アイオライトの憂鬱

よく知らない他人の葬式だった。

経済界の重鎮とかいう、私の一生には縁もゆかりもなさそうなひとだ。飾られた遺影には髪にポマードを塗りたくった生真面目そうな、60代くらいの白髪交じりの男の人がいて、無表情でこちらを見ている。勿論知っているはずもない。彼とは真っ赤な他人だ。
会場には何かのパーティーかというほど人がすし詰めに入り、真っ黒な人影が蠢いている。人口密度では渋谷のセンター街より上だったかもしれない。テレビ画面の向こうでこんな景色見たことあったなと思わせるような風景を見てしまった。たまに見る芸能人の葬式という感じ。
勿論悲しいなどという悲壮な感情は微塵も抱くはずもない。
薄茶色の花模様が散りばめられた椅子に座りながらぼんやりと、だるくて面倒だなあなんて、死人に聞かれたら怒られそうなことを考えていた。ただ食事だけは美味しかったかもしれない。なかなか口にできないほど大きな蟹の足だった。だから死人に怒られても一向に構わない。出された食事は美味しくいただく。

なぜそんな赤の他人の葬式に出席することになったかというと、本来出席する筈であった両親がスリランカで飛行機の足止めを食らったらしいのだ。代わりに姉か兄に出て欲しかったのだが、2人ともやはり他人の葬式の出席など面倒だったらしく、妹の私1人にこの損としか思えない役が回ってくることになった。こういうときばかりは不自由な身分である。
私も中学生なのだから、大人ばかりに囲まれるような行事に単独出席させるような真似は勘弁してほしい。
お陰でじろじろと、悪い意味で注目され肩身が狭かった。お焼香もおっかなびっくりで、目の前の人がやる仕草を真似て見たりマナーにはとても気を遣った。助けを求められる知り合いや親族は一人もいないのだ。体がだるくなるだけでなくひたすら精神が擦り切れた。
興味も湧かない、偉い人の故人に対するありきたりな思い出話を聞いたりもした。
学校の先生が話す内容のないくだらない話と変わらないなと思い、子供も大人も縮図は一緒だなと思ったものだ。

どんな苦行だよ本当。

無駄に夜遅くまでかかってしまった葬式のおかげで、こんな遠方に泊まることにもなってしまった。元から宿泊する予定ではあったし、小綺麗な旅館の和室にテンションは多少上がったものの、気鬱な行事に長時間拘束された人間の気持ちまではなかなか浮上しない。
それにこのあたりは私の本来の地元にすごく近いということもあって、余計に帰りたかった。ほの暗い沼に引き込まれそうで。
清潔な広い畳の部屋の中で一人、肺の中に溜まった黒い何かを吐き出す。外には下弦の月がぽっかりと浮かんでいた。
葬式だって東京でやってくれればいいものを、喪主の人の本家がどうたらと色々複雑な事情があったらしい。これも私のような、本人となんの親交もなかった人間からしてみれば全く預かりも知らないようなところの話で、面倒なことこの上ない。ぐちぐち不満を抱えながら、その日は眠りについた。





そんなこんなで翌日、大雪である。

トンネルを抜けるとそこは雪国だった、と川端康成ごっこをしても寒さはどうにもならない。寒いものは寒い。白い息を吐く。手のひらをこすり合わせる。全くあったかくもならない。もっと分厚いタイツを履いてくればよかった。
旅館の親切なスタッフが、もしや傘を持っていないのかと聞いてきたので素直に頷けば、ご丁寧に大きめの傘をくださった。さすがは高級旅館。なんならホッカイロもくれてもいいんですよ。そんなサービスはないですか、そうですか。
周囲の人は各々タクシーを呼んでいるようだ。残念ながら私にはもう帰りの電車賃以外の待ち合わせがない。予定外の経費は貰っていないのだ。世知辛い。
こんな天気になると思っていたら手袋も持ってきたのに、こういう日に限って忘れる。不運だなあと、せめてもと灰色のマフラーに顔を埋めて耳の冷たさをやり過ごす。
いただいたばかりの真新しいビニール傘をさし、擦り切れたローファーで歩き出す。兎に角駅まで向かおうと足を踏み出すと、積もり始めていた白銀の雪に少し靴底が沈んだ。恐らく家に着くころには靴も靴下も使い物にならなくなっているだろう。
顔をしかめながらはやく駅にたどり着かなければ死ぬと無心で歩き出した。寒い、さむい。

あたりは見渡す限りの銀世界だ。田舎としか言えないここには遮蔽物などない。やたらと景色だけはいい。こんなに寒くなければ少しは懐かしいだとか、郷愁に浸れるような気分になっていたかもしれない。かつては、見えるあの山の嶺の手前あたりに住んでいたのだ。しかし今の私に必要なのは田舎の真っ白な素敵な景色ではない。暖をとれる一軒のコンビニだ。

そんな、あるはずのないコンビニの幻影が見えてきた頃だった。
幅が広い道の向かい側からひとり人間が歩いてくる。

その人は同じ氷帝学園の制服を着ていた。氷帝はコートも特注なので分かりやすい。下半身がスカートではないので男だ。深い青の傘をさしている。
顔は、よく分からない。知っている人かもしれないし、しらない人かもしれなかった。
ここが東京だったら興味もわかなかったところを、他に何もない田舎の真ん中で同じ学校の人間を見てしまったのだ。少しは関心が湧き、どうにかそれが誰なのかを確認したいという気になっていた。
徐々に近付いてくると、彼の顔が見えてきた。
異様に白い、白磁の頬に鋭い目は、中学一年にして学園中を沸かせる有名人その人だった。鷹のように高貴な雰囲気だとか、色々嘘か真かわからないようなことまで言われている。やんごとなき血筋らしい。とにかくブルジョワな感じなのはよく分かる。
金持ちばかりが通う中学の中でも、彼は一際異質な存在だった。
精巧な人形のように、その顔もやたらと綺麗で。
カリスマ性がある人間とはこういうやつのことを言うんだろうと、遠くから眺めながら思っていたものだった。

名前はなんだっけ。跡部なのは覚えている。跡部財閥の息子。
たしか、下の名前は、

「けいご」

ようやく思い出せたその名をぼそりと口にすると、いつの間にかすれ違うほど近くに来ていた彼は目を見開いた。
思い出そうと一人必死こいていてその距離感に気付かなかった私も悪い。彼の驚いたような表情に私が一歩引くように離れようとして、意外と大きな手に腕を掴まれる。その咄嗟の動きに転んで尻を地面に打ち付けた。
痛い。掴まれた右腕だけがぶらりと宙に浮いている様は無様だった。

転んだ私を助け起すでもなく、跡部は目の前にしゃがみこむと、真っ白な冷たい指で私の顎を掴んだ。
鼻の高い、外国人のような美少年の顔が間近に迫って混乱する。
蒼い、印象的な目と目が合う。
アイオライトみたいな、深い、どこか紫がかった青。
怖いし痛いしなんなの、そんな不満は驚きと困惑で口にできなかった。人間はあまりにも驚くと何も言えなくなってしまうということを、そのとき初めて知った。

青の後ろには、雪を降らす曇天が私たちを見下ろしている。

跡部は小さな声でなにごとかを言った。でも何を言ったのかまでは、よく分からなかった。
彼は私の顎から指を離すと皮肉げな、右側の口角だけあげる特徴的な笑みを浮かべ、青い傘を拾い上げる。フレームは黒くて、普段見かけるものよりも骨が多かったことだけは何故か覚えている。

そしてその長い足で、駅とは逆方向にそのまま歩いていった。ただ私はそれを腰を抜かしながら見送った。何が起こったのかよく分からなかった。むしろ何も起きていなかった。


それから2年後のことである。
跡部財閥から、直接婚約の打診が来たのは。
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