きみはいつも甘ったれ
わたしは、ある日突然"この世界"にやって来た。

そう、ほんとに突然。
お風呂から出ようと扉を開けたら、何故か自分の家の脱衣場ではなく知らない家の脱衣場に出ていたのである。

そして、タイミングも最悪だった。
わたしの目の前には、今まさに風呂に入らんとする裸の成人男性が扉に手を掛けようとする中途半端な態勢で突っ立ってたのである。
つまり、互いに裸での初対面だったのだ。

当然悲鳴を上げながら私は扉を閉めたのだけれど。
そこから更に、わけのわからないことになってしまっていて。

わたしは確かに、わたしの家でお風呂に入っていたはずだった。
だと言うのに、振り返ったその場所は、明らかにわたしの家のお風呂場ではなかったのである。
もうあれだ、大混乱通り越して大発狂である。

半ば泣き叫びながら慌てふためくわたしに。
しかし、扉の向こうで服を着直したであろうその成人男性は、恐らく自分のものであろうバスタオルを細く開けた扉の間から差し出して。
未だ混乱の最中にいたわたしに対して、実にいい声でこう言ったのだ。

「取り敢えず、肌を隠してから話し合おうか」

──なにを?
なんてのは、そのタオルを受け取った時点で封殺されたようなものだった。


タオルを借りて、ついでにTシャツとスウェットのパンツも借りて。
今度こそ"お風呂上がり"らしい格好になったわたしは、縮こまって見知らぬ成人男性──しかもイケメン&イケボ──の出方を窺っていた。
いや、窺うと言うよりはあれだ。混乱しすぎて、もう何がなんだかわからなかったのだ。

彼が真っ先に問い掛けたのは"異能者"なのであるかということ。
そしてその質問に、わたしが答えたのはこういうものだった。
つまりは──異能とは、なんぞやと。

出だしから躓いたわたし達は、取り敢えず価値観の確認とでも言うように語り合った。
学校名、職場、国名、土地名、年号、西暦、天皇の名前、首相の名前──エトセトラ。

そうして、語りに語り続けて、最終的にこの結論にたどり着いたのである。
いわくは──多分違う世界から来たっぽいねと。

わたしがいた世界には異能なんてなかったし、横浜はヨコハマなんて名称じゃないし、魔都なんて呼ばれてなかったし、そもそもマフィアなんていなかった。
いたとして、精々がヤクザだ。

だけれどこの世界には異能者という所謂"超能力"を使う人間がいて、横浜は漢字ではなく片仮名の"ヨコハマ"で、"魔都"だなんて怪しさ満点の名前で呼ばれていて、日本にはいない筈の"マフィア"が町を闊歩しているとか。
もう、なんかもう、漫画の世界みたいな話である。

それなんてフィクション?って思わず言ってしまったわたしに対して、成人男性──いや、太宰治は、実に呆気らかんと「残念なことに真実ほんとうの話なんだよね、此れが」と面白そうにそう答えて。
尚も呆然とするわたしに、にっこりと笑いかけながらこう問い掛けてきたのである。
つまりは「料理は好き?」と。

料理は、まあ、好きだった。
というか親が共働きで、食べ盛りの弟がいる現役女子高生のわたしは、朝晩と家族のために料理を作らなければならない料理担当だった。
ちなみに弟は、洗濯担当。つまりわたしは、弟にブラもパンツも全て知り尽くされている。

やや唖然としながらも、好きですと答えるわたしに。
その人はああならよかった、と答えて、そしてさも当然と言うようにこう囁いてきたのである。

「どうせ此の世界に君の居場所なんてないのだから、此処で私の為に生きてよ」

とんでもないお誘いである。
というか、マジで容赦のない言葉であった。

最早絶句レベルで言葉のでないわたしに対して、彼──太宰くんは、うんそれがいいねだなんて一人で納得して、一人で決めてしまったのである。
お分かりであろうか、わたしは結局、なんの選択肢も与えれなかったのである。

そして今も、それは変わらず。

身体に巻き付くのは成人男性の麗しき腕で。
それにセクハラといっても過言ではないレベルで抱きつかれ、ついでにまさぐられながらわたしはひたすらに人参を切っていた。
本日のメニューは、太宰くんご希望の炊き込みご飯である。

「も〜〜聞いてよ真弓ちゃん〜〜! 国木田君てば酷くってさぁ、今日なんて書類を私の机に山の様に置いて、しかも"此れが終わる迄帰宅はさせん!" だなんて云うんだよ!? 今日は早く帰りたいって私朝から云ってたのに!」
「えー? どうせ溜めに溜め込んで国木田さんに押し付けて逃げてたんでしょ? めちゃくちゃ自業自得だと思う。というか、結局逃げてるし。国木田さん可哀想」
「真弓ちゃん酷い!」

というか、まだ夕方前だ。
どうせ今日も勝手に抜け出して帰ってきたであろうこのやる気なし男に、太宰くんをグビにしない探偵社とかいう職場はほんとホワイト、と少し羨ましくも思う。
だって普通、サボったり勝手に帰ったり遅れて出社なんてしたら、直ぐその場で解雇だろ。
太宰くんはもっと今の職場を有難がった方がいいと思う。

なんてことを思いつつも、手は止めない。
個人的には炊き込みご飯の千切りは細かければ細かいほど美味しいと思っているので、全神経を集中させながら限りなく薄く細く切り刻んでいく。
そうすると人参の繊維がしっかりご飯に混ざってくれるし。
あと、この引っ付き虫、野菜野菜したものは嫌がって食べないのだ。

「ねー、邪魔だからちょっと退いててよ。切りにくい。あとおっぱい揉まないで。怒るよ」
「私、"怒るよ"って言葉は"もう怒ってるよ"の略だと思うんだよねぇ」
「わかってるんじゃん。怒るよ」
「でも嫌で〜〜す」

──うっぜぇ。
しかし、だかしかしこれでも家主。ついでにわたしの食い扶持。
結局のところ、戸籍もなにも持っていないわたしは満足に、そんでもって真っ当に働くことすら不可能なので、割りと何をされても受け入れるしかないというのが悲しい現実なのである。
まあ、今んとこ撫で回されたり膝枕させられたり揉まれたりするくらいだからいいんだけど。

「だぁって真弓ちゃんは私のでしょう? 此れくらいは我慢し給えよ」
「ええ〜〜。ン、我慢の上限高すぎない?」

いつの間にやら服の下に入り込んでいた手のひらが、わたしのお腹にぺたりと触れて、そのままするするとゆっくり肌をなぞり上げてくる。

確実にそれが目指しているのはわたしの胸で。
嫌がっても身を捩って逃げても結局揉まれる運命にあることは既にわかりきっているので、はぁ、とため息を吐いて包丁を置いた。
刃物はさすがにあぶない。

「あれ、やめちゃうの?」
「太宰くんがやめさせたんでしょ」

このおっぱい星人め。
なんてじろりと振り向き様に睨み付ければ、しかしどこ吹く風──というよりご機嫌最高潮の太宰くんは、そりゃもうにっこにっこと笑って私の肩にそのムカつくほど綺麗な顎をぐりっと乗せてきた。
そうしてすりすりと頬擦りしてきたと思ったら、そのままきゅっ、、、とわたしの乳首、、をつまみ上げていく。
ぞわりとした感覚に、ぴくりと眉が動いてしまう。

「ほんとに変態……」
「男はみんな変態だもの。仕方ない仕方ない」

と云うか、真弓ちゃんも変態でしょう?

耳を噛まれながらそう囁き込まれた言葉に、ぐっと唇を噛み締めた。
──別に、変態じゃない。
少なくとも、向こうでは、、、、、、わたしはそのベクトルの中には居なかった。

「真弓ちゃんは変態だよ。だぁって、口では嫌々云うけれど、こうやって私の事受け入れちゃってるし。真実ほんとうは、別に触られるの嫌いじゃないでしょ」
「……嫌だもん」
「うふふ。即答しないとこがもう可愛いなぁ」

ぐっと腕を引かれて、今度は真正面から抱き締められた。
そうしてそのまま、重力に従うようにずりずりと座り込んでいって。
台所の床に、ぺたりと二人でお尻をつける。
──あ、刻んだ人参落ちてた。

どうしよう、このくらいだったらもう棄てちゃおうかな。
そう思って伸ばした指先に、わたしのものよりも大きな指先が絡み付く。
それはまるで母親に構って貰いたい子供がちょっかいを掛けるようで。
その見た目にそぐわないアンバランスな仕草に、大人の癖に甘えん坊だなぁと今度はわたしからすり寄ってあげるのだ。

「……今日もお疲れさま」
「うん」
「お仕事ちゃんと行って偉いね」
「うん。もっと誉めて」
「よーしよしよしよし」
「え〜〜乱雑〜〜」

首筋に埋もれた太宰くんの頭がずしりと重い。
だけどそれもその筈で、私よりも20センチは確実に背の高い成人男性の身体は、どんなにすらっとしてても中身は詰まっててやっぱり重たい。
まあ、太宰くんはそれでもかなりの痩せ型だけど。

「真弓ちゃん」
「んー?」
「ずぅっと此処に居てね」
「ん〜〜……」
「返事は?」
「う〜〜ん」

こっちに来てから大体三ヶ月が経つ頃で、しかし帰る方法なんかは全く見つかっていなくて。
──というか、わたしはこの狭い家から一歩も外に出ていないから、調べようがないのだ。

「外は危ないから出ちゃ駄目だよ。真弓ちゃんなんか、直ぐに殺されてしまうんだから」
「一歩でも?」
「一歩でも」

そう言いながら首筋に触れる唇に、ほんの少し身体が跳ねるけど。
けど、でも、多分これもまだセーフとわたしの身体は弛みきったままだ。
どんどん自分の中のセーフラインが広くなっていくのはわかっているけど、でも、どうしようもないし。

わたしの持ち物は、太宰くんに買ってもらった化粧水なんかの日用品と、太宰くんがくれただぼだぼの服だけ。
パンツは買ってくれた。でもブラジャーは買ってくれない。
だからわたしはいっつもこの家の中ではノーブラで、着ている服もだぼだぼのゆるゆるで、流石に外には出られないからずっと家の中。
おっぱいが垂れませんようにって祈るばかりだ。

掃除して、洗濯して、アイロンかけて、冷蔵庫の中を確認してはチラシと睨めっこしながら太宰くんにこれ買ってねとお願いする毎日。
そりゃ、このままじゃダメだとは思うけど。
でも、だからといってどうすればいいのかがわからないのだ。

太宰くんの話がどこまで本当なのかはわからないけど。
でも実際、テレビを点けるとやれ殺人が、犯罪が、謎の爆発、マフィアの抗争──なんてワードがぽんぽんと飛び出ていく。
わたしの世界だってニュースは大層物騒だったけど、こっちはどうにもその比ではないように感じて仕方ないのだ。

外は危ない。
なら、中にいるのが安全で。
でも中に居ても、いつ元の世界に帰れるのかはわからなくて。

「真弓ちゃんが一緒に心中してくれたら、最高なのになぁ」
「太宰くんはね、"一緒に死のうね"って約束事した相手と一緒に心中しても、相手の女の人は成功して自分は失敗して生き残る相を持ってるから意味ないと思うよ」
「……なぁにそれ。真弓ちゃんは占い師なの?」
「違うけど、"太宰治"って無駄に生命力強そうな名前じゃん」

そう笑って言えば、太宰くんはちょっと拗ねたみたいに「真弓ちゃんとならきちんと死ねるかもしれないよ?」何て言って。
だからわたしは「太宰くんを取り残しちゃう未来が見える」だなんて軽口を叩いた。
まあでも実際、太宰くんが本当にわたしの知ってる"太宰治"なんだとしたら、それは限りなく近い正解なんだろう。

顔が綺麗で、背が高くって、声が格好いい太宰くん。
頭が多分すっごく良くって、でも気分屋でいつも飄々としてる太宰くん。
──夜寝付きが悪くって、魘されては、わたしに抱きつく太宰くん。

知れば知るほど闇が深くって、知れば知るほどずぶずぶと沈んでいく。
ああなるほど、これが所謂悪い男かぁ、だなんてことをぼんやりと思って。
思うのに、しかしやっぱりこの手を離す度胸のないわたしは、今日も今日とて流されるままに閉じ込められるのだ。

この甘えん坊を、胸の内で抱き締めて。
いつか食べられる未来から目をそらしては、優しくあやして、慰めて。

──いつか、帰れたらいいなぁ、なんて。
まずはここから出なければ始まらないことに、わたしは今日も気づかない振りをして笑うのだ。

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