬ずりをする。
なんとなく。そう、ただのなんとなく。それだけだ。

「い、いじわるって、矢っ張りなにか隠してるんじゃん!」
「"ねないこだれだ"と"悪い本"と"いるのいないの"どれがいい?」
「まってまってまって。やだ! 全部ヤ! タイトルからして怖いの持ってこないでよぉ!!」

元気な声と共に、ばたばた暴れまわる小さな躯。
叩いてくる手は一寸痛いけど、でもまあ、耐えられない程じゃあないし。
というか此処で下手に動いてQちゃんを怪我させる方が怖いから、されるが儘に抱きしめた儘やられっぱなしだ。

「というか無いじゃん! ここに! 絵本! ないでしょ!?」
「最近はね、絵本アプリとか、そういうの色々あるんだよ」
「………!」

事実としてそう教えてあげれば。
何やら息を呑むような音と共に、Qちゃんは擦れ震えた声で「もう、きかない……」とまるで絞り出すようにぽつりと呟いた。

なんだろうか。
これじゃあまるで、脅したみたい。

「ほんと?」
「ほ、ほんと」

──でも、何故か。
どこかで、"それでいい"と思っている自分が、確かに居て。
そんな自分の感情に、それこそ自分自身で変なのと思い乍ら、私はくぁ、と欠伸をひとつ溢してしまった。
新しい知識を溜め込むのは、矢張りと云うか如何しても、頭を使って仕方ないのだ。

「……矢っ張りなんか疲れてない?」
「"ねないこだれ──」
「き、聞いてないもん! ただの感想だもん!」

きゃんきゃんと高い声が、耳につく。
だけど如何にも、其れを特に煩わしいとは思わない。
子供の声って、五月蠅くって、耳に触って、嫌いなのに。
なのに如何してか、Qちゃんの声は、厭ではないみたいで。

「べっ別に紬ちゃんのこと心配してるとかじゃなくて! ただ森さんって性格悪いし! 意地悪だし! 僕のこと閉じ込めるし! だから紬ちゃんが森さんに苛められてたらかわいそ〜〜って笑いたかっただけだし!」
「……」
「だか、だからほんとっべつ、べつになんとも思ってないんだから! ただ気になっただけで、なんか疲れてそうだし、なんか、なん………紬ちゃん?」
「………」

子供の、甘い匂い。
Qちゃん自身の香りと、柔軟剤かなんかの香り。
それらが呼吸する度にふんわりと鼻をくすぐって、肺に入って、私のお腹に沈んでいく。

頭が重い。躯が重い。
今日も帰って、予習復習して。
ノート見なおして、おさらいして、出来る事増やして。

絵本も、なんかいいの探さないゃ。
なにかないだろうか。お腹を開くみたいな、中身ぐちゃぐちゃに出来る奴。
絵本じゃだめかな。漫画。小説?
私の"異能"って、適用範囲は何処までなんだろう。

鉄斎さんは其れも調べるって云ってたな。
何するんだろう。如何するんだろう。
ああ。知りたい。けど、知りたくない。

ああ。もう。
ほんとはなにも、したくないのに。
わたしは、何も考えずにいたいのに。

「……紬ちゃん?」
「……」
「え、嘘。紬ちゃん?」

ああもうほんと、面倒くさい。




エンジンの、呻る音。
躯に響く、小さな振動。
それと──この、匂いは。

「──よォ眠り姫。お目覚めか?」

そっと目蓋を持ち上げ顎を少し動かせば、間髪入れずにそう声を掛けられる。
私はけれど、前と声のする方とは反対側をちらりと見て。
それでやっと、こう言葉を返すのだ。

「すっかり夜ですね。私、Qちゃんの処で寝てました?」
「嗚呼。それはもう、ぐっすりとな」
「あー……すみません。お手数お掛けします」

そう云って、疲れの取れない頭を軽く振って、サイドバーを引き上げ倒されていた背凭れを、恐らく標準位置まで戻していく。
すると顔のすぐ横になった窓の外は、キラキラと賑やかなヨコハマの夜の街並みが流れていて。
ああ、いつも通りのホテルへルートの道だなと、其れを惘乎(ぼんやり)と眺めながらそう思う。

「如何だ。組織には慣れたか?」
「……まあ、それなりには」

問いかけられた言葉に、然し他に如何答えればいいのか判らなくて。
なんとなく濁す形に終わり乍らも、視線は矢張り、窓の向こうに吸われた儘。

そんな私のそぞろな様子なんて、其の実如何でもいいのだろう。
今日も今日とて、車の中でも素敵な帽子を被ったお兄さんは、私には目も呉れずに言葉を続けていく。

「お前の報告はこっちにも来ている。其の内"実戦"でも投入されるだろ。何が起きても善い様に、心の準備だけはいつでもしておけよ」

車は、迷う事なく進んでいく。
流れる風景を惘乎見ながら、何かを云わなければと、そう考えて。
そうして出てきた言葉は、なんだかどうしても、朧気で。

「悪い人は、」
「あ?」
「悪い人は、悪くないものを悪い事に遣えてしまうから、悪人と呼ばれると思うんです」
「……」
「私の"異能"も、同じですよね」

絵本の世界に、相手の精神を引き摺り込む──と、されている異能。
其れは屹度、本質的には悍ましいものではない。
だけれどそれは、一度手段と目的を変えるだけで、誰かにとって酷く悍ましいもの、、に成り果てるのだ。

私の異能自体は、悍ましくも、恐ろしくもない。
ただ少し、相手の心を、自分の心象心理に引き摺り込むだけ。
だけどそれを、悪いことに遣った場合。

「此の場合、私は"悪"になりますか」

仮に私を、"物"として。
物たる道具を悪事に使用した処で、其れは手段で、其れはあくまで方法の一つ。
其処に屹度悪もなく、善もなく、ただ其れを役目として目的達成の為に遣われるのだ。

だけれど私には、残念な事に"意志"と云うものがあって。
意志がある私は"物"にはなれない訳で。
例え其れが命じられたからの行動であっても、私が私として其れを行う時点で、私の意志として其の物事はなされてしまうのだ。
私が行う、悪事とされてしまうのだ。

首領さんは、私に組織の為に尽くせと云った。
鉄斎さんは、私に其の手段を教えると云った。

別に、それはいいのだ。
私の中で、手を汚す事に拘りはない。
お綺麗、、、で居たいとも、思わない。
だけれども、其れでも何故か、悩んでしまうのだ。

目的もなく、其処に意義もなく。
ただ流される儘で居ていいのだろうか──と。

「──そうだ。其の場合、お前は"悪"になる」

思考の底に沈んでいた意識が、浮上する。
思わず声の方へと振り返るけれど、其の視線は矢張り、前を向いた儘で。
ただ余りに真っ直ぐに吐き出された言葉に、二の次も告げずに瞬いてしまうのだ。

「抑もが、ポート・マフィアは世間一般の基準で表さなくなって"悪"だ。非合法って言葉の意味は分かるか? "合法でない手段が普通"だから非合法なンだよ。其の幹部遣ってる俺は勿論、其の組織に喧嘩売って行方眩ませた手前の父親も、其の父親に見棄てられて組織に買われたお前も、形は違えど全員が紛う事なく"悪"だ」
「……そうですか」

──そう、なのか。

悪、と唇だけを其の形に動かしてみる。
悪とは、いつだって、正義に倒されるべきものだ。
其の終わりはどれもこれも憐れで情けなくて、苦しんで死ぬものが、多くって。
惨たらしい最後が約束された、惨めなもので。

──私も、惨たらしく死ぬんだろうか。
如何やっても思い出せない、お風呂場で死んだ母のように。
母の最後も、惨たらしく惨めなものだったのだろうか。
あんなに優しかった、母でさえ。

母は。母も、悪だったのか。
悪人の妻と云うだけで、あの人も、悪に分類されるものだったんだろうか。
そんな簡単に、人間は分類分けられてしまうのか。

「──だが、悪には悪の"規律"がある」

沈んでいた意識が、再度また引き戻される。
だけど今度はもうそっちは見ない。
だって見ても、何も変わらないことは知っているから。

「ポート・マフィアは、極悪非道だ。だが組織に準じる者に対しては非道じゃねェ。無能は直ぐ死ぬ。だが、利益を組織に捧げる者に対してポート・マフィアは何処までも手厚く保護し、寛容だ。組織に報い、差し出された手を取るのか。其れを決めるのは、結局お前自身でしかない」

──利益。
それはなんとも曖昧で、自己判断の難しいものだなと惘乎思う。
つまりは組織の、首領さんの求めている結果を出せれば、其れは利益として貰えるんだろうか。
果たして其れで、少しでも"有能"だと区別して貰えるんだろうか。

「腹を括れ。一度黒く染まった人間は、どれだけ必死こいて洗った処で元の色には戻らねェ。お前はもう表には戻れない。──なら、少しでも生き残れる様に努力しろ」

──善い人だなぁと、強く思う。
思い出さなくとも最初から、此の人は私に対して生き残る"ヒント"を投げ掛けてくれていた。

例えそれが意味をなさないものであっても、まるで少しでも抗えとでも云う様に。
生への渇望を棄てるなと、言葉の端々に滲ませて。

──何で此の人、"マフィアの悪い人幹部"遣ってるんだろう、なんて。
其れこそ私が踏み込む領域を越えていて、傾げた疑問をそっと胸の中へと仕舞い込んだ。

少しでも生き残る様に、生き残れる様に、努力する。
──だけど其れって、とても難しい。

「……中原さん、、、、
「………、…なんだ」

初めて名前を舌に乗せてみたけど、意外と思っていたよりも、違和感なく言葉は溶けて。
ほんとに、意外と、こんな簡単な事だったのかと、拍子抜けにも近い感覚が胸の内を占めていく。

私、もしかして。
変に、身構え過ぎていたのかもしれない。

「組織って、私に投資はしてくれますか」
「……勿論するが、其の規模はお前の結果次第だな。なんだ。なンか欲しいもんでもあるのか?」
「いえ。そろそろ制服以外の洋服が欲しいなぁ、と」
「…………は?」

出来る事を、一つずつコツコツと。
多分首領さんだって、最初から私が全部出来る、、、とまでは、思っていない筈で。
だから鉄斎さんを先生にして、だから今こうして私の事を"教育"していて。

失敗はまだ許される。
問題は、其の失敗を、如何に繰り返さないかだ。

「洋服……ん? 待て手前、服はいつも如何してる?」
「制服です」
「否……いや、んん? 私服は如何した」
「全部家にあるんですけど、私、あの家近辺に近づいちゃいけないので」
「…………着替えは如何してるんだ」
「一番最初に持ってきてもらった物をホテルでお洗濯して、如何にか」
「……………」

予習復習は大事だし、学んだ事は一つだって取りこぼしちゃいけない。それはわかってる。
少しでも早く覚えて、少しでも早く学び取るのは勿論大事なことだから、其れを蔑ろにするつもりはない。
でも、気負い過ぎるのは、もう止めても善いのかもしれない。
自分のペースで進んでいっても、許されるのかもしれない。

私は未だ子供で、其の事を首領さんは判っていて。
私は未だ発展途上だと云う事も、屹度あの人は、理解している筈だから。

「……あ゛〜〜。確認の為に聞いておく。好みの系統はあるか?」
「特に何も」
「今迄服の購入は如何してた」
「目に付いた服を適当に買ってました」
「…………そうか」

──ああ、うん。
明日から、もう少し頑張ってみようかな。

着々と近づくホテルの門に。
ひそりと息をして、私はそっと心を決めるのだ。

そうして、ついでに。
私の知らぬ間に、中原さんは何やらよく判らない責任感やらなんやらを勝手に一人で感じていたらしくって。
最早ほぼ住居と化しているホテルの一室に、後日それはもう色んなタイプの洋服が送りつけられる事になるのだけど──それはまた、別の話で。

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