ピンクダイヤモンドの呪い

財布とハンカチだけを入れた、薄ピンクのエナメルショルダーバッグが肩からずり落ちる。
オチでずっこける安い芸人のような反応をしてしまった。
本当に、いつものことではあるのだが、少し丸みのついた黒の高級車は見慣れない。見慣れることもないだろう。金持ちってこわい。ボディに傷でもつけようもんなら跡部が怒らなくても私のメンタルが死ぬ。
道路にすべり込んできた外車の運転席から、颯爽とひとりの男が降り立ち、後部座席のドアを開けた。
彼はいつも恭しく、後部座席のドアを開けて私が乗り込んでくるのを待っている。自分で開けようとした際には困ったような顔をされたので、おとなしく開けてもらうのが正解らしい。

「どうぞ、お嬢様」

お嬢様、お嬢様ね。はい。もう何も言うまい。

「や、なんかいつも、すいません」

跡部家の運転手、もとい跡部景吾専任運転手らしい妹尾さんにへこへこと頭を下げた。妹尾さんは背の高い、結構イケメンな渋いおじさまだ。
彫りが深く、眉間には苦悩という苦悩を押し込んだようなシワが浮かんでいる。しかし怒っているとか、そういったわけではなくそれが標準仕様らしい。
燕尾のスーツにリボンタイに真っ白な手袋、漫画のようですごく絵になっているのだが、周りの風景と高級車に乗りこまんとする人間がその品質にそぐわない為に、悲しくなってしまう。申し訳ない。
私はそんな扱いをされる身分でもなければ、この車がこんな下町の住宅街、茶色のボロアパート前に停車されていること自体がおかしいのだ。ひたすら申し訳なさしかない。自宅前の道幅が狭いことがなおのこと。毎度ここまで来にくいでしょうね、絶対。
公共交通機関を乗り継いで行くと言ってもあの跡部である。仮とはいえ婚約者が庶民の真似事をするのは許せないということだった。
残念ながらきみの婚約者はほぼほぼ庶民だよ。


初めてこの車を見たときに、べ、ベンツ‥?と呟いたら跡部にはベントレーだバカと言われた。ベントレーが未だに何なのかはよく知らないけれども、グレーのシートはしっとりと体に馴染み乗り心地は悪くない。いつだって空調も、なにも言わずとも整えられている。

ただ居心地は悪い。

私が乗り込んでからわざわざドアを閉めるところまでやってくれる妹尾さん。彼が私にドアを閉めさせてくれたことはかつて一度も無い。
こんな小娘にまで気が抜けないのは跡部家の教育なのだろう。
そんなに気を使わなくてもいいのに。なんなら車の中でラジオとかかけてくれてもいい。爆音でセックス・ピストルズを流してくれたって構わない。
しかし私の心の内のそんな叫びなど御構いなしで、いつも車中は無言無音。気詰まりする。
運転席に座る妹尾さんは真っ直ぐ前だけを見ていて、まともに彼と会話できたことは殆どない。
居心地が悪い原因にはこの辺も理由としてあると思う。
しかもこの座席からフワッと香るにおい。跡部愛用の香水のにおいが染みついている。
妹尾さんにバレないように欠伸や溜息や複雑な感情を噛み殺し、窓の外を眺めながら跡部の邸宅に向かう。

窓の外は暗闇に沈もうとする東京の街並みだ。私の住む台東区から跡部邸のある港区までは下道でも30分かからない。アメヤ横町を抜け大手町、六本木の整った街を通り抜ける。赤、青、黄色とカラフルなネオンが灯りコンクリートを美しく彩っていた。角を曲がるたびに薄暗闇の中で妹尾さんの白の手袋がハンドルをくるくると回す。

そして見えてくるのは謎めいた豪邸だ。庭には噴水まで付いている。噴水周りには白い裸像のオブジェ。車が入る入り口には、飾りのついた鉄の巨大な門。
家庭的なビクトリア建築様式だからそんな大したもんじゃねえよ、イギリスにいた頃は城に住んでたしな、と意味不明で馬鹿げたことを跡部は言っていた。彼はほんとうに馬鹿だと思う。現代日本においてこんな建築物が当たり前だと思ってもらったら困る。花より男子の道明寺財閥の家だってこんなに大きくはない。

妹尾さんのゆっくりとした安全運転で邸の入口前まで到着する。門からここまで、アプローチの距離が長すぎる気がするのだがなんの意味があるのだろう。私ごときにはよく分からない。

自分でドアを開けて降りても一向に構わないのだが、こんなときも誰かがドアを開けてくれるまで待たないといけないらしい。どんな拷問よといつも思う。苦痛だ。
すぐそばに来てドアを開けてくれたのはミカエルさんだった。跡部景吾専任の、昔から彼と共にいるという執事さんである。白いひげを薄く蓄えた英国人の執事で、日本語は大変流暢だ。彼の尻上がりの、ぼっちゃん、が私はとても好きだったりする。
やや低めの身長に燕尾服とシルバータイ、琥珀石のカフスピンに丸眼鏡という出で立ちで、この人も漫画からそのまま飛び出して来たようである。ぴかぴかと黒く光る革靴はいつも綺麗に手入れされていた。

「おかえりなさいませ」
「え"、ここ私の家じゃないですよ」
「ほほ、冗談でございますよお嬢様。しかしいずれそうなりますでしょう」

にこにこと善意しかない優しい笑顔を向けられてはは‥と乾いた笑いをこぼした。いや、申し訳ねえ。ここが私の自宅になる日は一生来ません。
代わりにもっと可愛らしいお嬢さんが来る予定なので許してください。

跡部邸に足を踏み入れるとすぐそこには螺旋階段、床は大理石だ。そもそも大理石というものは材質的にすごく傷がつきやすいらしいので、耐久性など色々加味したら床材に大理石を使用する意味をあまり感じない。その辺は私が庶民感覚だからなのだろう。
だだっ広い玄関フロアの四隅にはよくわからない高そうな壺が設置されている。間違ってもそれに触らないように努力しているところだ。あれがいくらの価値かは知るところではないが、少なくとも神社の蚤の市で叩き売られている値段の壺でないことはよくわかる。

そういえば以前、向日がこの建物を跡部ッキンガム宮殿という摩訶不思議な名前で呼んでいた。しかし印象としてそれはあながち外れてはいないと思う。

「よお、婚約者殿」

螺旋階段の上から皮肉げな笑みを浮かべ、嫌味を言ってきたのは跡部景吾ご本人だ。
跡部財閥のご子息であり後継者である。日本の華族の血とイギリスの貴族の血を引くという。何というかサラブレッドにサラブレッドを重ねた規格外の御方で、IQも備わっていて容姿端麗という、その最強スペックに最早何がしたいのかもよくわからない。

「おす、跡部」
「ぼっちゃん、女性には敬意を払ってくださいまし。お嬢様も、そんな軍人のようなポーズをしてはなりませんよ。レディなんですから」

険しい顔でミカエルさんが窘めてくるものの、私も跡部も何処吹く風だ。
跡部にとって私は女性ではない。私もレディなんていう高尚なもんではない。

「おい、いつもの部屋だ」
「ウス」
「樺地の真似か?似てねえな」

ハッと鼻で笑った跡部は二階の奥に消えていった。その後を追うように私も白磁の手すりを掴みながら、螺旋階段を登る。手すりにもいちいち装飾が施してあり、花と蔓草の模様が側面に刻まれている。多分跡部家は家財の全てに金をかけないといけない呪いかなんかにかかってるんだな。

二階に上がるとそこも赤い絨毯の敷かれた、金のかかった廊下の風景が広がっている。均等な間隔をおいて小さな額縁や壺が置かれており、天井は高く。
壁に取り付けられたオレンジ色の鈴蘭のランプが闇を明るく照らし、大きな窓から昼間には太陽光がふんだんに取り入れられる造りになっている。
汚いスニーカーで歩くのも申し訳ないような気分になる廊下である。しかしヒールとかは極力履きたくない主義なのだ。疲れるしね。
大したこだわりでもないが、跡部に女という性を押し付けても仕方ないし、私は私の好きなようにしていいと跡部も言っていたので、ここに訪れる時もいつもの黄色のコンバースのスニーカーで来ている。
どれだけ強く踏みつけても音が吸収されそうな廊下を歩いて行く。

階段からあがって左の5番目の濃茶の扉。ここが跡部の言っていたいつもの部屋だ。
特にノックもせず扉を開けると、漂ってくるのは紅茶のいい香り。跡部がティーカップに紅茶を注いでいるところだった。何かと絵になる男だと、すこし憎たらしくなり舌打ちしそうになった。
跡部は紅茶が好きらしく、また淹れるのも趣味らしい。いつもここで彼が紅茶を出してくれるのが慣例のようになっていた。
30畳くらいはありそうな応接室風の部屋だ。ここもオレンジの照明で、モダンな絨毯に大型のソファが設置されている。壁はホワイトで、細かく凹凸で植物の模様が刻まれていた。
部屋の隅、大きな体でひっそりと立っているのは、樺地崇弘くんである。部屋にかけられたモスグリーンのカーテンの左側。

「やっほう樺地くん」
「ウス」

体の割に、相変わらず自己主張は非常に乏しい子だ。私の挨拶にも小さな目をきょろりとさせただけで、樺地は無表情の堅苦しい顔を崩さない。それに私は苦笑した。

「どうした、座れ」

カタンと、飴色の机の上に置かれたティーカップ。ブルーとゴールドの上品な深い色遣いで、跡部のお気に入りらしく、よく出されるカップの一つだ。

「さんきゅー。これなんだっけ。ウェッジウッドの」
「コロンビア。パウダーブルー」
「ああ、うん、そう。可愛いよね、これ」

はは、と乾いた声で笑うと跡部は一瞬右の眉をあげて不審そうな顔をしつつ、ソファに沈むように座った。
そして美しく上品な仕草で紅茶を口に含む。長い足を組みながら。
革張りのコの字のソファーに向かい合って、私も座った。
曲線を描くカップの持ち手をつかむ。
いい匂いだなあといつものようにそれを飲んで、ウバかなと思った。紅茶に詳しくなったのは多分、いや絶対に跡部の影響だ。
このカップは跡部の雰囲気にすごく合っている気がする。高級感のあるブルーカラーは彼の瞳の色に似ていた。

「それで、今日はどうしたの」
「ほらよ」
「うわっ」

跡部の腕から突然胸の中に投げ込まれてきたのは、ゴールドのチェーンだった。先端には指輪が付いている。光を放つのは大ぶりのピンク色の石。

「ん?!!!???あ?!!!??」
「どうした」
「あ"〜〜〜〜?!!!?」
「奇声をあげるな」
「これピンクダイヤモンドでは〜??!!!跡部氏〜??!!!!これは一体」
「婚約指輪とか持ってなかったろ。それやるから身につけとけ」
「ホワッツ〜??!!!婚約指輪ァァ〜??こんな巨大なピンクダイヤモンドとか馬鹿ですか〜??!!!」
「うるせえぞ宝石オタクが」

私の興奮気味の声に、迷惑そうに跡部は耳を押さえる。私はわなわなと痙攣を止められない。婚約指輪とか嬉しくない。いや石を貰えるのは嬉しい。
なんせピンクダイヤモンドは宝石の中でもとりわけ高価とされる。ダイヤモンド自体はありきたりで市場に溢れているが、カラーダイヤモンドはその中でも価値を持つ。イエローカラーは1番産出されやすいカラーで、ピンクは希少性が高いカラーだ。人工で作れないこともないが、跡部がこういった宝石で人工物を選ぶとはあまり考えられない。
ピンクダイヤはオーストラリアの鉱山でしか採掘されない。加えてこれだけ大きなダイヤは相当高価だと思われる。
これは1カラット以上ありそうだった。アメリカ人かよ。日本人なんだしもっと淑やかな小さいのを選んでくれてもいいのに。
そういえばこの人ヨーロッパの血が流れてるんでしたっけ。忘れてましたね。

「つーか我々仮婚約じゃん。こんなん要らなくない?その辺どうなんです」

無駄遣いとしか思えず顔を蹙めた。希少なピンクダイヤの煌めく指輪が見られても嬉しくない最たる理由だ。

「この婚約が仮だと思われたら困るだろうが。親戚連中にそれ見せつけて来い」

怠そうに目を伏せながら、目の前の美しい男、跡部はそんな理由を零した。
それに私は溜息をつく。

「あー‥はあ〜まあ分からなくもないけど、ないんだけどさあ〜。勿体ねえこのピンクダイヤ〜。もっと純粋な気持ちでさあ、このダイヤ使ってくれる人もいたと思うんだわあ」

宝石は然るべき、大切にしてくれる主のところに行って欲しい、と思うのは、恐らく私が宝石を好きすぎるせいだ。そんな勝手な要望を無機物に押し付けても仕方ないのはわかっている。
このピンクダイヤモンドの主は私ではないとは、思ってしまったのだ。

「なんだ、要らねえのか」

嘲るように言ってるけども君、まさかピンクダイヤモンドの価値を知らんな。
そしてこちらは与えられたものは頂くたちの人間だ。それが好きな宝石とあらば尚更である。
にいっと笑った。ピンクダイヤの主は私ではないんだけれども、頂けるものならば。

「謹んでいただく〜!!婚約終わったら爪とってルースで飾っていい?」
「好きにしろそんなもん」
「やったー!!!!!返してほしかったら返すからね!いつでも言ってね!」
「俺が言うと思うか?そんな世迷言」
「言わないと思うけど一応ね!」

自室の壁面にルースとしてこのダイヤが飾られる、その瞬間が楽しみでならない。
この指輪を貰えるような人間ではないと知りながら、満面の笑みでバッグにそれを仕舞おうとすると、なにやってんだ?とその行為を鋭い目つきに咎められた。

「ん?え、なんか変?」
「いや、つけろよ。何で仕舞おうとしてんだお前」
「は?!これを普段から身につけろってのか」
「そうだろうが。何のためにチェーンつけてやったと思ってんだ」
「つけて欲しいなんて言ってないよ!無理無理無理!こんな高級品身につけて回れる馬鹿がどこにいるんだよ!跡部じゃあるまいし!」
「俺をさらっと馬鹿呼ばわりしたのは水に流してやるよ婚約者。おら、自分でつけねえなら貸せ。俺様がじきじきにつけてやる。泣いて喜びな」
「うげええ」
「また奇声あげやがったな」

チッと苛立った舌打ちをひとつ。跡部は立ち上がって私の持っていたチェーンを掴み取って奪う。うわ、と思ったのも束の間、跡部は背後に回り込んでいた。
硬直していると胸元に落ちてきた指輪の重み。おそるおそる指輪にまた触れて、冷たい温度をいじる。

「重いわ‥プラチナだろこれ‥」
「さあな」
「プラチナの刻印してありますねえ!プラチナですよねえ!そりゃそうかはっはっはっ」
「全くお前はうるせえな!」
「これは煩くならないほうが無理なんだよ!」

ぎゃんぎゃんと跡部と喚き倒していても棒立ちでいる樺地はすごいと思う。表情一つ変えない。尊敬する。
そんな空間に響いたのは大きめのノックの音だ。跡部がなんだ、と低い声で一言言うと、ミカエルさんが入室して一礼した。きっちり、機械のような美しいお手本のような礼だった。

「坊っちゃん、忍足様がお見えです」
「あーん?忍足だと?何の用だ」
「月島様のことだと」
「チッ」

右足をあげ、ローファーでとんと絨毯を踏む苛立った動作を見せた跡部は、私に向かって顎をしゃくる。

「はいはい、お邪魔しましたよ。ウバ美味しかった。樺地くんもまたね」
「俺様が淹れた紅茶が不味いわけねえだろ」

ソファから立ち上がった私に跡部はそんな悪態をついてそっぽを向いた。全く、褒めたのだから言葉くらい素直に受け取っておけばいいのに、面倒な男だ。
樺地に手を振ると彼はまた小さく目を動かし、瞬きをひとつした。
ミカエルに促されるように部屋を出る。

たった10分くらいの出来事。増えたのはネックレスとして首に下がる指輪の重みだ。
どうしてくれようか。いつもこれを下げているなんて冗談じゃないが、後から跡部にねちっこく責め立てられても嫌だなと思った。
ここは素直に、暫くは従っておくとしよう。あのボロアパートにこの高級品を放置して出掛けたりするのも危険極まりない。アパートにはセキュリティなんぞ皆無に等しいし。

ため息をついて、裏門から出ようと螺旋階段から遠ざかり、真逆の階段へと向かった。忍足とこのまま顔を合わせるのは絶対に避けた方が良さそうだ。
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