「あなたを律する役割だから」


私が交わした"約束"は、たったの一つ。
決してQを──傷つけない事、、、、、、

触れるのはセーフ、けれど抓るのはアウト。
撫でるのはセーフ、けれど叩くのはアウト。

"攻撃"と云う概念全てを、決してQに行ってはいけない。
それさえクリアするのであるならば、触れることは別に構わない。
──其れが、私が約束したたった一つのこと。

「ねェ、"攻撃"って、例えば其の傷口をなぞるのもダメなの?」
「……お姉さんって、結構図太いって云われない?」

二人なんて軽々と受け入れる大きなソファーに並んで腰かけて。
私が撮った写真を物珍しそうに覗き込むQを惘乎ぼんやりと見詰めながらそう問いかけてみれば。
どちらかと云うと、やや呆れた様な声音の儘、此の華奢な子供は私を見上げて溜息を吐いた。

「そう?」
「だって、普通、、思わないよ、そんなこと。……と云うか、僕に"隣に座ろう"なんて云ってきたのも、お姉さんが初めてだよ」
「そうなの?」
「お姉さんは頭が可笑しいと思う」

──え、其処まで云う?
真逆の発言に、ほんの少しマジか、と驚きつつ。
然し嘘は云ってなさそうな様子に、もう一度マジか、と今度は少しぼやきつつも拳一つ分開けて隣に座るQをやっぱり見詰める。
ツートンカラーの髪の毛は、頭の天辺までも綺麗にきっちり分かれてる。
真実ほんとうに、如何やって染めているんだろう。
若しくは地毛なのかもしれないけれど、其れは少し信じられない。

「でもさ、セーフライン知りたくない? 何処までがOKなのかって、接していく上でかなり重要だと思うんだけど……」
「……それを気にする人、お姉さんが初めてだって云ってるの」
「へぇ。割とこう、思ったよりも……大雑把なんだね此処の人たち。意外」

なんてことを呟けば。
じっと、下から黒い瞳が私のことを静かに観察する様に見ていて。
其れに私も迎え撃つように見下ろしていれば、真ん丸とした其の瞳は、私を見てゆるりと細まった。

「じゃあ──ためしてみる?」

そう云い乍ら差し出されたのは、夥しい、、、、傷痕の、、、目立つ、、、細い腕で。
引っ掻き傷──と云うよりは寧ろ、鋭利な針金か何かで抉ったような、切り裂いたような傷痕ばかり。

其れらはほぼ塞がってはいるものの、時折まだじんわりと赤みが差しているものもあって。
此れは虐待なんだろうかと思う私は、なら、と誘われる儘に其の腕に指を這わせた。

肌の抉れた其の場所は、少し歪つに膨らんでいる。
それに痛そうだなぁと惘乎ぼんやり思って。
そうして気になったのは──指が肌に触れた瞬間に、びくりと躯を跳ねさせたQが息を呑んだこと。

「、な、な」
「あっごめん。……やっぱりダメだった?」

正しく吃驚と表現するに相応しい其の表情に、ぱっと触れた指先を離す。
そうして両手を開いて"もうなにもしないよ"とアピールするんだけど──如何にも、Qは固まった儘で動かない。

「ほんとごめんね、吃驚させちゃったね」
「…………い、や、いや、べ、別に」

カチンコチンに固まったQは、そう云って、差し出した腕をおずおずと引っ込めていく。
捲った袖も元に戻して、傷だらけの腕はすっかり服の中へと隠れていってしまった。
ぶかぶかの袖は、肌はおろか腕の形すら見せやしない。

ふるりと、小さく震えた唇が開いて動く。

「──……ほ、ほんとに、触ると思わなかった」

其れは、どちらかと云うと"呆然"と表現するに相応しい様子で。
私の指先が触れた場所を確かめるように擦る姿は、酷く幼い。

其れに私は、ひっそりと驚く。
だって、触ると思わなかったって──なんで?
此の子も、異能力、、、とやらの保持者であることは判っている。
けど、此の子の其れ、、は、そんなにも、触れることすら忌避するほど恐ろしいものなのだろうか。

「……」

聞こうか聞かまいか悩んで──やめた。
だって、其れを問いかけたら、今以上に距離が離れるような気がしたから。

「、ぁ」

だから私は、ゆっくりと、もう一度指先を触れさせる。
今度は腕じゃなくて、其のふくりとまろやかな、頬に。

「だって、触っていいって云ったじゃない」
「っ、ぁ、あぶなぃ、よ」
「……そうなの?」

カチコチのQは、ひゅう、とか細い呼吸を溢したまま動かない。
其れはまるで、少しでも動いたら凡て終わるとでも云いたげで。
何かに怯える様に躯を強張らせては、私のことを只じっと見ているのだ。
私のことを、信じられないものを見るような目で、見続けていて。

──別に、命が惜しくない訳ではない。
散々云われたし、脅されたし、忠告された。
生きたいか生きたくないかと問われれば、間違いなく私は生きたい。
私を見捨てた父よりも、父の所為で死んだ母よりも、意地汚くても佳いから私は生き残りたい。

だけど、だけれども。
其れと同時に、こうも思ったのだ。

「……別に、危なくなんかないよ」

腕を伸ばして、ゆっくりと小さな躯を抱き寄せる。
慎重に、少しずつ力を込めていけば、腕の中の存在はひくりと喉を鳴らした。
カチカチのコチコチ。まるで、如何やって力を抜けばいいのか、知らないみたい。
ああ、此れは正しく、人のぬくもりを知らない子供だ。

此処は深い深い、地下のその亦深く。
見た目だけはお洒落で上品、だけど、日の光なんて当たることはない地中の奥深くに此の部屋はあって。
きっと、恐らく、此の子に話し相手なんかいないんだろう。

──あれから、ずっと考えていたのだ。
なんで携帯で、私なんかとの会話を続けてくれたんだろうって。
確実に地雷を踏んでしまったのに、暇潰しにしては確りとした受け答えまでしてくれた。
そうして、考えて考えて──辿り着いたのはひとつだった。

此の子はきっと──愛情に、餓えている。

ふっふっ、と短い呼吸を宥める様に、背中をゆっくり撫でていく。
落ち着いてって、大丈夫だよって、囁くみたいに。
そうしていれば、次第に其の呼吸は形を整えていって。
ゆるゆると、力の抜けていく躯が、くたりと私の躯に寄り添った。

「ねぇ、"Qちゃん"って呼んでもいい?」
「……」
「私のことは、そうだな……。じゃあ、"紬ちゃん"で」
「……なんで?」
「だって、そっちの方が素敵でしょ」

私、あんまり人から下の名前で呼ばれないんだよね。

そう呟いてみれば、おずおずと私の躯に触れた指先が、きゅうと其の儘服を掴む。
そうして強張った背骨がやわく弛み、ゆっくりと吐息が解けた。

「……友達いないんだ」
「喋る子は居るんだけどね。なんでかいつも、其処までいけないの」

鼻を擽る匂いは、なんの香りだろうか。
人工的な匂い。柔軟剤の匂いはしない。
子供って甘い匂いがするものかと思っていたけれど、それはもっと、小さな子限定なのかな。

なんとなく、Q──ちゃんを、抱き締めた儘、ゆらゆらと躯を揺らしていく。
赤ん坊をあやすような感じ。此の子は、そんなに小さくはないんだけど。
でもなんとなく、そんな感じ。

そのついでと云わんばかりに背中を優しくとんとん、と叩いてやれば。
ふふ、と胸元で吐息が揺れた。

其れ、、あと少し強くなったらアウト、、、だよ」
「ええ〜〜思いの外アウト判定厳しいねぇ」
「それくらい、僕は繊細なの」

そう云いながら、"Qちゃん"はふぅ、と亦ひとつ息を吐いた。
肺の中に溜まったものを吐き出すような其れに、躯をゆらゆらと揺らした儘、ずりずりとお尻を寄せていく。
変に躰の距離が空いているのが、一寸気持ち悪かったのだ。

私は、あれから考えた。
考えに考えて、考え抜いた。
そうして、と或る結論に辿り着いたのだ。

此の子は、Qちゃんは、愛に餓えている。
こんな陽の目も拝めない場所に閉じ込められて、周りは大人ばっかりで、相手をしてもらえているのかも判らない。
そうして、そんな子は、基本依存性、、、が高い、、、のだ、、

私は此の子の教育係。
私は此れから、此の子と触れ合い、相手をしなければならなくて。
そうして此の子は、恐らく一寸した方法で、私の命を脅かせてしまう、存在で。

私は、右も左も判らない。
何が善くて何がいけないのかが判らない。
此の子の地雷も判らなければ、此の子の危険さえも判らない。
判らないから──此の子に、気を付けてもらうのだ。

私以上に、此の子が気を張れば。
私を殺さないように、此の子が注意して呉れれば。
それだけできっと私の生存率は跳ね上がるに決まってて、それだけできっと、私はより多くの時間を生き残れる。
死なないで、済むことか出来る。

──最低なことをしようとしてるのは、判ってる。
只でさえ脆いであろう此の子の心を、悪戯に弄んで傷つける行いであることは、判っているのだ。

でも、それでも私は、生き残りたいから。
だから──だから。

「時間はたっぷりあるから、私、ゆっくり、貴方と仲良くなりたいな」

限られた時間を、私は少しでも伸ばせるように。
その為ならば、此の小さな心だって、翻弄しよう。
だって、今の私には、それしか方法がないんだから。

「これからよろしくね、Qちゃん」

──ごめんね、Qちゃん。
心の内にそっと滲む歪んだ後悔を、呑み込んで。
優しい声でそう取り繕えば、腕の中の子供はゆっくりと私から躯を離していく。

そうして、今度は私の頬に、其の小さな手がぴとりと触れた。
やわっこくって細い、子供の手。
覗き混んでくる瞳に映る私の顔は、酷く優しい、、、顔をしていて。

「──うん。仕方ないから、仲良くしてあげる」

鼻先が擦れ合う程近くで、じわりじわりと解けていく瞳。
不安定な黒は其の儘なのに、其処に淡い色が灯ったような気がして、私はゆっくりと瞬きをする。
其れはまるで、断罪を受けるような心持ち。

同じように頬に触れて、其の儘こつんと額を合わせれば。
楽しそうに目の前の子供から鈴のような笑声がこぼれて、私も小さく笑う。
だって、思ってしまったのだ。

ああいつか、此の罪が裁かれる時は。
きっと此の子の手で罰は下されるのだろうなって。
来なければいいと願うのに、其れはきっと、いつかくるんだろうとも。

思いながら、やっぱり私は祈るように目蓋を閉ざすのだ。
だってそれでも、私は今を生き残りたい。

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