目の前には、はんなりと笑う婦人、、の姿。
其のしずしずとした淑やかな居住まいに、何処となく居心地の悪さすら感じ乍ら彼──中島敦は、其の視線を如何にも彼女に向けられずにいた。

然し其の理由は至って単純で。
詰まる処、彼の過ごしてきた中で、こんなにも育ちの、、、善さ、、そうな、、、人は未だ嘗て居なかったのである。

だからこそ、敦は割と今へっぴり腰だ。
だって、変なこと云ってしまって、笑われてしまったら如何しよう。
──なんて、ことを思っていれば。

「はじめまして、中島様、、、。きちんとしたご挨拶が未だでしたわね。私は木下菫。どうぞ木下でも菫でもお好きにお呼びになって下さいまし」

──いま、なんて?
朗らかな声に、一秒ほど敦の思考はぴたりと止まって。
然し其の言葉を理解した瞬間に、ぎょっと、其れこそ蛇を見た猫の如き飛びのき方で敦は過剰なまでに飛び跳ね、最早ビビり散らしながら慌ててこう云うのである。

「な、中島様……!? 僕なんてそんな、様付けされるような人間じゃないので……! 普通に敦って呼んで頂ければ其のあの……っ」
「まあ。では、敦様とお呼びしても?」
「あちゅッあ、あつしさま……!?!?」

──エッ僕なんか様付けされてる!?
なんて思う、現在進行形でビビり続けている中島敦である。
もうほんと、其う云うの自分に確りした人権があると勘違いしそうになるからやめて欲しい。
うっかり勘違いしたら、困る。

否然し、なぜ、様付け。
何故、自分に様付け。
敦様て。

確実に自分の方が年下なのに、此の大和撫子然としたお姉さんは何故自分に様付けなんてするのだろうか。へりくだるのだろうか。
……間違っても、自分なんて様付けして貰えるほど、大層な人間じゃあないのに。

なんて思う敦に対して、然し外野──と云うか、探偵社が誇る探偵、、である、江戸川乱歩は面白そうにこう言葉を投げ掛けたのだ。

「諦めなよ敦。其処の彼女はもう其う云うものなんだ、、、、、、、、、。一度其う仕上がってしまった以上其れ、、を覆すのは難しい上に時間が掛かる。なにより本人が其れで善いとしてるんだから、君も受け入れれば善いだけのことさ」
「え、ええ……?」

その、なんかよくわからない暴論とも云える発言に。
一寸、それでもやっぱり様付けは勘弁してほしいですと敦が口を開きかければ。

「そんな事より、お菓子! ねぇ菫〜〜僕お腹空いたんだけど」
「あら。直ぐにご用意致しますね。お饅頭ときんつば、どちらが善いです?」
「ん〜〜、きんつば!」
「はい。今お持ち致しますので、少々お待ちくださいまし」

そう一言二言言葉を交わしたと思ったら、菫という彼女は敦ににこりと微笑んで給湯室へと引っ込んでしまった。
恐らく、一緒にお茶の準備もするつもりなのだろう。

「……あの、乱歩さん」
「んー?」

なので敦は、此処ぞとばかりに乱歩に滲み寄り、其の儘縋る様な声を出した。
それもこれも、あの様付けを止めて貰う為である。

「乱歩さんから如何にか云って貰えませんか……? 僕ほんとにあの、様とかつけて貰う様な人間じゃないんです……」
「自分で頼めば?」
「じ、自分で頼んで駄目だったからお願いしてるんですよ!」
「僕が云った処で結果は変わんないと思うけど。其れに、呼称が変わったら変わったで……」

「お待たせ致しました」

思わず、黙る。
と云うか、勝手に口が閉じてしまった。

そしてそれは何かを云い掛けていた乱歩も同じだった様で──否と云うよりも、乱歩の視線は彼女の持ってるお盆に釘付けらしい。
詰まりは、先刻さっきの敦の"お願い"なんてもうすっかり忘れ去られてしまっているのだろう。

茶菓子に負けた自分の図を頭の中に浮かべ乍らも。
だが何を云っても既に無駄な事は判っている為、敦はぴたりと閉ざした唇の儘、縮こまるのだ。
──本当に、こうも上品な人に対して、如何接すればいいのか判らないのである。

「……え」

然し、そんな敦の前に、コトリ、、、と置かれた湯飲みときんつばが載せられたお皿に。
思わず真ん丸と目を見開かせて驚いていれば、仄かに聞こえる笑い声。

「敦様も、そろそろ休憩されても善い頃でしょう? お気に入りの和菓子屋さんに包んでいただいたんですよ。是非、召し上がってくださいな」
「あ、ありがとうございます……」

探偵社は、基本間食は許容されているものの、それでも大っぴら、、、、に事務所で間食タイムが在るのは乱歩くらいだ。
それ以外の人間は、働いている人の迷惑にならない様に下の"うずまき"なんかで息をつくのが定番らしく、だからこそ、こうして堂々とお菓子──しかもこんなに高そうな和菓子を食べるだなんて事は入社したての敦は初めてで。

「……ほんとに、僕も食べていいんですか?」
「はい。その為に準備したんですもの」
「あ、ありがとうございます……!」

にっこりと微笑む顔は、裏なんてなさそうで。
何となく言葉に詰まった敦は、一度唇をまごつかせた後に、ぺこりと頭を下げて茶菓子の載った皿と、其処に一緒に乗せられていた小さなフォークを手に取った。
シンプルな白磁の皿と、飾り気のない銀色のフォーク。
探偵社の給湯室にいつも常備されているものだ。

なんとなく、どきどきし乍ら表面のやや固いきんつばをぐっとフォークで切っていく。
けれどそんな用意されたフォークを真面目に使っている敦とは違い、使う時間すらもどかしいとでも云う様に乱歩は其の儘手で掴んで口の中に入れていた。

大きな口だ。
一つ目のきんつばが、ペロリと平らげられていく。

其の姿を見乍ら、手を使うのが正解なのかフォークを使うのが正解なのか──否そもそも和菓子にフォークって使うものなのか?なんて事を考えつつも。
でももうフォーク使っちゃってるしな、と一口サイズに切り分けたきんつばを刺し持ち上げて、敦は其の儘口の中へと生まれて初めて食べる其の甘味を潜り込ませてみた。

其の味は──あまい。

「……甘い」
「あら。甘いものは苦手?」
「い、いえ! その、はじめて食べたので……美味しいです」

小首を傾げ乍ら問われた言葉に、慌てて敦が訂正すれば。
菫は、なら善かったと微笑み乍ら「お口の中が甘くなり過ぎたら、お茶を飲まれて下さいね」と机に置かれた湯飲みをそっと敦の方へと近づけた。

それら一連の事に、なんかもう、なんにも云えなくなってしまって。
如何にも覚束ない居心地の悪さ──否違う、気まずさに近い何かを感じ乍らも、敦はもごもごと口を動かしていく。

なんというか──綺麗な人だなと、思ったのだ。
口調も、その佇まいさえも。

ごくりと、呑み込んだ口の中がじわりと甘い。

「……菫さんは、其の、給仕と看護士? を、されてるんですよね」
「あら、何方にお聞きになったの?」
「え、ええと、谷崎さんに……」
「まあまあ。うふふ。はいそうです。私は此処で、お茶汲みのお仕事と看護士──晶子様の助手を遣らせて頂いております」

──与謝野さんの、助手。
敦はまだきちんと話したことはないが、与謝野晶子と云えば、此の探偵社の専属医だ。
其の与謝野と云えば、探偵社の事務員ではなく"試験"に合格した社員で。

───と、云う事は?

「ええと、其の、菫さんも、与謝野さんと同じく探偵社の社員さん、ですか?」
「そうですねぇ。其の"社員"と云うのが"試験"を経た人間と云う意味でしたら、私は"社員"ではありませんわ。只のお茶汲み、只の看護士です」
「あ、そうなんですね」
「ええ、そうなんですよ」

──なんだ。社員ではないのか。
と云う事は、あの試験は受けていないと云う事で。
この淑やかな人は、見た目通りに無頼派ではないと云う事で。

なんでか判らないけど、何故か其れ、、に酷く安堵感を覚えつつも。
すっかり止まっていた手を動かしてきんつばを口に含み始める敦に、然し、何故だか菫は笑顔を止めなくて。

「え?」

寧ろ色の濃くした微笑みの儘、、、、、、菫は何故か、するりと敦の手を取ったのだ。
そう、フォークを握る方とは、反対の手を。
次いで、其の瞬間に聞こえた乱歩の「あ〜あ」と云う声が、なんとも意味深で。

「ええと、え、菫さん……?」
「私、社員ではないのですが……看護士ではありまして」

ふっくらとした手入れの行き届いた両の掌が、まるで宝物でも包むかの様に敦の左手を閉じ込めている。
其の柔らかい指先の感触に、女性慣れしていない敦はそれだけでもうたじたじ──と云うか、何が如何なって居るのか判らない。

──なんで今自分は此の人に手を握られているのか。
そう思うばかりで一向に言葉の出ない口は、ごきゅりと中に入っていたきんつばを呑み込んだだけで矢張り言葉を吐き出すことはして呉れなかった。

「異能力──『百花譜ひゃっかふ』」
「えっえっえ!?」

敦の目の前で、異能特有の、躯の表面を覆う膜の様な光が一瞬だけ菫を包み込む。
菫の花を彷彿とさせる淡い薄紫の光は、其の儘泡の様に掻き消えてしまったけれど。
だけれど其れは、決して何も起きていない、、、、、、、、と云う事でないのは、明白で。

「いま、え、なにを」
「…………」
「え、あの菫さん……?」

そうして浮かぶ、先刻迄の微笑みは何処に往ったのかと聞きたいくらいの真顔に。
美人の無表情って怖い、だなんてあたふたし乍ら肩を竦めた敦は、其の手を振り払うことも出来ずに縮こまっている。
否でもほんとに、美人の真顔怖い。

「……敦様」
「は、はい……?」

ゆらりと呟かれる様子は、先程と打って変わってまるで亡霊の様で。
此の変わりようは一体、と呆然とする敦に対して、然し菫はうっそりと微笑んで。
そうして、薄く細められた瞳の儘、きんつばの事なんてすっかり忘れてしまった敦の手を引いて、こういうのである。

「──一寸、彼方に往きましょうね」
「あ、あちら……?」

──それってどちら?
なんて思う敦を他所に、ぐいぐいと手を引き何処ぞに連れ込もうとする菫に、なんかもうたじたじで。
思わず誰かに助けを求めようとして──其の時になって、敦は妙な事に気が付いたのだ。

───なんか、もの凄く見られているぞ……?

視線が、何故か己に集中しているのである。
お菓子に夢中な乱歩は除き、あっちからもそっちからも、なんかこう、意味深な視線が敦の事を貫ているのだ。
しかも其のどれもが、憐れむような同情するような、なんか生温かいタイプのもので。
そしてなんか、どれもこれもが全部男性社員からで?

と云うかアレだ。
思えば、こういう時に誰よりも早く"遊んでないで働け!"と云ってきそうな国木田迄、何故か敦の事を遠くから見守る様に──否見棄てる様に眺めているのである。

──え、なにこれ。
え?もしかしてこれって拙いのでは?なんて思う敦だけれども。
然し時既に遅しというように、其の細い躯の何処にそんな力が……と問いかけたくなるような力で、ずりずりとと或る部屋に──医務室だと教えられた部屋に押し込まれていくのだ。

否でもえっなんで医務室。

「えっ僕えっ悪いとこなんてありませんよ!?」
「うふふ」
「いや本当にっちょっ大丈夫なんですって……!」
「うふふふふ」

思わず、へっぴり腰になり乍ら抵抗を試みるのだけれど。
然し本当に其の躯の何処にそんなと突っ込みたくなる力でずりずりと、そりゃもうずりずりと敦は部屋に引き摺り込まれていくのであった。
そりゃもう、容赦なく。




「えっ寝る? 此処に……? え、あ、はいわかりましたけど、えっここ診察台ですよね……?」
「脱ぐ!? ええっちょっそんな脱ぐだなんて出来ないですよ……! …………診察? マッサージ? えっ僕の躯って悪いんですか……?」
「……根、根が絡まる……? それって解かなかったらどうなるんですか……? か、枯れる……!」
「……ええと、その、わかりました。脱ぎます。でも一寸其の、傷があったりしてみっともないというか其の、恥ずかしかったりするので……。あ、タオル掛けてくれるんですね。其れなら……」
「…………よろしくお願いします……」




「あっ!? ま、まって……! なんっなんかそのっえっなに……!?」
「ッ、っ……っ! うっ、うう〜〜〜っ、う゛っ! ン゛っ」
「ぁっ……、うっはぁ、……っ、ぁ、あ……やだっ、や、やぁ、あ……っ」
「ひっ、……ン、もゃ、……やぁ、う……っ」
「う、ぅ〜〜〜っ、あ、はぁっ、……ッ、ん」
「ぁ、あ、あ……ッも、うぁ、」
「……、……、…ぁ」




「………………」
「…………」
「……」




ギィと音を立てて、医務室の扉は開かれていく。
其処からは"一仕事終えました"と云わんばかりに達成感漲る笑顔で汗を手巾ハンケチ拭う女性──菫が出てきて。
其のすっきりと称するに相応し過ぎる表情に、探偵社の男性社員たちはみな憐れむ眼差しの儘、其の扉の向こうでぐにゃぐにゃに力尽きているであろう青年の姿を想って、各々の方法で黙祷を捧げていた。
何て云ったって、此処に居る面々は、誰も彼もが"体験済み"なのである。

そんな、知らぬが仏、触らぬ神に祟りなしと云わんばかりの男性社員たちを他所に。
寧ろ嬉々として、菫に近づき其の肩に腕を回す婦人が一人。

美しい黒檀の髪に、金の蝶の髪飾り。
探偵社が誇る専属医である与謝野晶子其の人は、なんとも愉しそうな笑顔の儘で菫の顔を覗き込んではこう言葉を掛けるのである。

「随分とお愉しみ、、、、だったじゃァないか。如何だい? 敦の躯は、満足いったのかい?」

意味深なんて通り越した言葉は、なんともまあ、愉悦が滲み出ていて。
嗚呼面白がっていらっしゃる、と察した男性社員たちは、そっと自身の存在感を消しにかかるのである。
なんてったって、藪蛇は勘弁なのだから。

「うふ、うふふ。はい、其れは其れはもう……敦、とぉっても可愛かったですわぁ」
「おや。君付けかい」
「はい。先刻さっき厭がられてしまいましたし……なんだか、赤ちゃんみたいだったんですもの」
「ふふっ赤ちゃん! それはそれは随分と大きな赤ん坊がいたもんだ」

きゃっきゃと声を震わせて笑う二人の美女に、然し男性社員諸君は其の誰もが目を向けない処か顔を合わせない様に必死である。
何故ってそんなの、此の二人が或る意味で、、、、、男性社員にとっては恐怖の対象であるから他ないわけで。

外傷への完全治療を施す代わりに肉体的にも精神的にも多大なる恐怖を与える与謝野晶子に。
内傷への完全治療を施す代わりに往き過ぎた快楽を与え矜持プライドを完膚なき迄にへし折る木下菫。

どちらも同性に対しては扱いも丁寧で最善の配慮をするものの。
然し其の反動の様に異性に対しては扱いが大変雑で、、
色んな意味で、いっそ殺して呉れと云わんばかりの"治療行為"を時折暇つぶしも兼ねて行うものだから、そりゃもう大変色んな意味でビビり上げられているのである。

何度、殺さないで、もう許して扶けてお母さぁんという言葉があの扉の向こうから聴こえただろうか。
何度、やめてぇ、もうらめぇお婿にいけなくなっちゃうぅだなんていう、あられもない声があの扉の向こうから聴こえただろうか。

特に外傷がない限りは手を出してこない与謝野女医とは違い、凝りと云う仕事をしていたら簡単に生まれてしまう内傷をこぞって弄り倒す木下看護士は、それはそれはもうビビられていた。怯えられていた。
なんていったって、誰もエロ同人みたいな目には、遭いたくない訳で。

「敦君、食事改善もした方がいいかもしれないんですよねぇ。あんなに干乾びた根っこ、久しぶりに見ましたわ」
「孤児育ちで餓死寸前だったそうだからねェ。まあ、色々ガタが来てるんだろ。アタシから社長に許可取っといてやるよ」
「まぁ。ありがとうございます晶子様」

──きゃっきゃうふふ。
其の愉し気な二人の声を聴きながら、無言で男性社員諸君は某人虎と一部から呼ばれる少年に黙祷を捧げた。
其の本心は、此れで暫く自分の身は安全だな、という副音声があったりなかったり。

如何に気持ちよくたって、如何に躯が楽になったって。
いつの時代の男性は、女性に情けない姿は見せたくないものなのである。
まあその、大抵は、と云う話だけれども。