恋しい人の姿を見ていた。

胸が焦がれる人。
私に対して──多分、好意を寄せて呉れるひと。
私は今彼と一緒に夜景を見ている。

──此処は何処だろう?

ヨコハマなら誰でも知っているあの観覧車が見える。
となると場所は限られてくる筈だけど、如何せん行動範囲の狭い私では、自分が立っているビルの場所すら判らない。

「       」
「……なぁに?」

不意に何事かを囁かれるも、何故か声が聞こえない。
可笑しい。こんなに近くにいるのに、と思わず彼の方を振り返っては見るけれど。
何故だか其の表情さえも昏く陰り、どんな顔をしているのかさえ判らない。

其の陰に。
何故だか胸が、どきりと騒ぐ。

「ねぇ、……、…………、?」

名前を呼ぼうとして、はっとする。
此の人の名前が─────思い出せない?

でも、そんな筈はない。

忘れる筈が、忘れるわけがない。
あの甘やかな眼差しを、温もりを、なかったことには等出来ないのだから。

彼はそこに居る。
私は彼の隣に居る。
手を伸ばせば届く距離──なのに。

此の手を伸ばさないのは、何故なのだろう。




──はっと、意識が醒める。

呼吸が浅い。
ふ、ふ、と浅い呼吸を数度繰り返した後に私は重たい思考を其れでもぐっと動かした。
瞬きを繰り返す視界は如何にも薄い目蓋の向こう側が白けていて、自分が今照明の付いた部屋の中にいる事を言外に伝えてくる。

と云うか躯怠い。
いやなんかもうほんと、躯だっっるい。

──なにこの二日酔いみたいな気分。
しじみのお味噌汁が飲みたいと、ゆらりと躯を起こした、時だった。


「嗚呼──起きたの。おはよう、菫」


掛けられた声に、けれど、安心して躯から力を抜く。
其処に居たのは、兄代わりである太宰様。
嗚呼此の人が居るならと、それでも頭に手を置きつつ私は厭に重たい思考でこう問いかけた。

「太宰様……その、此処は、何処でしょう? 私覚えがなくて……知らないわ、こんな処」
「嗚呼うん、だろうね。此処は地下だよ」
「そう地下……、………………地下?」

さらりと返された言葉に納得しかけるも、否待てと思考が止まる。

否だって──地下って、なに。
ぱっと連想するものは上級階級の構成員のみが知る地下通路の存在だけれど、其れが真逆こんな部屋なわけがない。
だってほら、通路でもないわけだし。

「……え、え? なに、えっ地下って、如何いう事ですの? 何故、私と貴方は此処に居るんですか。 森様は? 紅葉様は? ──他の皆様は、どちらにいらっしゃるの」
「………」

一瞬、不自然に唇が引き攣るも、其れは今は如何でもいい。
今解決しなければならない問題は、何故私は此処に居るのか、其れだけだ。

今の私は不用意な外出を赦されていない。
ミミックと云う武装集団を警戒して、私はポート・マフィア本部からの外出を禁止されたのだ。
少なくとも、件の集団の殲滅が確認されるまでは本部から出る事は叶わないわけで。
だからこそ、今の此の私自身に何の通達もなく移動が果たされている事実が、理解出来ないのだ。

いつ、如何やってあの要塞から連れ去られたというのか。
そして──私が今此処に居ることを、首領森様は、果たしてご存知なのだろうか?

「太宰様、答えてくださいまし。此処は何? 私は、何故此処にいるんです」
「……まあ、そりゃあ気にはなるよね」
「え、………っひゃッ!」

突然近づいてきたかと思ったら、其の儘腕を強い力で引かれ、無理やり立たされる。
今の今迄寝ていた所為だろう、唐突な直立姿勢にくらりと躯は揺れて、思わずへたり込みそうになってしまう。
けれど私の躯が落ちる前に太宰様によって腰を支えられ、まるで円舞ダンスでも踊る時の様な態勢の儘、彼の愉しそうな声だけが耳につくのだ。

「此処は、紛れもなく地下の中! 誰も知らぬ不知にして未到なる箱庭! 此処には君と私しか居らず、誰かが訪ねる事も誰かを招く事もない! ──私たちは二人、少なくとも二年間は、此の箱の中で息を静めて過ごさねばならないのさ」
「……………は?」

瀧の様な勢いで語られた言葉の羅列に、思考が追いつかずついぽかんと口を開いてしまう。
でもだって──今、此の人は何て云った?

地下の中、不知にして未到なる箱庭──二年間息を静めて過ごさねばならない?

なにそれ、と、思わず唇が言葉もなくひとりでに動いてしまう。
けれど、然し、それじゃまるで────。

「──"逃亡者のようだ"」
「っ!」

思い浮かべた言葉をそっくり其の儘囁かれて、思わず躯を仰け反らせるも。
然し確りと背中に回された手によって阻まれて、距離を取る事は叶わなかった。

中也様よりも体術は得意ではないとは云え、其れでも男性の力。
如何したって、此の人の力に私は叶わない。
だから強張らせた躯を諦めたようにゆるゆると弱めていけば、私を覗き込む顔はにっこりと形の善い笑みを浮かべる。
──底の知れない、何か善からぬ事を考えている時の表情だ。

「僕らはね、逃亡者になったのだよ」
「──……!」
「森さんに、組織に背いた裏切り者だ」
「………な…、……なっ……」

最早察してはいたが、実際に言葉にされると衝撃が重い。
と云うかもう、理解し難い展開過ぎて思考が上手く回らない。

だって、何が如何してそうなった?
逃亡者になっただなんて、いつ、如何してそんなことになってしまったというのだろうか。

私はいつも通りにしていた筈だ。
次の日の準備をして、薬を作って、そして、そして──。

「………あのお茶に、何か入れたのね」
「お前が気持ちよく眠れる為のおまじないだよ」
「私を、無理やり連れ出したのね」
「だって私が居なくなったあの場所では、お前なんか、直ぐに殺されてしまうじゃないか」
「そん、っ!」

叫ぼうとした唇に、太宰様の指が押し当てされて思わず言葉を飲み込んでしまう。
そんな私に太宰様はまたにこりと微笑んで、其の儘ぱっと躯を話したかと思うと壁に埋め込まれた扉のような──否扉をかこんと徐に開いていく。

其処には恐らく、着物の数々が。

「ほら、お前の好きそうなものを取り揃えたんだよ」
「……私の好きなものなんて、絶対にご存じないわ! だって私は、」
「──いつも姐さんの趣味に合わせてたものね。でも此れは、確かに"菫の好きなもの"だ」

素早くハンガーから抜き取られた着物を持ち上げたと思ったら、そのままぐい、とこちらに押し付けてくる。
其の力強さに思わず受け取って──其の儘、ひくりと頬を引き攣らせた。
だって、此れは確かに──私の、、、趣味だ。

「…………なんで、」
「僕はお前のお兄ちゃんだよ? 妹の趣味を理解するなんて当然のことでしょう?」
「……、嘘でしょ…………」

私は、いつも雅やかな友禅の着物を着込んでいた。
それは私の後ろ楯である紅葉様が凡て買い与えて下さったものだからだ。

友禅の着物は、華やかなものが多い。
刺繍にしろ染めにしろ、ぱっと目を引く艶やかな色彩と繊細な柄模様は、華々しくとても美しいもので。

──だけど私は、本音を云うともう少しモダンなものが好きだった。
友禅の伝統でごされと云った柄や色合いのものではなく、もっと単調な花の柄等、どちらかと云うと普段着に近いものの方が好みだったのだ。

けれどお世話に、そして守って貰っている手前、そんな我儘を云えるわけもなく。
いついかなる時も、紅葉様のお気に召す柄の着物を私は選んで身に付けていた。
其れしか持っていなかったというのもある。
然し、其れ以上に"見放されたくない"と云う気持ちが、強かったのだ。

だって、森様から棄てられた今、紅葉様に迄見放されてしまったら──私なんて、簡単に殺されてしまうのだから。

無言で、手の中にある着物を広げていく。
深緑の縦模様の上に咲く大きな椿柄の着物。
可愛い。紅葉様は絶対に手を出さなかったデザイン。
紅葉様に──着たいとも、云えなかった着物。
くっそ────可愛いなおい。

「ほらほら、服は問題ないでしょう?」
「……、…………服はね。でも服は、よ!」

ぎゅうといつも着込むものよりも生地のランクが落ちている着物を抱き締めて、そう叫ぶ。
まあ判ってる。生地に関しては仕方がない。
友禅とは抑も生地そのものが莫迦高くやれ絹だなんだと高級嗜好のものばかりだ。
だから此の可愛い着物が其れに劣るのは仕方がない。
なんたって土俵が違うのだ。
あれは貴族なんかの金持ち用で、此方は町娘用みたいなものだ。

大丈夫。
大丈夫だから。
つられてなんかいないから。

「わたしは、着物になんてつられませんからね!」
「今めちゃくちゃ釣られてない?」
「釣られてないです! め、珍しいから、持っているだけ! 抑も兄様が手渡してきたんでしょ!」
「うんうんそうだねぇ。あ、ほら此方も可愛いよ。羽織ってごらんよ」

そう云い乍ら、太宰様はまた着物を取り出していく。
今度は赤白黒の、華やかな七宝柄。
やだ──すごく可愛い。

「まぁっ可愛い七宝柄………、…! だからッッ翻弄しないでっ!」
「いやぁお前が勝手に翻弄されてるだけだと思うけど」
「ちがっ違います! 違うったら違うの!」

きっと目をつり上げて太宰様を睨み付ける。
此処が何処だか未だに全く判らないが、其れでも脱出するなら、森様の処に帰るなら──一秒でも早い方がいい。

そうだ、帰らねば。

今なら屹度森様も赦してくれる。
一時の気の迷いとでも云えば、なんらかの罰則は与えられても命までは取られない筈。
──多分、屹度、そうよ。命までは、取られない、筈で。

「あっ因みに此処から出てポート・マフィアに保護されようとしてもねぇ、お前は見つかった瞬間に射殺されるよ」

───いや、なんで?
あんぐりと、開く口が閉じれない。
もう厭だ、思考読むの止めて欲しいし、そんな思考停止する爆弾発言をさらっと溢さないで欲しい。

「い、意味が判りません! 何故殺されてしまうの? 未だ数時間か、もしくは一日程度の逃避でしょう!?」
「ううん。今日で既に三日が経っている」

──は? 三日?
え、今この人何ていった?と、信じられない気持ちで太宰様の事を見詰める。
三日、三日って──待ってそう云われると途端に喉とお腹が飢えを感じできたんだけどうっそ!

「……みっか?」
「うん。三日」
「お日様が三回昇る……?」
「そうだね、お月様も三回沈んだね」
「みっか…………」

人間って、そんな突然大量に眠れるものなのか……?
疑問が尽きないと云うか、い、意味が判らない。
私はいつの間にか太宰様に拐われ太宰様と一緒に裏切り者の逃亡者になって?それで今は逃亡してから三日目?
えっ本当に意味が判らない。何一つ意味を理解したくない。
そして凄くお腹空いてきた如何しよう。

「いやぁ、一寸薬の量間違えちゃって。ほら私は薬効きにくいでしょ? だから自分のノリでお前にも盛っちゃったんだよね」
「間違いなく其れお兄様の所為では??」 
「ついでに、お前の部屋にお前の筆跡を真似て"お兄様に着いていきます"って殴り書きっぽく書き置き残したし、なんなら身支度しようと思って諦めた風に部屋荒らして置いたから」

────。
それは、役満では。
否と云うか、いや、いやもう。

ふるふると、握った拳に力が入る。
マジで、此の人、なんて事をしてくれやがったのだ!

「なんてことを!」
「ついでに今出て潔白を示そうにも末端の構成員なんかに見つかったらその時点で一発は確実に撃たれるよね。抗争が終結し掛けで情報伝達が今ぐちゃぐちゃな頃だし」
「なんてことを!!!」

最早嘆く処か呻くことしか出来ない。
いや、なんで?なんで私のこと道ずれにしたの??
お兄様以上に私はポート・マフィアしか知らないし、ポート・マフィア以外で生きていける気がしないのに……。

そう思っている時に、ふと。
頭の中に、あの赭色の髪が、過って────。

「──そうだわ。ほら中也様って私に甘いですし、どうにかこうにか庇っていただけるんじゃ」
「お前本当に善い性格してるよね」

中也様は、多分私のことが好きだ。
今まで散々思わせ振りなことをされてきたし、此の髪留めを呉れた時も──あ、よかったあったなかったら如何しようかと思った──凄くお顔真っ赤だったし全身から滲み出る好意が凄かったし。

──中也様に庇っていただければ、ワンチャン、あるのでは?
そんな私の楽観的な思考回路に、然しやや呆れた風な兄の声が突き刺さる。

「でもあれだよ? そんなことしたら出世街道まっしぐらの中也の安定した出世コースを壊すことになると思うけど」
「……!」

いいの?とでも云う風に問い掛けられて、思わず言葉を詰まらせる。
善いか駄目かと云われたら、そりゃ、勿論駄目一択だ。
あの人の確立された未来を、私が摘み取ることはあってはならない。

だけど、いやでもと、如何しても自分本意に動いてしまう思考回路に。
再度呆れたような、それでいて諭すような言葉が被せられていく。
──いや、抑も貴方が私を巻き込まなければよかった話なんだけども!

「裏切り者を庇うだなんて、何かしらを犠牲にしなけりゃ示しがつかない。確かに中也はお前に甘いけど、お前はそれでいいの? 本当に後悔しない?」
「くっ……!」

此の人、的確に私の良心に訴えかけてくる。
否自分でも一寸自分本意が過ぎるなとは思っていたけれど、でも、でもだって!

仮に此処に潜伏したとしても、地上に出た瞬間に見付かって、殺されてしまったら。
私は太宰様と違って丈夫でもないし何処にでも往けるわけじゃないのだ。
むしろ私は貧弱で、なにもできなくて。

「──其れにね。お前は中也がお前のこと好きだって思ってるみたいだけど……其れは、勘違いだと思うよ?」
「……、え?」

ぐるぐると迷走を続けていた思考が、止まる。
いや──彼処まで好意をチラつかせて置き乍らそうじゃないって、流石に其れは、どんな冗談だ。

「に、兄様はそう思うだけだわ。中也様は私の事がお好きよ。私にはわかるもの」
「"自分には解る"だなんて、安っぽい演劇ドラマみたいな事を云うね」
「……私、演劇ドラマは見ないから知りませんわ」

私はテレビを見ない。
テレビ処か恋愛小説も、漫画も読まない。
其の必要がないからと、知った処で意味はないと、森様は私に其れらをお与えにはなってくださらなかった。

「ああそうだね。お前はいつも医学書にしか囲まれていない。年相応な娯楽は凡て取り上げられて、朝から晩まで薬剤漬け。満足に遊びにも往けない。対等に言葉を話す友人すら居ない。凡てが監理された籠の中に居る、正しくお前は外を知らない憐れで可愛い家猫だ」
「……何が云いたいの」

──なんだろう、厭な予感がする。
如何しようもない事をされそうな、凡てを台無しにされてしまいそうな予感が、じわじわと胸の内を占めていく。

「却説、中也がお前の事を好きじゃないと云う話だけど──取り敢えずは、此れを聞いてご覧」

そう云って太宰様が取り出したのは、ひとつの黒い機械。
恐らくは──ボイスレコーダーと云う類い。

其れの再生ボタンらしき処をカチリと押して。
キュルキュルと、其の機械は音声を再生していく。

『──、──√`─√`──まりは、俺に、彼女を、菫を口説き落とせと仰っているんですか』
「……、!」

ノイズ音と共に流れてくる声音。
其れは確かに、今じゃすっかり、聞きなれた声。
中原、中也様。

『まぁ、そうなるかな─√`──、──のじょは、我が組織に置いて重要な駒だ。異能研究が──√`─る欧米でさえ、治癒能力者は少ない。女の子と云うのは中々に心の内に衝動を秘めてい─、─√`──は大人しい彼女も、いつ其の衝動に焼かれるかは未知数だ』

──森様だわ。
其れこそ聞き間違えるわけもない、私を拾い育てた、師のような人。
ポート・マフィアを、統べるひと。

『だ─√`──か。俺に彼奴を落とさして、繋ぎ止めろと?』
『太宰君は兄代わりで、今さら──√`─しいからね。君だって、悪い話じゃないだろう?』
『……』

──嘘だ、そんなの違う。

やめて、と、心が叫ぶ。
聞いてはいけないと、頭の中で誰かが怒鳴る。
だけど、なのに──私の躯は動かない。

ただ立ち竦んで、目の前の現実を、ただただ呆然と受け止めることしかできない。
だってこれは、屹度、知らなければならないことだから。

『答えを、聞かせてくれるかな?』
『──貴方の、望みの儘に』

其処まで云って、ブツンと録音は途切れてしまった。
残るはノイズ音と共にキュルキュル動き続けるレコーダーだけ。
処々、音が掠れてよく聞き取れなかった。
けれど、何を云っているかくらいは、あれだけでも充分読み解ける。

「…………」
「…………」

私は、喋らない。
兄も、喋らない。

何処で此れを録音したの、とか。
如何やってあの森様を出し抜いて録音に成功したの、とか。
お兄様はいつからこの事を知っていたの、とか。
この会話がされたのはいつ──この髪留めを、呉れた前なのか、とか。

聞きたいことは、沢山ある。
沢山ある、はずなのに。

「……、…………」
「……お前、」

ぼろりと、熱くなった瞳から、粒の滴が溢れ落ちる。
流したくない、そう思うのに次から次へと落ちる其れは、拭っても拭っても止まる素振りを見せやしない。
次第に段々呼吸まで苦しくなってしまって、ああもう厭だと思っていた、ら。

ふと、目の前が暗くなって。
私の顔は、お兄様の胸に押し付けられていた。

「…、………、ッよ、よご、れるっ、わ」
「別にいいよ」
「ぬれ、ちゃう、っ」
「それも別にいい」

背中を擦られて、頭を優しく撫でられる。
たった其れだけの事なのに──胸が詰まって、張り裂けてしまいそう。

「……そうだね。私は、こういうこと多かったけど。お前は初めてだもんね」
「っ、……、…ッ、……」
「初恋、だったかぁ」
「……っ、ぅ、ふぇッ……っ!」

目が熱い、鼻が熱い、喉が熱い、胸が熱い。
目が開けられない、息が出来ない、声が出せない──心が、痛い。

ちがう、違うのに。
私じゃないのに、私じゃなかったのに。
あの人が私のことを好きで、私は其れを、如何しようかなって、選ぶ、ほうだった、のに。

なんで、いつの間に、どうして、苦しい。
躯の内側が、心が、切り裂かれたように痛くて痛くて仕方ない。

「……ね。だから云ったでしょう。森さんはお前の事を守らないし、中也もお前の事を扶けない。彼らは利益があったからお前に優しくしていただけ。お前の事なんか、これっぽっちも大切にしていない」
「うッ、ゔっっ……、うぅ゙〜〜〜っ……!」
「私だけだよ。──僕だけが、お前の事をちゃんと守ってやれる」

指先が、兄の服をぎゅっと掴む。
もう頭の中には此の仕立ての善い服にシワをつけてしまうとか、そういう考えが抜けていて。
只ひたすらに、頭を空っぽにしてしまいたいという気持ちしか、なくて。

「二年間、二年間だ。二年間此処に居れば善い。なにも心配せず、お前はただ、僕を信じて此処に居なさい」

兄の言葉が、じわじわと脳髄に沁み込んでいく。
呼吸を震わせ乍ら、それでも小さく頷けば。
善い子だ、と云う言葉と共にまた頭を撫でられて、もう目も開けられない。

嘘だった。
あの言葉も、あの顔も、あの仕草さえも、凡て私を騙す偽物だった。
私の髪を飾る髪留めだって、世間知らずの小娘を都合よく歓ばせる為の玩具だったのだ。
違う真意を、ただ私が都合よく読み間違えてしまっただけ。
私が恋に恋して、勘違いしただけ。

そう──勘違い、だったのだ。

息が詰まる。
呼吸が、詰まる。

あの時の、あの人の薫りとは全く違う、兄の匂い。
其れを胸いっぱいに吸い込んで、私は更に涙を流していく。

知らなかった、知りたくなかった。
ああ此れが──失恋と、云うものなのね。