鍵は首領さん──名前は"森"と云うらしい──に取り上げられ、帰宅申請の許可を貰った上で、付き人と共にでなければ家に足を踏み入れることすら許されないらしい。
厳重と云うよりは、間違いなく信用されていないんだろう。
恐らくは、もしも父親とコンタクトを取られたら、なんて事を考えているのかもしれない。
そんなこと、絶対にないのに。
ご苦労なことだ。
学校には、現在は取り敢えず在学の許可が貰えた。
だけど此れもあくまで"一時的"。
組織に何か不都合な事があった段階で退学させると断言されてしまった以上、私には逆らうことはできない。
──普通に通ってた時は、面倒くさいなとかしか、思ってなかったけど。
いざ通えなくなるかもしれないと実感すると、こんなにも名残惜しい気持ちになるのかと、自分の浅ましさに笑いもこぼれない。
ああほんと、厭な奴だ。
「……予約している、久語です」
「久語様ですね。──此方がルームキーとなります。奥のエレベーターから25階へお進み下さい」
「どうも」
特に記帳はすることなく、カードキーが納められているであろう折り畳まれた厚紙のようなものを受け取って。
そうして其の壗、指し示される壗奥のエレベーターへと歩いて往く。
そうしてボタンを押せば、数十秒ほどで目の前の鉄の扉は開かれていった。
「………、…」
中には誰も入っておらず、私はひとつ息を吐いた後に意を決して中へと足を踏み入れる。
そうしてずらりと並ぶ
扉が完全に閉じ切る直前まで、私に向かって綺麗にお辞儀しているスタッフの姿が見えて。
こんな小娘にもそんな態度を取らなければならないのだから、社会人って大変だなあ、と他人事にそう思う。
此処は、私が此れから所属することになる組織──ポート・マフィアの所有するホテルなんだそうだ。
所有するなんて簡単に云ってのけて呉れるが、ヨコハマでも屈指の高級ホテルである。
詰まりは、間違ってもこんな制服で往く処ではない。
──ポート・マフィア。
ヨコハマを掌握する、暴力的犯罪組織。
ヨコハマで起こる暴力沙汰は
「……そんなとこに、私は此れから居ることになるんだ」
エレベーターの中の壁に頭を預け乍ら、そう
その数秒後に、少しの重力抵抗を感じて、其の儘扉が開いていく。
如何やら、25階に着いたらしい。
──一瞬、"降りたくないなぁ"と云う感情が思考を掠めたけど。
でも、だから何をすると云うわけでもなく、
はぁ、とひとつ溜め息を吐いた後、私はゆったりした動作でエレベーターを降りるのだった。
二つ折りの紙に印字されている番号の部屋を探して歩いて、辿り着く。
そうして数秒躊躇った後、カードをスライドして部屋を解錠した。
「──うわぁ広い……」
部屋の中は、流石高級と云うかなんと云うか。
広々とした空間に、アイボリー色の落ち着きつつ高級感漂う家具が配置されていて。
敷き詰められた絨毯の厚さだとか、窓と云うよりはもう硝子張りの壁に広がる夜景だとか、正直規格の大きさに着いていけない。
此れは一体総額いくらなのか。
此の費用は一体何処から如何いう経路で発生しているのか。
其れらがもう、怖くて仕方ない。
私に借金と云う形で此処の費用が降りかかってきたら
あり得そうで、怖い。
「……」
やや逃げ腰で進んでいけば。
無駄に部屋が別れていて、眩暈がした。
何故只でさえこんなに広いというのに、更に部屋がある必要が何処にあるのか。
入って直ぐの部屋は、所謂リビングのようで。
入り口から見えた家具──大きなソファーとローテーブル、そして明らかに家のよりも画面の大きいテレビが配置してある。
そしてその向こうには小洒落た恐らく一人用の──其れでも大きいが──食卓と椅子があって。
窓辺と云っていいのか、硝子張りの壁と云えば佳いのか。
其のどちらかはわからないけれど、大層お綺麗な景色を眺め乍ら葡萄酒でも嗜む大人の姿がありありと想像できてしまって、なんというか、ぞっとした。
其うして、手前のソファーで主張する
明らかに、私の私物を纏め上げられている其れに、半分ドン引きし乍らも近付いていく。
其処に在るのは、あの時取り上げられた鞄と、恐らく本が詰め込まれているのであろう袋。
後は──必要最低限の、衣類。
「……パンツ、ブラ、あと、あ、Yシャツにインナーに靴下に……うわぁ私服ゼロだ……」
果たして此れを纏めた人物の性別はどちらなのだろうか。
女性であることを願うばかりである。
そうして紙袋の方を開けて。
其処に詰め込まれたものに、なんと云うか、ぐっと胸の中が重くなる。
「教科書、ノートと──絵本」
其処にあったのは、私の本だった。
宿題の為に机に置いていた教科書とノートとは別に、私の部屋からあるだけ持ってきたんだろう絵本の数々。
小さい頃から繰り返し読んできた其の背表紙は、大分草臥れて、古めかしい。
母との、思い出の品。
此れがあって佳かったと思うべきなのか、此れがあったからこんな状況に陥っていると思うべきなのか。
──否、此れのお陰で私は殺されずに済んだのだ。
だったら、するのはきっと、感謝の方で。
「……おかあさん」
ポツリと呟いて、俯いた。
名前を読んだって、もう意味はないのに。
私の母は、私が七歳の頃に殺された。
恐らくは、他でもない私の父の所為で、殺されたのだ。
母は、穏やかな人だった。
それでいて、本が大好きな人だった。
私の記憶の中の母は、いつも隙在らば本を読んでいて。
そんな母を真似する様に、私も母の隣にくっ付いては未だ文字も読めない頃から絵本を広げていた。
だってそうすると、母が気付いて絵本を読んでくれるから。
幼い頃の私は、母の優しい朗読が大好きだった。
ゆっくりとしたリズム。
台詞に合わせて上下する、甘やかな抑揚。
時折云い間違えては、照れ臭そうに笑う薄い吐息。
小さい頃、既に父は家に寄り付かず、私は母と二人きりだった。
幼稚園に往って帰って、母に本を読んでもらって、未だ読めない文字を追いかけた。
其れだけで、満たされていたのだ。
其の頃の私の中で、生活リズムの違う父の顔は朧気で。
滅多な事がない限り父の名前を出さない私に、母はいつも"お父さんがいなくて寂しくないの?"と笑っていた気がする。
其の返事は今も昔も変わらず"寂しくない"の一択で、母が居れさえすれば佳かった私にとって、父親と云う概念は其れだけ希薄なものだったのだ。
そうして其れは小学校に上がっても変わらず。
只家から学校までの距離が広がっただけで、私は早く家に帰って、母と絵本を読むのだけを楽しみにしていた。
リビングには母と私のお気に入りの本棚があって、其処に二人の好きな本を詰め込んでいた。
今日はこれ、次はあれ。
そう云っては、次第に蓄積される文字に次はなんの本を読もうとわくわくしていたような気がする。
でも、そんな日は長くは続かなかった。
いつも通り家に帰った私は、けれど直ぐ様其の"異変"に気が付いたのだ。
──母が、いない。
其れは、私からすると劇的な変化だった。
母は此れと云って近所付き合いをせず、私の下校付近には外出を必ず避けて、いつも"おかえり"と云ってくれていた。
だから、其の迎えの言葉が飛んでこないのは可笑しかったし、きっちりしている事を好む母らしかぬ荒れた玄関口に、幼い乍らに心が波立ったのを覚えている。
そうして、怯え乍らも母の名前を呼んでリビングに入り──ぎょっとしたのだ。
リビングは、酷い荒れようだった。
椅子は
花瓶は壁に叩きつけられ、無惨にも花は踏みつけられてひしゃげていた。
食器棚も割れ、中の食器も落とされていた気がする。
詰まりは、其れだけ"酷い"惨状だったのだ。
そうして、床には浅黒くなった血痕が点々と、それでいて何かが其の上を
其の"跡"は、お風呂場の方に続いていた。
そうして──其の後の記憶は、ない。
気付いたら私は"父"と手を繋いでいて。
気付いたら、新しい家に棲むことが決まっていた。
私の腕の中と、父の抱える荷物には、リビングにあった本があって。
其の本の重みが、私に、"もう母には会えない"事を思い知らせていたのだ。
なんで、とか。
なにが、なんて言葉は必要なかった。
母はきっと、あの家の、あの場所で、命を落とした。
──他の誰でもない、此の父親の所為で命を落としたのだと、幼い乍らに私は察してしまったのだ。
其れからは、私は父の小学校四年生迄、父の雇った家政婦に面倒をみられ。
其処から先は、父の指示で時折家を引っ越し、点々とし乍らずっとほぼ一人で生きていた。
父は更に家に寄り付かなくなり、家に帰ると云うよりは、葡萄酒等の保存品を私に管理させる為に家に帰るよいうよりは寄っていた様に思える。
父には、一体何を預けられただろう。
葡萄酒、時計、後は──凡て、取るに足らないもの。
"あの家"から持ってきたのだろう"母の遺品"だけは、いつも引っ越しの度に纏めて持ち込んで。
他のものに対しては、私も、そして恐らく父も、なんの執着も抱いていなかったのだ。
そうして
詰まりは──そう。
私も、父にとって
だから、声すら掛けずに独りで消えた。
首領さんは私を使って揺さぶるだとか云っていたけれど、此の様では、きっと抑々成功するわけがない。
だって父は、私なんて如何でもよかったのだから。
「──……」
明日着る予定のYシャツ等の衣類を引き抜いて、一つにまとめる。
此れは如何しようか、恐らく隣の部屋にある、ベッドの脇にでも置いておこうか。
首領さんは、"暫く此処で生活しろ"と云っていた。
なのでつまり、私は少なくとも数日は此処で寝泊まりをし、向こうの指示で
此処にはない、残りの母の遺品は如何なって居るのだろうか。
他の本は、写真は、其れらを回収することは、許されるのだろうか。
「写真は、ほしいなぁ……」
ギィ、と軽い音を立てて、隣の部屋に続く扉を引けば──
大きなベッドは勿論、鏡や化粧台、そうしてクローゼットに、作り物の部屋だなぁと感想を抱く。
なんでそう思ったのかは判らない。
けれど、何故だかそう感じてしまったのだ。
ベッドの横のサイドテーブルに衣類を置いて、其の儘ベッドに腰かける。
二人で使っても余る程大きな造りのそれは、ギシリと少しだけ軋みを見せる。
そうして、その色合いの所為だろうか。
少しだけ、あの部屋で見た少年のベッドを思い出した。
──あの子は、何故閉じ込められて居るんだろう。
白黒の、不思議な髪色。
真っ暗闇の、不安定な瞳。
歳は幾つくらいなんだろうか。
それくらい、聞いてみればよかった。
なんとなくそう思って、なんとなく、息を吐く。
そうしてポケットに入った儘の"携帯"の振動に、ゆっくりと目蓋を持ち上げて。
まるで波が引くように鎮まっていく感情の揺らぎを、他人事の様に感じながら"それ"を右手で触れた。