「世界はほどほどに重たい」


振り出しに戻って、最初のあの部屋。
最初と違うのは、あのおじ──おにい──"リンタロウ"と云う人の目尻がやや赤くなっている事と。
其の人の隣に、金髪の大変愛らしい少女が居ると云う事。

多分、あの子が放送で聴いた"エリス"ちゃんなんだろう。
好奇心旺盛そうな瞳は、私を見て楽しそうに微笑んだ。

「はいじゃあ、其処に座ってくれるかな。あれ、持ってた"本"は如何したの?」
「えっと、お兄さんたちに渡しました」
「首領、此方にあります」
「うん。じゃあ一寸其れ頂戴」

流れる様に私の鞄の中から絵本が数冊引き抜かれる。
使い込まれ少し草臥れた"ごんぎつね"と"100万回しんだねこ"の絵本。
其れをリンタロウさん──首領さんの方がいいんだろうか──が、受け取ってぱらりと開いた。
其の横には、同じく覗き込む、金髪の少女。

「フツウの絵本だわ」
「うん。普通の絵本だねぇ。読んだのは此れなんだよね?」
「はい。其れを読みました」
「ふぅん」

──え、なんだろう此の感じ。
なんでそんな、何かを調べるみたいに本を捲っているんだろうか。
それとも単純に絵本が好きなの?えっ怖い。

「お嬢さん、君、"異能力"って知っているかい?」
「……あの、たまに聞く、超能力的なあれですか?」

質問に質問で返してしまった。
だけど確証がないから仕方ないと、訝し気にそう問いかければ。
人の食えない笑顔の儘で、"首領"さんはぱたりと絵本を閉じた。
そうして、私の二冊の絵本は金髪の少女──"エリス"へと渡される。

「そう、超能力的なあれ、、、、、、、だね。もっと判りやすく云えば常識では起こりえない現象を起こす特殊な力のことだ」
「…………」

──だから?
なんで突然そんな話になったのかついて往けずに、なんと返事をすればいいのか判らず戸惑ってしまう。
なんて答えるのが正解なんだろうか。
"凄いですね?"とか、"本当に居るんですね"とか?
ただ、間違えたことを云ってしまって反感を受けるのも嫌だ。
なんせ向こうは拳銃を持っているのである。
拳銃だぞ、拳銃。

「なんでこんな話を持ち出したのか、不思議そうだねえ」
「えっえっと、はい……」
「うん、素直でよろしい。じゃあ云っちゃうね。君ね、異能力、、、者だよ、、、。しかも幻惑系──否、精神作用系かな。結構、凄い奴」

「───は?」

え、今なんて?
そう固まる私の前で、然し目の前の男性は言葉を続けていく。

「先ずね、私は最初君の様子を見ていなかったのだけれど──モニター監視役の異変、、が伝えられてね。慌てて監視室に往ってみれば、大の大人が数人泣き崩れていた。勿論、モニターの向こうに居る大人たちも、Qもね」
「…………、…」
「私が部屋に往った時には君はもう絵本を読み終えていて、戸惑ったように周りを見渡して居た。周りは泣き崩れて動けないでいるのに、君だ、、けが、、無事、、だっ、、。つまりは、其の"異常事態"を引き起こしたのは君だと云うことになる」
「……いや、そんな、でも。わ、私、本当にただ、読んだだけで…………」

さも大惨事、若しくは大事みたいな様子で語られる話に、慌てて口答えをしてしまう。
話の途中を遮るような事をしてしまって怒られるかと思ったけれど、意外とそんな事もなく。
ただ、語られるあんまりな内容を受け入れられない私に、然し目の前の笑みは、崩れない。

「そう、君はただ絵本を読んだだけ。其れが絵本だけなのか活字などの書籍でもいいのかは未だ判らないが、君の異能力は"読んだ物語の世界へ相手の精神を引き摺り込むもの"なんだと思うよ」
「ひ、引き摺り込む……?」
「そう、引き摺り込む。怖いねえ」

全く怖がっていない様子で云われても、緊迫性も信憑性もない。
と云うか、意味がわからない。
物語に引き摺り込むって、え、なに。

「君が絵本を読んだ瞬間から、私の視界は不思、、議な、、もの、、になってね。眼を瞑っても開いても、視界に、、、映る、、のは、、絵本、、らしき、、、風景、、なん、、だよ、、。私は此の"100万回しんだねこ"とやらを読んだことはなかったのに、視界と思考を埋め尽くしたのは、此の絵柄の世界だった」
「絵柄の、世界」
「そう。此の絵柄の猫がね、其処に居るんだ。明らかに現実的ではないのに、なのに、違和感なく存在している。そして、私を取り残して其の世界は君の、、語り部、、、と共、、進行していった」
「………」

──え、なにそれ私も其の世界が見たい。
なんて、明らかに場違いな事を思ってしまう程度には、其の話は正しく空想の、信憑性の感じられない夢物語みたいだった。
いや、本の世界に引き摺り込まれるって、なにそれ。
え?漫画とか読んだら如何なるのそれ。

「そうして、更に驚異的なのが、"感情"だ。私は日頃、其処まで涙脆くもない筈なんだけど、如何にも──其の語り部の中で、激し、、く心、、を揺さぶ、、られ、、てね、、。気づいたらもう、年甲斐もなく大号泣さ。いやぁあそこまで泣いたのは久しぶりだよ」
「あら、リンタロウはいつも泣くじゃない」
「エリスちゃんは別なの」
「………」

一瞬、幼い少女に泣かされる成人男性とは、と思ったけれど。
其れは深淵を覗きそうなので、考えるのは止めた。

目を伏せて、考える。
取り合えず、私が読んだら、其れが現実──否、現実ではないのか。
兎に角、視界が、読んだ世界のものになって?
──いやいやいや、そんな、莫迦な。

「信じられない?」
「……はい」
「因みに君は朗読している時はどんな風なんだい? かなりの勢いで君の周りの人間は泣いていたと思うけれど、気付きはしなかったのかな」
「………いや、真実ほんとうに、読むのに集中しちゃって……」
「そう、周りの状況、、、、、が認識出来、、、、なくなる、、、、んだね、、、

──なぜだか、ひやりと肝が冷えていく。
なんか、とんでもない事を口走ってしまっていると云うか、如何しようもない事をしでかしてしまっていると云うか。
だけど、何を如何するのが正解なのか判らなくて、問われるままに応えてしまう。
だって、私の周りには、沢山の凶器を握る人たちが居る。

じわじわと冷えていく指先に。
気付けば、ごくりと喉を鳴らしていた。

「──真実ほんとうはね、君、死ぬ予定だったんだ」

さらりと溢された言葉に。
ひくりと唇が動いたけれど、其れだけだった。
だって、それは。なんとなく、わかっていたから。

「君のお父さんは大変な損失を出して呉れてね。今現在見事な逃走劇を繰り広げて呉れているけど、まあ逃がすわけにも往かないだろう? だから、手っ取り早くご丁寧に置いて往って呉れた君を使って揺さぶろうと思っていたんだけど──真逆まさか、娘が異能力者だとは思わなかったなぁ」

君のお父さんは無能力者だから、全くのノーマークだったよ。

損失。逃走。揺さぶり。
揺さぶりって何するんだろう。
あの男の子は関係あるんだろうか、あるんだろうな。
たらりと、首筋を冷たい汗が伝っていく。

「異能力者はね、貴重なんだ。抑々そもそも余り居ないし、居たとしても使える、、異能かは判らない。異能と判断しきれない微弱なものも多いからね。だから私としては、余り殺したくはないんだよ」

──殺したくないと、云う、癖に。
カチャリと、右隣から聴こえる音に、視線だけをゆらりと向ける。

其処には、黒々とした拳銃、、があって。
ああ、今の音は安全装置を外した音かと、静かに速度を上げていく鼓動に、乾いた口で其れでも唾を呑み込む。

「今此処で選びなさい。死ぬか、くみするか──私は、君の意志を尊重するよ」

ゴリ、と米神に冷たい鉄が押し付けられる。
私の手元には、"物語に引き摺り込める絵本"は無くて。
此の為に私か荷物を取り上げたのか、と只冷え切った思考で考えていくことしか、出来ない。
思考回路なんて、真っ白だ。

視界の端で、トリガーに指が掛けられていくのが見えた。
詰まり、余り時間が貰えない。
もたもたしていたら、答える前に打ち殺される。

何て云うか、なんて。
そんなの、選択肢なんてあってないようなものだろう。

──走馬灯なんてものは、見ることは出来ないようだ。
もしも見ることが出来たのなら、此の儘死ぬことも受け入れられたのかな、なんて。
思い乍らも、でもそんなの、やっぱり選ぶことなんてできない。

「───これから、よろしくお願い、します」

喉から絞り出す様に吐き出した言葉は、然し心とは裏腹に確りとした音になって居た。
嗚呼、此れは本当に正しい答えだったんだろうかと、疑問に思う間もなく米神の感触は遠のいていく。
は、と擦れた呼吸が喉からこぼれた。

「うん。宜しくね、久語紬ちゃん」

──なんだ、名前知ってたんじゃん。
なんて言葉は、漏れることなく苦笑いだけが引き攣れた。

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